《完結編始動》紅い花と天龍のこと

モモニカココニカ

一章 紅い花のこと

ただただ、あなたを愛しているだけ

序章 天龍と紅い花のこと




「姉さん、待ちましたか?」


 姉さん、と呼ばれた冰遥ヒョウヨウは、胸まで引き上げられた深支子こきくちなし色をした裙のすそをひるがえす。


 胸へと流すようにして垂らした髪が、光の加減により鮮やかな菖蒲あやめのような深い青の光彩をたたえる。


 やさしい声に振りかえると、重々しい皇帝の装束とは一転、錫色すずいろの羽織と淡色の繻子しゅししゃをまとった彼が立っている。


 声と同様、表情もまたやさしい。


「ううん、全然。奇遇ね、いま来たところなの」


 嘘である。


 本当は、体を刺すような寒風のふくなか、彼のことをずっと待っていた。


 けれども、皇帝としての責務を果たすため東奔西走とうほんせいそうしている彼が、ただ一人、冰遥のために時間を割いてくれているのだから、文句は言えないのだ。


 にっこりと微笑んでみせると、栗色の髪を風になびかせながら、リョウが冰遥のほおに手を滑らせる。


「姉さん、嘘はなし」


 さすがは彼女の夫だ。嘘を見破るのがはやい。


 ね? と念をおすように笑いかけられ、冰遥はぐっと喉を鳴らす。


 そのままじっと見つめられ、しばらく見つめあっていたが、観念したように躘の胸に手を置き、少しばかり距離をとった。


 冰遥のほおが、ほんのり赤くそまっている。


「分かった、言うからそんなに見つめないで」


 もったいない。いつにもまして綺麗なのに――と躘は思うが、それを言ったら、目の前の愛しい人がもっと照れてしまいそうなのでやめておく。


 ひゅるひゅると吹いた風に揺れ、冰遥の髪にささった歩揺ほようがちゃり、と音を立てる。


 皇后でありながら、豪勢な装飾がほどこされたものを好まない冰遥は、その美しい髪を繊細に彩る一本の簪以外はあまり身につけない。


 だからこそ、躘の目に、編みこまれた髪にささった金の歩揺が目に留まった。


「……申し訳ないなと思ったの」


 冰遥が、風に荒ぶる前髪をおさえながら目をふせる。


 光を透きとおした毛先に、淡光をたたえた細かい粒子が光りかがやく。


「懸命に務めを全うしているのに、わたくしはそばから見守るだけで、なにもできていないのに。……こうして、わたくしのために時間を割いてくれているでしょう?」


 悲しそうな声に、無意識に眉にちからが入る躘。


 冰遥は、ぎゅぅっと躘の服のはじをつかんだ。


「だから、なんか……。うん、そんな感じ。ごめんなさい、変なこと言って」


 無理に口角をあげ、笑おうとしている冰遥のすがたが、躘の目に痛々しくうつる。


 躘は冰遥のことを引きよせて力いっぱいに抱きしめた。


「躘……?」


 怒らせたか――と、心配になりながら、躘の服のすそをつかむ。


 びゅるると風が吹き、寒さに身をよじった冰遥の小さいからだを、たくましくなった躘のからだがすっぽりと包みこむ。


「やっぱり嘘つき」躘が、少しばかり拗ねたように言いながら、からだを離す。「冷たくなってる」


 それはそうだろう。


 この国では、秋になればほおを突き刺すほど冷たい風が吹き、少し外に出ただけで風邪をひくほどの寒さにまでなる。


 そのなかで、ひとり厚着ともいえぬ格好で外に立っていれば、冷たくなるのも当然だ。


「中入りましょう、姉さん。このままじゃ風邪をひいてしまう」


 羽織を冰遥の肩にかけながら、囁くように言う。


 重々しい冕冠べんかんを脱いだ躘の髪を結わえていた、龍の頭が彫られた簪が金色に輝く。


 それを見ながら、冰遥は考えた。


 珍しく歩揺を挿したから、躘の簪と合わせたらお揃いになるわね――と。


 ただいかんせん、昨晩寝る間も惜しんで侍女のために絹を織っていたせいで、思考がうまく回らない。


点心てんしん……」


 すがるようにして、ため息に近い声で言うと、やさしく、舐点心? と躘が聞きかえす。


「山のお話をして。朝日が一番にのぼる山のお話。お茶を飲んで、わたくしの好きな舐点心をともに食べて。……一緒に。眠るまで」


 目を閉じて肺いっぱいに躘のぬくもりを吸いこむ。


 ああやっぱり幸せだ――と冰遥は思う。


 ――このひとをただ愛し、ともに過ごせることが。


「ふふ、姉さんわがままだ」

 躘が言うと、

「躘にだけだよ」

 と冰遥がかえす。


 美しい目を閉じてしまった冰遥を支えながら、躘は幼子のような冰遥を見てほおを緩め、からだを支えて宮殿のなかへと入ってゆく。


「姉さん、歩揺つけるなんて珍しいね」

「……躘とお揃いになったわ、金色で」


 ぼんやりと言う冰遥に、くくくっと実に愉快そうに躘が笑う。


「姉さん寒そうだね、あとであたたかい茶でも飲もう」


 そう言いまた愛おしい気持ちを隠さないまま、甘い蜜を目から垂らしたような顔で躘は語りかける。


「……うん」

「ふふ、よし、じゃあ行こう」


 この二人、もとはともにいられるはずがない運命にいた二人である。


 しかしながら、この深くゆるぎない愛をたぐりよせた二人に、運命でさえも太刀打ちできなかった。


 これは、天龍と呼ばれた明涼国の君主と、その傍に晩年付き添った赤い花の名をもつ皇后の話である。


 そしてともに。


 愛を知り、愛をたぐり、愛に悲壮し、愛に裏切られ――また、おのれの愛を信じて結ばれた二人である。


 そんな二人の愛と秘密を、すこしだけここにまとめてみよう。


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