届けたい、届かない、あの塔の下で

だんぞう

届けたい、届かない、あの塔の下で

 夏休みが始まった頃、夢の中に一枚の扉が現れた。

 額縁みたいなその扉の向こうは雑多な雑踏。聞こえるのは日本語だけど、洋服の人と同じくらい着物の人も居る。

 建物は木造と煉瓦造りばかり。賑やかな店々、お芝居かなにかの幟がはためき、呼び込みをする劇場。

 映画のセットのようだった。

 周囲をぐるりと見回して、僕が通ってきた扉が消えていることに気付く。

 ヤバくないか?

 どうやったら帰れるのか。そもそも帰れるのか。もしかしてこれがいわゆる異世界ってやつ?


「あの、すみません」


「すみません」


「あの……」


 行き交う人たちに話しかけてみたが、誰にも僕の声が届かない。

 そればかりか触れることさえもできない。

 かといって壁を通り抜けられるわけでもなく、コマンドが何もないVRゲームのよう。

 夢だという認識はある――だとしたら、ちゃんと目覚められるよね?

 募る不安が好奇心を越え、散策を中断して最初の地点へと戻ってくる。

 やはり扉はない。

 夢の世界なはずなのに時間がちゃんと流れているようで、次第に暮れてくる。

 僕も途方に暮れて、街角でただ幽霊のように佇んでいた。




 ハッと気づいて目を開くと、見慣れた自分の部屋があった。

 僕の日常の世界へ戻ってこれたんだ。

 安堵の溜息のあと、急いでネットで画像検索する。

 明治とか大正とか、そんな感じの景色。

 戻ってこれる夢だって分かっているのなら、変に心配せずにもっと冒険してくればよかった……そんなことを考えながら寝たせいか、その晩も夢にまたあの扉が現れた。

 もちろん迷わず開いた扉の向こうは、昨日の夢と同じ世界。

 また、戻れる――そう信じて、少しだけ遠出してみることにした。


 すり抜けるとわかっていても、人が混んでいる場所はちょっと落ち着かない。

 とりあえず目標を決めて、そこへ行ってみることにした。

 何と言っても目につくのは一際高い塔。基本は煉瓦造りなんだけど、上の方だけ色が違う。

 ここいらであんな高さの建物はあれだけみたいだし――と、向かったはみたものの、塔にせっかくたどり着けたのに僕は結局登らなかった。

 その塔の下に立っていた女の人がやけに気になってしまって。初恋の人によく似ていたから。


 着物を緩めに着ているため、首から肩にかけてが白く眩しい。そこへ日本髪から何本か垂れる髪がやけに艶かしく感じる。通りすがりの男に声をかけられ、言葉を少し交わした後で二人して腕を組み、人混みの向こうへと消える。

 彼女がどういう仕事をしているのか、なんとなく想像が付く。

 別に恋人ってわけでもないのに、やけに胸が締め付けられた。


 高揚していた気分は急激に萎え、僕は再び街角でぼんやりとする。

 さきほど見たシーンを思い返してまた切なくなり、見上げた空はもう暮れていた。

 ああ、最初の地点に戻らなくちゃ……と、踏み出した足が壁にぶつかった。

 何だ?

 目を開いてみると、僕はベッドの中にいた。

 足がぶつかったのはベッド脇の壁。

 今夜も戻ってこれたはずなのに、心は向こうに置いてきてしまったみたい。

 自分があまりにもクサイ言葉を思い浮かべたことがおかしくて、部屋で一人笑ってしまった。


 それにしても、どこからでも戻れるのかな。だとしたら、もっと離れても大丈夫だよね?

