後編
改札口を抜けた女は、7番プラットホームに出た。俺も学校から帰る時は、毎日そこに立って電車を待っている。
女の家は、俺の自宅と同じ方向にあるようだ。
――そこで俺は気づいた。
この女の通うY高校は、この駅の五つ先にある。同じ路線なので、登校時も下校時も、Y高校の生徒は結構目にする。
ということは、今までに、この女と同じ車両に乗り合わせている可能性もあるのか……。
しかし、そうだったとしても、接点はそれ以上ないはずだ。過去にこの女と言葉を交わしたことは、絶対にない。
四両編成の電車が滑り込んできた。前から二両目の車両に女と俺は乗り込んだ。
女はドア近くの吊り革に掴まった。俺も隣の吊り革に掴まる。
「ちょっと、隣に立たないでよ。彼氏だって勘違いされるでしょ」
「大丈夫だよ。勘違いしてるっぽい人には、告白されてないのに振ったから彼氏じゃありませんって大声で言えばいいんだから」
俺の皮肉が効いたのか、女は言葉を返さず車窓に目を向けたまま黙った。
電車は軽快に走り続け、一駅、二駅と通過していく。
もっとこの女を問い質して、真相を知りたかったが、乗客が多いために躊躇していた。
どうしよう。早くしないと、悪女を逃がしてしまうぞ。
なるべく周りの人たちに聞かれないように、小声で話し掛けるしかないか。
今までと同じ調子で訊いても、きっと理由は話さないだろう。だから下手に出ようと思った。上司に敬語で話す部下のように、丁寧な口調で質問しよう。
本当に癪に障るが、もやもやした気持ちのまま帰るよりはマシだ。俺は、真実を知りたい。
「あの、ですね。お願いですから、振った理由を教えて――」
そこまで言ったところで、俺は言葉を切った。
女の表情が、曇っていた。
何だ? 気分でも悪いのか?
そう思った直後、俺はその存在に気づいた。
女の背後に、男が立っていた。チノパンに白いポロシャツ姿の男。年齢は四十歳くらいだろうか。
視線を下に向けると、男の右手が、女のお尻の部分を触っていた。
クラスメイトから聞くまで知らなかったが、時間帯に関係なく、この路線は痴漢が多いことで有名なようだった。
実際、俺はこの三ヵ月で、すでに三回の痴漢を目撃していた。
これで、四回目だ。
世の中には、痴漢を目撃しても助けに入らない人もいると聞くが、俺は助けに入る側の人間だった。
俺の母親は気が強い人で、痴漢している男をどついて女性を何度も助けていた。その光景を目にしたのは一度や二度ではない。
俺が小学生の時、母親は言った。
痴漢されている女性がいたら、助けてあげなさいと。痴漢が反撃してきても、周りの人が助けてくれる。だからはじめの一歩は、あなたが踏み出しなさいと。
俺はその教えを忠実に守り、痴漢を目撃する度に、女の子を助けていた。
俺は、空いている方の左手で、痴漢の右手をバシッと叩いた。
手を叩かれた男は一瞬ビクッとしたが、すぐに俺を睨んできた。
「おい、何だよお前! いきなり叩きやがって!」
痴漢野郎は怒鳴り声を上げて、俺の胸倉を掴んできた。
――その瞬間だった。
「この男、痴漢です。助けてください」
と、被害に遭った女の子は痴漢野郎の腕を掴んで叫んだ。
周りにいた大人たちが、痴漢野郎に一斉に詰め寄る。
観念したのか、痴漢野郎は俺から手を離し、抵抗することなく俯いている。電車が駅に停まるまでのあいだ、大人の女性たちが女の子を慰めていた。
駅に着くと、大人たちに手伝ってもらい、痴漢した男を駅員室に連れて行った。
しばらくすると、通報を受けた警察官が駆け付け、被害に遭った女の子と俺は事情聴取を受けた。
痴漢した男が触ったことを認めたようで、俺たちはすぐに解放された。
次の電車が来るまで、二十分。俺たちはベンチに座って待つことにした。
隣に座る女の子を横目で見る。俺とやり合っていた時の面影は微塵もない。
当然だろう。男の俺にはわからないくらいのダメージを受けているはずだから。
彼女に対するむかつきは、すっかり消えていた。今はただ、同情の気持ちしかなかった。
俺の視線に気づいたのか、俯いていた彼女が顔を上げた。
「お礼、まだ言ってなかったね。助けてくれて、ありがとう」
「ん、ああ……。その、大丈夫か?」
「またか、って感じ。こんなことに慣れるの嫌なんだけどね。痴漢に遭うのは、高校に上がってからの三ヵ月で、五回目」
「五回目? そんなに……」
そう言った俺の声は、少し上擦っていた。
ほんと、この路線クソだな。早く対策しろよ、無能な大人ども。俺は心の中で毒づいた。
「五回のうち、三回は誰も助けてくれなかったけど、二回はあなたが助けてくれた」
「……えっ?」
ガツンと頭を殴られたような衝撃が襲った。ある意味、今日一番の衝撃。
過去を思い返す。
俺はこの三ヵ月で三回、痴漢から女性を助けている。
その三人の中に、目の前にいる女の子がいたかどうか……。
朧気だが、一ヵ月前に助けた女の子は、Y高校の制服を着ていたかもしれない。
しかし、その女の子の顔は見ていない。
助けた時からずっと、俺に背を向けていたから。きっと、顔を見られるのが恥ずかしいという気持ちだったのだと思う。
その女の子は、電車が停まるとそのまま走り去ってしまった。だから、一度もその子の顔は見ていない。
まさか、あの時の子が、目の前にいる女の子と同一人物?
