裏切りのあかし



 ――けれど……もう文琵ウェンビは忠誠のあかしを用意するよう、言われるようになったのよね。とても早すぎる気がするわ。


 冰遥ヒョウヨウはそう思いながら、新しい布をひっぱりだす。


 今度ははしくれではなく、きちんとした布にさきほどよりももっと細い糸で刺繍をほどこしていく。


 炎尾ヤンウェイ国では、刺繍は糸をりながら大胆にするのが一般的だった。


 だが明涼ミャンリャン国では、繊細で見るひとを圧倒する豪勢さを持ちあわせる刺繡がこのまれる。


 そのために極細の糸をつかい、糸の数を微妙にかえながら縫っていくのだ。


 その結果、あざやかで美しい模様がうかびあがる。


 仕上がりは美しいのだが、こまかい作業を大の苦手とする冰遥にとっては地獄のような時間である。



 冰遥はいろいろなことを反芻はんすうしながら、思考をめぐらせる。



 忠誠のあかしは、使用人が主人以外のものにつかないよう、いましめのような意味もこめて日頃から目に見えるものを身に着ける文化だ。


 後宮入りした女人とその女官との間によくあるものだ。


 香嚢こうのうき飾りなどを送ったり、皿や壺などの陶器を室に飾ることであかしとされる。


 実際は、女官や使用人のなかでもその主人が気に入っている者にしかわたさないものだが。


 冰遥と文琵については、はたから見ても二人の関係性は本物なのだと分かるものだ。


 問答無用で文琵が忠誠のあかしをもらうことだろう! と、知り合いの女官たちが意気込むのも理解できる。


 だがそれは後宮入りした、それか段階での話だ。


 なぜ今のこの時点でそのような話題になったのだろうか。


 冰遥はさらに思う。


 ――それに、今まで簪や服をあげていたのも忠誠のあかしにしても良い気がするのだけれど……。


 そうだ。


 もともと主人から贈られていたものをあかしとするのも少なくない。


 ではなぜ、文琵はこう提案したのだろうか。


 無駄遣いを嫌う文琵のことだ、あかしが必要になったら冰遥を押しのけてでも「今あるもので充分です」と言われるはずなのに。


 その上、新しくあかしを用意してもきっと受けとらないはずだ。


 冰遥は謎をふかめた文琵の提案に眉をひそめた。


 だが、狐疑こぎするのもどうかと思い、すぐに頭をふり、脳裏にうかんだ怪訝をふりはらう。


 ここに来てから色々なことがあったせいか、容易に懐疑かいぎの念を抱くおのれを恥じた。


 冰遥は文琵にそれを譲り、また新しい刺繍にとりかかる。


 布のはしくれに刺繍の練習をしていたため、ぼそぼそになっていないかと思い文琵の方を見た。


 なぜだろうか、文琵はぎゅうと顔をしかめてうつむいたまま動かない。


「文琵、大丈夫?」


 いかにもつらそうな顔をする文琵に問うと、彼女ははっとしたように顔をあげた。


「だ、大丈夫です冰遥さま……」


 尻すぼみでほぼ聞きとれず、顔をあげたのだがすぐにうつむいてしまう。


 決して大丈夫そうではないなと冰遥は思う。


 顔色は悪いうえ、冷や汗が額をつたっている。彼女は文琵を観察する。


 さきほどまでは元気そうだったのにどうしたものか。


「体調でもわるいの、休んできたらどう?」

「い、いえ……」


 文琵はそう首をふると、ぎゅうとさらにつよく布を握りしめた。


 決してこれを手放すものか――とでもいうかのように。


 それにつられ、冰遥もその手を見た。


 力みすぎてか手が血色を失い、白く変色している。


 文琵が強く握りしめているせいか、ぐにゃりと歪んだ生き生きとした鯉を見る。


 ぶるぶると——何がそうさせているのか冰遥にはさっぱり分からないが、彼女の指先が震えていた。


 手放さないという思いなのか、それとも――。


 ――ああ、また懐疑的になってしまった。


 冰遥はまた頭をふり、立ちあがりあわただしく室内に広げた道具を片づけながら文琵に告げた。


「文琵、もう休んでおいで。このままつらそうな文琵を見ていたら、こちらが苦しくなりそうだわ」


 文琵は冰遥の表情をうかがうように彼女を見上げたあと、再びうつむくように布に視線をうつした。


 こくり。首が縦にゆれる。


「一人で医務室まで行ける? あそこ紛らわしいところにあるわよね、わたくしもついていこうか?」

「冰遥さま、ありがとうございます。大丈夫です。わたくしは、一人でも大丈夫です……」


 言葉の雰囲気が、不審だった。


 冰遥は、おのれが今言った問いへの答えなのかと驚き、床にすわっている彼女と同じ位置に視線をあわせる。


「文琵、どうしたの、無理そうなのだったらわたくしも行くわよ?」


 勢いよく膝立ちにしたせいか、膝小僧が冷たい痛みをともなう。


 けれども、それ以上に文琵が心配だった。


 いつもの活気がない様子の、彼女が。


「……申し訳ありません、冰遥さま」

「何よ、誰にだって体調が悪いときくらいあるじゃないの、どうしてそこまで……」


 つづきを言おうとした冰遥の口が、意思に反してとまってしまう。


 文琵が、赤く目を充血させてぼろぼろと涙をながしていた。


 涙が落ち、さきほどまで冰遥が縫っていた鯉の上に水滴がつく。


 鯉が水中で泳いでいる刺繍が、さらに現実味をます。


「どうか、どうか……」


 文琵の声は、たくましくなったと感心した彼女のものではもうなかった。


 彼女の指先のように、それはぶるぶると震えていた。


 懺悔でもするように額を床につけようとする彼女をとめ、冰遥は問う。


「どうしたの文琵、一体どうしたっていうのよ……?」

「わたくしをお許しください、冰遥さま……」


 問いに対する答えではない。


 冰遥ははてしない不安の波がおのれを襲ってくるような気がして、立てた足趾そくしにぎっと力を入れた。


 悪魔として、戦場におりたったときもそうだった。


 不安になったとき、いつも足趾に力を入れる。大丈夫ここにいる、とおのれに言い聞かせるように。


「わたくしを、どうかお許しください……」


 涙ながらに話す彼女が、冰遥には痛々しく思えた。


「分かった、分かったわ文琵。もういいのよ、早く医務室に行きましょう……」

「冰遥さま……」


 ぼろぼろと涙を流す目を冰遥にむける文琵。


 その目はおのれではなく、どこかもっと遠いところを見ているような気が、冰遥にはした。


 けれども、それどころではなかった。


 冰遥は文琵をささえながら医務室へとつづく、迷路のように紛らわしい回廊を歩く。



 ――冰遥の室に、するりと入る影がいることも知らず。


◇◆◇


これにて二章完結です!

ここまで読んでいただきありがとうございます。


もしも二人のことを応援したい!

冰遥ちゃんがんばれ!

つづきが気になる!


と思っていただければ、★とフォローをいただけるとうれしいです……。


拙作ですが、これからも小心者のわたし、作品ともどもよろしくお願いします。

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