第19話 古い記憶・クレイン侯爵視点

 少し前から日課になっている、庭であの子が好きだった花を摘み、娘の部屋で心を落ち着けるまで過ごすという一連の動作は最近では私の生きる気力にもなっていった。

あの子が亡くなってしばらくは近寄る事さえ出来なかったが、こうしてアリアの思い出を形に残し、確かに娘は存在していたのだと五感に記憶させていく。そうしていないと、もう呼吸の仕方さえ分からなかった。



 いつものように執務を片づけ、娘の部屋を訪れると目の前にはあの子がいた時そのままの景色が広がっていた。

私を見つけると「お父様」と照れたように微笑むあの子が、もしかしたら突然帰ってくるのではないかと期待さえしてしまう。



違う、そんな夢みたいな話はあり得ない。

あの子の亡骸を、確かにこの目で見たのだから。



 あの日の光景を思い出し、自然と目頭が熱くなる。

あの子ともっときちんと向き合うべきだった。何を差し置いてもあの子の苦しみを理解してあげるべきだったのに……


そんな風に物思いにふけっていると、近くの本棚からカタンッと音が鳴った。

不思議に思い近づいてみると、娘の部屋に似つかわしくない漆黒の背表紙に金色の文字が書かれた一冊の本が床に落ちていた。



これは……?



何故か触れてはいけないような気がしたが、それでも恐る恐る手に取り中を開いてみると、何も書かれていなかった。

どうしてだか先ほどから嫌な汗が止まらない。遠い記憶の中に、私はこの本の事を聞いた覚えがあったからだ。



そうだ、あれは確か——



まだ爵位を継承する前、父上がご存命だったある日、私を呼び出しある話をしてくれた。


「ステファン、今からする話はこの国の代々当主になる者に必ず受け継がれる内容だ。その本がなぜ家にあるのかは誰も分からない。そして、実物を見たものもいない。だが確かにその本はそこにある」

「……父上、一体何が言いたいんです?私にはさっぱりわかりません」

いきなり呼び出したかと思えば意図のわからない話をされ、愛する妻との時間を邪魔された私は苛立ちから、考えるより先に口を開いていた。


「まぁそんなに怒らないでくれ。私も直接見た訳ではないんだ。ただ、漆黒の背表紙に金色の文字が書かれていると言う事しか分からない。ただその本は、いつだってそこにある」

「不気味な話ですね。父上、いい歳をして息子を怖がらせようとしないで下さい」

「怖がらせてなどいないよ。ただ、その本は。人が選ぶんじゃない。んだ。いいかい、覚えておきなさい。例えその本を見つけても、決して中に書かれている事を実行してはいけないよ。それに魅入られたら最後、」

父上の話にいつの間にか聞き入っていた私は、思わずゴクリと喉を鳴らす。

「…………最後なんですか父上」

「二度と戻れない所まで堕ちる」

「堕ちる?一体さっきから何の話をしているのですか!」

「ははっ、そんなに怒るなステファン。ただな、」

今度は何を言うつもりなのかと身構えていると、

「魅入られたら戻れないんだ」

そう言った父上の痛みを抑えるような表情に、私は言いたい事も忘れ気付いたら別の問いかけをしていた。

「さっきから何なのです!?私に分かるように説明して下さい!!……それに一体誰が何に魅入られると言うのですか!!」

だが私のその問いに、変わらず微笑む父上が答えてくださる事は最後までなかった。




そうだ……

どうしてそんな大事な話を今までずっと忘れていたんだろう。



どう見てもこの本は、あの日父上から聞いたそのままの見た目をしている。

でも中身は何も書かれていない。

何故。どうして、娘の部屋に……

もし仮に、アリアには見えていたとしたら……?



では、あの子は——



『バタンッ!!』

咄嗟に浮かんだ考えを無理矢理振り切るように強めに本を閉じる。



違う……

アリアはそんな事はしない、きっと似ている本なだけだ。



そう思いたいのに、どうして先ほどから冷や汗が止まらないのだろう。

もう一度視線を手元に移し、漆黒の本を見る。



「アリア……」



あの子はこの本の何かに魅入られたのか……?

父上の言葉が浮かぶ。


『魅入られたら最後、二度と戻れない所まで堕ちる』



あの時は分からなかったその得体のしれない恐怖に、私は一つだけ心当たりがあった。



悪魔に魅入られたのか……?



これは私の憶測でしかないし、本当の事は誰にも分からない。

ただ、この部屋に父から聞いた本があったのは紛れもない事実だ。そして、この国の貴族は時々不自然に自死する者が出ている。

更に、その自死の方法も皆酷似しているときたら答えは自ずと見えてくるのではないか。




では、アリアの最後はどうだった……?




父が最後まで口にしなかったその存在。

私だって恐ろしくてとても口になど出来ない。



新たな事実にもう立っている事すら出来ない私は、床にへなへなと座り込んだ。



私は……大切な娘を堕としてしまった——



あの日父上が切なそうな表情をしたのは、自らも経験があったから……?

次々と発覚する事実に、何をしても娘に会う事はもう叶わないと知った私は、今度こそ意識を手放した。














―*―*―*―*―









昔々あるところに、悪戯好きの二人の兄弟悪魔がおりました。

兄の方は悪戯に加え残忍な性格だった為、ふらりと人間界に降りては見目の良い人を攫って頭からバリバリ食べてしまうのは日常茶飯事。


悪戯好きなのは兄と同じでも、弟の方は人間と仲良くなりたいと願う、優しい一面を持った悪魔でした。


日々兄の残忍さが増すのを目の当たりにしていった弟は、ある日隠れて一冊の本を作りました。

その本は兄に目を付けられた可哀想な人間を救う為のものだったのです。


「例えこの先、私自身が兄に食われる事があっても、この本があれば私の子孫を呼ぶ事が出来る」


だから人間を守る事が出来るんだよ。そう言って弟は、ある人間の国の貴族の屋敷に本を隠しました。


「どうか、困っている人間を助けてやってくれ。何、助ける相手はお前が決めればいいさ」


そう言い残し、弟は二度と本の前に姿を現す事はありませんでした。

意思を持ったその本は、生みの親である弟の頼みを必死で叶えようとしました。


ある時は年端もいかない少年を。またある時はその国のお姫様を。そのまたある時は一人の青年を。


そうやって弟との約束を何度も叶えていくうちに、いつしか兄の脅威は消え去りました。

しかしその時既に、本には知性がついていました。


誰を助けたいのか。本当に困っているのか。相手が何を望んでいるのか……

兄の脅威が消えても、弟との「困っている人間を助ける」という約束は、形を変えて続いていくのです。




その不思議な本は、本自身の意思で人を選びます。

もし選ばれたならば、きっと今とは違った人生を歩める事でしょう。






ん、対価はどうするのかって?そうですね。対価は——








きっと呼び出しに応じた相手が、あなたにピッタリの素敵な対価を決めてくれるはずですよ。

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その瞳に魅入られて おもち。 @motimoti2323

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