再会
「あーもう、なんでもっと泣くんですか。姉さん、こっち向いて」
涙がとまらない
冰遥が、そっと、ゆっくりと視線を躘へとうつす。
そこには、いつものように穏やかに微笑む躘がいる。
冰遥の鮮やかな紫色の目をのぞきこみそれが彼女であることを確認すると、躘は安心したように微笑み、ふっと息をはいた。
「おかえりなさい、
その柔らかい表情を見て、その声を聴いた途端――一気に胸にこみあがってきた。
あの日の別れの情景が浮かびあがり、冰遥は、ぎゅっと袖を握りしめた。
これ以上泣かないように。
けれども、やはり無理だった。
躘のほおにも、同じように涙が流れていることに気がつけば、涙を止める防波堤も意味をなさなくなってしまったのだから。
「沙華姉さんっ、ごめんなさい、昨夜……」
――まさか。
「もしかして、姉さんだったのですか……?」
涙のせいなのか、それとも起きあがったことで息苦しいのか、とぎれとぎれに話す躘に、首を縦にふる。
「ごめんなさい、あのときっ……夜目がきかなくて、気づかなくて」
「躘……っ」
その名を呼ぶと、躘は安心したように笑った。
――ここで、あの柔らかいほおに触れたら、どうなるのだろう。
愛しい気持ちをおさえきれず、冰遥は、そっと、濡れたほおに手を伸ばした。
が、名残惜しそうに、その指先を引っこめた。
躘は皇太子だ。
皇太子妃こそまだ決まっていないが、いずれは皇帝になり、民を統治する立場になる。
そんな高貴なひとに――触れることなどできない。
その事実が、無邪気に笑っていられたあのころとは違うという現実を、冰遥につきつけた。
指先を袖のなかにしまい、ほおにつたって冷たくなった涙を拭きとろうとする冰遥。
躘が、離れた冰遥の指を追いかけ、糸を繰りあわせるように手首を掴む。
そしてそのまま――指先を絡めた。
なにが起こっているか分からず、呆然とする冰遥のことを、柔らかい笑顔で見つめる躘。
「……りょ、躘」
困惑して躘の名を呼ぶ冰遥に、躘が微笑む。
「会いたかったです、沙華姉さん」
――なんで、ここまでわたくしのことを想ってくれていたの。
長年、喉につめこんだ叫びが、溶けだして肺に流れてくるようだった。
冰遥は、自らの慕う人には、幸せになってほしいと願うのが、美徳だと思っている。
ここに来たのは、自らの恋にけりをつけるためだった。
躘が、自分のことを好きでいてくれる自信などなかった。
会いたいと嘆くばかりで、このままでは自分のためにはならないと悟ったからだ。だから、ここに来た。
一度だけ、躘の顔を見れれば満足だった。
さらに言えば、躘が冰遥のことを覚えていなかったら、それで諦めがついたのだろうが。
冰遥の心のなかで、息をひそめていた恋心が、一気に燃えさかるようだった。
「わたくしに、会いたかったの?」
人違いだと分かり、安堵でぼろぼろと涙がでてきた。
はっとした躘が、その涙を追いかけてほおに手をのばす。
「わたくしのこと、覚えていたの?」
涙をぬぐわれても、はらはらとまつげを濡らす雫はいっこうに止まらない。
「わたくしは躘のことを、あきらめなくてもいいの?」
震える声で問うと、躘は真剣に、それでも懐かしいぬくもりを残して答える。
「なぜあきらめる必要があるのですか。昨夜は、間違えてしまったけれど……わたくしが、大好きでたまらない姉さんのこと、忘れるはずないじゃないですか」
なんでそんな優しい顔をするの。わたくしは、躘のことをあきらめなくてもいいの? ――冰遥は心の内で問いかける。
躘はその問いに答えるように、優しみにあふれた笑みをこぼす。
「泣かないで」
別れたあの日、冰遥から言われた言葉をそのままかえすと、冰遥は顔を歪めた。
泣かせないでよ――言いたかった言葉は嗚咽にまけ、声にならない。
愛するひとと、同じ記憶を共有しているということが、こんなにも嬉しいことだと、はじめて知った。
どの記憶でも、沙華は美しかった。
不思議な色の目も、栗色の髪も、こちらを向けば笑ってくれるのも、すべてが美しかった。
そして、再会した今でもそうだった。
色がうすくなり、あざやかな紫になった目も、白い肌も、涙さえも美しいのだから。
「お慕いしています、姉さん」
名が変わったことは知っている。
目の前にいるひとは、沙華ではありながらも沙華という名をもたないことも。
だが、躘は沙華の名が大好きだった。赤く鮮烈な――曼殊沙華からとった、その名が。
そしてまた、その名に負けず、あざやかに輝く彼女自身も。
「姉さん」
繊細な硝子細工のような、菓子のようにふんわりと甘い声がして、涙の色であふれ霞んだ視界で、躘が微笑む。
それに返すように、涙をのみこんで、精いっぱい微笑んだ。
「大好きです、姉さん」
わたくしも、と口について出そうになったが、すぐに口を閉じた。
ここでわたくしも、と言ってしまったら、わたくしは本当にわがままになるのではないだろうか――。
そう思い悩む冰遥の頭のなかに、文琵の言葉がうかんだ。
したっているのならば、したってもらえるようにするのみ。それ以上も以下も必要ありません。
――したっているお方に、したってもらえている。これ以上の幸せなど、わたくしは知り得ない。
躘は、離れていても想ってくれていた。覚えてくれていた。
ならば、冰遥も伝えなくては。
「躘……」
少し目をふせていた躘が、そっと冰遥の目を見る。
「わたくしも、おしたいしています、躘」
照れたように笑う躘に、冰遥も笑いかけた。
もともと、ここに来たのは躘のことを想いつづける自分にけりをつけるためだった。
だが、今は違う。
冰遥は、躘を愛している。そう、おのれを愛しずっとしたってくれた躘のことをただただ、愛しているだけ。
高望みかもしれないが、願わくば、これからも躘のそばで一途に彼だけを愛していたいと思う。
――それで、いいの? 躘。
心のなかで問いかけた。
躘はなにかを察したかのように、冰遥の耳の後ろに手をまわし、ひたいをあわせる。
ぐっと二人の距離が近くなり、躘の美しく端正な顔が目の前に見える。
冰遥はどきっとした。
あわてて躘のことを押しかえそうとする。
胸板を押しかえしたのだが、にやりと笑った躘に逆にその手をとられて、そのまま躘のほおにもっていかれる。
柔らかいほおの感触が、これが現実だということを冰遥に告げた。
「ふふ、かわいい姉さん」
不敵に微笑む躘に、冰遥はくらっとした。
敬語がなくなり、ふっと大人っぽい表情をする躘のほおにふれている指先に、再び彼の指がふれる。
冰遥の手をすっぽりと包んでしまう、大きい彼の手に、冰遥はまたくらっとした。
「姉さん。……ありがとう」
うるさすぎる心臓の音にびっくりしながら冰遥が顔をあげる。
こちらをまっすぐにみつめてくる躘に、冰遥は目線を下におとす。
「ありがとう。……俺のところに、戻ってきてくれて」
ひどく優しく、そして寂しさをはらんだ声だった。
やっぱり、こういうこと言うと格好つかないかな? とはにかみと苦笑の間で笑みをうかべる躘が、どうしようもなく愛おしく思えた。
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