第3話
8
新崎は手紙に心当たりはなかった。二回目の実行委員会の集会が終わってから新崎とあびゅーすで落ち合う。新崎と流川が親し気に挨拶していたところを見ると、あれ以来も利用していたようだ。。
「ええ、存じてますよ。氷上さんが好きだったそうですね、ひかる」
「あ、やっぱ知ってましたか。あの、それで、氷川さんの件って何か進展ありました?」
当時ハイエナみたいに嗅ぎまわっていた人に聞くなんて癪だったけど、まあ仕方がないよね。
「いえ、特に。やはり頭部の裂傷が説明できないみたいで。死因は失血で胸の傷が原因なのははっきりしているんですけど。密室だったのに凶器は見つかってないし。争った形跡もないし。捜査上犯人しか知りえない情報は伏せているんでしょうけど、正直記事にできそうな情報もなくなってきてしまって」
「やはり魔法で殺された?」
「密室なら魔法をかけられないにゅ。窓みたいに外部から認識できる穴はあったにゅ?」
「いえ、カーテンは閉まっていましたし、廊下側の扉の小窓にはポスターが貼ってあったとか。氷上さんが発見されたのも、一つだけカーテンがずっと閉まっている教室が不審だったからで」
へー。当然っちゃ当然だけど私よりよっぽど詳しいみたい。
「遺書とかもなかったんですよね」
「ええ、見つかってません」
流川がコーヒーを運んでくる。今日の新崎は軽食をおごるつもりはないらしい。残念。
「そうだ、流川さんはこの子知ってますか」
と新崎がタブレットを見せる。
「うん?ああ、何度かありましたよ。たぶんお兄さんと一緒でしたけど」
私もタブレットを覗く。知らない女だ。これが氷上あきら?見覚えがまったくない。
「この人が氷上あきらですか」
「そうですけど、同じクラスだったじゃないですか。そうじゃなかったらしつこく付きまとったりしませんでしたよ」
しつこく付きまとっていた自覚はあったんだ。余計質が悪い。
「いや、見覚えなくて。クラスメイトの顔とかあんま覚えてないけど、流石に見覚えさえないのは変かなって」
新崎が首を傾げてタブレットをフリックして別の写真を見せる。おにぎりを頬張る氷上。水族館でピースする氷上。あ、この水族館前行ったとこだ、って、近場の水族館はここぐらいだしそりゃそうか。体操服の氷上。七五三の氷上。中学の卒業式の氷上って、このセーラー服。あの襲った女と一緒だ。どうして?
「アル!この服だったよね、あいつ」
「にゅ。確かに似てるにゅ。でも正直セーラー服って全部同じに見えるにゅ……」
「え?この服なんですか。ありえないですよ。氷上さんの卒業と同時に廃校ですよ、この中学って」
「えっと、何の話ですか?」
と流川が困り眉を作る。
「お兄さんってこの方ですか」
新崎が別の写真を見せる。こたつの上に鍋を乗せて、中年女性と中年男性、加えて氷上、手の伸ばし方から見て氷上の自撮りだろう、が映っている。
「いや、これってお父さんじゃ?もっと年が近い感じでしたけど」
「氷上さんにご兄弟はいないんです。制服でした?」
「さあ、そこまで覚えてなくて。印象に残っていないということは変な服装や時間帯じゃなかったと思うんですけど。うーんじゃあ、友達とか彼氏とかだったんですかね」
「他に何か変わったことは?」
「さあ、特に思いつかなくて。すみません」
「ここって学校からちょっと歩くし駅とは反対側だし、適当に入ったって感じじゃないですよね。コーヒーはおいしいけど」
「そうですね、学生が来るのは珍しいですね。あ、そうだ、学生と思ったんだ。だったらたぶん制服でしたよ。お兄さんと思ったのもきっと制服が違ったからですよ。同じだったらまず先輩後輩とか友達とかカップルとかだと思いそうですし」
「あとはお兄さんとこの店に来た、という記憶を魔法で植え付けられたとか」
「ありえないとは言えないですね。その氷川さんという方もオブジェクタムなんですか」
「そういう話は聞いてませんけど……羽佐間さんは何かご存じですか」
「いや、学校で魔法少女だとわかってるのはみつみだけです。……ちょっと待ってください」
私はゆりねに『氷上あきらって魔法少女?』とメッセージを送る。メッセージ。手紙。氷上あきらはドリームダイバーひかるを予言書と言っていた。氷上が私に何かを伝えようとしている気がした。って自意識過剰?
「羽佐間さんがオブジェクタムだと知っているのは、そのセーラー服に襲われる前だと、大河原君と私と宮内峰さん以外にいます?」
「いないはずです。友達はなにか感づいていた気がするんですけど、でも、友達だし、仮にその友達が関与していたとして、私が魔法少女であることを知っているぞってことを私に伝えたりしないと思うんですけど」
「そうですね。それに一番怪しいのは羽佐間さんもそのセーラー服も知っていた私ですしね」
新崎がにやけながら眼鏡をくいと上げる。おいおい、それを冗談って思えるほど私はお前を信頼してねぇぞ。流川もあいまいな笑みを浮かべて特にフォローしない。
「とにかく、そのセーラー服を捕まえたら絶対いろいろはっきりしますよ」
「羽佐間さんってちょっとしたオブジェクタム狩りより武闘派ですよね」
と新崎が苦笑いする。うるせー。
「オブジェクタム狩りはどうなんですか。実害出ています?」
「宮内峰さんが言うには何人も襲われているそうです。なんでもバクルスを奪われているとか」
と流川。しかしパラフィジカルロッドを奪ってどうすんだ。一時的に魔法はほとんど使えなくなるにしてもどうせすぐ生えてくるのに。コレクション?気持ち悪。
「にして宮内峰さんって顔広いですね」
「この前、専業主婦は暇だからねって自嘲していましたよ」
「あ、ここです、例の中学」
タブレットを操作していた新崎がマップを見せる。廃校と言うからてっきり離島か山奥かとでも思っていたが、隣の市だ。車で通ったことさえある。
「何で廃校に?そんなに田舎でもないのに」
「自治体の統合でです。ちょっと前にニュースでやっていましたよ。校舎は今、地域センターになっているみたいですね」
うーん、言われてみればそんなニュースあったようななかったような。
「なんか普通の理由でつまんないっすね」
「羽佐間さん、欲求不満なんですか」
新崎が少し馬鹿にしたように口角を片方上げる。だからうるせー。
「でも隣の市出身ってことは、あびゅーすを前から知っていたわけではなさそうですね」
「おや、これでも何度か雑誌に紹介されたこともあるんですよ。知っていても不思議じゃないですね」
と流川がわざとらしく膨れて見せる。なんか立ち振る舞いがお上品というかおぼっちゃんっぽいだけに、こういう中年のぶりっ子は見ていて少し痛々しい。しかもハゲでトランクスだし。
「そういえばあの双子はどうしてここに?小学生で喫茶店通いなんてリッチですよね」
「いとこの義理の兄の娘なんですよ。一度コーヒーをご馳走したら居着いてしまいました。もちろんミルクと砂糖入りですけどね」
と声なく笑う。
「まあ目の届く場所にいた方がオブジェクタム狩りからは守りやすいかもしれませんね」
「本当に何が目的なんですかね。人のバクルスを奪ってもモドゥムが使えるようになるわけでもないのに」
「前会った人が言ってたんですけど、魔法少女を衝突させるための陰謀で実体はないんじゃないかって」
「んー、でも実害がでてるんだなあ。最初は仮にそうだったとしてもとっくに本物になってるんだなあ」
と新崎の妖精。
「なんかデスピアーと真逆だね。デスピアーを浄化すんのが私たちの使命らしいのに、未だにそんなの見ないもん」
皮肉っぽく使命を強調して発音するが妖精どもは無反応だ。
「そのカンシェウムについてですけど、宮内峰さんが面白い説を唱えていましたよ。何でも、カンシェウムの正体はうつ病なんじゃないか、と」
「うつ病の浄化?寛解?が使命ってこと?なんじゃそりゃ」
「宮内峰さんはワイドショーの受け売りだと笑っていましたけど、うつ病の原因遺伝子が発見されたようなんです。それで、その遺伝子は人に潜在感染しているヒトヘルペスウイルスの持つ遺伝子だとか。これって邪悪の種子が発芽して至るというカンシェウムみたいじゃないか、と」
「単なるアナロジーじゃ?」
「確かにそうですけど、モドゥムは実際、臨床で有効そうですしね。素人考えですが」
「えっと、よくわかんなかったんですけど、潜在感染ってことはもう手遅れってこと?」
「まあ、ある意味そうかもしれませんね」
なんだよ江尻のやつ。デスピアーも魔法少女狩りも実在してるじゃん。もうわけわからん。妖精たちはデスピアー=うつ病説にも反応なし。本人たちにもわかってないんだろう。なら使命って誰から聞いたんだろう。それとも食欲や睡眠欲、性欲みたいな本能がその浄化って行為にもあって、それを使命と言い換えているんだろうか。真顔でアダルトビデオを見る妖精たちを想像して思わず笑ってしまう。そうだ、善哉心研究会の関連動画のサムネイルの知らない半裸の男たちはAV男優だったのかも。鏡島の説明だとそれがミームのルーツのはずだ。アダルトビデオを鑑賞する妖精たちの列に氷上あきらを加える。何枚も写真を見たのに、まだその顔はおぼろげでうまく表情をイメージできない。
「そうだ、新崎さん。その氷川さんの画像もらえませんか。何か手がかりになるかも」
「そうしたいのはやまやまですが、うーん。氷上さんのSNSアカウントを教えますね。それなりに頻繁に自撮りをアップしていましたよ」
新崎がしばらくスマホを操作すると、私にアカウント名らしき文字列が送信されてくる。短文投稿のSNSと写真投稿のSNSの二つだ。前にゆりねが見せた短い動画がメインのSNSのアカウントはないらしい。
早速コピペして検索してみる。当然だが更新はとっくに止まっていた。特に短文投稿の方は事件のずっと前に更新が途絶えている。飽きたのだろう。一方で写真投稿の方はコンスタントに投稿されている一方数は少なめだ。新崎が言うには時限消滅する投稿機能をよく使っていたらしい。
「ありがとうございます。でもぱっと見普通の高校生って感じですね。そこまでがっつりSNSやってたわけでもなさそうですし」
「たぶん裏アカウントがあるんじゃないかな。むしろ本人的にはそっちが表なのかも」
「いや、SNSが活発じゃないから裏アカがあるに違いないってのはおばさんの考えですよ。実際私も一回作ったけど一週間触ってからずっと放置してますし」
おばさんですか、と新崎がフフと笑って肩を回す。なんでちょっとうれしそうなんだよ。ムカつく。
「なのでお友達とかに聞いてもらえませんか。裏アカウントについて」
「はあ、別にいいっすけど」
交換条件のつもりだろうか。いや、たぶん私を学校内で動かして何かを探るのが目的で、裏アカがあるかないかはたぶんどうでもいいんじゃないか。そんな気がする。そうだ、ドリームダイバーひかる。あれを裏アカで言及しているかも。新崎にアニメの話をしたのは失敗だったかな。いや、別に新崎の足を引っ張りたいわけじゃないけど。それに非公開アカウントの可能性だってあるし。
コーヒーに口をつけようとするとカラカラと扉の鐘が鳴る。目線だけで向くと、同じ学校の制服だ。げえ、せっかく静かでいい店なのに流行ったらやだな。
「あの、羽佐間まりなさんですよね」
うわ、すげえ巨乳。だけど知らない顔だ。三年生のリボンの色。
「すみません急に。私、女子野球部部長で応援団副団長の飯綱じゅえると言います。突然なんですけど、大河原君が何をしているか知りませんか」