俺に二回助けられたと言っているわけだから、そういうことになるのだろう。
接点がないと思っていた彼女と、結構深いところでの繋がりがあった。
しかし、そうなると、『痴漢から助けた女の子に、告白してないのに振られた』ということになる。
……余計に傷口が広がってるじゃないか。ほとんど瀕死レベルだ。
「なあ、ちょっと待ってくれ。俺ときみには、接点があった。それは、わかった。でも、それが何で、告白してないのに振られるってことに繋がるんだ? 状況が更に悪化してるんだが」
彼女は、何度か俺と地面を交互に見たあと、意を決したように口を開いた。
「告白したのは、私の方」
「えっ、どういうこと?」
「あなたに助けてもらったのに、私はお礼も言わずに電車を降りた。それは恥ずかしかったからなんだけど、あとになって、ちゃんとお礼を言うべきだと思ったの。あなたの顔は、窓ガラスに映っているのを見ていたから、きちんと覚えていたわ。それから、学校の行き帰りに何度かあなたを電車内で見かけて、声を掛けようと思ったんだけど、勇気が出なかった」
彼女はそこで言葉を切った。深い息を一つ吐いてから、言葉を継いだ。
「そうやって、何度もあなたの横顔を見ていると、段々と心が惹かれていったの。正義感が強くて、凛々しいあなたに。でも、やっぱり声を掛けることはできかった。それで、私は、手紙を書くことにしたの。助けてもらったお礼と、お付き合いして欲しいっていう内容の手紙を書いて、あなたに渡した。映画のチケットを二枚添えてね」
再び彼女は言葉を切った。今度は少し長い沈黙が続いた。
視線を俺から外して、俯き加減で言葉を継ぐ。
「勇気を出して、手紙を渡したのに、あなたは返事をくれなかった。この二週間、ずっと待っていたのに。――痴漢から助けてくれたことは感謝してるけど、だからといって人の想いを踏みにじっていいわけじゃない。それで、私、頭にきちゃって、あなたの学校に乗り込んだの。一言、文句を言ってやろうと思って」
洗濯機の中でぐるぐると回っている衣服のように、俺の頭も揺れていた。
彼女の話には、決定的なツッコミどころがあった。
はっきり言おう。
俺は、そんな手紙を、受け取っていない。
その厳然たる事実を、俺は彼女に突きつけることにした。
「あのさ、凄いすれ違いが起きてるよ」
「すれ違い?」
「うん。俺、その手紙を受け取ってないんだけど……いつ、手渡した?」
「ううん。手渡しはしてないわ」
「えっ、どういうこと? 俺に手紙を渡したって言ったよね?」
彼女の視線が、俺の膝の上に載っているリュックに移動した。
「声を掛けるのは、最後まで勇気が出なかったの。だから、あなたが登校中の電車に乗っている時、そのリュックに手紙を入れたの。気づかれたら、その時はきちんとお話ししようと思ったけど、あなたに気づかれずに手紙を入れることができたわ」
そう言って彼女はリュックのある部分を指差した。
俺の持つリュックには、結構な数のポケットがある。
で、彼女が指差したポケットはそのうちの一つなのだが……そこ、普段から全然使わないポケットなのよ。
そういうポケット、あるよね?
