第5話 ユマラタルとエルヴィクス
森に駆け込んだヴィヒレアはただひたすら走った。とにかく奥へ。人が来ないような奥へ。その一心だった。
夜の森は化ける。ヴィヒレアは何度もこの森に来ているが、夜の森は全くの別物だった。道もわからない、四方八方同じ景色。ヴィヒレアは木の根に躓き、派手に転んでしまった。今まで転ばなかったのが不思議なくらいだ。
「痛い……寒い……」
そう。もう一つの敵は寒さ。北国のクリスマスの夜なのだ。上着を来ていてもかなりの寒さである。刺さるような痛みがヴィヒレアの体を襲っていた。
その時、ぼんやりとした青い光がヴィヒレアの視界に入った。顔を上げると、その青い光が森の奥の方へ向かっていくのが見えた。
「何……」
本能が「追え」、とヴィヒレアに言っていた。ヴィヒレアは痛みを堪えて立ち上がると、その青い光の後を追った。
見失いはしないが、中々の速さで進んでいく青い光。木々に阻まれ全貌はわからないが、それは巨大な獣のような姿をしていた。馬のように大きく、しかし角もある。まるで幻を見ている気分だった。
やがて木の生えていない大きなギャップに出たとき、その姿をはっきりと見ることができた。やはり幻かと思った。ヘラジカのような姿だが、あまりに巨大。成人男性二人分の高さはあるだろうか。角も見たことがないほどに立派だ。そして不気味なのは体全体が青白く光っていることである。
「ありがとう、エルヴィクス。彼女を連れて来てくれて」
驚いたことに、なんと薄い布を纏った女性も現れた。花冠をして、長い髪を胸の前まで垂らしている。極め付けは緑色に光っていることだ。
「いいえ。あなたの使い魔ですので」
彼女の礼に、ヘラジカのような獣はそう言って頭を下げた。
「ヴィヒレア」
彼女は一歩手前に出ると、ヴィヒレアの名前を呼ぶ。突如出された自分の名前に、ヴィヒレアは思わず固まってしまった。
「初めまして。私はユマラタル。この森の女神です。そしてこちらが……」
「エルヴィクスだ」
と、ヘラジカも名乗る。女神の透き通るような綺麗な声とは対照的に、エルヴィクスは低く渋い声だ。
「私たちはあなたのことをよく知っています。この森をこよなく愛する優しい心の持ち主」
ユマラタルはヴィヒレアの手を優しく握る。不思議な存在と遭遇しているはずなのにヴィヒレアの心に恐怖はなかった。
「辛い思いをしましたね」
その言葉で短剣を父親に刺した感触が思い出された。それと同時に涙も湧いてくる。
「気づいたら、剣を握っていて……。でも、お父様を殺したかったわけではなくて……」
「今は無理をせずに、ゆっくり心と体を休めなさい。……そう言いたいところですが、ヴィヒレアにお願いがあるのです」
「お願い、ですか?」
ユマラタルがエルヴィクスを見ると、彼は頷いて口を開いた。
「私たちは森の危機を感知していた。そして警戒していた。今回、森に実害はなかったが、街と森の関係を危うくする出来事が起こってしまった。今後何が起きてもおかしくない」
「すぐに森を守る準備を始めたいです。そこで勝手ながら私たちはヴィヒレア、あなたを選びました。だから私たちは今からあなたにこの森を守る力を与えます」
「そんな、森を守る力だなんて。それって一体」
ヴィヒレアは二人の話を理解しようとすることで精一杯だった。ただでさえ、森の神という存在との遭遇に驚きを隠せないでいる。それに加えて、自分のことや自分の身に起きたことまで知っている。さらには力を与えるというまでいう始末だ。
「無理にとは言いません。あなたの傷ついた心は簡単に癒えるものではないでしょう。そして私たちはそれに追い討ちをかけるような要求をしています。しかし、私たちで森を守ることができれば良いのですが、この森に宿った監視者ゆえ、矛となり人の争いには手出しができません。だからあなたに託すしかない。やってくれますか」
