運命の始まり
「まだ、あやつのことを忘れられぬのか」
父の放った言葉に――皇太子が、顔をあげ睨みつける。
ここは
限られたものだけが出入りを許される、とくべつな部屋。
屏風のまえにすわる天子――皇帝は、こちらを睨みつける息子を見て、その成長ぶりに、密かに感心した。
「あやつ? わたくしが、命を捧げようともかまわないと思えた人なのですよ」
彼の心のなかには、今でも
あれから三年。
不愉快そうに眉をしかめた皇帝は、胸のつかえを吐きだすように息をはいた。
「そなたの父として、言わせてもらおう」
あまり変わらぬ、だが確実に老いた父の疲弊した表情を見て、躘は背筋をのばした。
「この国を守らなければならぬ。国を全ての民を、守り、救い、時には八つ当たりされて怖くなるときもある」
真剣に考える躘に、父が声をかける。
「躘よ」
いまだ、父の顔は、変わらない。
先代の皇帝が亡くなったその日から、生活は一変した。
臣下の視線を案じることなく、おのれの室に安心して眠ることができる。
蔑まれた皇族としてではなく、本物の世継ぎとして、王宮にいられるようになったのだ。
「そろそろ、そなたに譲位しようと思っておる」
「父上……!」
「そなたも柔くはなかろう。……好きにすればよい」
大国の君主が、好きにしろというのはおかしな話だろう。
だが、父は言ってくれたのだ。これからは、
つまりは。
「そなたのやりたいことをやれ。それに結果がついてくる天運の子だというのは、
躘は、涙でふるえる声で、ただ一言。
「ありがとうございます、陛下」
と言って、頭をさげた。
次期皇帝が、躘に。
あの玉座に、躘だけが座れるようになったのだ。
同時に、名残惜しく見送ったあの後ろ姿を、求めることができるということだ。
「待ってて、姉さん……」
皇后にむかえるといったあの人は、どこにいるのだろう。
昼下がりの別れ際を回想しながら、躘は彼女に想いを馳せる。
翌日、全国に女官の招集令がだされた。躘は勘づいていた。きっと姉さんは、ここにきてくれる……。と。
「どうしたのよ、その目?」
ぐったりとしている冰遥に、母が声をかける。夜通し泣いたせいか、瞼が痛々しいくらいに腫れあがり、目は充血している。
ばつが悪そうに、冰遥は目をふせた。
「もしや辛いことでもあるの? なら、この母に話してごらんなさいな」
母がそうやさしく問いかける。
「……お母さま、わたくし、辛いことなどございません」
冰遥は今にでも流れてきそうな涙をこらえ、そう答える。が、それが強がりであることは分かっている。
母は不満そうな表情を見せた。
良心がちくりと痛む。
冰遥は力なくへらりと笑うと、大丈夫ですからと笑ってみせた。痛々しかった。
本心を隠した笑顔だというのは母も分かっている。
だが、それを追及できる母ではなかった。
おのれのことは冰遥が一番分かっているだろう。それゆえ、追及し変に首を突っ込むのが躊躇われた。
母は寂しそうな微笑みを見せ、いつでも相談は聞くからと言い去っていった。
ふと丸窓の外を見ると、
朝露が乗った葉が、闇夜に煌めく星のように
「……久しぶりに、会いにいこうかしら」
赤く腫れた目で外をねりあるくのは気が引けるが、気分転換に散歩はいい。
いつまでも憂いに浸っているわけにはいかない。
冰遥はすぐに文琵を呼び、支度をはじめた。
「春の空気は、澄んでいて気持ちがいいわね」
春らしい桜色の
「都では桜が満開になったと便りがありました。こちらもそろそろ見ごろかと思います」
「そうなの、では帰りに見に寄ろうかしら」
二人が歩いているのは、冰遥の住むまちの繁華街。
夜になると、華やかな
都からも人がやってくる繁華街である。