俺は、そのポケットを開けた。
中から、可愛らしい柄の封筒が出てきた。
瞬間、俺と彼女は同時に「あっ」と声を出していた。
「えっ、何で手紙がまだそこにあるの?」
「きみもいくつかバッグを持ってると思うけど、全然使わないポケットってない?」
「……ある」
「俺にとってのソレが、このポケットなんだ」
俺が言い終えると、彼女は俺とリュックを交互に見た。二度、三度と。
事態を理解したのか、彼女の顔が見る見るうちに赤くなっていく。
「やだっ、私ったら、勘違いしてたのね。てっきり、手紙を読んだ上で私を無視してるのかと思って、それで、私……」
彼女は赤くなっている顔を両手で覆った。
その恰好のまま、「ごめんなさい」を連呼している。
謎は、全て解けた。
真実がわかった今、俺は振り返る。校門前でこの子に振られてから、ここに来るまでの展開を。
……ふむ。まあ、理解できるところもあるかな。
思いの丈を書いた手紙を渡したのに、返事を貰えなかったら、そりゃ誰だって頭にくるだろう。
まあ、全部彼女の勘違いなわけだが。
身体を丸めて沈んでいる彼女に、何と声を掛けるべきだろうか。
適当な言葉が見つからない俺は、ほとんど無意識に、手に持っていた封筒を開けて手紙を取り出そうとした。
瞬間――。
「きゃあああ! 私の前で読まないで!」
彼女は物凄い勢いで俺の手首を掴んだ。
「あ、ああ、ごめん」
俺は手紙を中に戻し、封を閉じようとした。
と、その時、手紙とは違う物が目に留まった。
中から取り出す。
さっき彼女が言っていた、映画のチケットだった。
期限を見ると、昨日で切れていた。
ふっと、俺の中に罪悪感が芽生えた。
「チケット、無駄にしちゃって、ごめん」
「そんな、謝らないで。私の手紙の渡し方が悪かったんだから」
「俺がもっと早くここのポケットを開けてれば、平和的に解決できたのに」
「一から十まで、悪いのは全部私。ほんとに、ごめんね」
構内アナウンスが流れ、間もなく俺たちの乗る電車が到着することを告げた。
彼女が、すっと立ち上がった。
「今日は、嫌な思いさせちゃってごめんね。こんな勘違い女、好きになる人なんていないよね。私、帰るね」
彼女は黄色い点字ブロックのところまで進む。
俺に背中を向けたまま、一度も振り返らない。
恋愛において、好きな人を一瞬で嫌いになるというのは、結構聞く話だ。
では、その逆はどうだろう。
嫌いだった人を一瞬で好きになることってあるのだろうか。
たぶん、そんなにはないケースだと思う。
今の俺は、そんな滅多にないであろう展開の中にいた。
寂しそうな背中の彼女を見ていると、身体全体が熱くなっていった。
心臓が、痛いくらいに脈打っている。
俺は立ち上がり、彼女の隣に並んだ。
「俺、また振られた?」
「え?」
「だって、俺はまだ返事してないのに、去ろうとしてるから」
「えっ、だって、嫌でしょ、こんな女。私だったら、絶対嫌だもん」
「真実がわかる前だったら、そういう感想になるけどね。でも、真実がわかったあとだと、見方は変わるよ」
「あんなに酷いことたくさん言ったのに?」
「確かにメンタル削られることたくさん言われたけど、真実がわかった瞬間、全部吹き飛んだよ。言われたことは、もう気にしてないよ」
「……ありがとう」
電車が滑り込んできて、ゆっくりと停まった。
「そう言えば、まだ名前聞いてなかったよね」
「あ、ほんとだ」
「俺は、九条健太郎。よろしく」
「私は、星村雫。――よろしくね、九条くん」
電車のドアが開くと、俺たちは手近なシートに並んで腰かけた。
やがて電車はゆっくりと走り始める。
「さっき、星村さんに言われたことは気にしてないって言ったけど、一つだけ言っておきたいことがある」
「……何?」
「俺は、彼女の誕生日にサボテンをプレゼントしないよ」
俺の抗議に、星村雫は顔をくしゃっとして笑った。
告白してない女に振られた 世捨て人 @kumamoto777
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