二章 謎めくひと⑤

べのせいめいはなかなかにごわい男だったが、奴亡き後は、俺をねじ伏せられるおんみようや法師はいない。そう高をくくっていたのが、俺の甘さだったんだろう。陰陽師としての力量はずば抜けていなくても、知略に富み、蛇のように執念深い男のこうかつわなに掛かり、俺は無様にも捕縛された」

「もしかして、それが、司野の亡くなったご主人様?」

「そうだ」

 司野はいかにも不愉快そうに口元をゆがめる。

「てっきり殺されると思っていたら、あの男……たつときふゆは、酔狂にも、この俺を式にすると主張し、陰陽寮の連中を説き伏せた。都の脅威になるような力ある妖魔なら、式として従えることができれば、都にとってむしろこの上なく頼もしい守護の力になると。ここで殺してしまうより、末永く罪を償わせるが得策。奴はそんな勝手な言い草で、上役たちを丸め込んでしまった」

「式っていうのは、下僕ってこと?」

「そうだな。陰陽師が使役する妖しのことを、式神、式と呼ぶ」

「なるほど。その、辰巳……」

「辰冬」

「辰冬さんが、司野のご主人様になったんだね」

 司野は、どこか遠いところを見るように、うつろなまなしを虚空に向けた。

「あのとき、辰冬は俺を司野と名付け、その名をもって俺にしゆをかけた」

「どんな呪……呪いを?」

「俺の力を大きくぎ、俺の魂を、この人間の身体に閉じこめた。以前はなる姿にもなれたが、今は、弱れば実体さえ持てぬ不可視の魂にち、それなりに力を得たところで、辰冬が俺に与えたこの姿にしか戻れない」

 そう言って軽く両手を広げてみせた司野の姿を、正路はしげしげと眺めた。

 き逃げされてひんだったときの衰えた視覚すら、司野をこの世の者とは思えない美しい人と認識した。

 今、健やかな両目で見る彼も、やはり信じられないほど美しい。

 卵形の輪郭、左右対称の、いかにも和を感じさせるスッキリした造作。それを包み込む、軽くウエーブした耳に掛かる長さの髪。

 いかにも現代的な、おそらくは「しよう顔」と呼ばれるであろう系統のずば抜けた美形だが、それは平安時代の絵巻で見るおたふく顔の貴族たちのそれとはまったく違っている。

「司野の顔は、今っぽいよね。でも、その顔とか身体とかは、平安時代にご主人様からもらったものなんだよね?」

「貰ったのではない。押しつけられたんだ」

 生真面目に訂正し、司野は片手で自分の頰を乱暴にさすった。

「福々しい顔は、お前には似合わない。たけだけしく、しかし思慮深い顔と、大きな身体を授けよう。辰冬はそう言っていた」

「猛々しく、思慮深い顔。なるほど。大きな身体っていうのも、確かに平安時代ならずいぶん大柄だったんだろうな」

 司野は渋い顔でうなずく。

「そのせいで、よくあちこちに額を打ち付けた。まったく、辰冬の奴は、言うことすること、すべてがいまいましかった」

「大きな身体には、何か理由があったの?」

 好奇心から正路がたずねると、司野は仏頂面で投げつけるように答えた。

「棚のいちばん上に並べた巻物を取るのに便利だと。あとは、屋敷の庭にあった柿の実をもぐのにも重宝に違いないと」

「ブフッ」

 思いもよらない他愛ない理由に、正路はつい噴き出してしまう。司野は、キリリと目をり上げた。

あるじを笑うか!」

「ご、ごめん。でも、まさかそんなこととは……か」

(可愛い!)

 思わず言いかけた言葉を、正路は危ういところでみ込んだ。さすがに「可愛い」と口に出してしまえば、司野は激怒するに違いない。

 片手で口をふさぎ、うつむいて、必死で笑いをみ殺しながら、正路はふと、こんな風に笑ったのはいつぶりだっただろうと考えた。

(誰かとこんなに長くプライベートなおしやべりをするのも、笑ったのも、前はいつのことだっただろう。思い出せないや)

