第2部 花世の姫

第10話 憂愛


 今日は特別空気が冷えていた。秋が終わりを迎え、冬の近づきを感じる。空も灰色に染まっており、雪を降らせる準備は整っているように見えた。


 そのようなメッツア王国の西部に聳える大きな城。その本棟の最上部には現在の国王であるテホアが住んでいる。そして向かいにある棟では彼の息子であるラーハの家族が生活をしていた。


 早朝にも関わらず、この棟の住人は全て起きていた。城中に響き渡るラーハの怒号は扉を閉めていてもクッカの自室まで聞こえてくる。


 彼女はラーハとその妻・ヴァンリの間にできた一人娘であり、来年の五月で六才になる。スズランのように白く透き通った肌を持ち、幼いながらに容姿も整っていた。


 しかし今はその顔をしかめ、ベッドの上でうずくまっている。さらには毛布を頭から被り、出来るだけラーハの声が聞こえないよう試みていた。


「お前までついて行くとは聞いていないぞ」

「あたしこそ、お前がヴァンリを一人で行かせる気だったとは、思ってなかったわい」


 ヴァンリとキヴィパの会話の中に新たな人物が入ってきた。声の主・マーはクッカにとって本物の祖母のような存在で、クッカが生まれた時から側にいた。しかも、百歳を超えていると言う。一応血縁者ではあるらしいが、クッカは詳しい事情を理解していなかった。


「マーさん、私は大丈夫。一人で行けます」

「病人が大丈夫なんて言うんじゃないよ」

「じゃあクッカはどうするんです。マーさんがいるからと思って……」

「マーがいようがいまいが、クッカはここにいてもらうぞ。連れて行く必要はなかろう」


 自分が残る必要もないじゃないか、とクッカは疑問に思った。自分がいなくても父親の仕事に支障はない。クッカがラーハの仕事に関わったことと言えば、議員らとのパーティーにヴァンリと共に呼ばれたくらいだ。またパーティーがあるのかとも思ったが、クッカの心は踊らなかった。


「心配かもしれんが、あの子は強い子じゃ」

「言葉に気をつけたまえよ、マー。心配とは何についての話だ」

「勘違いをしとらんか? まだ幼いのにしばらく母親と会えんのは可哀想という意味じゃ。誰もお前と二人で残るのが気がかりとは言っとらんじゃろ」

「私、クッカに話して来ます」


 そのヴァンリの言葉を最後に、三人の会話が途絶える。代わりに階段を下ってくる足音が聞こえてきた。やがて部屋の扉が開かれ、


「クッカ」


 というヴァンリの声で、彼女は頭から毛布を取った。


 ヴァンリは身につけている青いワンピースよりも青白い肌で、憔悴しきっているのが目に見えてわかる。短く切った髪の毛先は色んな方を向いており整っていない。赤黒くなっている目元は泣いた後なのか、寝不足によるクマなのか。はたまた別の原因による何かなのか。


 ヴァンリはベッドの前に膝をつき、クッカと目線の高さを合わせると、彼女を力強く抱きしめた。


「……ごめんね」


 嗚咽が混ざった謝罪がクッカの耳元で響く。ヴァンリは静電気で逆立った髪の毛を治すようにクッカの頭を撫でながら、何度も「ごめんね」と繰り返した。


「お母さん、痛いよ」


 謝らなくていい、と言うつもりでクッカはそう囁いた。しかし、またヴァンリは「ごめんね」と言った。すると彼女は背中に回していた背中をようやく離し、撫でるようにクッカの肩を掴んだ。そしてクッカに目を合わせ、


「ねえ、私たちと一緒に–––」

「クッカ」


 言い終わる前にラーハが現れ、彼女の言葉を遮る。ラーハの声を聞いたヴァンリはクッカから目を逸らし俯いた。続きを話そうとする気配もないようだった。


 ラーハもクッカの方へ近づく。彼は立ったままヴァンリ越しに、


「あまり駄々をこねてはいけないよ」


 と、クッカを諭してきた。


「いえ、クッカはそんなことしていません」

「お前に話していない」


 ラーハは娘の濡れ衣を晴らそうとするヴァンリへ聞く耳を持とうとしなかった。彼は目の前にいるヴァンリの肩を力強く握りながら、


「お母さんは病気なんだ。医者の勧めで地元のセウラーバへ帰る。それだけだ。お前もついていけば、お母さんはゆっくり療養できないだろう?」


 そうクッカに言い聞かせた。クッカもヴァンリの病については話を聞いていた。心の病気だと彼女から直接説明されたのだ。そのため、ラーハに頷くのは不本意だが、クッカ自身も母親の病が早く治ることを望んでいたので、共にセウラーバへ向かう気はなかった。


