二章 天龍のこと

ただただ、あなたを守りたいだけ

幕間 蓮と楊


 色彩があるのを好まないのか、漆黒の衣装をまとったレンは、静かに口端を持ちあげた。


 昼間にもかかわらず陽の光がとどかぬ部屋は、彼の姿を闇と同化させてかくしている。


 彼の向かいに腰を下ろしていた女人は、指先で盃の淵をそっとなぞった。



「長い間、見かけなかったようですが、ヤンさま?」


 蓮は皮肉たっぷりにそう尋ね、女人はゆっくりと美しい朱色の唇を弧の形にした。


 暗闇のなかでも美しい光沢を放つ。

 椿のようなうつくしさに、蓮はふっと笑った。


「変わりないようで安心したわ、


 琴のような単調な声に、感情はない。


「その名で呼ぶとは……あなたさまもお変りありませんね」

「もう、変われる年でもありませぬゆえ」


 女人はそう言って表情を変えぬまま、盃に口をつけた。


 透明の液体が、喉をとおり焼けるような感覚をのこしながら下っていく。


 蓮もならって盃をもったが、じっとその盃に注がれた液体を見つめた。


 そして――口をつけることなく、盃をかたむけた。


 盃に入っていた液体が、天板へとばしゃりと散る。


 女人は目をみはるが、蓮は気にもとめない様子で盃の淵から垂れるしずくを指先ですくうと、濡れた指を咥えた。


 女人はさらに目を見開き、蓮は唇をそっとなでると、天板に盃をおいた。


「毒が盛られていましたね」


 あけすけと言う蓮に、盃と注いだ液体――酒を用意するよう手配した女人は顔を青くした。


「なんてこと……!」

「お気になさらず、手慣れたものですから」


 蓮はそう言って呆れたように笑い、ゆったりと長い足を組んだ。


「それで、後宮にいる高貴な夫人ともあろうお方が、なぜ賊徒の魔窟まくつをお訪ねに?」


 女人は、たまゆら見ぬかれていたことに驚いていた様子だったが、にっこりと笑った。


 見ぬかれていたのね、と満足げにつぶやきながら、室内にいようともかぶっていた笠をはずす。


 そこにいたのは――


「改めて、ご挨拶いたします、ヤン夫人」


 後宮で、今は亡き皇后にもっとも近いとされるヤン夫人であった。


「堅苦しいのはおやめになって、蓮」


 ヤン夫人は敬礼をする蓮に顔をあげるように言う。


 蓮は下げていた頭をあげると、肘をついて、いたずらっ子のように笑った。


「それで、今度は何をやらかしたの?」


 はぁ、とヤン夫人がため息をつく。


「言葉遣いを直しなさいと幾度となく言っているのに、変わらないわね……」

「変わりようもないし? とっくに知ってるでしょ、?」


 ねぇさん、と呼ばれたヤン夫人は朱色の唇を少しだけ歪めると、すぐににっこりと笑みをうかべた。


「それもそうね」


 ヤンは、天女のような風貌を持つ、皇帝の側室だ。


 もとは夜の街におもむき、たくみな色仕掛けで数々の大臣らを手の中に落としこんだ、魔性の女である。


 そして、『烏』に見聞きしたことを伝える情報伝達の役割をになう、賊徒ぞくとの一味であった。


 だが、その美貌と、賊徒でやしなった頭の回転の速さを見こまれ、烏の手回しで、貴族に内密で養子として入り、平民の出でありながら後宮入りを果たしたのだ。


 その地のような落ちつきようと余裕の垣間見える態度から、彼女が平民出身であることでさえ誰も気づきはしなかった。


 十の年のころからの色仕掛けによって、どうすれば美しく魅せることができるのか、彼女が熟知していたからだ。


 そして彼女がまだ賊徒として活動をつづけており――ある計画を企てていることなど、誰も勘づきはしない。


「計画はどう、順調?」


 蓮が尋ねると、ヤン夫人はうーん、とうなりながら唇に手をあてた。


「順調といえば順調なのだろうけれど、邪魔が入るのよね」


 そう言い、彼女は毒入りの酒を盃にそそぐ。


 蓮は止めることもせず、とくとくと音をたてて注がれていくそれを、じっと見つめていた。


 ヤン夫人は盃をかたむけ、――酒のせいか、盛られた毒のせいか――喉に独特の痛みを感じながら、またため息をついた。


「邪魔って?」

飄々ひょうひょうとしているのよ。腹立たしい」

「へぇ……」


 分かっているのかわからない返事をしながら、蓮は首をかしげる。


 ヤン夫人は盃をおき、また銚子をかたむけ酒を継ぎたす。


 蓮と楊は姉弟であるが、遊び人だった父の腹違いの姉弟である。


 その上、楊は蓮に絶大な信頼をおいているが、蓮は異なる。


 蓮はみずから家を捨て炎尾国に入り、戦場で沙華と出会い、主と仰いだ正真正銘の沙華の部下である。


 戦場ではつねに沙華に付きそった。


 まったくもって知らなかった戦術を教えてくれた美しい戦士に――忠誠を誓ったのだ。


 彼が家を捨てた日から、変わらず朱色を保っている椿のような唇を、蓮は奇妙な顔で見つめていた。


 旧態依然きゅうたいいぜんなこの国のやり方が、蓮は本心から嫌いだった。


 蓮は、流転無窮るてんむぐうでこそ策士といえるものだという美徳だ。


 蓮が主と仰ぐのは沙華以外にいない。


 主から指示を仰げば、相手が誰であろうと自らの忠誠を示すのみ。



 ――次はお前が頭だ、自らの責務を全うしろ。


 あの時、蓮が告げられた自らの責務、とは一体何なのだろう。


 忠誠を誓った主の言葉は、蓮に重くのしかかる。


「なんで、そこまで後宮へ執着するの?」


 蓮の言葉に、盃を唇に当てて今しがた喉に流しこもうとしていたヤン夫人が、ぴたりと動きを止める。


 ヤン夫人は盃を微かにかたむけ、ゆっくりと酒を飲み下すと、顔をしかめながらそれを天板の上に置いた。


「助けたい、と言ったら、傲慢ごうまんになるでしょうね。けれど……」


 蓮は静かに耳をかたむけている。

 ヤン夫人の椿の唇が、酒に濡れて光る。


「この国を元に戻せるのは、薄汚れた内政を、改革できるのは、きっと……」


 そこまで言うと、ふっと呆れたような笑みをこぼして、盃を指先でなぞった。


 大臣の腹黒い姿を見てきたヤン夫人の言葉には妙に説得力があり、蓮も押し黙る。


 ヤン夫人はふふ、と笑い、空になった盃をひっくり返した。


「それじゃあ。また来るわね、蓮」

「うん」


 ヤン夫人は笠をかぶり、身をかくすように上着を羽織った。蓮はヤン夫人をじっと見つめ、口を開く。


「ねぇさん」


 蓮の呼びかけに、ヤン夫人は不思議そうな表情を隠さぬまま、するりと笠の隙間から顔をのぞかせる。


 蓮はその鋭い目を光らせる。


 国で最も大きい闇である、烏の頭としての威厳がにじみ出ているようだった。


 そのすごみのある表情に、ヤン夫人の背筋も無意識に伸びた。


「後宮に、巫覡ふげきが現れたらしい噂を耳にした」


 蓮は表情を変えぬままつづける。


「朱氏の女たちが、夜に出かけているとか」


 ヤン夫人は思い当たる節があるのか、はっと目を見開いた。


「皇帝の隠し子は、その巫覡と心得る。紫色の目をしているなら、なおさら確信に近い」

「……どうして、それをわたくしに?」


 ヤン夫人が尋ねると、蓮はふっと口元をゆるめた。


「ねぇさんしかいないでしょう。その後宮には」

「……それもそうね」


 薄ら笑いを浮かべる蓮とは対照的に、ヤン夫人は、蓮から視線をはずし、ぎゅっと拳を握りしめた。


「感謝するわ、蓮」


 そう吐き捨てるようにして感謝を告げ、身をひるがえしてヤン夫人は颯爽と去っていった。


 その後ろ姿を、蓮はじっと見ていた。


 姿が見えなくなったのを確認すると、蓮は喉に詰まっていたものを吐きだすように一気に息を吐く。


 銚子ちょうしと盃を、割れ物をあつかうかのように手にとり、じっと観察する。


 そして、なにも細工がないのを確認すると、興味をなくしたように床に放り投げた。


「はぁ、まったく、真意の見えないやつが多いから厄介なんだよなぁ」


 そうつぶやき、先ほど放り投げた盃を踏みつぶしながら外へと出ていく。


 硬い靴底に踏みつぶされ、ギャッと音をたてる。



 無言で歩きつづける蓮がようやく足を止めたのは、烏の本拠地から少し離れた丘のうえだった。


 


 蓮はおもむろに天を仰ぎ、目をとじた。


 瞼の裏にうかぶのは、王宮に潜入したときにたまたま目にした皇太子の顔と、尊敬する沙華の顔。


「主は、いずこにも主なり」


 蓮はつぶやくと、意味ありげにゆっくり口角をあげた。


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