華の貌


 夜の帳はとうにおりたころ。


 大陸を統べる大帝国――明涼ミンリャン国の、闇につつまれた宮殿を抜けだしたものがいた。


 白い面をした華のようなかんばせをした女だ。


「……夜が深いな。そろそろか」


 女は顔をかくすように黒い笠をかたむける。


 青白く照る月に背をむけるようにして歩きだす――途端、後ろにあった宮殿がごうごうと燃えはじめた。


 おつきの女官がさけび、かけつけた禁軍きんぐんの兵士たちが消火に励むが、とくべつな術――邪術じゃじゅつによる火は衰えを知らぬまま、宮殿を焼きつくす。


 女は冷笑をうかべた。


 年のころは、十七、八ほど。餓えた虎のような目は、邪術を宿すものの象徴である紫色をしている。


 恐ろしく整った顔だちは、皇帝からの寵愛を一心に受けてもつなづける。



 だが彼女は、後宮で女性たちの厄をはらい、悩みがあれば手助けをするである。


 ――そしてまた、頼まれれば卜占ぼくせんをする、という噂もある。



 後宮にはたくさんの女性がいる。


 一后※皇后、四夫人、九嬪、そして数多の貴人たち。


 皇帝からの寵愛を受けようとする女は多い。


 だが皇帝からすれば、寵愛を与えたむすめ以外は、どれも同じである。


 うわべだけの笑みをうかべながら我先にと蹴落としあう女性たちの厄をはらい、助言するのが彼女のしごとである。


 また、彼女はとくべつな術を使うため頼まれればその力で手助けしてみせるが――いかんせん彼女は人好しではない。


 手助けの代価として何を要求されるのかは――彼女しか知らぬのだ。


 その瞳の奥には、慈悲のない餓えた虎が吠えている。



 だが、素性の知れない彼女の占いは当たると評判である。


 だから今夜も、彼女に占ってもらおうと、後宮の女たちはそっと、宮殿を抜けだすのである――。



「珍しいですね、あなたがいらっしゃるとは」


 茶を入れながら誰がきたのかを見ぬいて、台の向かいへ腰かけるように言う。


 正体を見ぬかれた女――楼貴ロウグィは居ごこちの悪そうに椅子へと腰かけた。


 楼貴は、そっと腹に手をそえる。


 懐妊が明らかになり、嬪の位へとあがることがすでに決まっている。いわば出世、昇格だ。


 だが、その表情はうかない。


 それどころか――目をしばたたかせ、零れるものがないようにはしているが――美しい瞳の淵から今にでも涙が零れおちそうである。


 そんな彼女のことを気にする様子もなく、主は彼女に背をむけてなにやら茶を淹れているようだ。


 不愛想だが、今夜ばかりは助かった、と楼貴は思った。


 その占い処の雰囲気は異質である。世界の果てにきたかのような心地だ。


 彼女のあつかう術のせいか、どこからも干渉をうけぬのだ。


 楼貴は、すっと息を吸いこんだ。鼻のおくにお香の香りが残る。


「お香、お気に召していただけましたか」

「あっ、ええ」


 急に話しかけられて少しばかり驚いた楼貴だったが、勢いのままにうなづく。


 主は、その返事に少し口角をあげた。


 占い処は、日々変化している。


 宮殿の一角に開くこともあれば、外でひっそりと闇に紛れていることもある。


 主は多様な場所で占い処を開くため、女たちは、今夜どこで占い処を開くのかを知っている婢女はしための少女のもとへと尋ねにいく。


 ただ、その少女にさえも分からない夜もある。


 その夜に、彼女がどこに行ってなにをしているのか誰も知らぬのだ。


 主は、くんの長裾をひるがえしながら振りむいた。淡色のそれは美しく、儚い。


 宮中一の美人――ヤンというむすめでも、服の美しさに負けてしまいそうなそれを、普通に着こなしてしまう。


 なにものなのだろうか、と楼貴は思う。


 とくべつな術をあつかうとは思えないその端正な顔立ちに、初めてここに来た楼貴はぎょっとした。


「……話し相手がいないようですね」


 いそいそと正面に腰をおろしぞっとするほど冷たい声で、主は楼貴に言った。



 ――怖い。



 ぎゅっと握りしめた手がかすかに震えている。

 主は、表情をかえずにつづける。


「『宮中ではみにくい噂が絶えない。あのお方も、おびえてくらしている。噂ではかの有名なが関係しているらしいけれど、誰も答えてくれない』。……ああ、その真実を聞きにいらっしゃったのですか」


 楼貴の心の内を一字一句誤らずに口にだす。


 楼貴の心臓が、バクバクと早鐘を打っている。弁が高速で開閉している。じわりと脂汗が額にうかんだ。


「とくべつ。あなたにだけは教えてあげましょう、楼貴さま」


 主は、垂れた前髪をそっと耳にかけた。


 美しい顔が、――無表情のまま、揺れる蠟燭ろうそくに照らされぼんやりとうかびあがる。


「もしも、この宮中で生きのこりたいのならば」


 はっとするほど冷たい表情。


 蠟燭の光が瞳に差しこみ、今まで見えなかった――紫色の光がこちらをのぞきこんでくる。


はしないことです。さもなくば――」


 主は、口の両端をあげた。


「お子も、あなたも……殺されますよ」

「ひっ」


 いまだ、表情をかえずに微笑む彼女は美しい。――まるで、天女の皮をかぶった悪魔だ。


「そしてもう一つ」


 目を細め、楼貴の腹にそえられた手を見て、さらに笑みをふかめた。


「あなた……悪辣あくらつな子を宿していらっしゃるのね。その男性はどなたかしらね……ああ、もしかして皇帝陛下ではなくて、 大臣のジャン氏かしら?」


 口から発せられる言葉に、段々と楼貴の顔が青ざめていくにしたがって、肯定の色は濃くなっていく。


「出ていくのなら、今の内よ。……騒ぎが大きくなる前にね」


 主は、やわらかい笑みをうかべた。


 三日後の晩。

 楼貴は体調を崩し、子とともにこの世を去った。




 主は――誰も知らぬが、皇帝の子を懐妊していた。


 邪術をあつかうことのできる種族はただひとつ。――隣国、炎尾国の王族だけである。


 主は炎尾国の王女であるが、ある理由で、王と臣下たちに国を追放された身なのだ。


 絶世の美男美女の王家として有名な炎尾国の王女ならば――なるほどその美しさにもうなづける。


 だが問題が生じる。


 敵対している国同士の、王の血を継ぐ子が成長してしまえば――双方の国に多大な影響をおよぼすだろう。


 そして、皇后との子どもにも影響がでる。さすれば、この国が揺らぐ――。


 皇帝は、主に腹のなかの子を殺すように命じた。邪術を使えば子を殺すなど、簡単のことだからだ。


 だが、主は殺さなかった。


 その代わり、人知れず産んだ赤子――落胤らくいんを川へと投げすて自らも川に身を投げたのだった。


 こうして、からだに邪術を宿した赤子は、誰にも知られぬまま川の波に飲みこまれたのである――。

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