第11話 はなびら


 握られていた拳が開かれると、そのままクッカの腕を引っ張った。


「何をするの!」


 クッカは抵抗しようとするがラーハは「ついてきなさい」と、彼女を外へ連れ出した。


 庭の先には一台の馬車が止まっている。馬の側にいた御者はラーハの姿を見るや否や、慌てて新聞を畳んだ。


「ラーハ様。お仕事まではもう少し時間があるのでは?」


 ラーハはクッカを先に乗り込ませると、


「先に森へ向わねばならなくなった」


 と、答えた。


「森? それはまた、なぜ……」

「いいから早く出せ!」

「はい!」


 馬車は森の中へと続く小道を進んでいく。クッカはラーハが何を企んでいるのか、検討もつかなかった。ただ、横に座るラーハの顔はクッカが知っている中で一番悪い顔だった。


「よし、止まれ」


 ラーハは御者に向かって言い放つと、馬の鳴き声と共に車は止まった。御者が扉を開く前にラーハが降りると、


「来い」


 と、クッカへ顎で指示した。彼は手を取るなどしない。やや高さのある車から、クッカは地面へ飛び降りた。それを確認したラーハは道の傍にある一本の大きな木を指差す。


「あの木の下に行け」


 彼が何をしたいのかわからない以上、変な抵抗はできないとクッカは思った。彼女は文句を言わず、父親の言う通り木の下へ向かう。


 目の前に着き、ラーハの方を振り返る。すると彼は再び車の中へ乗り込んでいた。


「出せ」

「え、しかしお嬢様が」

「聞こえなかったのか! 出せと言ったのだ!」


 ラーハの怒号が森の中に響く。御者は手綱を取ると、すぐに馬を回転させた。


 クッカは状況を理解できていなかった。どうして自分が乗っていないのに、馬車を出したのだろう。なぜ木の下に立たせたのだろう。そこで違うと気づく。自分は置いて行かれたのだと。


「待って」


 そう口にした時には、もう馬車は小さくなっていた。


 クッカはその場にうずくまる。森へは何度も来たことがある。楽しい記憶しかない。しかし一人になるのは初めてだった。それに森の奥まで来てしまっている。


 五歳の小さな体を大きな不安が襲った。涙が溢れそうになる目を抑える。強くなると決めたのだ。泣いているわけには行かない。


 クッカは楽しいことを考えようとした。そうすれば不安がなくなると思ったのだ。


 彼女の前を青い蝶が羽ばたいていく。まだ目に涙が残っており、ぼやけているせいか、光り輝いているようにも見えた。


「綺麗」


 思わずそう呟くほどだった。


 森の奥へと飛んでいく蝶。彼女はそれを追いかけるため、小道から離れた。

背の低い草木も幼いクッカにとっては、十分な障害物だった。ただ斜め上を飛ぶ蝶だけを見て、クッカは森の中を進んだ。


 しかし下に注意を払っていなかったせいで、木の根に引っ掛かる。勢い余って転んでしまった。柔らかい土のおかげで痛みはなかったが、赤いセーターは泥だらけになっていた。それに加え、蝶の姿も見当たらない。


 クッカはさらに悪いことに気がついた。来た道がわからなくなったのだ。見渡す限り木しかなく、小道に戻ることができない。あの木の下にいたままなら、その道を通って森へ抜けることもできたが、それすらもう叶わない。ラーハに置いて行かれた時よりも状況は悪化していた。


 もうどうしようもない。そう諦めかけた時だった。


「迷い子か」


 渋いようだが、子供っぽさも感じる声。男か女かもわからない不思議な声だった。


 クッカが顔を上げると、鹿のようなものがいた。「ような」と言うのは、姿は鹿だが雰囲気が鹿のそれとは全く異なるからだ。森に溶け込むような美しい青の毛。木漏れ日を反射して輝く立派な角。その先端にはクッカが追いかけていた蝶も止まっていた。


