物語はある種の欲望を稼働するために書かれ、読まれる。少なくともその一面がある――といえば、真っ向から反対はしにくいだろうと思います。笑いたい、泣きたい、共感したい、感動したいといった「健常な」ものから、より後ろ暗い、なかなか大っぴらにはしにくいものまで、物語の周辺にはさまざまな欲望が飛び交っているものです。「女性どうしが殺伐とした感情を向け合うのを見たい」というのも、そうした欲望の一種でしょう。
ところでこの作品は、企画「殺伐感情戦線」に寄せられたものだという前提が存在します。いわゆる百合、なかでも殺伐とした関係性を扱う作品を募集する企画のために書かれ、投稿された一篇なのですから、そうした読者の目に触れることがとうぜん想定されます。にもかかわらず、この作品が『何が百合だ全員全世界全存在全概念死ね』と題されているのは、いったいなぜなのか。
小説が書き手と読み手の欲望を稼働させるとき、ある共犯関係が生まれると僕は思っています。そしてそこには常に、登場人物の尊厳を剥ぎとり、人間の欲望を慰撫するための存在へと貶める危険性が伴いうる、とも。
むろん不健全な妄想を割り切って楽しむのがフィクションであり、小説の中でどれだけの「消費」がなされようとも、現実的な罪に問われることはないでしょう。どこにも被害者は存在しないのだから問題ない、と言ってしまえるのかもしれません。
しかし同時に、「登場人物をできるだけ正当に待遇してやりたい」という思いもまた、創作者のなかにはあるものです。ストーリー上でいくら残酷なことが起きてもいい。それでもその悲劇が、単なる欲望の発露で終わってしまわないようにしたい。複雑な感情に折り合いを付けながら小説を書き進めたことが、僕自身にも何度もあります。
僕の経験でいえば、現実には許されない欲望を扱いつつ、それがただの露悪趣味に陥らないようにするために、「その描写が物語に対して機能を果たしているか」という基準を持ち込むことがよくあります。ともかくも最後の一行に辿り着き、小説としてきちんと閉じた。だから必要だったのだ、と自分を納得させながらエンドマークを打ったことが、何度となくあります。
それでも――それでも不思議なことに、また違った声が小説から聞こえてきてしまうことが、ときたま起こります。「ふざけるな」。「私たちの本当の本当の本当の望みは、そんなことじゃない」。
キャラクターが勝手に動き出すだとか、あるいは「降ってくる」「舞い降りてくる」とでも呼びうる現象。これがひとたび発生すれば、物語はまったく違った方向へとドライブしていかざるを得なくなります。書き手でも読み手でもなく、小説自身の希望を満たすために、それは疾走していくのです。
この『何が百合だ全員全世界全存在全概念死ね』は、そうした「小説自身の力」に突き動かされて生まれ出た作品だと、僕は感じています。安易な定義付けを拒み、枠組みに押し込まれることを拒み、欲望の奉仕に終始することを拒み、ただ強靭な言葉の塊として、そこに存在している一篇なのです。
言葉を用いて何かに反逆しているというより、言葉それ自体が反乱を起こしている。反逆する言葉たちによって、この作品の世界は成り立っている、というべきかもしれません。なぜなら作中でも語られるように、「世界ってのは言葉で出来ている」のですから。