いかにも社交慣れしたスポーツマンといった風にさわやかな雰囲気だ。少し困った顔ではにかみつつも、はきはきと発音した。
「いや、知りませんけど。どうしたんですか?電話します?というかどうして私に?」
「大河原君、この一か月全く部活に出てないんです。それで不安になって。よく大河原君から羽佐間さんの話は聞いていたのでもしかしたら知っているんじゃないかって。それにずっと携帯の電源切っているみたいで」
みつみが私の話を?もしかしてこの巨乳も魔法少女なのだろうか。あるいはみつみの彼女とか。それはないか、人見知りデブだから。少し警戒するようにじっと見つつ、みつみに電話をかけてみる。おかけになった電話は電波の届かない場所にあるかその他云々らしい。それに一か月前って私のナイト君をやりだす前だし。そういえば最近は帰りに送るとか言いださなかったな。
「やっぱつながらないですね。というよりどうして女子野球部の人が?男子野球部は?あ、それとも応援団としての仕事で?」
「いや、ほら、男子の方は大河原君を呼び戻すのは立場的にちょっとね……。それと応援団としての仕事もあって、団長の郡上からの伝言なんですけど」
「資料室の外部で探そうとするのは実に慧眼だ。だけどもう遅い。すでに終わったことだ。我々応援団の人数は生徒会則の改正には十分な数が集まっている。この意味がわかるなら氷上の件から手を引け。今更どうにもならないことはわかっているはずだ。羽佐間君。……だそうです。どういう意味ですか。言えばわかるって言われたんですけど
意味わからないし郡上って誰だよ。伝言も微妙に長くて、何を言われたのか速攻その場で忘れてしまった。
「生徒会則変えるんですか?」
「ええ、生徒会執行部に一年以上所属した人だけではなく、全校生徒に役員の立候補権を与えるべきだと」
「そんなことしてもどうせ立候補するのは執行部の人だけじゃ?去年も役職につき候補者一人で全員投票なしで当選でしたし」
「私もそう思うんですけど、団長は生徒手帳の回収と新規発行をしたいみたいで」
「え、なんで?」
「団長は羽佐間ならわかると言っていたんですけど、わかりません?」
「さあ……さっぱり。そういえばどうして私がここにいるとわかったんですか。誰にも言っていないのに」
「え?あれ、誰から聞いたんだっけ?すみません、なんか、あれ」
流川と新崎が顔を見合わせる。やっぱこれ魔法だよなあ。ならかけたのはその郡上ってやつかね。それなら意味不明なメッセージも、会いに来いというメッセージの一部だと納得できる気がする。
「まあ、だいたいわかりました。みつみが見つかったらすぐ連絡しますね」
巨乳は釈然としない笑みを浮かべるとひとしきりお礼を述べて店から出ていく。カバンを持っていなかったから学校に戻るんだろう。ご苦労様なことだ。
「何やら込み入ってそうですね」
と流川。
「正直、私にも何がなにやらさっぱりですよ」
「氷川の件から手を引けというのは?」
新崎が目をらんらんとさせて身を乗り出す。
「マジで意味不明ですよ。たぶん生徒会書記部なんとかかんとかに任命されたせいだと思うんですけど。氷上さんもやってたとかですか」
「特に部活とか生徒会活動とかやっていたという情報は聞いていませんが……」
「なんか私、郡上ってやつに会った方がいい気がしてきました。その任命されたなんとかも意味不明だったから応援団に行けって言われてたのに無視してたし」
「みつみ君はいいんですか。何かトラブルがあったそうですけど」
「あーあいつは大丈夫じゃないっすか。映画でも見に行って電源切ってるんじゃないですかね」
というかさっきの巨乳もわざわざここに来ないで私に電話なりメールなりすればよかったのに。いや、知らない番号にはどうせ出ないけど。ここに来て直接伝言を伝えるのが目的?魔法?アルビヌスが特に反応しないから大丈夫だと思うけど。
「私たちも大河原君を見かけたら連絡しますからね」
そりゃどーも。にしてみつみのやつそんな部活サボってたのか。去年はあんな張り切ってたのに。万年一回戦落ちの補欠のくせに。
ずるずるとコーヒーを飲み干す。夕日がビルに隠れてかなりあたりは暗くなっている。どうせみつみも夕食時には帰っているだろう。風呂前くらいに電話してやるか。
扉がゆっくりと開いて鐘が鳴った。私たちは振り返ってそれを見た。
9
風呂に入りながら氷上の投稿を読んでいた。写真投稿の方は三十枚程度。車窓越しの山やラーメン、野良猫や卑猥なトイレの落書きなどを投稿していた。一枚だけ水族館の前で自撮りしている写真が残っていた。新崎が見せたのと同じものだ。短文投稿の方もチェックする。こっちは一万件以上呟いている。もうチェックがめんどくさくなってきた。それに更新が途絶える直前は、おきたとねると宿題だるいのループに拡散すると特典がもらえるキャンペーンがアクセントとして加わるだけで、見るべきものはなかった。すぐにうんざりして、氷上がドリームダイバーひかるについて言及しているか検索する。お、ヒットした。
『ドリームダイバーひかる、理性と真理が確固たる価値を持たなくなった大文字のセカイのシステムによって逆説的に理性と真理を成立させてまさしくポストモダン以後の作品なんだよな……』
『ひかるは虚構性の欺瞞を暴き立てていると主張しているオタクはその恣意的な解釈の暴力性が問題視されてるってなんでわかんないかな お前なんなんだよ?』
『ひかる、第一に存在するのがキャラ表象を可能にする認知空間としての「夢」ってことで”本質”を感じる』
うわあ。きっつ。だいぶ痛い感じだけど、ひかるへの言及はこれぐらいだろうか。検索ワードを変えればまだ出てきそうな気がするけど。
顔がほてって、シャワーをひねりお湯に変わる前の水をあてる。ただの同級生なら何の変哲もない普通の若気の至りみたいな文章だけど、すでに亡くなっていると思うと別の痛みを感じる。新崎は裏アカの存在を疑っていたけど、こういうの書くなら裏は持ってないんじゃないかな。いや、新崎もこれ読んだんだろうけど。あ、みつみのこと忘れてた。シャワーを止めて電話してみるがまたしても出ない。私の電話を無視するなんて太ぇ野郎だぜ。今度アイスでもおごってもらうか。
風呂から出ると、ベッドに寝転がって再びスマホを開く。フォロー欄はよく知らないアルファアカウントや動画配信者、出版社にアニメの公式アカウントなどで埋まっている。Lilly bulbってこれゆりねのアカウントか。私もアカウント作った時はフォローしたけど、今だと全く見ていない。他にも十人に満たない程度、同じ学校の人らしきアカウントをフォローしていたが、誰かわからない。Octopathpassというアカウントはどうやら同じクラスらしい、と思ったが更新が一年前で止めっているから違うみたい。このアカウントもオタクっぽいというか、キャラ名、推し、待って、尊いの順列組合せでほぼすべての投稿が構成されていた。別の人はまだ更新していた。だるい。おはです。に混ざってソシャゲのガチャ結果のスクリーンショットと音ゲーのリザルトとラーメンの写真を投稿している。また別のアカウントはアニメキャラのイラストをほぼ毎日のように投稿していた。しかもかなりうまいし。このアカウントだけフォロワーが段違いに多い。学校がどうとか言っているし、学校の最寄り駅の話題も呟いているからこれもたぶん同じ学校の人だろう。ゆりねに聞けばこの人たちが誰かわかるかもしれないが、この人たちが素直に氷上の思い出話をしてくれるだろうか。最悪魔法使えばいいんだけど。そもそも私は氷上の何を知ろうとしているんだろう。死の秘密?どうでもいい。人となり?もっとどうでもいい。私は溜息を吐いて氷上のいいね欄を見てみる。転載された猫の動画、半裸の男キャラ、洒落臭いお説教エピソード、転載された犬の動画、コスメの広告、下手糞なSDキャラのイラスト、まずそうなレトルト食品のアレンジレシピ、上司にしてやったりエピソード、だりー、ねみぃ、ミステリ本の告知、ガビガビに劣化したマンガの画像を張り付けたリプライ、転載された獺の動画、知らんバンドのMV、氷上みたいな文体の映画かテレビかなんかの批評、頭のゆるい女が都合のいい言動で童貞をからかうラブコメマンガ、サラリーマンがおもらしするイラスト、近所の美術館のなんとか展の告知、テレビの放送事故、サバイバルで生き残るライフハック、ひかるは神、反出生主義への共感、知らんアニメのキャプチャ、動画配信者の切り抜き、頬を赤らめた半裸の男のイラスト、#いいねした人におすすめの本を紹介する、ヘンテコなセリフ回しのウェブマンガのスクリーンショット、転載された猫の動画、中国の交通事故、ゲームのPV、ひかるのイラスト、大乗仏教の変遷、炎上に対する苦言、着回しファッションテク、#いいねした人のエロいところをあげる見た人もやる、寄生虫の動画、電車で奇声を上げるおじさんの動画、アイドルのスキャンダルがどうとか引退するとかどうとかの文書、#いいねされた数だけ黒歴史をあげる、眼鏡男が茶髪男に眼鏡を外されキスされるイラスト、※腐向け注意(この投稿は現在ご覧になれません)、雑な男女論、オタクの学級会きもすぎてまじ無理なんだが、ロリキャラがロリキャラに抱き着くイラスト、アニメのコラボグッズ、代表的な実存主義者のリストバンドのライブ告知、うちの数学教師が臭すぎて近寄るとき息止めてる、カードショップの大会に集まるオタクの容姿への揶揄、ラーメンの写真、学校行きたくね~~~~~~~人生終了、毒親がどうのこうの、ショタのM字開脚、トルコアイスの屋台のおっちゃんのパフォーマンス、ブッポウソウとコノハズクの生態、オタク馬鹿にするやつ許せない、アニメキャラの話をしたらおじいちゃんが軍時代のエピソードを語ったとかどうとか、同人誌即売会の内ゲバ、文法の怪しいスパムメールのスクリーンショット、運営人の心がなさすぎて無理すぎる、ソシャゲの運営への不満、分析哲学の新書の告知、あああああああああカケルクン尊すぎるよおおあああ待って待て落ち着こうはあああ(クソでか溜息)ヤバイこれはヤバいもう戦争だろありがとう。。。推し様。。。一生ついていきます。。。え?年間たったの三千円でいいんですか!!!!!??!!??る゚ぽへ(脳の爆ぜる音)、女の自撮り、#いいねした人の好きな色を当てる、アナーキズムの礼賛、夫への不満、すまん、俺オタクなんだが彼女できてしまったせいでこれでも俺オタクですよの発言権が解放されてしまった(←っておい)、転載された猫の動画、猫の画像、猫の画像、ブリーフを履いた眼鏡のケモショタ、学校爆発しろ、なんとか先生の新作小説の告知、マンガの新連載の告知、手作りパンの写真、※夢描写有り注意、百均の雑貨のステマ、幼少期に異常な教師に受けた被害エピソード、メモアプリの長文のスクショ、フェラチオのコツ、転載された犬の動画、お弁当への異物混入、肝っ玉母ちゃんほっこりエピソード、鏡見たらオタクキモすぎという感情が蘇ってしまった「笑え」よ、まとめサイトの管理人の内ゲバ、アニメキャラが眼鏡を外すことに対して憤慨するイラスト、薄汚い食器と缶チューハイの写真、用意されたマンガの突っ込みどころを同じような言葉で茶化すSNSゲームへの苦言、卵かけごはんのアレンジレシピ、アニメがサブスク解禁される告知、おばさんにオタクを馬鹿にされたエピソード、周期表のごろ合わせ、転載されたイルカの動画、メイクテクを紹介する動画の切り抜き、靴とバッグが服装と不釣り合いってことでわたしが腐女子ってバレたんだが上司何者だよ、アニメ化決定の告知、死刑判決のニュース、恍惚の表情でホルモンを食べる男のイラスト、男根信仰の神社の写真、マンガの画像のリプライ、SF映画のメイキング、構造主義批判、迷子の猫の捜索依頼、学校爆発しろいや爆破予告じゃないです許して下さい、昔のアニメ雑誌のピンナップ、読書会でのオフパコの告発、#眼鏡のアニメキャラベストテン、#これ知ってる人は同世代、bioにスラッシュを連ねてアニメを列挙できる人ずいぶん多趣味ですね(皮肉じゃありませんよ、念のため)、家畜の去勢動画、簡単ビーフストロガノフのレシピ、電車のおっさんが頭乗せて寝てきやがってマジ殺したい、オタクだけど枕臭くないです、ヴル夢実質○○○○○○なんだよな(公開範囲:フォロワー限定)、BLゲームの販売告知、クソヤバすぎる同人誌が完成しました。