第2話 命満つる街
運河都市フォンベルクの一番街は商店街である。それも、そこらの王都とは比べ物にならないほど、雑多な商店街である。
他の国が観光地とする、歩きやすく賑やかな商店街とは全く違い、フォンベルク一番街はまず地元の露店が所狭しと石道を埋め尽くしている。
そこへ卸売に来た行商人、交易の機会や外国の情報を求める商人などが朝早くから集い、熱気と喧騒、外大陸の気風が入り混じる、青く暑い街が生まれるのだ。
避暑地として有名なフォンベルクで唯一暑さを感じるとまで言われる、この一番街。
今日も今日とて街に満ちるは商売人の客引きの声、それに対抗してもみくちゃになりながら騒ぐ祭り気分の観光客と、街の組合が拡声器を通して流す航海情報。
そんな活気絶えぬ一番街の、中心地から三つ目の大きな角を曲がると、この喧しさの中でなんとも珍しく日中から店を閉めている楽器店がある。
ユネはその店の前で立ち止まり、ぴょんと跳んで店内を窺う。
店主には店の掃除を頼んでいたが、窓から見える室内は薄暗く人気がない。
「もしかして、寝てる...?」
ユネは眉を寄せ、バスケットを石段に置く。両手が自由になったところで、思い切り戸を叩こうとした。
「こら、ユベルフィーネ。女の子なんだから、乱暴なことをしちゃダメだろう」
扉を開けて出てきた人が、ユネの拳をそっと握り込んでいた。
背の小さいユネが首をまっすぐ天に向けてようやく見えるのは、人の好さそうな顔をした男性だ。ユネより少しくすみの強い髪色と、ヘーゼルの瞳。印象に残るような華やかさはないが、地味なのではなく、後になってもはきと思い出せそうな、引力のある顔立ちをしている。
このほんわかとした人物が、ユネの後見人のアーノルドである。
ふと視線を落として、自分の手が握られたままなことに気づき、ユネの顔が赤くなる。
「鍵が閉まってるし、寝てると思ったんだもん。手離して、アーノルド」
ゆっくり手を離された、と思った次の瞬間、その手はユネの脇に差し込まれ、ぐっと視界が高まって、彼の腕の中に抱き上げられていた。
「ちょっと!」
「アーノルドじゃなくて、パパだろう?」
恥ずかしくて慌てるユネに対し、アーノルドはマイペースに笑っている。
そんな顔を見て、怒るのも馬鹿らしくなったユネは、せめてもの抗議に彼の肩をポカポカ叩いた。彼の無邪気な笑顔を見ていると、誰でも毒気が抜かれてしまう。
彼―――アーノルドは、ユネの育て親である。ユネの実の両親は生まれてすぐ事故で亡くなり、一番の友人だったアーノルドが引き取ってここまで育ててきた。育て親というには、世話をされた記憶が薄すぎる気もするが、彼は確かにユネに居場所を授けてくれた人だ。
ユネの顔をアーノルドがのぞき込む。
「おーい、ユネ、聞いてるかい?」
「…呼ばない。アーノルドは、パパじゃなくって、アーノルドだもん」
期待させ続けるのも悪いので、ユネはようやくアーノルドの腕の中で彼の望みを砕き、すぐにそっぽを向く。
今アーノルドの顔を見たら、自分が「やっぱりパパって呼んであげる」なんて口走りかねないからだ。純朴でひとのよさそうな風貌をしているアーノルドだが、「そのうち顔で人を操れるんじゃない」とはメイナの談。アーノルドに笑顔を向けられればたいていの人は好ましい気持ちになり、悲しげな顔をされれば彼の望みなら何でも叶えてあげたい、と思わされてしまう。
ユネですら、アーノルドに悲しい子犬のような顔をされれば、罪悪感がわいてしまう。
絶対に承諾したくないことがあるときは、話題をすり替えてしまうのが得策だった。
「ねえ、メイナさんのところに行ってくるから、お掃除しててねって頼んだのに、どうしてあかりを消して寝てたの」
レディーの手を掴んだことに抗議の意味も込め、ふわふわしたブルーネイビーの髪を少し引っ張ると、アーノルドはいてて、と間抜けな声を上げた。ひそかにほっと息を撫で下ろし、ユネはいそいそと腕の中で身体の向きを元に戻す。アーノルドは落ち込みから復活し、ほわほわと微笑んでいた。
「寝てはなかったんだよ。掃除もちゃんとやったさ、うちのお姫様はこと家事については厳しいからね」
「ふうん?」
どことなく怪しいのでジトっと睨みつけると、本当だと苦笑して、アーノルドは潔白を示すように片手だけを持ち上げた。
ユネの育て親はたしかに著名なソロのハープ演奏家だが、その腕前以外の所、特に日常生活における家事スキルはゼロに等しい。基本的に彼の頭の中は自然であることと音を奏でることだけでいっぱいで、段取りだとか、急ぐという概念が存在しないからだ。だからユネは、アーノルドがフォンベルクで過ごす休暇時期には、いつも一番簡単な掃除だけを彼に任せている。
その試みもあまり上手く行ったことはないが。
改めてアーノルドの生活力に呆れていたユネは、ふと鼻歌が耳に入って顔を上げた。
彼はいつの間にか目を閉じ、知らないメロディーを口ずさんでいた。急に新しい旋律がひらめいたのだろう。
フォンベルクの町人からいくら慈しまれていても、いつも心には空虚さが残っている。それは、一番の居場所はいとも簡単に音楽に横取りされてしまうからかもしれない。
唯一安心できる腕の中にあって、耳に心地よい鼻歌が頭上から降り続く。なぜか、そのすべてが苛立たしく、悔しかった。
聡明であってもまだ幼いユネに、その気持ちの正体がわかることはまだなかったけれど。
折角自分で糊をきかせてあげたストライプのシャツを、心のままにぎゅっと握りしめると、それが合図のように、アーノルドは歌うのをやめた。
「なんだい、どうした?」
心配そうに見下ろしてくるその顔を見て、ユネは我に返ってぶんぶんと首を振った。
もう十歳なのだ。家には母がいないから、代わりに自分が早くしっかりして、安心してアーノルドが帰ってこれる家にしたい。
そればかりが今の満たされたユネの願いで、この我儘で彼を煩わせるのは真反対なことだ。
アーノルドは変わらない。これ以上、ユネのために変わってほしくもない。
ならば、変わるべきは、自分なのだ。
石段の上にあるバスケットが目に入った。
「そういえば、メイナさんがパンとラスクをおまけにくれたんだった。今度また酒場で演奏して欲しいって言ってたよ」
「ふむ。メイナは本当に私の演奏が好きだね」
アーノルドは目を閉じてうれしそうに微笑む。ぱんぱんとその細い腕を叩けば、それが降ろしてほしいの合図だ。身軽に店の床に着地すると、入り口に置きっぱなしだったバスケットを抱え上げる。
「ね、お昼にしよう」
早く、抱き上げることもためらわれるぐらい、強くて一人前の人間になりたい。
けれど今は、そっと繋がれた大きな手を大事に握りしめ、ユネは家の扉を開けた。
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