冰遥は、繁華街の一角に位置している
冰遥が、立派な門のまえで足をとめた。
看板を見上げ、冰遥は文琵に振りかえる。
「文琵。紙屋で、文を出すための金箔のふられた色紙を買っておいてちょうだい」
「承知しました」
文琵は言い、礼をして門から遠ざかるように歩き出す。
なにかふれてほしくないことがあるときに紙屋で待っているようにと先の言葉をつかう。
きっと文琵は、意味をわかってくれているだろうが。
文琵が去ったのを確認したあと、冰遥は茶楼の門をくぐった。
冰遥は、どんどん奥へ進んでいく。
ここにくるのは初めてではない。
豪華な装飾を横目に、冰遥は働いている女人を避けながら回廊を歩く。
だがその中でも、わざわざ貴族がやってくるような、高級な茶楼である。
ここの店主と知り合いのため、冰遥はたまにこうして顔をだしにくることがある。
「
遠くから声がかかる。
振りかえると、稽古終わりなのか逞しさに拍車がかかった男がこちらに手を振っている。
冰遥は安心して破顔した。
男は小走りでこちらに向かうと、前に立ち、久しぶり! と弾けるような笑顔を見せる。
「久しぶりね」
「うん、最近来ないからどうしたのかなって思ってたけど、元気そうでよかったよ」
この男こそ茶楼の店主であり、冰遥が頭だったときの部下――
冰遥を追いこの国に入ってからは、未だつづく烏の頭として、賊徒をはたらいている。
都の花街はもちろん、闇市にもかかわっているとか。
陽の光が当たらぬ闇のことは、彼の
そして、沙華の名を知る数少ないうちの一人である。
「珍しい。阿姐がそんなに泣くなんて」
冰遥の腫れた目を見て、さも普通かのように蓮が言う。
黙っていれば美丈夫なのだが、人の地雷をふむのが得意な男だ。
「色々とね」
冰遥はそう言い、
「へぇぇ。……婚礼するって噂あるけど、本当?」
また地雷を踏む。あきれる冰遥。
「どこからそんな噂……」
「『ない名は呼ばれず』。本当でしょう?」
「……はぁ。ええ、そうよ」
やけくそで答えた冰遥に、蓮は奇妙な顔をする。――どんな顔だ、と冰遥は思う。
「いいの、本当に?」
真剣な蓮の声に、冰遥が香合を棚にしまう。
「良いか悪いか、ではないでしょう」
「……聞き方が悪かったかな、沙華阿姐?」
「蓮!」
あぁすみませんねいつもの癖で、と間違えたことのないくせに、分かりきった嘘をつく。
「……気持ちを聞いてるんです、阿姐」
蓮の言葉を慎重にえらぶ様子もなく放たれた言葉に、冰遥は返事をしない。精一杯の強がりである。
蓮は、あきれたように笑った。
「……私の知る阿姐は、強くはあれど気持ちをおさえつけることを極端に嫌う方だ。戦場でも、その姿勢をくずすことはなかった」
頭をしていたときの直属の部下のなかで、生きのこったのは蓮だけだった。
ああ、そういえば明涼国に捕虜として捕らえられなかったのは、逃げ足が速いからか――と思う。
「阿姐を、ほんとうに尊敬していた」
言葉の節々に、強い尊敬がにじんでいる。
「阿姐」
冰遥が顔をあげる。
「最後の判断は、ご自身でなさってください。それが――、阿姐にとっての最善であることは間違いありません」
冰遥の決意が、ぐらりと揺らぐ。
冰遥の気持ちは、彼女がもっとも分かっている。
だが、気持ちだけではどうにもできないのも知っている。
蓮の言葉に耐えきれず、冰遥はがっと立ちあがると大股で去っていった。
「昔から、頑固さは変わらないんだよなぁ。阿姐……」
蓮は困ったように、少しばかりはにかみながらそうつぶやいた。
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