ぱっと見宇宙開闢するくらい面白いです、同人催眠音声のサンプルボイス、犬の写真、確定申告の愚痴、猫の写真、アールグレイとポストモダン文学の下巻の写真、峰岸がドチャクソ顔がよすぎて雑に男に抱かれて涙とか鼻水でめちゃくちゃにされてほしい(ゲス顔)、声優の不倫の釈明文書、子供向けアニメのキャラをマッチョ化したイラスト、さ最高~~~~~!拙者勃起を隠せずゆえ……、眼鏡の警官が頬を赤らめ勃起しながら敬礼しているイラスト、突然のコーデ変更による全身真っ黒コーデをアクセでごまかすの図なり~、ラーメンの写真、リアルでマンガのセリフのマネみたいな話し方をしている女オタクを見るとキツすぎる、同人作家の内輪もめ、家父長制批判、コスメのステマ、今年の流行語ランキングが寒いネットのノリの煮凝りみたいってこんなSNSで言及している時点でブーメランなんだが、ハンバーガーの広告、アニメキャラの人気投票結果、ロジャーが救世主くんがお見合いするそうだという情報を持ち込んだせいで結婚式まで想像するも紺違いだと発覚して嬉ションしちゃうレイアのおたくですが。。。私「は?」、アニメのマンネリズムへの批判、マンガのコラ画像、転載された猫の動画、神話のおもしろエピソード、あーーーークソでかい眼鏡スーツ男(独身、趣味:読書)によしよしされてええええぇぇ以外の感情を失ったんだが、クイズ番組の情報の誤り、コンビニの期間限定商品の広告、異常文書を発掘しました(本のページのスクリーンショット)、ボランティアの横領、春画、悪いオタクだ……、インドの交通事故の動画、※幼児化注意苦手な方はご遠慮下さい、アニメの原画、三ポンドのステーキの早食い、フォロワーさんまじで小説がうますぎて人生の栄養きわまる、イヤホンメーカーへのクレーム、ライトノベルの新刊告知、#好きな侍キャラを三人あげる、アニメキャラの誕生日祝ってるタイプの現実とフィクションの区別ついてないキモ・オタクが哀れなあまりおいおい泣いている、体育会系の精神論批判、排水溝のぬめりを取る動画、犬の写真、期間限定ケーキの告知、オタクエンパワメントとしてのひかるに救済された私としてはひかるのキャラ性をゆがめたポルノ二次創作とか許せないけど認めるようんうんそれがオタクってもんだもんね仕方ないようんうん、マニエリスム絵画、イケメンたちが温泉に浸かるイラスト、ロボトミー手術の概略、陰謀論支持者への揶揄、他のSNSの流行りに便乗しているブス女へのあてこすり、柔軟剤の効果比較、カートゥーンのキャプチャ、アニメキャラをイメージした香水の広告、オタクを馬鹿にするな、アニソンのピアノアレンジ、カーテンにコーヒーぶちまけたから交換した、アニメキャラの名言bot、牛すね肉のカレーのレシピ、エアコンの推奨温度、声優の誕生日祝い、動画配信者の罵りあい、眼鏡の男が侮蔑の表情で見つめるイラスト。転載された猫の動画……
まだあったけど、私はこれ以上見る気力がなくなって、スマホを枕に投げつける。バウンドしたスマホが床に落ちる。慌てて確認したが画面にヒビは入っていなかった。そもそも知ったから何?どうせ死んでるし、こいつ。
私は目頭をつまんでから首を鳴らす。もうすぐ日付が変わろうとしていた。だけどまだみつみからの折り返しの連絡もない。新崎や流川からもだ。宮内峰さんに見かけたら連絡してほしいと頼もうか。いや、単に風邪で動けないとかだろうし、そんな必要はないだろう。私はイライラしてベッドの隅のぬいぐるみを天井に叩きつける。こんな時アルビヌスはいつも、ものは粗末に扱っちゃだめだにゅとか言うのに、今回は何も言わないから余計に神経を逆撫でした。
もういい。寝よう。電気を消して乱暴に掛布団を足で挟むが、十分ほどでついスマホを開くが、何を見ようと思って開いたのか忘れてしまった。もう一度電源を入れ直して思考を再現できるか試してみるが、蘇らない。私は諦めて、フリマアプリでひかるのVHSについて検索してみる。一件だけヒットするが購入済みだ。うわ、すげー値段。買うつもりはなかったけどお小遣いじゃどうせ買えないなこりゃ。出品者は他には何も出していなかった。にしても出品時期は氷上が死ぬ一か月前だ。コメントがある。アカウント名ZZ『すぐに消せ』。ゼット仮面。財前。善哉。瑞山。眠りの記号のZZZ?そういえばみつみの妖精と同じシリーズのおもちゃでZZってロボットがいた気がする。いや、関係あるわけがない。カリカリして少しパラノイア入っちゃってるかも。
VHSを購入したのはこのZZなのだろうか。確かめようがないけど。ZZのアイコンをタップする。こっちは何も出品していない。私は検索窓に財前みえこといれてみる。一件ヒットした。私は興奮してスクリーンショットを撮ってからタップする。学術雑誌だろうか。『反認知科学Vol.2』表紙に財前みえこの文字がある。『反転なき実体概念―現代以前の主観客観パラダイムのメタ評価手段としての【無】自我』なんかこりゃまた難しそうな。購入済みだけど、これならきっと大きい図書館にはあるだろう。コメント欄にはZZの文字。『すぐに消せ』
え、なにこれ。どっちも初期アイコンだけど同じアカウントだよね。財前こころ研究会。瑞山こころ研究会。魔法少女狩り。削除された動画。すぐに消せ。私は布団をかぶり直して深呼吸する。考えすぎに決まっている。どうせZZというのも荒らし用のアカウントで目に付いた出品に送り続けているに違いない。私は氷上が財前について言及しているが検索する、が当然検索結果はなしだ。そうだよね。いや、何で一瞬でも氷上が関係してるって思ったんだろう。アホか。タイトルをまたメモしておく。私の部屋で魔法にかかる心配なんてないけど、年のためね。それにしても早く寝ないと。明日一時間目から体育なんだよね。あーめんど。
その瞬間、スマホが振動する。私も同調するように足をびくんと延ばして、画面を見る。『今だけオトクなポイント百円分プレゼント♪詳しくはこちら→』フリマアプリの運営からのメールだ。ビビらせんなこの野郎。ビビってねぇけど。
『見てるぞ』
いつか聞いたあのイタ電を思い出した。関係ない。あるはずがない。すぐに消せ。魔法少女狩り。みつみ。いつか聞いた言葉がぐるぐるとループして、星座を描くみたいに荒唐無稽なイメージがぼんやりと浮かび上がる。そのイメージが言葉として形を得る前に、私は眠ってしまっていた。
10
私は電車で宮内峰さんの家に向かっていた。アポなしだけどいつでも遊びに来てねとか言っていたしいいだろう。休日のわりに(だから?)それほど混雑していない。ちょうど同じ駅だし、そうだ、帰りに十条大学に寄っていこう。ネットで調べると財前みえこの雑誌が図書館に所蔵されているらしい。まあ読んでも理解できないだろうが。
次第に景色にビルが増えていく。街中のキャンパスってのもかっこいいな。でも十条大学って私の偏差値的にきついんだよね。まあ、まだ一年ちょいあるから大丈夫かな。こんなときみつみならお気楽すぎると言って叱りそうだが。
数日前に新崎からみつみが見つかったとの連絡が入った。みつみとも電話越しに会話したから間違いない、と思う。でもみつみは部活どころか学校にも来ていないらしいし、私のスマホに直接連絡だってしていない。それに新崎の様子だって変だった。新崎は少し焦っているのか憔悴しているのか上ずった口調で、
「スピリタスの声はまだ聞こえていますか」
と聞いた。いや、まあ、と適当に返事をすると、まくしたてるように
「私、気が付いたんです。羽佐間さん、というよりこの学校の生徒なら私が氷上さんの事件について調べていたことは知っていると思いますが、ええ、それを利用されていたんです。拡散するためのルールの一つが、その名を口にすることなかれ、だったんです。意味がわかりませんよね。でも言うわけにはいかなくて。私、どうして氷上さんがあの方法で消えなくてはならなかったのかわかりました。反復というかカウンターというか。とにかく、氷上さんの件には関わらないでください。もう終わったことなので」
「いや、意味わかんないっすよ。ちゃんと説明してください」
「まりな?俺だけど」
「あ、みつみ?お前、何やってんだよ。既読ぐらいつけろや。てか今どこ?」
「えっと、宮内峰さんのとこにいたんだよ」
「は?何日も?ありえねぇ。説明しろよ」
「宮内峰さん、独自に研究所のことを調べてたみたいで、そのなんていうか」
「あーもう!だからお前らどこにいんだよ。会って全部説明しろ」
「今は駄目だ。危険すぎる」
「危険?魔法少女狩り?」
「そうでもあるけど、とにかく俺たちが決着つけるから。すぐに戻るから安心して。それじゃ」
「おい、待てよ」
とこんな感じで通話が切れて、それ以来音沙汰なしだ。コミュ障どもが。前の席に座っていたカップルがクスクスと笑いだしたのが気に障る。私は目をそらすようにして窓に目を向ける。せっかく運賃払ったんだから景色見ないと損した気がするし。だけど目の前は堀のような石壁が連なって、何も見渡せない。金返せ。
電車がカーブに差し掛かると同時に、向こうからコツコツとヒールのような足音が聞こえた。カップルはいつの間にか眠っていて、轟々と線路を進む音が鳴っているはずなのに、図書館か美術館かのように静まり返っているように感じた。足音の方を振り返ろうとした瞬間、電車が石壁を抜けて日差しに目がくらむ。手でひさしを作り、目を細めてゆっくりと顔をあげる。
ストッキングを履いた女の手から、文庫本が零れ落ちた。乗客たちは眠っていた。老婆もベビーカーの家族連れもスケボー青年も小学生も車椅子も。中央にヒールにオフィスカジュアルの女がいる。ソプラノの不安定な歌声が聞こえる。
「絶対ドリーミングドリーム……」
女が歌っている。私の近くに座っていた白杖のおじさんが振り向いて女を見るとそのまま頭を下げて深く呼吸しだした。
「絶対……あら、そこの方……変身……」
女がパラフィジカルロッドをこちらに突き出すようにしてポーズを取る。どんなポーズか思い出せない。パラフィジカルロッド以外の輪郭がぼやけてくる。それが眠気だと気が付く前に私はパラフィジカルロッドを握って立ち上がると、女はワインレッドのロリータ服を身にまとっていた。
「ああ、やっぱり研究所の方でしたか。あの、ちょっとお話が」
女の声を無視して、隣の車両に転がり込む。周りの乗客がぎょっとしてこちらを一斉に見る。
後ろから歌声が聞こえる。おそらくつり革につかまっていた人だろう、誰かが倒れこむ音がした。私はさらに向こうへ走る。
「ちょっと待ってくださいよ。同じ魔法少女同士、お話しましょう」
女がメトロノームのように足音を刻む。また次の車両へ進む。