「もちろん。私は行かないわ」

「クッカ–––」

「いい子だ。さすがは私の娘」

「でも、痛っ」


 ヴァンリが何かを口にしようとすると、ラーハは肩を握る手に力を込めた。ヴァンリはラーハの手を上から押さえかけたが、すぐに膝の上に戻し、さらに深く俯いた。その様子にクッカは、


「大丈夫よ、お母様。私は大丈夫。一人でも大丈夫。だから安心して」

と、母親を助けようとした。しかしこれは自分への言い聞かせでもあった。


 いつも大好きな母親を苦しめる父親。クッカはラーハのことが嫌いだった。「私はいずれこの国の王になる。お前は王女になるのだ」と、多くの行動を制限してきた。そのような彼が大嫌いだった。それ故、彼には屈さないと強くあろうと決めていた。


 その姿勢がヴァンリにも伝わったのか、彼女はそれ以上クッカを止めようとしなかった。


 クッカは馬車に乗ったマーとヴァンリを侍女と共に見送り、ラーハしかいない棟の方へ戻る。正直、マーもいなくなるのは心配だった。今まで生きてきた中でラーハと二人になったことはない。もちろん侍女らもいるが、ラーハの前ではいないのと変わらない。不安が彼女の心を支配していた。


「大丈夫」


 玄関扉を開ける前にもう一度声に出して自分に言い聞かせ、中に戻る。


 食堂へ向かうと、侍女が二人分の朝食を準備していた。クリームチーズを塗ったバゲットが一切れ。ジャガイモのシチュー。そして紅茶だ。


 クッカが席に座った時に、ラーハは既に食べ始めていた。それでもクッカは丁寧に森への祈りを済ませてから、スプーンを手に取った。シチューを掬い、口に運ぶ。ぬるい、と言うよりも完全に冷め切っていた。


 それもそのはず。侍女がヴァンリらのためにシチューを作ったのは数時間前のことだ。朝の寒さで冷えてしまったのである。


「スープを温め直してくださる?」


 と、近くの侍女に目をやると、「申し訳ございません」と彼女は慌て始めた。しかしそれをラーハが制した。


「文句を言わずに食べろ」

「食事は美味しく食べるものよ。お父様も美味しいスープの方が好きでしょ?」

「食事は必要なエネルギーと栄養を摂るものだ。味は関係ない」


 ラーハはスープとパンを交互に口に入れ続け、クッカとは目を合わせることはおろか、彼女の方を向くことすらなかった。それに腹が立ったクッカは主張を続けた。


「いいえ。美味しくなくていいなら料理なんていらないじゃない。だから美味しい方がいいの」

「文句を言わずに食べろと言ったのが聞こえなかったのか」


 ようやくラーハは手を止めるが、脚は貧乏揺すりをしていた。彼がイライラしている時の癖だ。


「ええ、もうお父様に文句は言わない」


 クッカはそう吐き捨てると、椅子から降りる。そして暖炉の側に置いてある、シチューの入った鍋に向かった。


「お嬢様、私たちが注ぎます」

「いいえ。私にやらせて」


 その様子を見たラーハも彼女が何をしようとしているかわかったようだった。


「おい、クッカ。やめなさい」


 彼の静止を聞かず、クッカは小さな手で自身と同じ大きさの鍋を持ち上げようとした。ラーハも立ち上がり、「やめたまえ」、と彼女の腕を引っ張った。大人の力が加わったためか、びくともしていなかった鍋が一瞬浮き上がる。バランスを崩した鍋は口が横を向き。中身を床に撒き散らしながら転がった。


「クッカお嬢様! お怪我はありませんか!」


 テーブルの下にまで広がったスープを見ながら、ラーハは頭を掻きむしった。さらに「何をしてくれるのだクッカ!」と、あたかもクッカのせいであるかのように叫んだ。


「違う! お父様が引っ張るから!」

「父親に口答えをするのか? 謝りなさい!」

「嫌!」

「聞き分けのない子だ」


 彼は拳を引き、高く掲げる。クッカは反射的に手で顔を覆うが、ラーハの拳が彼女へ下されることはなかった。


「やめておこう。せっかくマーやヴァンリがいないのだ。お前に日頃の行いを反省させるいい機会だ」


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