 誰とも打ち解けられない自分が、自称ようのご主人様相手に、こんなに自然に話し、笑っている。

 そんな事実に驚くばかりの正路に、司野はまだ軽く怒ったままで付け加えた。

「もう一つ。生きている人間を捕らえて喰らうことも、厳しく禁じられた。そのめいたがえれば、たちまち俺の魂は霧散する」

「ん? それは変じゃない?」

 心に湧き上がった疑問が、上手うまい具合に笑いの発作を引っ込めてくれた。正路は、真顔に戻って、司野の話の矛盾を指摘する。

「だって、出会ったとき、司野は僕の脚をもりもり食べてたじゃないか!」

 すると司野は、ニヤリとして、舌先でチロリと唇をめた。まるで正路の血肉の味を思い出しているような仕草に、正路は思わず身をすくめる。

「喰ったとも。だが、俺はお前を捕らえてはいない。あの脚は、お前の身体から離れていたからな。地面に落ちていた脚を拾って喰らっただけだ」

「そんなくつ!?」

「呪とはそういうものだ。上手くかけたつもりでも、いつかどこかに綻びができる。おかげで、千年ぶりにうまい血肉にありつけた」

「再び待って。あの、もしかしなくても司野、僕に、『餌になれ』って言った?」

「言ったとも。下僕の務めの一つだ」

 正路は、信じられない思いで、ちゃぶ台の上の、途中まで食べた塩鮭を見下ろした。

「つまり、この美味おいしいごはんの一環みたいな感じで、僕の身体をもいで食べるつもり? でも、今度はどこもちぎれてないよ? 捕らえて喰らうのは、駄目なんでしょう?」

 正路の目に隠しようのないおびえを見てとった途端、司野のそうぼうが変化した。

 もともと色素が薄く、茶色いこうさいが猫のような金色に変わり、丸かったどうこうが縦に長く細く変形する。

「!」

「捕らえなければいい」

 口角を高く上げ、司野は歌うように言った。

「え……」

「お前は俺の下僕だ。捕らえずとも、お前は俺の命令に背くことはできん。俺が命じれば、お前はみずから手だろうが足だろうが喜んで差し出すことになる」

「そ、それは」

「逃げてみるか? 三歩と歩まぬうちに、お前の心臓から噴き出す血が、そこいらの古道具を軒並み朱に染めるだろうな」

 突然、人の姿のままで妖魔の本性をのぞかせる司野に、正路は蛇ににらまれた蛙のように硬直し、まばたきすらできなくなる。

 だがそれは、司野の悪ふざけだったらしい。

 彼はすぐに両目を元の人間のそれに戻すと、ふっと笑ってこう言った。

「だが、お前の手足をもいでうと、あとが大変だからな」

「……えっ?」

「人間の身体を繕うのはもっとやすいことだと思っていたが、やってみるとなかなかに難儀だった」

 そう言いながら、司野はさっきのお返しとばかり、正路の全身をジロジロと凝視した。

「特に、俺が欲張ってかじったせいで、その右脚を元に戻すのに骨が折れた。せっかくお前の血肉を喰らって得た力を、根こそぎ使う羽目になったぞ。これでは割りが悪すぎる」

「そんなことで、コスパが悪い話をされるとは思わなかったよ」

 力なく首を振りつつ、少しだけあんして、正路は長く息を吐いた。

「でも、とにかく僕の手足をもいで食べる案は消えたんだね?」

「そうだな。元に戻さなくていいなら……」

「戻してください。っていうか、食べるのはあきらめて。でも、それじゃ、僕の何を食べるつもり?」

「それは追々考えるとしよう。まず、お前はせいぜい飯を食って、身体を元に戻せ」

 司野の言葉に、正路は自分の両の手のひらを見た。

「もう、戻ってるよ? 司野が戻してくれたんじゃないか」

 だが、司野は小さくかぶりを振った。

「完全ではない。俺は、俺の力をもって、お前の肉体の再生能力を高め、足りないところを適当に埋めただけだ」

「適当にって!」

 なるほど、あざの一つくらいは平気で見過ごすわけだと、正路は変なところで納得してしまう。

「まだ、細かいところで治りきっていない組織や、つながりきっていない組織があるだろう。そこは、お前がみずから治せ。そこまでは面倒を見切れん」

(なるほど、それで全身が痛いのか。これ、治りきってませんっていう、僕の身体の主張だったんだな)

 しみじみと、両手の指を少しだけぎこちなく曲げ伸ばししている正路に、司野はこう言った。

「いいから、早く飯を食ってしまえ。それからお前……ねぐらはあったのか?」

 正路は再びはしを取り、頷く。

「ねぐらって……。アパートに住んでる」

 すると司野は、いかにもご主人様然とした態度でこう命じた。

「ならば、とっとと引き払ってこい」

「えっ?」

 驚く正路に、司野は頭上を指さす。

「下僕なら、主のもとで暮らすのが当然だろう。さっき、お前が寝ていた部屋をくれてやる。好きに使え。ただし、物を置く場所はないぞ。荷物は捨ててこい」

「僕、ここで暮らすの? 司野と? えっと、ここには他に誰か」

「いない。お前と俺だけだ」

「なる、ほど?」

「わかったら、さっさとやれ。下僕が、主の命にいちいち異を唱えるな」

 せっかくリラックスしていた司野が、また生来のせっかちさを発揮して、イライラし始める。

「わかりましたっ! じゃない、わかった!」

 慌てて了解の返事をすると、正路は、悲しいかな、すっかり冷めてしまった、それでも十分に美味しい塩鮭の残りを、ごはんと一緒に口いっぱいに頰張った……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

妖魔と下僕の契約条件 椹野道流/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