 まさかこの生き物が発した声だったのだろうか、と彼女は考える。鹿のような生き物は呆然とするクッカを見て、


「そうか。人語を喋る人外を見るのは初めてか。それは驚くのも無理はない」


 と、合点がいったという風に頷いた。



 するとそこに二匹の動物が現れる。レトリバーとクロウタドリだった。

「エルさんじゃないですか!」

「あら、人間の女の子も」


 と、レトリバーたちが口にする。


「コーラ、リント。タイミングが悪いぞ。これ以上、この子を混乱させないであげてくれ」


 エルさんと呼ばれた鹿が言う通り、クッカは人間の言葉を喋る動物たちの登場でパニック状態だった。現実とは思えないことが目の前で起きている。つまりこれは現実ではないのかもしれない。そう願いながらクッカは頬を抓る。


「痛っ……」

「まさかこの子、私たちのこと夢だと思ってたんじゃない?」


 クロウタドリはクッカの頭の上に乗る。それを見たレトリバーも彼女の方へ近づいた。


「そりゃ無理もないよ。僕たちってウキウキ晴れ晴れした存在だし」

「それを言うなら浮世離れだな、コーラ」


 レトリバーの間違いを訂正する鹿。続けて、


「見たところだが、迷子のようだ。ちょうどいい。お前たちが面倒を見てやるんだ」


 と、レトリバーとクロウタドリを交互に見た。するとレトリバーは露骨に嫌な顔をした。


「ええ、エルさん神様でしょう。エルさんが何とかしてくださいよ」

「あくまで神の使いだ。それに私は女神と同じ傍観者なのだ。どちらにせよお前たちのところへ連れて行こうと思っていた」

「全く……。あんた、名前は?」


 クロウタドリに嘴でつむじを突かれ、クッカは上を向く。


「え、その……」


 動物たちが喋っているという事実を受け入れきれていないクッカは、クロウタドリたちの話している内容が全く頭に入ってきていなかった。それを察したクロウタドリは、


「私はクロウタドリのリント。この犬がコーラ。そして、この鹿みたいなお方がエルヴィクスさん。みんなエルさんって呼んでる」


 と、自分と他の二匹を紹介する。さらにエルヴィクスが続ける。


「皆、森の女王から魔法の力を授かった特別な動物たちだ。それ故、言葉を話せるというわけだよ」

「……そういうことだったのね」


 もしもクッカがもう少し大きければ、今の説明を聞いてもすぐに納得できなかっただろう。しかしまだ六歳にも満たないクッカは、理解できない現象に理由が見つかっただけで、信じることができた。


「で、君の名前は?」


 コーラはクッカの周りを一周し、彼女の顔を見上げる。


「私、クッカ」

「そうか。よろしくな、クッカ」


 彼女の名前を聞いたコーラは尻尾を振りながら、エルヴィクスの足元に戻った。


「さて、とりあえず道に出ましょうか」


 そう言って飛び上がるリントをエルヴィクスが制止した。そしてリントからクッカへ視線を移す。


「待ちなさい。クッカ、歩けるか」


 膝をついたままだったクッカは、立ち上がろうと足に力を込める。しかし上手くいかなかった。脳はしっかり指令を出していても、力が足に行かず地面に吸われているような感覚なのだ。


「立てない……」

「やはり。酷く疲れているのだろう。少し休んでから帰るのはどうだ?」


 エルヴィクスの言う通り、クッカはかなり疲弊していた。ラーハに置き去りにされたこと、道に迷ったこと、人語を話す動物に出会ったこと。ものの数十分の出来事だが、かなり密度の濃いものだったと言える。


「そうだ! クァンニが淹れたお茶を飲むといいよ。疲れなんてすぐ吹っ飛ぶさ」

「クァンニ?」

「兎のクァンニ。私たちの仲間だよ」


 と、リントが説明を付け加える。


「そうと決まれば早速向かおうじゃないか」


 エルヴィクスは自分の角をクッカの服に器用に引っ掛け、彼女を持ち上げると背中に跨らせた。


「角を持っておくのだよ。危ないからね」


 クッカは素直に小さな手で角を握りながら、


「待って、向かうってどこへ?」


 と、行き先を尋ねる。すると、コーラはニッと笑って白い歯を覗かせた。


「僕たちの女王がいるお城だよ」

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