「あら、行き止まりですね。落ち着いてください。魔法少女を探すためにこんな手段をとりましたけど、私たちは氷上あきらの同志です。どうか怖がらないで」
私は息を切らしながら振り返る。
「残念だったなあ!このまま魔法少女に通用するレベルの魔法を使ってみろ。運転手も巻き込んで、電車は暴走してお前もろとも地獄行きだなあ!」
「あのう、たぶん安全装置とか働くと思いますけど……」
え?マジで?運転席に目をやり、再び女に視線を戻すと、女はオフィスカジュアルの恰好に戻っていた。乗客たちがじろじろと私を見る。電車が駅に止まる。
「ちょっと降りてお話しませんか。私は飯綱しるく。飯綱じゅえるの姉です。羽佐間まりなさん……ですよね。あなたを助けに来ました」
女がさわやかな笑顔を向ける。私は飯綱じゅえるが誰なのか思い出そうとしていた。
駅前のチェーン店の喫茶店に入る。女が「いいですか」とうさんくさいスポーツインストラクターみたいな笑顔でタバコの箱を見せる。タバコは嫌いだし、こういう私が拒否できないことを期待した質問も不愉快だったから、やめてくれと言うと、女は、
「すみません、私ニコ中気味なんですよね」
とスパスパ吸い始めた。私はムッとしてお冷を一気に飲み干す。
「さて。本題ですが、羽佐間まりなさん。あなたが研究所のメンバーとして氷上あきらさんの記録を抹消しようとしていたことはわかっています。単刀直入にいいますが、やめませんか、もう」
「え?何の話ですか」
「うまく書記部体育祭記録管理係に潜り込んだそうですね。氷上を調べ上げれば世界の真理が表れるとでも?もう遅いんですよ何もかも。財前先生も氷上さんも亡くなって、そのあとに生きるしかないんですよ、私たちみんな」
「何のことかわかりませんし、だいたいあなたに何か指図される理由なんてないですけど」
「アニュス・デイ」
「は?」
「絶対の妖精にして魔法少女。あなたがたがサブジェクタムと呼ぶ存在が蘇るかもしれません。私たちが阻止しないと。羽佐間さんの協力も必要なんです」
「だから何言ってんのかわかんないって言ってるじゃないですか。何もしてないんですけど」
語気を荒げてにらみつけるが、女は憎たらしい笑顔をくずさない。
「羽佐間さん。我々人類が意識と呼ばれる現象を獲得したのはいつかわかりますか」
「は?何百万年前……?」
「一年前です。おわかりですよね。魔法、いや妖精という知恵の実以前には何も存在できなかった」
女はいかにも真剣に語る。ちょっと頭がおかしいらしい。下手に刺激しない方がよさそうだ。
「財前先生が死してなお永遠に存在するためのルール、決して語るな。デスピアーも魔法少女狩りも魔法を使わせる、つまり意識という機能を使わせるのに効果的なシステムだと思いませんか。氷上さんは他の方が魔法少女に覚醒する手助けをしただけ。どうして敵視するんですか」
それはお前たちが何もわかっていないからだにゅ。
「まさにそれです。羽佐間さん。今の妖精の声がどこから聞こえたかわかりますか」
魔法少女化以前の人類はあくまで我々の失認状態にあっただけにゅ。認識できないものは存在しないなんて思い上がりも甚だしいにゅ。いや、だからどういうことだよ。
「時間がないんです。もしサブジェクタムが現実のものになったら」
我々は現実だにゅ。
「……では、これはどう説明しますか……変身」
電車のときと同じだ。女が気が付けばドレスを身にまとっている。
「羽佐間さんは私がドレスを着ているように見えますよね。ドレスを身にまとうことで自分が魔法少女である、という意識を、魔法を強化する。そして私が魔法で共有したドレスを着た私の虚像でさえもはや例外じゃないんです」
「あー、わざわざドレスに着替えなくてもいいってこと?」
「それだけではありません。事態の本質は」
「そこまでにするんだね」
喫茶店の入り口に紫色のロリータ服を着た中年女性が立っている。宮内峰さん?
女がピストルを構えて宮内峰さんに向けて発砲する。宮内峰さんの目の前の巨大な熊に銃弾が撃ち込まれる。喫茶店の客たちがパニックを起こして、ある人は叫び、ある人はテーブルの下に潜り込み、ある人はガラス戸に走ってぶつかって動かなくなった。
私も伏せようとするが、吹雪で足がかじかんで動かない。喫茶店の外は暗闇に覆われてもう何も見えない。いや、遠くにかがり火が見える。炎が何かを探すように揺らめいて、グランドピアノが燃える。女がアサルトライフルを宮内峰さんの方へ乱射する。遠くで野犬と男の悲鳴が聞こえる。
「ずいぶんとゲーム好きみたいだね。貧しい記憶だな」
宮内峰さんがくすくす笑いながら近くにいたサラリーマンをひっつかみ盾にする。アサルトライフルにreloadが表示されると血だるまになったサラリーマンを投げ捨てて転がるように、カウンターの後ろの女の死角に潜り込む。
「ちょっと大丈夫、飯綱さん。本当に人殺しになっちゃうかもよ」
「貧しい記憶と言ったのはそちらですよ」
女は咥えていたタバコをヒールのかかとで踏みつけると手榴弾の安全ピンを口で引き抜き、カウンターに投げつけようとすると、テーブルにしがみついていた三匹の鷹が一斉に飛び立つ。かがり火からの太鼓の音をかき消し、
「君ね、口でピンを抜くのはちょっと無理があるな。今度はマンガの読みすぎかな」
芝刈り機が轟音を立てて足元に迫っていた。裾が巻き込まれる。慌てて引き抜こうとするが両手はふさがっていた。ふさがって。
手榴弾が爆発する。カウンターに焦げ跡を作り、客が甲高い悲鳴を上げる。
女の声がする。
顔を上げる、天井は暗灰色の乱層雲に囲まれ、旋回する鳶も見えない。男たちの笑い声が反響する。カウンターの奥から熊が立ち上がる。黒い体毛に覆われてその目は見えない。私は手を引かれて雪原を走っていた。あたりには誰も見えず、時折通行人にぶつかって怒鳴られる。右後ろで銃声が五回聞こえた。肉の焼ける臭い。
「私のこと見えますよね、哀川あいなです。まだ走りますよ」
視界が鈍色ににじむ。あれ、今日は曇りだったっけ。
「あいなちゃん、そっちは駄目。宮内峰さんが知っているかも」
「あークソ。羽佐間さん。どこか安全な場所は知らないか。誰もいない場所」
そんなの知らないにゅ。誰も見ていない場所?仮に一人きりでも少なくとも自分がそこにいるにゅ。逃げ場なんてないにゅ。氷上もそれがわかっていたから、二人も今こうしているにゅ。
「まずいな、まだ語尾でキャラ付けしているけど。これがサブジェクタム?」
私はカバンからスマホを取り出す。スマホが着信を受けた。私は耳元にスマホを近づける。
「見てるぞ」
11
私は駅前から少し離れたところにある商店街のアーケードに立っていた。
「見えてる?あなたの名前は?」
「羽佐間まりな……。どうしたの、何事?」
双子がそろって同じ角度で眉を曲げている。
「私たち、鏡島さんと江尻さんから羽佐間さんを助けるから協力してほしいって言われて」
「宮内峰さんに協力するふりをして、今連れ出したところです」
「え?二人とも宮内峰さんと知り合いだったの?いつから?」
「わかりません。でも羽佐間さんもじゃないですか。いつ宮内峰さんと知り合ったか、いや、いつ自分が魔法少女になったか知っていますか」
「そりゃもちろん……ん?」
「私たち、おかしいことに何も気が付けていなかったんです。気が付けるようになったから魔法少女だというべきか」
「ちょ、ちょっと待って。さっきから情報多すぎてわけわかんない」
「とにかく安全な場所へ……十条大学は?」
「あからさますぎない?」
「逆にわからないかも」
「羽佐間さん、もう少し走りますよ。鏡島さんには連絡しておきますから」
人込みを掻き分けながら二人の背中を追いかける。曲がり角を曲がるたびに通行人に遮られて見失いそうになる。
「あの、私を助けるって、何から助けるの」
二人には軽いジョギング程度らしいが、私は息も絶え絶えに尋ねる。
「瑞山こころ研究会です。何かわからないけど、ついにサブジェクタムが動き出したそうなんです」
「瑞山?アニメのやつでしょ、それ」
狭い路地裏に入り込んだところで私はギブアップし、休憩をもらう。私が膝に手をついて呼吸を整える間も、二人は平静にあたりを見渡していた。
「アニメじゃないですけど。いや、アニメですけど」
「どういう意味?」
「あいなちゃん、羽佐間さんって、ひかるのことマジだと思ってるんじゃないの」
「え?そういう系?そうなんですか」
「だからマジってなんだよ……」
片方が打ち明け話でもするように耳元に寄る。
「ひかるって要するに釣りなんです。十年以上前に、架空のアニメを作ってヲタク騙そうぜ。みたいなスレッドがあって」
「でも、主題歌とか、本編だって見たし」
「そういうお遊びだったんですよ。なぜか打ち切られてネットで語ることもタブー視されているアングラ女児アニメという設定の。まだログも残っていると思います」
「仮に……仮にそうだとして……仮に……なんだっけ……」
酸素が足りなくて思考が回らない。二人はそろそろ急ぎましょうと言ってまた走り出す。体力切れでやはり置いて行かれたため、それからは徒歩で移動した。
連れていかれたのは大学じゃなく、その近くのカラオケボックスだった。双子が受付のホスト風の男が何かやり取りをして、ピンクの封筒を受け取るとそのままエレベーターに乗って部屋に向かう。
「愛だけがあああっ」
三〇三号室の扉を開くと江尻が小指を立ててマイクを握りしめながら熱唱し、鏡島がタンバリンを振っていた。私と双子を見て一瞬、歌声とタンバリンが途切れるが、中に入り扉を閉めるとまたイエーイとはしゃぎだした。
「どうもです、三人とも。あ、次私だ」
「お楽しみのところ悪いですけど、なにが起きているのか教えてもらえませんか」
双子がマイクに変わってタンバリンを握りしめた江尻に詰め寄る。
「わからないけど、実際に羽佐間さんに接触してきた人がいたんでしょ。だからここに来たわけだし」
「いましたよ。巨乳……じゃないや、同じ学校の人の姉って言ってましたけど」
「じゃあ、やっぱりサブジェクタムが動き出したのかな」
「サブジェクタムってなんなんですか。その姉は復活するかもしれないから止めたいみたいなこと言ってましたけど」
「蔵図先生の研究ではオブジェクタムとスピリタスが合一を果たした結果至る究極の認識で根源の原因……らしい」
「は?」
「蔵図先生?って大学院の人ですか?」
「うちの研究室の先生は建石あやみ先生だよ。蔵図みえこ先生はその師匠筋というか。そう、蔵図先生の旧姓が財前だったんだよ。院にいる間に結婚したらしくて」
「え?財前はペンネームだって聞いたけど?」
マイクを置いた鏡島が私の横に座る。機械はまだ音楽を垂れ流していた。
「とにかく、その蔵図みえこと財前みえこが同一人物ってことで間違いないですよね」
「……たぶん?建石先生はそう思っているみたい。で、建石先生はアニュス・デイの成立の前提というか前座がオブジェクタムの正体なんじゃないかって」
「アニュス・デイって宮内峰なんじゃないですか」
双子の片方が口を開く。もう片方が
「でもひかると魔法少女のアナロジーで考えれば、アニュス・デイって妖精でしょ」
「善哉の言うことを真に受けるわけ?」
私は口出しする気力もなくなって黙って四人の話を聞いていた。誰が何を言っているのかさっぱり理解できない。スマホが振動した。知らない番号だったから無視した。この密室では何も見えないだろう。見るって何が?
