冰遥という女人


 三年後。


 沙華は名を変えていた。


 貴族の姓をすてたときに「沙華」を――「冰遥ヒョウヨウ」へと。


 白い肌、栗色の髪は絹のように滑らか。深紫こきむらさきだった目は、鮮やかな紫へと変化した。


 天女のような容姿はより輝きをまし、リョウのおかげで身についた教養のおかげでかしこく美しいむすめに成長していた。



冰遥ヒョウヨウさま、旦那さまと奥さまがお呼びです」

「お父さまたちが? 感謝するわ、文琵ウェンビ


 沙華、もとい冰遥おつきの使用人――文琵が、冰遥に声をかける。


 文琵は、もとは炎尾ヤンウェイ国の孤児であり奴婢ぬひだった。


 小さいころ、道端に捨てられていたところを冰遥がひろい、今は冰遥の使用人としてはたらいている。


 文琵は、冰遥を実の姉のように慕っている。


 命の恩人であり、自分を馬鹿にせずに手取り足取り教えてくれたひとでもあるからだ。


 それを話すたび、


「わたくしも、もとはなにもできなくてね。できない自分を卑下して泣いたものよ」


 と、彼女は涙目になって笑うのだから、ふれてはいけない秘密があると文琵は知っている。


「失礼します」


 大きいといえない庭を横ぎり、父がいる屋敷へと足を踏みいれる。


 父は微笑み、役人の格好のまま座っていた。隣には、父と同じく微笑みをたたえた母がいる。


「冰遥、座りなさい」


 父が腰をおろすようにうながす。


「はい。……それで、話とは?」


 腰をおろした冰遥が尋ねると、父はいかにも高価そうなかんざしを、懐からとりだした。


 大ぶりの真珠と瑪瑙めのう、細かな銀細工でできた簪は、ただの地方の役人では決して手に入らない高価なものだ。


 手に入るとすれば、この帝国の頂点ともいえよう王宮にいる皇后や、太后くらいであろうか。


 冰遥は簪をちらりと見ると不審そうな慎重な声で、これは? と尋ねた。


「冰遥も、もうそろそろ十九の年のころだろう? わたしたちからの祝いだ」

「お父さま……」


 もともと、この家には後継ぎも、その役割を果たせる優秀な女もいなかった。


 だから冰遥は、たまたま家を継ぐ子のいないこの家の養子となったのだが、養子とはいえ二人は本当のむすめのようにかわいがってくれる。


 それを冰遥は知っていた。そして感謝していた。


 本当のむすめではなくても、こうして惜しみなく愛情を注いでくれるやさしい二人に。


「受けとれ」


 父が言う。けれども冰遥はなかなか受けとろうとしない。


 感動が激しく胸をうち、動けなくなってしまった冰遥の手に、父が簪をにぎらせる。


「……お父さま」

 たどたどしく、弱い声で呼ぶ。


「おめでとう」

「冰遥、おめでとう」

 と、父につづいて母も微笑んで言う。


 やさしい微笑みをうかべている二人を交互に見て、冰遥は髪を床につけるようにして頭を深く、深く下げた。


「ありがとう……お父さま、お母さま……本当に」

 そう涙ぐむと、

「いやねえ、そんなに感動されちゃわたしも泣いてしまうわ」

 と母が胸元から手巾しゅきんを出して目尻をぬぐっていた。


 二人を見ながら目を細めていた父が、屋敷の外にいる文琵へと声をかける。


「文琵よ! こちらに来てくれ!」


 少しばかりの間が空き、扉を開きながら文琵が姿をあらわす。手を腹の前で揃え、頭をさげる。


「お呼びでしょうか」


 文琵に父が言う。


「その簪で、冰遥の髪を結わえてやってくれ」

「あと、わたくしの簪も耳飾りも、すべてあげるわ。しっかりお化粧もしてね。とびっきり美人にしてあげて」


 母も涙をぬぐいながらそう提案する。


 その顔は、確かにやさしい両親の顔だった。


 文琵は咲きほころんだ桜のような笑みをこぼすと、柔く承知しました、と返事をした。


 冰遥の涙が落ち着くのを待ち、化粧箱のある部屋へと連れてゆく。


 文琵は髪を結わえるのが得意だ。冰遥の髪をすくいくしでとかすと、艶のある髪を高く結わえていく。


「できました」


 銀細工の美しい手鏡を手わたす。文琵から受けとった手鏡を覗きこんだ冰遥は、はっとした。


 そこには、本当にうつくしい女人が映っていたからだ。


 鏡の向こう側から、文琵が微笑む。


「お綺麗です、冰遥さま」

「文琵……」


 美しい冰遥の髪に、かがやく簪。

 絹をまとった冰遥は言葉通り――天女のようだった。


 文琵が、軽く化粧をほどこす。粉をはたかれながら、冰遥は懐かしい顔を思いうかべていた。


 沙華という名を知っているものは、親以外にほぼいない。


 いるとしたら――あの日、涙をぬぐった躘だろうか。



『姉さん!』


 ――元気にしているのかしら。


 心でつぶやき、ぎゅっと強く目をつぶった。


 あの日、繋いだ手を離してから――あの子は、いつになってもわたくしの心を離れてくれないわ。


「冰遥さま、どうかなさいましたか。なぜ――泣いておられるのです」


 その言葉で、冰遥は自分が泣いていることを知った。


「……どうかなさいましたか」

「むん、び……」


 ぼろぼろと涙がこぼれてくる。胸をかきむしるほどの痛みにこらえきれずに、文琵の腕のなかで声をあげて泣いた。


 ――お願い。泣かせてちょうだい、今だけは。


 冰遥は、髪に挿してある簪に手を当てた。


 冰遥は知っていた。


 この簪は、十九の祝い、などではなく、婚礼の際につける簪であるということを。


 冰遥は、二月後に婚礼をひかえている。


 四回りも年がはなれた貴族へと嫁ぐのだ。


「文琵までいなくては、向こうのお屋敷でどうやって生きていけというの……」

「冰遥さま……」


 嫁げば、妹のように思っている文琵も、かわいい近所の子どもたちも、面白い八百屋の店主もいない。


 そんな孤独に、たえられそうになかった。


 文琵は、冰遥の泣くところをはじめて見た。


 いつもは胸を張り堂々としている彼女。


 か弱い姿にたえられず、文琵は、姉のような冰遥が消えてしまいそうで、必死に抱きしめた。


 冰遥は泣きつづけた。

 涙は枯れなかった。


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