 当時の古地図をネットで注文しようとして、ふと指が止まる。

 僕はきっとどこへも行かない。結局またあの女の人に逢いにいってしまうんだろうなと思ったから。




 実際、それから毎晩、僕はあの女の人に逢いに行った。

 あの塔――浅草十二階のすぐ下に。


 日本史の授業で先生が眠気覚ましにしてくれた雑談を思い出した。

 日本初のエレベーターが設置された塔だって。その時についでに出た話。「十二階下の女」って呼ばれる私娼がたくさん居たっていう。

 そういえば彼女以外にも居たかもしれない。そんな感じのお姉さんたち。

 その中でも彼女はけっこうな人気者で、客がつかない日はなかった。

 もし僕がこんな幽霊みたいな状態じゃなく、ちゃんと実体を持ってあの世界に立てたなら、僕は彼女に声をかけるのだろうか。

 急に恥ずかしくなって、顔を隠す。誰に見られているってわけじゃないのにな。




 僕の今年の夏休みの思い出は十二階一色だった。彼女への切ない想いも含めて。

 他はどうして過ごしたかも覚えていない。

 友達と色々約束もしていたはずだけど、なんだかんだ日程が噛み合わなかったし。


 そして夏休みが終わりに近づくにつれ、僕はあることに気づいた。

 夢の中の東京も、年こそ違うものの現実世界と同様に一日一日、月日が経過しているということに。

 先生が言っていたんだよな。

 確か、大正十二年の九月一日、関東大震災で十二階は半壊して、それが原因で取り壊されたって。

 十二と十二が一緒だなって覚えてる。

 夢の中で新聞呼んでいる人のを横からチラ見したけれど、今朝見た夢では大正十二年の八月三十日だった。

 え、じゃあ、明後日、僕が見ている夢の中の世界にも大震災が来るってこと?

 それマズくないか?

 彼女がいつも立っている場所は十二階のすぐ下辺り。煉瓦が落ちてでもきたら……。




 夢の中は大正十二年の八月三十一日。

 僕は久々に声を出していた。

 彼女に向かって……全然気づいてもらえないにも関わらず。

 でもこうしてずっと話しかけていたら、もしかしたらちょっとくらいは届くかもしれないじゃないか。

 ここは危険だ。

 早く逃げて。

 お願いだから聞こえてくれ。

 明日なんだ。

 逃げてくれ。

 お願いだから。

 夢の中じゃなかったらきっと喉がかすれている。現実の方では凄まじい寝言言ってたりして――なんて立ち止まってる場合じゃない。

 逃げて!

 お願いだから!


「ヤアヤア、どうなさったっていうんです?」


 すぐ後ろから声が聞こえた。

 振り向くと、剣道着みたいな格好をした若い男の人……僕よりは年上っぽいけれど。


「そう、君ですよ。さっきからずっと叫んでいる君」


「……あの、僕のこと、わかるんですか?」


「わかるも何も、そんな大声でわめいていたら、嫌でも耳に入るってもんだよ」


「あ、ありがとうございます。本当に、ありがとうございます!」


「穏やかじゃないね。どうしたって言うんだい」


 一ヶ月以上この世界に通っていて、僕を認識できる人に初めて出会えた。

 これはチャンスだ。

 絶対に逃してはいけないし、確実に、彼女を安全な場所へ連れて行ってもらわなきゃいけない。

 確か先生が話してくれた……神楽坂の方は火災に遭わなかったって……そこへ、逃げてもらわなきゃいけないんだ。


「信じてもらえるか分からないんですが、僕、地震が来るのが分かるんです」


「地震かい。そういやここ数年は毎年大きな地震が来ているねぇ」


「明日、今までよりももっと大きな地震が来るんです。ちょうど昼くらいに」


「それは穏やかじゃないね」


「十二階も半分、崩れます……だから、あの人を、あの女の人を、この危険な場所から連れ出してください」


「ずいぶん正確にわかっているんだね。それでその女の人ってのは……」


 僕が彼女を指差すと、男の人は何かを言いかけたままで彼女をじっと見つめ始めた。その頬が赤く染まる。


「綺麗な人だね。君の大切な人なのかい?」


「幸せに、なってもらいたい人、です」


「オヤマァ、泣きそうな顔をしているじゃないか。いいよ。君のことを信じるよ。君は郷里の弟にどことなく似ていてね。嘘をつかれている気がしないんだ」


「あの、ありがとうございます! ……僕には、どうにもできなくて、ずっとここで立ち止まっていて、僕じゃダメなんです。僕には何もできなくて」


「そんなに卑下することはない。君は頑張った。君が決して諦めずにここでずっと立ち止まっていたからこそ、歩き出していたらすれ違っていたかもしれない出遭いを、その手に収めることができたんじゃないのかな」