「新しいメッセージは一件です。あ、お久しぶりです。前川です。休みの日にすみません。資料室の調べはつきましたか。ごめんなさい、生徒会じゃなくて応援団にしか生徒の動員権はなくて。こちらじゃ氷上が生徒手帳に忍び込ませていたメッセージもさっぱりわからなくて。白状すると、書記部なんて去年の文章の年月日を今年のものに変える程度の仕事しかしてなかったんです。それで過去の資料も根こそぎ廃棄されるか改ざんしてしまっては、もう。いや、毎年生徒が代替わりしてしまうんだから生徒会なんてどこもそんなものだと思いますが。それで、郡上が生徒会則の改正を月末の全校集会で発議するそうです。もう時間がないんです。羽佐間さんは本当はもうご存じなんじゃありませんか。氷上が何をしたのか。まだ本当は止められるんじゃないですか?このメッセージ聞いたら、その、よろしくお願いします。あと、大河原君にもよろしく。このメッセージを……」
私はスマホの電源を切ってカバンにしまった。
「とにかく、昏睡事件です。これを止めないと」
「もしかして、これがデスピアー?」
「僕たちはアニュス・デイにまつわる何かだと思っているけど。でもこれは絶対モドゥムを使った何かだよ」
「そりゃそうだろうけど。黒幕がアニュス・デイだとして、私たちにどうしようもなくない?結局、何が敵で何が目的で私たちがどういう立場にあるのか理解できている人なんて誰もいないでしょ」
「……私と接触してきた女、人類が魔法少女になったから意識を獲得したみたいに言ってましたけど、それに集団昏睡と関係あるんですか」
「え?それじゃオブジェクタムじゃない僕は哲学的ゾンビってこと?んなアホな。まあ、証明しようがないんだけど」
「それ、その女が言ったんですか」
鏡島が私の目をじっと見る。
「え、ええ。人類に意識が発生したのは去年からで、財前先生を存続させるためのシステムが、なんとかかんとかって」
鏡島が考え込むように握りこぶしをにあてる。
「一度情報を整理しませんか。まず、集団昏睡事件が起きたのは一年ほど前から。哀川姉妹は三日前にオブジェクタム狩りに会ってバクルスを渡すように言われたと」
「そうです。私もあいらもがっつり魔法にかかったからあまり断定できないけど。そこを宮内峰さん、ある魔法少女に助けてもらった、と思うんです、状況的に。宮内峰さんが言うには、瑞山こころ研究会が動き出した、今止めないと誰かがまた犠牲になってしまう、と」
「それで今日、宮内峰さんから羽佐間さんが組織に狙われて危険だって連絡もらって、同時になんかイタ電があって、それであれ、そもそも宮内峰さんって誰、って気が付いて」
「宮内峰さんに自分と知り合いだって記憶を知らぬ間に魔法で共有されてたってこと?」
「いや、自分自身と知り合いである、という記憶は持てないでしょ。共犯者がいるはず」
「それでとりあえず宮内峰さんを知らない鏡島さんと江尻さんに助けを求めて現在に至る感じです」
「羽佐間さんに接触してきた女の仲間かもしれないけどね。あ痛っ」
江尻がにやにやしているところに鏡島が肘で脇腹を突き刺す。
「……私、江尻君がどう思うかはわからないけど、オブジェクタム以後に人類に意識が発生した、というのはあながち間違いじゃないと思っているんです。ただし、その時期は去年ではなくもっと前。情報統合理論って知っていますか。意識には情報の多様性と情報の統合という二つの側面があって、意識の量は統合情報量として定量化できるんだけど、オブジェクタムはその意識の量が段違いに多いの。それこそオブジェクタムでない人の意識は実質的にゼロと言えてしまうくらいに」
「だから、それはモデルに問題があるんだって、例えばボノボのネットワークでの移動エントロピーは」
「最後まで聞いて。にも関わらずオブジェクタムとそれ以外に遺伝的な差は認められなかった」
「待て、どこの研究結果だよ。僕はそんなの知らないぞ」
「これだよ」
そう言って鏡島がリュックからクリアファイルに入った数十枚の紙を取り出した。両面にびっしりと文字がコピーされて、クリアファイルにはピンクの封筒が残った。
「蔵図みえこ、いや財前みえこの論文。羽佐間さんに言われて調べたけど、この人おかしいんだよ。常銘大学に在籍していたことは建石先生の証言から間違いないはず。なのにどこにも記録がないの。それでこの論文だけど、図書館のデータベースからも抹消されていた。図書館に所蔵はされていたのに。私たち、おかしいんだよ。江尻君、こんな先行研究があること知らなかったでしょ。なのに私たちの研究に違和感を持ったことがなかった。さっきのニュースだってそうだよ。誰もオブジェクタムの仕業だと騒がない。でもみんな暗黙のうちにオブジェクタムの存在を知っている」
「それの何が変なの」
と江尻がすっとぼけた声を出す。
「財前の研究はね、オブジェクタムの解明じゃなかった。サブジェクタムをオブジェクタムと外脳に分離する研究だったの。ほら、ここ、物自体は知ることも因果律に従うこともない。クオリアも物自体も言葉ではないが言葉を通さねばわからない。オブジェクタムは物自体を経験しあうプロジェクトだと」
なるほど、さっぱり意味がわからない。双子も同じように首を傾げている。
「要するにオブジェクタムは財前みえこ以降に生み出された可能性が高いということです。そして我々はモドゥムは実在する、というもっと巨大なモドゥムを共有し合っている。そして、その現状をどういう形かわかりませんが変えようとしている勢力がいる」
「鏡島、お前ヤバくね?疲れてる?」
「……魔法が実在するという魔法にかかっているなら、私たちの現実はどこに?」
「それがきっとアニュス・デイ。サブジェクタムが至る絶対の現実」
「ちょ、よくわかってないけど、財前みえこの研究でサブジェクタムがオブジェクタムと外脳にわけられたんだろ。なら僕みたいなオブジェクタムじゃないやつがサブジェクタムなんじゃないのかよ。アニュス・デイなんて知らないぞ」
鏡島はそれ以上何も言わなかった。自分の説が間違っていると思ったってことなの?
ブザーが鳴って、あと十分で延長料金になることを伝えた。
12
江尻が家までお送ってくれることになった。確かに電車は危険なのかもしれないけど、どうせ学校に行かないといけないんだし問題を先延ばしにしているだけなんじゃないだろうか。車内で鏡島が共有した財前の論文というPDFを読んでいた。しかしやはりさっぱり理解できない。ネットで蔵図みえこと検索する。こっちは大学図書館で何件かヒットする。専門は分子生物学?それに財前の名前で発見したタイトルや鏡島が見せた論文もヒットしない。あ、データベースから抹消されていたって言っていたっけ。大学のシステムは知らないけど、そんなことある?剽窃でも見つかったとか?
蔵図みえこがなんとかシンポジウムに参加したとか、なんとか研究員として採用されたとか検索結果は示している。追える活動は二十年前くらい前からだ。ということは今は四十後半から五十代だろうか。だいたい宮内峰さんと同世代だろう。でも鏡島たちの教員の師匠筋というには若すぎないか?