ヴィヒレアは疲弊した頭で考えた。その力というものをもらったとして、自分は森を守っていけるだろうか、と。感情に身を任せて父親を殺した自分が、女神から授かる力を扱いきれるだろうか。しかし、それと同時に誰が一番この森を守れるだろうとも考えた。信じていた父親は森を大切に思っていなかった。国民は森を大事にしていると思うが、その中でも自分が一番森を愛し、理解している自信がある。
自分じゃなく、誰が森を守るのだ。
そのためには力がいる。心配はすべきじゃない。使いこなせるようにならなければない。そうでないと、自分に森を守る術は何もないのだ。
「ぜひ……、ぜひ無力な私に森を守る術を!」
「よく言いました。この森に安寧が訪れるまで。それでは魔法をかけます」
ユマラタルが両腕を広げると、光輝く黄色の粉がヴィヒレアの頭上を舞う。それらがヴィヒレアに降りかかった。
「あなたには三つの力を授けます。一つ目は森の植物たちを操る魔法です。これは盾となり、あなたを守ってくれるでしょう」
ヴィヒレアはユマラタルの動作を真似て、両腕を大きく広げた。すると、足元から二本の木が生えてきて、ヴィヒレアの頭上で枝先が絡み合いアーチを形成した。やがて葉が生い茂り、ヴィヒレアが腕を戻すと生えてきた木は黄色い光の粉となって散った。
「すごい……」
「そのうち思うままに扱えるようになりますよ」
「次の魔法です」、と彼女は赤く光る粉をヴィヒレアに振りかけた。
「これは想いの魔法。自分自身の想いを集め、放つことができます。もちろん想いが強ければ強いほど、その威力は増すでしょう」
言われた通り、ヴィヒレアは手の平に気持ちを込めてみる。仄かに赤く光ったが、粉が少し出るだけだった。これもそのうち慣れるのだろうか。
「ただし、危険な魔法です。お父様を殺めてしまった、あなたならその危なさは理解しているはず。気をつけて使ってください」
「分かりました……」
何かの武器というわけじゃない。自分自身に人を殺める力が宿った。しかし、人を殺めるためには使わない。あくまで森を守るための力だ。ヴィヒレアはそう自分に言い聞かせた。
「最後の魔法は……」
と、ユマラタルは言い淀む。その代わりにエルヴィクスが口を開いた。
「永遠の魔法だ」
「永遠の魔法?」
ヴィヒレアはそう反復したが、イマイチどのような魔法かわからなかった。表情で彼に尋ねると、
「永遠の命を手に入れることができる。ただ、君はもう人間に戻れなくなる」
と、衝撃的な発言をした。
「先に説明をしていなくてごめんなさい。……森の危機はいつ訪れるかわからない。明日かもしれないし、明後日、一年後、はたまた百年後の可能性もある。森に安寧が訪れるまで、あなたに守り続けて欲しいのです」
人間に戻れない。どう考えても恐ろしい言葉だった。しかしその一方で、自分は既に恐ろしい存在ではないか、という気持ちもあった。父親を殺めたこの手の汚れは消えない。何かを代償に償いをしなければ、この恐ろしさから解放されることはないだろう。
人間を捨てることで罪滅ぼしができるのなら。そして森を守ることができるのであれば。
迷う理由などなかった。
「構いません。私に、永遠の命を」
「……分かりました。それでは目を瞑ってください」
ユマラタルに言われ、ヴィヒレアはゆっくりと瞼を閉じた。
夜の森を明るく照らすほどの光の粒がヴィヒレアを包んだ。緑色の光の粒はヴィヒレアの周りを舞う。そして、その光は全てヴィヒレアに吸収された。
不思議な感覚になったヴィヒレアが目を開くと、もうそこにユマラタルとエルヴィクスの姿はなかった。
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