 男の人の顔がいつの間にか滲んでいた。夢から遠ざかってしまうのかと一瞬思ったほど、僕はボロボロと涙をこぼしていた。


「ありがとうございます! 明日の昼までに、彼女を連れて避難してください。ここいら一帯は火事で大変なことになります。神楽坂へ、神楽坂へ逃げてください。明日の昼までに、必ずです!」


「わかった。やってみるよ」


 男の人はそう言い残すと、彼女へと声をかけに行く。

 うまくいくといいけれど――彼女は怪訝そうな表情だ。

 そうか。僕のことはあの男の人以外には見えないし聞こえないし、彼女のけっこう近くでやり取りしていたから、独り言の変な人みたいに思われちゃったかもしれない。

 あっ、男の人が必死に頭を下げ始める。

 食い下がっている。

 頑張れ。

 お願い。

 届いてくれ――あっ、彼女が笑い出した。

 男の人はちらりとだけこちらを振り返る。だけどもう、僕のことは見えてないみたい。

 でも、いいんだ。

 僕じゃなく、彼女のことを見てくれれば。そしてこの危険な十二階下から連れ出してくれれば。

 彼女と手をつないで、人混みの中へ消えゆく男の人の背中を、見守りながら、僕は二人の無事を静かに祈った。




 目が覚める。

 今夜見る夢の中は関東大震災の当日につながるんだろうか。

 大きく溜息をついて、足が濡れていることに気づく。

 えええっ?

 川?

 僕は僕の部屋に居なかった。

 まだ夢の中?

 急いで目の前の岸に上がろうとする。

 でも、それを押し止める人がいた。

 あの男の人だった。

 その傍らには、彼女もいる。

 良かった。

 無事だったのか――と思ったのもつかの間。

 僕の足は震え出す。

 寒さにではなく――今の自分が置かれている状態を理解したから。


 二人の背後は綺麗なお花畑。僕は川の中。

 これがどういうことか、容易に想像できる。

 ここは――その単語を思い浮かべる前に、男の人がうなずく。

 ということは、男の人は――彼女も――助からなかったってこと?


「君はまだここへ来てはいけない。君はまだ帰れるから」


 何言ってんだよ。

 信じてくれたんじゃなかったのかよ。あんなに必死にお願いしたのに、二人揃って死んでんじゃないよ――涙がとめどなく流れてくる。

 自分の無力感。

 好きな人を救えなかった後悔。

 大きな喪失感。


「早く行きなさい! 早く!」


 男の人が急に怒鳴り声を上げた。

 でもその声は怖くはなかった。どことなく父さんに似ている声で――僕はその声を受け入れた。


「向こう岸に戻るまで、決して振り返ったらいけない。絶対にだ」


 僕は背中を向けたままうなずいて、川の中をジャブジャブと歩き始める。

 正直、わけがわからない。

 どうして逃げてくれなかったのかな。

 僕のことをやっぱり信じてくれなかったのかな。

 いや、男の人はともかく彼女が信じて逃げてくれなかったのかもしれない。

 過去は、運命は変えることなんてできないん――変わったよね。確実に、あの男の人は。生きるべき人だったのに、僕の言葉を信じてしまったせいで。

 唐突に湧き上がる罪悪感。

 ひょっとして僕がここにいる理由は――あの男の人は本当は死なない運命だったのに、僕がきっかけで死んでしまったから?

 じゃあ、僕は――その報いでここに?