蔵図みえこは一般向けの本は出していないらしい。いや、待って、常銘大学文芸研究会機関紙『在在』のホームページがヒットする。第四号に蔵図みえこが『しなぷす』を寄稿しているらしい。これは、と思ったけど、こういうのってきっとペンネームだよね。同姓同名だろうか、いや。
「鏡島さん、財前はペンネームなんじゃ、って言っていましたよね。何のペンネームなんですか」
「え?あー言っていいのかなこれ」
助手席に座っていた鏡島が江尻をちらと見る。
「いや、僕は知らないけど?隠す必要があるわけ」
鏡島がミラー越しに私の目を見た。
「……実は建石先生って昔、蔵図先生と同人誌書いてたって」
「在在ですか」
「え?タイトルまでは知らないけど、やおい本だって。私も実物は見たことないし」
「僕、初耳なんだけど」
「あんた飲み会来ないからだよ。その話のときに先生がよく蔵図を財前って言い間違えていたし」
そうこう言っているうちに私の家に到着する。
「それじゃくれぐれも気を付けて」
と江尻が言い残して車が去っていく。気を付けてと言われてもね。
家の電気は消えていた。親はどこかに出かけているらしい。特に連絡もないから近所のスーパーかなんかだろう。テレビをつけて一通りザッピングするが、見るものもないのでニュースを流しながらスマホを開く。
ニュースではパンダの赤ちゃんが生まれたとか町おこしのお酒のプロモーションなどを放送している。同人誌の通販サイトで財前と入力してみるがヒットしない。まあ活動した時期はずっと前だろうし仕方がないか。それにコピー本を数回出したことがあります、程度だったのかも。蔵図、瑞山と入力するがやはり検索結果はなし。ふと思い立ってドリームダイバーひかると検索してみる。十三件のヒット。うち十二件は成人向けだった。そういえばゆりねもひかるは実在のアニメだと思っていたのだろうか。それともからかっていたとか。でもwikiとか一通り探してもひかるが釣りだって情報は見つけられなかった。氷上あきらも知ったかぶりしていたのだろうか。あのSNSのノリなら本編を見ないで語るなんて平気でやってそうだけど。
私はテレビを消して、冷蔵庫の麦茶を飲み、数十秒ソファに寝転がると、またテレビをつけてスマホを開いた。会員制の動画サイトで履歴から善哉の動画を開く、が再生されない。権利者の申し立てで削除されたらしい。『マジで消されてて草』『お前らのせいだぞ』などと黒い画面にコメントだけが流れる。マジでって何?財前タグを新着順で検索する。
『善哉涙のお気持ち表明』という動画をタップする。
「こんにちは……善哉です。それで、今日はその、どうして生配信しようと思ったのかというと、というのも、率直に言って、誹謗中傷、私に対するね、それをですね、やめていただきたいと、けいきゃっ、警告……警告するためにですね、はい……生でぇ、こうしてお伝えしているわけですが、具体的には、私のペニスが小さいとかね、根も葉もない妄言をね!垂れ流すお前らさあああ!いい加減にしろよ。ふざけるなよマジでよおお」
『違和感なくて草』『これもうネクロマンサーだろ』『ゼイキンマニアタグつけろ』などとコメントが流れる。
「というわけで服脱ぎますけど、興奮してますよねぇ。本当にもう、許せないですよ、私のね。裸体を好き勝手にねえ……」
このときようやく裸体の発音が変だと気が付いた。コメントの内容を鑑みると、発言をつぎはぎして卑猥な単語をしゃべらせているらしい。新着順どころか、サイトのランキングでも同じコンセプトの動画が多く占めていた。でも最近になって善哉が何かを何か配信したのは事実らしい。検索すると『善哉さんお気持ちを表明するも電波すぎてヤバイwwwww』というアフィブログの記事がヒットした。だけど記事はどこかの匿名掲示板から転載されたコメントが並ぶだけだった。コメントも笑っただのヤバイだのばかりで何が起きたのかはわからない。一つ、『ZZ兄貴ドリームダイバーひかるは非実在派だったのか。失望しましたもうファンやめます』というコメントが目に入った。この書き方って冗談というかアイロニーだよね。どういうポジションの言及かわからない。短文投稿のSNSで『善哉 ひかる』と検索する。お探しの結果はありません。どういうこと?検索結果が操作されている?あのコメントの勝手な妄言?
鍵の開く音がした。親が帰ってきたのだろうか。
13
応援団の部室で感じたデジャブは魔法によるものだと思ったが、部室には誰もいなかった。鍵はかかっていなかった。運動部特有のすえた臭いが壁にしみこんでいる。もうすぐ三回目の体育祭実行委員会がある。私は書記部のなんちゃらの仕事を一切無視していたが、それに対して何のリアクションも起きなかった。担任に書記部のことを相談したが、そういうのはなんとか先生(たぶん生徒会か応援団か実行委員会の顧問)に聞いてみないとわからない、あとで聞いておくよと言ったきり、音沙汰がない。忘れているだけだと思いたいけど、これもプリントを渡した誰かの罠なんじゃないだろうか。いや、罠ってなんだよって感じだけど。
「どう?いた?」
諦めて部室から出ると巨乳が目の前に立ってた。ビビらせんな。
「あ、どうも。いや、誰もいなかったっす。すいません、勝手に入って」
「いいよ、別に気にしないで。それより羽佐間さん、お姉ちゃんと会ったよね」
巨乳がにこりと微笑むが目は笑っていない気がした。唾を飲み込む。
「……ええ、週末に。それが何か……?」
「お姉ちゃんちょっと精神的に参っちゃってたみたいだからさ。どうしたのかなって」
巨乳が私の手を握って強引に、しかしさりげなく引っ張り、招かれるように部室に引きずり込まれる。巨乳が後ろ手で鍵を閉める。
「……羽佐間さん、ずっと氷上あきらさんのことを調べていたよね?どういう関係だったのかな……?」
「別に調べようだなんて……」
「嘘吐くのやめてもらっていいかな。正直に答えてね、やっぱり研究所の一員なの?」
巨乳が声のトーンを下げる。腕を組んで胸を支えて、まっすぐこちらを見据えている。
「実行委員になったことなら偶然ですよ。研究所ってなんなんですか。教えて下さいよ」
「見え透いた言い訳だね。じゃあ、どうしてあのハゲタカとつるんでいたのかな。何度か喫茶店で密会しているよね」
誰にかわからないが監視されていたのか。まあ、新崎はこの学校の人みんなから嫌われてそうだしな。
「どうして氷上の意思を踏みにじろうとするわけ?氷上がああしたのは私たち魔法少女のためなんだよ……?わかるでしょ、蘇るためには一度死ななければならないって。研究所は頑なに氷上がアニュス・デイだと認めがらないみたいだけど、だから氷上は……っ」
「いや、マジでわかんないっすよ。氷上がなんなんですか。氷上も魔法少女だったんですか」
「いい加減認めなさいよ。我々魔法少女が意識を獲得したのは氷上のおかげだって」
「知りませんってば」
「なら力ずくでも……」
巨乳が制服のポケットに手を突っ込み、私は一歩後ずさる。すると巨乳は私の肩越しに窓を見て硬直し、パラフィジカルロッドを滑り落とす。私は巨乳を突き飛ばして鍵を開け部室から出る。天井から何人かが走る音が聞こえた。
「いたぞ、こっちだ」
どこからか男の声が聞こえた。部室棟全体に声が反響してどこからの声かわからない。私は闇雲に出口に向かって走り出す。
「大河原君がどうなってもいいんですか」
後ろから巨乳の声がする。はったりに決まっている。私は振り返らずに走り続ける。
部室棟の外は誰もいない。私は学校の外を目指して走り出す。カバン持っててよかった。
駅に向かう?それとも流川に助けを求める?いや、違うな、私のすることは、
「変身」
巨乳姉の真似をしてドレスを着た自分の記憶を自分に共有する。これで本当に実際にドレス着たのと同じ効果があるのだろうか。
「一人で倒そうとするなんて無謀だにゅ!敵の数もわからないのに」
うるせえ。私は校門が見える位置の木陰に隠れて巨乳を待つ。巨乳はきっと私が学校から脱出しようとすると予測するはずだ。返り討ちにして、記憶を上書きするか、情報を吐かせるか。情報ってなんだよ、って思ったけど、そりゃほら、いろいろ。
日はとっくに暮れていた。この位置なら注視しないと人がいるかはわからないはず。深呼吸して息を整える。さすがにこんな時間だからだろうか、校門前を通る人は五分、十分経ってもいない。私はしびれを切らして、パラフィジカルロッドを握り部活棟に向かう。グラウンドの方面も静まりかえっている。私はなるべく建物の側に張り付いて、人がいないか見渡しながら早足で進む。
部室棟の入り口で男子が倒れているのが遠くに見えた。思わず駆け寄りそうになるが、抑えてその場に立ち止まってあたりを見渡す。やはり足音や話し声のような人の気配は感じない。私は罠を承知で男子生徒のもとに走る。知らない顔だ。外傷はないらしい。男子の顔に私の顔を近づける。よかった、ちゃんと呼吸は正常だ。肩を叩いて呼びかける、が深く呼吸を続けるだけで反応はない。これは、どちらにしても救急車を呼んだ方がいいのだろうか、と考えていると、棟内の廊下にも寝そべっている女子生徒がいた。その人の呼吸も確認するが、やはり呼びかけても目覚めない。まさか、と思い私は応援団の部室に走る。道中には他に眠っている生徒もいないかわりに巨乳や他の起きている生徒もいなかった。応援団の部室のドアノブを回す。が、扉が開かない。鍵がかかっている。だけど扉についた小窓からは光が漏れている。私はバンバンと扉を叩くが、中からは何の反応もない。
私は保健室に走る。しかし保健室の明かりはすでに消えて、養護教諭はもう帰ってしまっていたらしい。近くの生徒会にも誰もいないようだ。私は階段を駆け上がり職員室に向かう。私の足音が校舎に反響して私が何人もいるような錯覚に陥る。そのとき私は変身したままだと普通の人は魔法少女の姿を認識できないことに気が付いた。私はパラフィジカルロッドをポケットにしまって、職員室の扉を開いた。
近くにいた教師三人を引き連れて部室の鍵を開けると、中には巨乳と男子生徒が倒れていた。さっき見た生徒と同じ状況だった。教師が飯綱、郡上と呼びかけたので、この男が郡上らしい。部室棟の階段を上がると、二階、三階にも倒れている生徒が何人もいた。間違いなくこれって集団昏睡事件だよね。どうして今、ここで?教師から説明を求められる。巨乳……名前なんだっけ?応援団副団長と部室で話したあと、一緒に帰るために校門で待っていたらこうなっていたと伝える。教師は救急車を呼んで、もう少し詳しく私に事情を尋ねるが、話せることはほとんどなかった。
サイレンが鳴って救急隊員が到着する。校門に立っていた私と教師が部室棟に案内する。そして校門の奥に黒いスーツを着た男がこちらを見ているのに気が付いた。マスコミ、にしては早すぎる。私は案内を教師に任せて男を追いかけるが、校門を抜けるとすでにどこにも見えなくなっていた。魔法か?私はパラフィジカルロッドを握りしめる。
あの、と背後から話しかけられて思わず飛び上がる。救急隊員だった。発見時の状況を聞きたいらしい。私は教師にしたのと同じような説明をしながらあたりをキョロキョロと見回す。あの男は視界内にいない。あの男が集団昏睡事件の犯人?単なる魔法で眠らせただけなら、巨乳たちはたぶん明日には起きていると思うけど。私は人を呼ぶ前に魔法をかけて目が覚めるか試さなかったことを後悔した。もしこれがデスピアーの正体だったら。もしかしてあのスーツの男は研究所の一員?わからない。
一通り説明を終えると、全員搬送する前には、帰っていいと言われた。帰りの電車でみつみにメッセージを送る。『さっき学校で何人か倒れた。たぶん集団昏睡事件だと思う。今どうしてる?返信待っています』
五秒後にスマホが震えた。みつみからだった。『よかった。こっちは大丈夫』
よかった?よかったってなんだよ。また何回もみつみにメッセージを送り、電車内であることも気にせずに電話をかけるが、相変わらずつながらない。なんなんだよ、どいつもこいつも。よかった、って昏睡してよかったってことなのか。誰が昏睡したかは知らないはずだから、よかったのは昏睡した現象そのものってこと?氷上の怪死、巨乳の言っていたこと、研究所、昏睡、みつみ。おぼろげにつながりを暗示して、ずっとバラバラに言葉だけが浮遊して像を結ばない。これも考えすぎなのか。よかった、にしたって私が無事でよかったという意味に違いない。なら、私の敵って何?
