朱氏のこと


「皇太子妃に、沙華さまをむかえたいですよね?」


 まっすぐすぎる言葉で直球に尋ねられて、冰遥は気まずそうにほおをかいた。


 えぇ、としっかりと口調で答えた躘に、冰遥がうつむいたままもっと赤くなる。


「……ですが、朱氏の娘が邪魔をしているらしい、ということは聞いております」


 躘が、ヤン夫人に言う。


 ヤン夫人もえぇ、と言いながら頭を抱えた。


「教養においても芸においても、美貌においても、敵うものがおらず。そのうえ、ありもしないうわさを流しているようなのです。……なので、沙華さまに皇太子妃になっていただかなくてはいけないのですが……」


 


 気になる言いかたに冰遥が顔をあげると、冰遥に気づいた躘があぁ、とつぶやいて説明をはじめた。


「朱氏は、皇室から姓を預けられた貴族ではありますが、その前に、なぜ姓を預けられたか、分かりますか?」

「うぅん、んー? ……うーん…………躘」


 うんうん唸りながら考えてはみたものの……分かるわけないじゃん、と拗ねながら躘の名前を呼ぶ冰遥。


 躘はごめんごめん、とへらりと笑った。


「ごめんね、意地悪しました。朱氏は……元々、皇族の血筋なんです」

「っ――! それって」


 冰遥の顔が青ざめる。躘はこくりと頷いた。


「そういうことです。われわれ皇室は、この国を統治してきた血筋。朱氏は数代前の皇女の血をつぐ血筋です。そして彼らは、この国を奪えるときを、今か今かと狙っている」

「でっ、でも、貴族になったんじゃ……」


 は違う。


 いまも皇族はあるが、それは今の皇室につながるものの血だ。


 反対に、貴族は皇室をささえ、臣下となる立場にある者たち、その家門を意味している。


 ヤン夫人が、首を横にふった。


「貴族として姓を預けたものですが……彼らは禁忌を犯しているのです。今でも、皇族にしか使えぬ字を名乗っているのですから」

「皇族にしか……使えぬ字?」

「えぇ……『雅』という名と、『美』」


 冰遥は記憶をたどっていった。初日以降、試験以外で顔をみた日はない。


 翡翠宮に出入りしているのかも分からない、不思議な二人。冰遥は記憶の引き出しを数回開ける。確か名前は……。


『杷雅と』

『爛美です』


 冰遥はヤン夫人を見る。


「雅と美、確かにどちらにも使われていますね……」

「えぇ、厄介なのです。夜にどこかへ行っているのも、報告されていますし」

「夜、に……」


 夜に女性が出かけるところなど、限られている。


 市も開いていないし、開いているとしたら……夜の街くらいだ。


「朱氏であろうと夜に姿を消そうと……いずれにせよ、あのような危険な娘を傍に置いておくのはやめておいた方が良さそうですね」

「えぇ、そのためにも、沙華さまには后に……!」

「そうですね」


 なぜ当の本人ではない二人がここまで張りきっているのだろう。


「姉さん」


 いつものようにやさしい、でもそのなかに悲しさを隠している声に、置いてけぼりにされていた冰遥が反応する。


「何?」

「……気をつけてください」

「……何のこと?」

「朱氏の娘たちについてです。……姉さんのこと、絶対に見逃さないと思います。うわさでは、邪魔なものは誰であろうと殺めるとも」


 冰遥はぞっとした。


 あの気味悪い笑みを思いだして、なんだか妙に納得してしまう自分がいたからである。


 躘の話は所詮うわさにしかすぎないが、火のない所に煙は立たぬの言葉のとおり。


 警戒する必要はあるのかもしれない、と冰遥は思った。


 きっと、皇太子と冰遥が親しいことにすぐ気づくだろう。そして、一番最初に狙われるのは冰遥かもしれない。


「分かった。……気をつける」

「約束です」


 小指が差しだされる。


 冰遥はその白くて細い小指に、自らの小指をからめた。


 躘の指は、ふれただけでじんわりとするほどの体温だ。


 だが、冰遥の指は反対に、ぞっとするほど冷たかった。


 躘が、絡めた小指をじっと見つめる。


 そのなつかしい体温に、いつの日も、ふとふれた沙華の手が冷たかったことを、ぼんやりと思いだした。


「……姉さん冷たい」

「躘があったかいんでしょ」


 そろそろ約束はできただろうと、からめた指をほどこうとする冰遥に、躘がその手を捕まえて両手で包みこむ。


 ぎゅう、と握りこまれると、冰遥の手が段々と温まってきた。


「姉さん、体冷やしちゃダメだよ」


 そう言いながら、もう片方の手も一緒に包みこんだ。


「……分かった」


 じっと手を見つめて話す躘に、躘のふせられたまつげを見ながら、冰遥はそう返事をした。


「姉さん、昔から体温低いんだから。……しっかりあっためてね」

「うん」


 冰遥の手に触れた躘の手。ふわふわで柔らかいはずの躘の手の皮膚が、固くなっていた。


 戦術の心得がある冰遥は、躘の手が、長年の弓や刀の鍛錬でそうなったものだとすぐに分かった。


 冰遥の頭に、ふたたび別れの言葉がよみがえる。


『姉さんよりも強くなって、迎えにいきます。将軍よりも、一人で戦場に立ったあなたよりも……もっと、強くなりますから』


 約束を果たそうとしてくれていたことが目に見えて、冰遥はまた、胸がぎゅうっとなった。


「……はい」


 躘の手が、離れていく。つねに冷たかった指先が、いまはじんわりと温かい。


「ありがとう、躘」


 そう言って躘に笑いかけると、はにかんだ躘がどういたしまして、と笑いかけてくれた。


 窓のそとを見ると、お昼になりかけている。そろそろ、昼食の時間だ。


「じゃあ、そろそろ戻るね」


 そう躘に告げ、ヤン夫人に軽く会釈をして、立ちあがる。


「ではまた、翡翠宮でお会いいたしましょう、冰遥さん」


 ヤン夫人の言葉に、冰遥は微笑みをうかべて返事をし、躘の宮殿をさった。



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