 だとしたら、男の人の言葉を信じてこのままこっちへ行ってはダメだったりしない?


 心も足取りも重くなる。

 川の流れが早くなり、そればかりか全身がじわじわと痛い。

 前へ進めない。また立ち止まっているのか、僕は。

 立ち止まり過ぎて、塔の下で落ちた瓦礫にでもやられて僕は、夢の中で心が死んでしまったのだろうか。

 体の痛みもどんどん増してくる。


「……おい……」


「……戻ってこい……」


 声が聞こえる。

 背後ではなく、前から。

 父さんの声?


「……お願い……戻ってきて……」


 これは、母さんの声だ。

 やっぱり、後ろではなく前から――この方向を、信じていいのかな?

 目を閉じる。

 さっきの男の人の表情を思い出す。悪意なんてかけらもない、僕を心配する表情だった。それに隣の彼女も、優しく微笑んでくれていた。

 そうだよ。

 信じよう。

 僕の言葉を信じてくれた人を。僕が好きになった人を。




 急に体が軽くなる。

 川の水位もどんどん下がって、向こう岸がすぐ近くに!

 僕は向こう岸へ、足を踏み出した。




 僕はまた、目を覚ました。

 でも見慣れない景色。僕の部屋ではなく、まるで病院みたいな。

 父さん? ……と、母さん?


「意識が! 先生、意識が戻りました!」


 状況を把握したかったが体が動かない。

 起き上がれない。

 全身が痛い。

 夢の中での被災が現実に影響しちゃっているのか?

 すぐに担当の医師さんがやってきて僕の様子を色々と確認し、両親に向かって「もう大丈夫ですよ」とか言っている。

 待って。話が見えないんだけど。




 その後、僕が事故に遭ったことを知らされた。

 夏休みの始め頃、信号無視した車がバイクをはね飛ばし、そのバイクが歩道に居た僕にぶつかったせいで頭を強く打ったらしい。

 で、夏休みが終わった九月一日の今日、ようやく昏睡状態から目覚めたという――さっきはちょっと危ない状況だったって。

 そうか。

 やっぱり、あの男の人は僕を助けてくれたんだ。

 ありがとう。本当にありがとうございます。




 その日からは夢の中に扉が現れることはなくなり、さらに二週間後、僕は退院した。

 体が完治したわけではないが、あとは通院でも大丈夫とのこと。

 久々に帰った家は、妙に狭くなっていた。

 リビングにダンボールが幾つか積まれていて。


「これ、何の荷物?」


「それね。牛込の大伯父さん、お家を売って施設に入るんだってさ。中にはちょっと処分しにくい物もあるとかで、とりあえず親戚中でいったん引き取るってことになってなぁ」


 松葉杖にもたれかかりながら、開いているダンボールを覗き込む。


「アルバム?」


「そうなんだよ。骨董と違って売れるものでもないし、ある程度選んだら捨てるらしんだけどさ」


「ふーん」


 何気なくパラパラとめくる薄茶けたアルバムの、とあるページで僕の手が止まった。


「父さん、これ、誰?」


「んー、これは……確か、俺の親父のじいちゃん……お前のひいひいじいちゃんになるかな」


 そこにあった一枚の記念写真。

 紋付き袴のあの男の人と、その横で花嫁衣装を来た彼女。写真館で撮った感じの。


「確か、関東大震災の翌年だかに結婚したっていう話だぞ」


 そうか。

 生きのびられたのか。

 ああ、そうか。

 だから父さんに声が似ているわけか。

 そうかそうか。

 ああいうタイプを好きになるのは、血筋なのか。

 その記念写真を、スマホで撮影する。御守り代わりに。この夏の思い出に。


「ひいひいじいちゃんとひいひいばあちゃんのお墓、どこにあるの? お墓参りに行きたいな」


「どうしたんだ急に」


 恋をしたから、なんてちょっと言えない。




<終>

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届けたい、届かない、あの塔の下で だんぞう @panda_bancho

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