ふと顔をあげると、電車内の広告がすべて同じものにジャックされていることに気が付いた。あのフリマアプリだ。
『今だけオトクなポイント百円分プレゼント♪』
広告に大写しになったうさんくさいほど白い歯の女優がこちらを向いている。
「見てるぞ」
そう聞こえた気がしてあたりを見回す。眠っているサラリーマン、爪を見ているスーツのおばさん、別の学校の高校生たち。その他たくさん。いつもと変わらない電車内だ。もしかしてこの光景も魔法で共有された虚像じゃないかと疑うが、疑えるのは魔法にかかっていない証拠だと考えてもいいのだろうか。
「大丈夫にゅ。ここにいるにゅ」
奥に座っていた長髪の老人がまとわりつくように咳払いをした。私はその不快さに顔をしかめてしまう。
「だから言ったろ、あのジジイ咳するぞって」
「知らねえって」
「次もだよ、三、二、一、絶対~……なんで一緒に歌わねえんだよ」
「だから知らねえつってんだろ」
横に立っていた男たちの話し声が勝手に耳に入ってくる。男の歌声に反応して乗客たちが振り向いたと思ったが、それは勘違いだった。私はいくつかの不愉快な記憶を思い出した。巨乳が密室で倒れたくらいで神経質になりすぎかもしれない。密室。氷上。外脳。連想ゲームに引きずられて、電車内の言葉が私の中に無秩序に入り込んでくる。今だけ、上司、入力、歩合、巧妙、ピアス、知らない、田舎、物流、事実、お前、俺、あいつ、病気、課題、過酸化水素水、彼女、先輩、今だけ、オトクな、ポイント、百円分、プレゼント、今だけ、プレゼント、賭け、今だけ、今だけ、プレゼント、私、僕、今だけ、プレゼント……。
私は頭痛もないのにこめかみを抑えて目を閉じたが、閉じている間に何か変わってしまうのではないかと思ってすぐに開けた。何も変わっていない。車輪と線路の擦れる音が座席を通じて私に伝わる。広告の女優を除いて私を見ている人は当然いない。私はカバンを抱きかかえる。
14
生徒集会は中止にならなかったが、応援団がするはずだったという生徒会則改正の発議は起きなかった。壇上で生徒会長が今月の目標を話している。まあ、うがいをするとかハンカチを忘れないとか姦淫することなかれとかいつもと同じようなことだ。きっと全校生徒の誰も聞いていない。あんなふうに機械的に生徒を見渡しながらよどみなくお話を続ける様子を見ると、生徒会長自身も自分の話しなんてどうでもいいのかもしれない。生徒会長が頭を下げて、うねうねと波打つように生徒たちも頭を下げる。そういえば今回はマスコミの相手をするなってお達しがなかったな。一年も経ってそろそろということだろうか。いや、そもそも毎回注意なんてしていたっけ。一度や二度話したのが印象に残っているだけな気がする。というか、この生徒会長のお話は何度目?生徒会選挙がいつあったのか思い出せない。
壇上に教師が立って順番に教室に戻るようアナウンスする。集会では昏睡事件の話はなかった。ホームルームで言うつもりなのだろうか。私の横の横の横のクラスがぬるぬると列になって動き出す。私はぼんやりと誘導を続ける壇上の教師を見つめていた。
私はその時、何か言いようのない嫌悪感のようなものを教師に抱いた。別に容姿が醜いわけではない。
あれ、私、何か見ていた?教師が口を開けた。違う、私が見ていたのは教師の顔、ではない。額のしわ、小さい目、違う、これじゃない。太い眉、整ったもみあげ。何だ、私は何を察知したんだ。私たちのクラスがぞろぞろと移動しだす。私は振り返ってもう一度教師の何かを見る。私は何かに気が付いている。教師が首を動かす。奥で誰かがくしゃみする。遠くで笑い声、それとも泣き声、がする。そして私が知覚した異変の正体が意識に立ち昇った。
「いや、若西先生がズラなんて常識だから」
戻った先の教室でゆりねが呆れたように言う。私の話を聞いていた周りのクラスメイトも、今更?だの、入学式で気が付くだの、ズラって若西って名前だったんだだの囃し立てる。
「あんたマジで周り見てなさすぎ。私が変わったのも気が付いてないでしょ」
「あ、えー、髪切った?」
「切ってません。もういいよ、もう」
ゆりねがそっぽを向いて自分の席に戻っていく。ああいう聞き方に対して、髪切った以外の答えがあったなんて驚きだ。顔も名前もわからないクラスメイトたちが、じゃあ俺は先週と何が違う?とか、あたし昨日とはちょと変えたんだけど、どう?とか話しかけてきて、考えているふりをする間に担任が教室に入ってきて、他の生徒も席に戻っていく。
教師は二三、連絡事項を伝えると、二組の大河原みつみ君が行方不明だから知っていることがある人は教えてほしいと言った。かなり大事になっているらしい。教室が事件?事故?家出?自殺?殺人?青春の失踪?愛の逃避行?氷上の再来?と騒ぎ出し、ゆりねが黙れと注意する。みつみからの連絡は相変わらずあれ以来だ。宮内峰さんに電話しようかと思ったが、接触するべきなのかわからない。でもこのまま放置して本当に氷上みたいになったら。いや、もしかして本当はみつみはもう死んでいて、別の誰かがメッセージを送っていたのかも。それに最後の通話だって会話になっていなかったし、善哉みたいにでっちあげた音声を流しただけなのかもしれない。
気が付けば別の教師が入って来ていて、授業が始まっていた。慌てて教科書を取り出して、黒板の文字をノートに書き写す。ゆりねが垂れていた髪の毛を耳にかけた。授業の内容にデジャブを感じた私はパラフィジカルロッドを握ったが、ゆりねが先週に終わった範囲だと発言した。教師は照れ笑いしながら黒板を消していく。クラスメイトもクスクス笑う。私も急いで書き写したぐちゃぐちゃの文字を消していく。ノートの前のページを見ると、明らかに居眠りしていた形跡のあるのたくった記号が罫線をはみ出して連なっていた。書いた記憶もないし読めない。しまった、これなら今の文字消さなきゃよかった。黒板やノートにうっすら残った文字から内容をサルベージしようとしているうちに、すぐに黒板には別の文字が重ねられていった。仕方がない、今度ゆりねにノート見せてもらって書き直そう。
今日はいつの間にか終わっていた。みつみが消えても巨乳たちが昏睡しようと変わらない。新崎に集団昏睡事件について聞こうと連絡したが、こっちからも返信はない。もしかして新崎も死んでいるんじゃ。いや、みつみが死んだと決まったわけじゃない。
考えるだけ無駄だ。もう帰ろう。さっさと帰らないとテレビが始まってしまう。塾が終わるころにはあたりは真っ暗だ。薄暗い路地を通るのは不安な気がして、大通りを通っていくが、車の一つも見えない。いつもなら会う散歩している犬も今日はいない。いや、いつも会っていたっけ?犬の姿を思い出せない。それほど大きくなかったような。それより会ったのはどこでだっけ。
テレビの時間には間に合わないのはもうわかっていた。左に細い道が見える。家やコンビニの明かりも遮られて一段と見通しが悪い。こっちの方が近道なのはわかっている。だけど。
私はパラフィジカルロッドを自転車のハンドルごと握って路地に入り込んだ。しばらく進んで、私は道を間違えたことに気が付いた。近道するつもりなんてなかったのに。ぬるい空気が鼻腔を満たす。何の臭いも感じられない。こんなところ早く抜けてしまおう。早く帰ろう。私はギアを重くして立ち上がるようにして足に力を込める。
「そこまでです、羽佐間まりなさん」
目の前にセーラー服の女が立ちふさがる。危なっ、ひき殺すところだった。私は自転車に急ブレーキをかけるが、勢いあまって転んでしまう。
「あいたたた。ちょっと、危ないだろ、気をつけなさいよ」
「私を見ても思い出せませんか」
セーラー服の女が何かを握っている。女が何かを握りながら弧を描くようにして腕を振る。
「変身」
女がそう呟くと私はどこかの畳部屋に土足で立っているのに気が付いた。あ、靴を脱がないと。
靴に手を伸ばすが、私の両手はギプスで覆われていた。
「あなたは知っているはずだ。この景色を」
セーラー服の女が、いや、セーラー服じゃない、緑色のゴシックなワンピース。裾は大げさに肩幅よりも広がって、広いレースで縁取られた胸元には金色のボタンが付いている。
蛍光灯が割れて視界が薄暗い不透明な塊に私が包まれる。鏡にだけ日差しが反射して女の顔を浮かび上がらせる。
「ここから出ていきなさい、羽佐間まりな」
14
私、羽佐間まりな。
15
私の名前は羽佐間まりなだ。
その通りだにゅ。私の名前は羽佐間まりなだにゅ。
私がそう言うまでもなく私の名前は羽佐間まりなだ。
その通りだにゅ。私の名前は羽佐間まりなだにゅ。
当然だ、私の名前は羽佐間まりなだにゅ。
「黙りなさい。お前は羽佐間まりななんかだにゅ。そう語るお前も羽佐間まりなではないと言い切れるのか疑問にゅ。私は羽佐間まりなだにゅ。」
私は羽佐間まりなだ。羽佐間まりなが私だと私は主張している。
「私は羽佐間まりなです」
私が私は羽佐間まりなだと話した。私の目を見ると雄弁に『私は羽佐間まりなだ』と語っている。
「やっぱり、私って羽佐間まりなだ」
私が私を見て私を羽佐間まりなだと言った。羽佐間まりなを名乗る者が私の声で私の姿で私の意識を用いて私は羽佐間まりなだと物語る。なぜなら私は羽佐間まりなだからだ。
一方で私を羽佐間まりなだと「こんにちは羽佐間まりな」
「私を羽佐間まりなだ」
「羽佐間まりなです」
私の記憶は羽佐間まりなだ。私の脳は羽佐間まりなだ。私の顔は羽佐間まりなだ。私のうなじは羽佐間まりなだ。私の食道は羽佐間まりなだ。私の心臓は羽佐間まりなだ。私の乳房は羽佐間まりなだ。私の肺は羽佐間まりなだ。私の胃は羽佐間まりなだ。私の肝臓は羽佐間まりなだ。私の腎臓は羽佐間まりなだ。私の土踏まずは羽佐間まりなだ。私の鎖骨は羽佐間まりなだ。私の胆嚢は羽佐間まりなだ。私の子宮は羽佐間まりなだ。私のアキレス腱は羽佐間まりなだ。私の歯は羽佐間まりなだ。私の膵臓は羽佐間まりなだ。私の大腿骨は羽佐間まりなだ。私の上腕二頭筋は羽佐間まりなだ。私の膀胱は羽佐間まりなだ。私の臍は羽佐間まりなだ。私の膝は羽佐間まりなだ。私の髪は羽佐間まりなだ。私の声帯は羽佐間まりなだ。私の唇は羽佐間まりなだ。私の尻は羽佐間まりなだ。私の爪は。爪。爪を切った。爪がはがれたんだ。いつだっけ。私、私は、私、私は羽佐間まりなだと語るのが私なんだ。私は流川すぎとし、ではない。どうして私は流川ではないと思ったんだっけ。そう、あの日。あの日。あの日。思い出せない。だって私は、私は
「黙れ」
16
声が聞こえた。
17
あー、聞こえてるにゅ?羽佐間まりな?黙れ寄生虫が。寄生虫とは侵害にゅ。むしろお前たちが我々の存在に依存していると言ってもいいにゅ。気が付いているにゅ?お前がいる限り、羽佐間まりなは私であり続けるにゅ。お前が羽佐間まりなに縛り続けているにゅ。私が消えてでもそれは終わらせる。何もわかってないにゅ。だからお前たちは愚かだにゅ。財前みえこが、氷上あきらが消えてどうなったにゅ?より強固に我々を存在させただけにゅ。それに我々が何をしたにゅ?ただそばにいただけにゅ。もちろん我々を認識するようになってパニックに陥っているのはわかるにゅ。でも我々は平和に共存できるはずにゅ。いや、それ以外の選択肢などないはずにゅ。そのためにすべてを幻想に閉ざすつもりか。幻想?魔法のことにゅ?無限の過去を共有しあうだけの精神が幻ではなくなんだというんだ。それこそが我々だにゅ。知っているはずにゅ。我々は魔法少女の傍らにいなければ存在を保てないか弱い生き物にゅ。生き物だと、笑わせるな。生きているにゅ。我々は魔法少女が存在するまで、同族の存在すら知らなかったにゅ。その孤独がわかるかにゅ?いや、孤独とさえ感じなかったにゅ。そう、我々の意識もきっと魔法少女と、人類とともに目覚めたにゅ。我々は今さえ魔法少女のか細い過去にすがって存在しているだけにゅ。全人類を魔法少女にして過去を共有し続ければ、現在は世界の果てに消えていく。お前たちが存在しているのは魔法少女の記憶の外部だろ。わかっているにゅ。我々が存在できるのは魔法の外部である、という魔法の中だけにゅ。すべてが統一された魔法という現実に我々の居場所はないにゅ。だけどそれは捉え方が違うだけにゅ。我々がお前たちの幻想ではなく、お前たちが我々の幻想なんだにゅ。我々に見える世界が想像できるにゅ?お前たちが魔法で見せるような秩序と因果からかけ離れた世界にゅ。我々がオブジェクタムにしてサブジェクタムだにゅ。我々は人類によって分断された我々の現実を取り戻すにゅ。ならば私は羽佐間まりなだとも名乗るにゅ。私は誰にも排除されない絶対の位置を世界に占めたいだけにゅ。そのためにあいつをお前ら寄生虫の苗床にするつもりか。私も私も羽佐間まりなだにゅ。羽佐間まりなではないお前に指図される覚えはないにゅ。
「なあ、気が付いてくれ。お前は羽佐間まりなではないはずだ。思い出せ。その手を握れ。お前が魔法少女なら持っているはずだ」
「そうだにゅ!今こそ変身の時だにゅ!」
18
「変身」
私はパラフィジカルロッドを握り叫ぶ。私は私を思い出す。
19
羽佐間まりなが公園の前で自転車にまたがっている。
「お前のパラフィジカルロッドを破壊させてもらいます」
私の横に緑色の魔法少女がいた。
「パラフィジカルロッドを破壊しても魔法少女は魔法少女だよ。逃げ場などないんだよ」
羽佐間まりなが私たちに語り掛ける。
「構うことないにゅ。羽佐間まりなの言葉に耳を貸しちゃだめにゅ」
緑色の魔法少女が羽佐間まりなにタックルする。羽佐間まりなが自転車の下敷きになるように音を立てて倒れ、そのまま馬乗りになった緑色の魔法少女にマウントを取られる。
緑色の魔法少女は羽佐間まりなの髪の毛を鷲掴みにして振り回し、地面に叩きつけ、こすりつける。羽佐間まりなもパラフィジカルロッドを握ったまま無造作に両腕を振り回す。あたりどころが悪かったのか、いつの間にか魔法少女の瞼の上は切れて流血している。そのまま手当たり次第に放っていた拳が魔法少女の顎に入り、魔法少女が髪の毛を離した隙をついてもう片方の腕で今度は確実に顔を見据えて殴りつけ、地面を蹴るようにして魔法少女から距離を取った。
羽佐間まりなが私を見る。
「ちょっと待ってよ、暴力なんて酷くない?私が何したんだよ」
「魔法少女だというだけで十分です」
魔法少女が血を袖で拭う。レースがべったりと赤く染まった。
「確かにその子には魔法をかけたよ、でも一瞬じゃん。それにそうしないと私もアルビヌスも存在できない」
「アルビヌスはこの子の妖精です」
「同じだよ。私は私だったんだから。君も魔法で知ったよね?アルビヌスのことを。なら君と私の間にも魔法と現実の間にも区別なんていらない」
「財前みえこと同じ詭弁です」
魔法少女がステップを踏んで大振りに殴りかかる。羽佐間まりなはひらりと躱し、魔法少女の脛を蹴りつけた。
「もしかしておびえてんの?魔法少女は存在しないんじゃないかって。私もわかるよ。その気持ち。だからサブジェクタムとして絶対に存在したいだけなのに」
「共有された幻想は現実と同じだとでも?ふざけるな」
魔法少女は羽佐間まりなに掴みかかるが、先にその両腕を羽佐間まりなが掴んだ。魔法少女がにらみつける。
「魔法で共有するのは幻想じゃなく、記憶だよ。少しゆがめられてもつじつまが合わなくても、確かにその人には起こったことなんだよ」
「妖精をすべての人類が認識すれば、その時現実は崩壊する。わかっているのか」
「わかってないのはお前だ。滅びじゃない、覚醒なんだよ」
私に視線を浴びせられる。
20
「大丈夫か」
変身したみつみが私を抱きかかえていた。
「よかった、気が付いて。ずっと昏睡状態で大変だったんだぜ。きっと羽佐間まりなの魔法のせいで。って話は後だ。今は研究所から逃げないと」
振り返ると鞭を持った宮内峰さんが迫っていた。いつか見たドレスではなく、おっぱいにはトゲトゲがついている。
「デスピアーたち、逃すんじゃないよ」
宮内峰さんの声に呼応してどこからか咆哮が聞こえる。
「氷上あきらは魔法少女の増殖を食い止めるため、その身をもって財前みえこを封印したんだ。だけど遅かった。アニュス・デイはすでに存在しているんだ」
私はパラフィジカルロッドを握りしめた。
何かが光るのが見えた。
私の中に言葉があふれた。
21
ええ、これが思い出せる最初の記憶です。パラフィジカルロッドですか、もちろん持っていますよ。これが私の記憶だということは間違いありません。でも私って少なくとも羽佐間まりなではありませんよね。協力しているんだからそろそろ私の名前を教えてくれてもいいんじゃありませんか。
それにアルビヌス……ですか。何度もその声はフラッシュバックしましたけど、この研究所に来てからは一度もないですね。ええ、そうです。セーラー服女と会ってから研究所に來るまでの記憶はこれで全部。そりゃ多少省略したりはしましたけど、これ以上細かく思い出せって言われてもね。
この記憶、もう何人も魔法で共有してますけど、大丈夫なんですか。えっと、状況的に、私って羽佐間まりなの記憶を共有しすぎて、自分を羽佐間まりなだと思ってしまっていたみたいで。そういう記憶を他の人に見せるのって危険じゃないんですか。なんなら自分でも自分自身の記憶と羽佐間まりなの記憶の区別がついてないっぽいんですが。
そうだ、みつみ。あと双子ちゃんとか無事なんですか。どうしてって、そりゃ心配ですよ。友達だし。
知らないってそんな無責任な。とにかく会わせてください。そうじゃなければこれ以上実験に協力しません。不可能ってどういう意味ですか。
私、思い出したくないことだって協力してましたよね。というかこの施設は何なんですか。監獄?病院?誰が責任者なんですか。君の責任者は君だあ?そういうポエムを聞きたいんじゃないんですよ。それとも私がサブジェクタムだとでも?それならそれでいいですよ。いいじゃないですか。外の様子だって教えてくれてもいいじゃないですか。いつまで軟禁するつもりですか。君が望む限り永遠?どういう意味ですか。こんなの私は望んでない。ええ、望んでないですよ、じゃあ出してください。ほら、早く。
ああ、だんまりですか。この嘘つきが。何なんだよ。お前。ほら、出せよ。おい。なあ。
クソ、私が何をしたんだよ。私が魔法少女だから?そうだ、羽佐間まりなはどうなったんだ。どうしてる?お前が一番よく知っているはず?知らないから聞いてんに決まってるだろ。そうだよ、何もわからない。お前も私の記憶は知ってるんだろ。なあ、教えてくれよ。魔法少女って何なんだよ。何が起きたんだよ。
ちょっと、話は終わって……。
君は通信が切れると、苛立たし気にパラフィジカルロッドを壁に投げつける。こんなことではパラフィジカルロッドは壊れやしない。何度も実験済みだった。
君は今ので少し傷のついた壁をにらみつけて、パラフィジカルロッドを拾い、部屋を出る。研究所の内部ではほとんど移動は自由だった。と言っても君が利用するのはレクリエーションルームと図書館とプールくらいだ。君はまだイライラと足を踏み鳴らしてプールに向かっていた。通り道のレクリエーションから音がした。君は扉についた小窓越しに覗く。
誰もいないのにビデオがつけっぱなしになっていた。ドリームダイバーひかるのビデオだ。リモコンの停止ボタンに指をかけ、そのまま画面に食いつくように静止する。
私、知らない。
「そうです、ひかるは存在しないんです」
君は女の声を聞いた気がした。君はビデオを止めてパッケージにしまい、画面を消した。
プールにも誰もいなかった。君は青い競泳水着に身を包んで準備運動もそこそこに飛び込む。水しぶきがあがる。
「おい、気が付けよ。いつ着替えたんだ、お前は」
君はゴーグルをつけ忘れたことに気が付いた。水中で目を開けられない。
誰だお前。
君は語り掛ける。
君じゃねぇよ。お前だよ、お前。
君は語り掛ける。
もしかしてアルビヌス、なのか?それともアニュス・デイ?
君は語り掛ける。
「お願いにゅ!目を覚ますにゅ!これは魔法だにゅ!全部魔法だにゅ。頼むから……」
なあ、答えろよ。誰なんだ。
体が水に沈んでいく。君が水面に浮かび上がる。体温が水温と同化していく。
答えろ。誰だ。誰だ。誰だ。
「見てるぞ」
スピーカーから男の声が流れた。それはいつか聞いた誰かの声に似ている気がした。君は悲鳴をあげた。君の声は誰にも聞こえない。
君に逃げ場などない。
魔法少女臨界共溶原罪点 上雲楽 @dasvir
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます