目を閉じれば浮かぶ顔

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第1話 中学校編

       目を閉じれば浮かぶ顔(中学生編)                 

 今から、三十五年も前の話。まだ日本が昭和の年号であった頃のことだ。

 この頃は、都会と田舎にははっきりと境界線が存在していて、田舎から都会に出る者は上京と評され、逆に都会から田舎に引っ込む者は、「都落ち」と酷評された。そんな時代の都落ちの話からこの物語は始まる。


四月と聞いて人は何を思い浮かべるだろうか。

 まず浮かんでくるキーワードは「春」だろう。桜の花が咲き、新しいことが始まる期待感だろうか。スタートの時季、新旧が切り替わる時季、そして、重くて厚いコートを脱ぎ捨てるように過去を捨てる季節かもしれない。

 こうした四月のイメージのまま、四方晴彦(しかたはるひこ)はこの年の四月、昨日まで満開だった桜が散り始めた校庭で、不安で胸をいっぱいにしながら、これから始める中学の最終学年を迎えようとしていた。

 晴彦は転校生だ。しかも都会から田舎への転校。教育熱心な親なら絶対に中学三年生での転校はさせない。しかも希望校の選択幅が広い都会から、選抜制で他の高校を選べない田舎の中学に転校させることはない。

 たとえそれが父親の仕事の都合であったとしても、母親が父親を単身赴任するように説得するだろう。

 けれど四方晴彦は、この後の人生に大きな影響を及ぼす大事なこの時季に、住んでいた都会から、おおよそ七百キロ離れた田舎に引っ越しと同時に、転校を余儀なくされてしまったのだ。

 なぜなら、転校の理由が父親の転勤ではなく、ましてや前の学校でいじめに遭ったわけでもない。さらには虚弱体質の転地療養という健康面での理由でもなかった。たた単純に両親が離婚をし、親権は父親だが引き取ったのは母親で、母親の実家がある都会から七百キロ離れたこの田舎町に、母親の経済的なことと精神的な理由から暮らすことを選択するしかなかったのだ。

 経済的に自立できない義務教育を受けている中学生にとっては、保護者の選択を拒むことが許されなかった。ただそういうことだ。

 新学期の始まりと同時に、晴彦の新しい中学校での生活が始まることになった。

 始業式の日、同行しようとする母親をなんとか説き伏せて晴彦は一人で、賀谷(かや)町立中学校の校庭にやってきた。すでに転校の手続きは春休み中に済ませていたので、母親の付き添いなど必要がなかったからだ。

 それでも母親には、親の離婚のためにこんな田舎に転校をさせてしまったという引け目があったのだろう、玄関を出るまで「行く」「こなくていい」という押し問答を繰り返して、「付いてくるなら登校拒否をする」と半ば脅迫めいた説得で、母親を納得させたのだった。

 晴彦は、周りをソメイヨシノの古木が取り囲む校庭の最短距離を歩いて、一度転校の手続きの時に訪れたことのある職員室に入って行った。

 賀谷町内には中学校は一校しかなく、そのために田舎にしては大きく、一学年五クラス、全校で生徒数六百名近くと、人口の割には、それまで晴彦が通っていた渋谷にある私立の中高一貫校よりも大きな規模だった。

 晴彦のクラスは三年一組。担任は定年が近いことが見た目で容易に分かる、別の言い方をするなら豊富な経験を積んだベテラン教師の工藤先生だった。

「四方晴彦君、担任の工藤です。今日から君のことを四方君と呼べばいいかな」

「いえ、下の名前の晴彦と呼んでください」

 晴彦の希望を聞いて工藤先生は首を傾げた。納得ができていない様子だった。

「四方は母方の苗字で、両親が離婚するまでは友永を名乗っていましたので、四方と呼ばれることにまだ慣れていませんので」

「ああ、そういうことか。分かった、晴彦君と呼ぶことにするよ」

 合点が行ったことに安堵した顔で、工藤先生は強引に握手を求めてきた。これが工藤先生なりのコミュニケーションの取り方なのだろうかと思いながら、晴彦は握手に応じた。

 晴彦が編入をした三年一組の生徒数は、晴彦が加わって四十一名になり、男女の比率は男子三十二名で、女子が九名だった。工藤先生に連れられて教室に入った時、あまりに女子生徒が少ないのに驚いた。前の学校は男子校だったので、公立の共学は男女の比率が半々だと勝手に思い込んでいた晴彦には、驚きの光景だったのだ。

 可もなく不可もない挨拶を済ませて、工藤先生に指定された席に着いた。教科書は他の生徒と同じくこの日に受け取った。

 春休みに転校の手続きに訪れた時にも教頭先生に言われたのだが、賀谷中学校に転校生がくるのは実に十年以上振りとのことだった。この町にダムを建設した時期があり、この時に土木、建築、電力会社の人たちが家族を連れてここに引っ越してきた年に、まるで嵐が押し寄せるように転校生が大勢やってきた。この時は一時的にプレハブの校舎を増築してなんとか間に合わせたのだと、且つての賑わいを懐かしむように教頭先生は話した。

 ダムの工事関係の家族は、ダムが完成すると同時にこれまた潮が引くようにこの町を去って行き、その頃に増築したプレハブの校舎は、取り壊されたて、今はその後に体育館が建てられたことも話してくれた。

 晴彦はその時以来の転校生だということだった。

 この学校にとって転校生は、とびっきりの珍客で、晴彦はクラスだけでなく学校中の注目の的でもあった。

 初日の最初の休憩時間、まるで腫れ物にでも触るように、クラスの生徒が晴彦を遠巻きにしたが、その中の誰一人として声をかけてくる者はいなかった。

 昼休みになった。前の学校では給食だったが、この学校は弁当を持参しなければならなかった。母親がこの学校の卒業生ということもあり、弁当持参のことは把握していたので、今朝家を出る時に母親の同行で揉める前に弁当を受け取っていて良かったと、初めて経験する弁当の昼食を食べながらそう思った。

 当然晴彦は一人で弁当を食べていたが、他の生徒たちには派閥が存在しているようで、机を寄せ合った仲良しの島が幾つか作られていた。

「四方君、良かったらこっちで一緒に食べないか」

 誘ってくれたのは、クラス委員を務める古川という色の白い、いかにも利発な感じのする生徒だった。せっかく誘ってくれたので断ることもないので、机を寄せて合流することにした。

「晴彦君のお母さんがこの町の出身なんだよね」

 情報通という存在はどこにでもいるもので、このクラスではこの長嶋という生徒がそうなのだろうと晴彦は目星をつけた。

「うん」とだけ答えた。

「この学校の先輩でもあるんでしょう」

 長嶋はさらに続けた。一緒に弁当を食べている生徒は男子七名だった。この七名の中で自分だけが転校生に一番近い存在であることを誇示するように、長嶋は質問を続けた。

「そうみたいだね」

 どうでも良いことだという思いを込めてそう答えた。

「前は中高一貫の私立に通っていたんだよね。どんな学校?」

 この質問は古川から出た。

「他の学校を知らないから、どんな学校と言われても答え難いけど、賀谷中学校と大きく違うところは、前の学校は男子校だったということかな。でも、この学校は共学にしては女子の生徒が少ないよね」

 クラス四十一名のうち女子が九名しかいないことを捉えて言った。

「このクラスは女子が少ないけど、学年全体では逆に女子の方が多くて、五組は男子が五名しかいないし」

 古川はそう説明をした。

「クラスによって男女の比率が違うということ?」

「結果的にはそういうこと」

「結果的に、ってどういう意味?」

「二年生の三学期のテストの結果で、三年生のクラス分けがされるから」

 それを受けて晴彦が訊いた。

「成績順ということ?」

「そう。このクラスには男女関係なく、学年で成績上位四十名が集まるクラスということだよ」

 古川は明らかに優越感が窺えるような表情をしてそう説明をした。この上位四十名の中でも古川はさらに上位十名以内に入っているのだろう。

「つまりは、エリートクラスということだね」

 ここにいる七名の気持ちを察して、一番言って欲しいと思っているだろう言葉を、あえて晴彦は口にした。

「露骨にいうとそういうことだけど、四方君、この言い方は他のクラスの生徒の前では絶対に言ってはいけないよ」

 長嶋が重要な秘密話を教示するように小声で言った。「そうなんだ」と答えてしまうと話は終了なのだが、長嶋が求めている答えは、「どうして?」なのだから、ここはその期待に応えるべきだろうと思い、「どうして?」と驚いた顔をして訊いた。

「同じ学年には、僕たち三年一組の生徒のことを快く思っていない生徒もいるからね」

 一学年五クラス。一クラス四十名の生徒がいるとして、一学年全体では二百名の生徒がいることになる。二年生の三学期のテストの合計点数の順位で、三年生のクラス分けが決まるなら、一組は上位四十名で、五組は必然的に下位四十名になる。

「忠告ありがとう、気を付けるよ。でも、僕は二年生の時にはこの学校にいなかったのに、どうして優秀な君たちが集まるこのクラスに編入することができたのだろうか?」

 晴彦はあえて古川の顔を見た。

「それは四方君が、東京の中高一貫の私立校に通っていたという実績があるからだよ」

 古川は躊躇なくそう言い切った。

「確かにそうした学校には通っていたけど、このクラスに編入できるような学力が備わっているかどうかは、はなはだ疑問だよ」

 再び古川の顔を見た。

「四方君が通っていたのは、なんていう学校なの?」

 古川のこの質問が出ると、他の六名も興味津々の顔に変わった。最初からそれを聞き出すのが一緒に食べることを誘った理由なのだろうから。

「渋谷区の青葉学園だよ。中等部は一学年二クラスで、同級生は八十名しかいなかった。小さな学校だよ」

 この晴彦の答えを聞いた途端に、興味津々の表情は憧憬のそれへと変わった。

「青葉学園って、偏差値最高の名門進学校だよね」

 古川が訊いた。

「確かに進学校とは言われているけど、名門ではないと思うけどな」

 晴彦は軽い調子でそう返した。

「青葉学園に合格できた実力があれば、余裕でこのクラスに編入できるよ。一学期の中間テストではいきなり学年トップに躍り出るかもしれないね」

 長嶋は調子良くそう言った。

「そんな過大評価は止めてくれよ。僕は青葉学園の中では落ちこぼれと言われていたんだから。きっと学年トップの古川君の足元にも及ばないよ」

 晴彦は古川が言って欲しいだろう思う言葉を言ったつもりだった。学年トップという称号。

「僕が学年トップって、誰がそんなデマを四方君に教えたの?」

 意外にも古川は右手を大きく横に振って激しく否定をした。

「違うの? てっきりそうだと思ったけど」

「こいつ、見た目だけは真面目で優等生に見えるから」

 おそらくこの中で古川と一番仲が良いのだろう、さきほど佐々木と名乗った背の高いが色の白い、明らかに運動部には所属していないだろうと簡単に想像がつく生徒が言った。

「じゃあ、トップは佐々木君なの?」

「それもない。トップは男子ではなくて、入口に近い列の一番後ろの席に座って一人で弁当を食べている女子だよ。名前は吉住路花。路(みち)の花(はな)と書いて、路花」 

 そう言われてそちらに顔を向けると、学年トップの優等生は黙々と弁当を食べていた。

「このクラス、女子は九名しかいないのに、彼女だけ一人で弁当を食べているんだね」

 不思議に思ったので、晴彦はそれを口にしただけだった。

「路花は人間嫌いだから」

 吉住ではなく、佐々木は「路花」と呼び捨てにした。

「佐々木君は吉住さんとは親しいの? 女子に対して下の名前で呼ぶなんてよほど親しくないとしないよね」

「路花の家とは隣同士で、生まれた年も一緒だから、幼い頃から互いの家を良く行き来していたんだよ。要するに幼馴染だということ。路花も僕のことカキオと今でも呼び捨てにしているし」

「カキオ? 果物の柿に男と書いて、佐々木柿男っていう名前なんだ? 季節感満載だね」

「違うよ。本当の名前は佐々木勉。小さい頃から柿が好きで、秋になると毎日のように柿を食べていたから、路花が勝手につけたあだ名だよ」

「柿男に路花。なんだか、良いね。僕も佐々木君のこと、これから柿男って呼ぶことにしよう。だから、柿男は僕のこと晴彦と呼んで良いよ。それとも僕はトマトが好きだから、トマトと呼んでくれても良いけど」

「トマトとはさすがに呼び難いから、晴彦と呼ぶことにするよ」

「OK」

「さすがに都会育ちの人は、馴染むのが早いね。あっと言う間にもう、僕たちの仲間に入ってしまったじゃないか」

 長嶋は嬉しそうにそう言ってくれたが、晴彦はこの仲間に入るつもりなど全くなかった。

 賀谷町立中学への初登校の日、晴彦は柿男と一緒に下校した。一緒に帰った理由はただ家の方向が同じだったということと、柿男が部活動を一切していなくて、晴彦と同じ帰宅部だったからだ

「晴彦の両親は離婚をしたんだよね」

 二人切りで歩いていることで気が緩んだのか、柿男はかなり暗部に関わるプライベートなことをストレートに訊いてきた。まあ、その方が正直に答え易くはあるけど。それに、元々柿男は性格の良い奴そうだし。

「そうだよ」

「原因は、お父さんの浮気かなんか?」

「離婚の原因は一つじゃないと思うよ。だって子供がいるんだし、多少のことは互いに我慢するだろうから、ことはそう単純なことではないと思うよ。だって、息子の僕だって良く解ってないんだから。でも、なんでそんなこと訊くの。柿男はそんなゴシップ好きなタイプには見えないけどな」

「いや違うよ。町内でそんな噂が広がっていたから。それで訊いただけだよ」

 柿男は屈託もなくそう言ったが、普通こんなこと当事者に直接質問したりはしないだろう。

「こんなこというと嫌われるかもしれないけど、田舎って怖いね。きっと噂はテレビのニュースよりも速くみんなに伝わるんだろうね」

「平和ボケしているから。ちょっと変わったことがあったら、まるでお祭り騒ぎみたいに誰もが根も葉もない噂を流すんだよ」

「でもうちの両親が離婚をしたのは、根も葉もある事実だけどね」

 皮肉のつもりで言ったのだが、風貌通り柿男には暖簾に風だったようだ。

「昼休みに柿男が言っていた、吉住さんが人間嫌いだってことは、根も葉もある真実なのか?」

 そっちが答え辛いことを訊いてくるなら、こっちもお返しだ。少々意地悪な気持ちで訊いてみた。

「幼馴染の僕に対しては全くそんなことはないけど、他の生徒に対しては、路花の方からは決して近づいたりしないんじゃないかな。僕は、幼稚園、小学校とずっと一緒だったから、そんな様子を近くで見てきたし」

「でも、柿男には心を許しているんだろう」

「心を許しているかどうかは分からないけど、僕は路花に対して偏見は持っていないから」

「偏見?」

 この質問に対して、果たして柿男がすんなり答えてくれるのか、少し心配をしたが、柿男の辞書の中には「答え難い」という言葉はないようで、間髪も入れない速さで答えが返ってきた。

「あいつ、顔の左半分に大きな痣があるから。しかもその痣は赤くてかなり目立つんだ。日頃は髪の毛で隠しているから、かえってそれが不気味だと口の悪い女子が言っている。まあ、そう言う口の悪い女子ほど頭も悪いけどね」

「昼休みに見た時には全く気が付かなかったな」

「ちょうど、髪の毛で隠れた左側から見たからだよ」

「吉住はその痣のことを気にしているんだね。まあ、女子だったら誰でも気にするよね」

「うん、そうなんだけど。でも、小学校に入学するまでは、路花は特別に痣のことは気にしていなかったと思う。まあ、同じ幼稚園に通っていた園児が全員幼馴染だということもあって、路花の顔の痣は当たり前のように捉えていたからね。でも、小学校になると、他の地区からも生徒が入学してくるから、初めて路花の顔の痣を見た者は必ず驚くと思う」

 幼馴染の柿男が言うくらいだから、きっとそうなのだろう。

「小学校の時に、吉住さんが人間嫌いになってしまう出来事が起こったということだよね?」

「凄い推理力だね。さすがに都会育ちは違うよ」

 いやいや、これまでの話の流れからすれば、ほぼ誰もがそう推測すると思うよ、柿男君。

「小学二年生の時に、担任の先生が教室に学級文庫を作って、先生が個人的に持っていた本を本棚に置いていたんだよ。ちょうど梅雨の時期で、その頃は学校にはまだ体育館がなかったから、雨の日だと体育の授業は読書の時間に切り替わっていたんだ。その日も雨で、体育の授業が読書会に切り替わったんで、一斉にみんな学級文庫の本棚に押し寄せたんだ。この時に、路花と女子の中でもリーダー格だった水元という生徒が、一冊の本を取り合う形になったんだ。その本を先に手に取ったのは路花だったけど、おそらく、水元は日頃から路花のことが気に入らなかったんだと思うけど、路花の手から強引にその本を奪い取ってしまったんだよ。その頃は路花も気の強さでは負けていなかったから、もう一度本を奪い返した。こうした攻防が繰り返された結果、最後は路花がこの本を獲得した。

 これが水元にはよほど悔しかったんだろうね、腹いせに、みんなに聞こえるような大きな声でこう言ったんだ、『お前みたいな化け物、気持ち悪いからこの教室からいなくなってしまえ』って」

 柿男の話すこの光景を思い浮かべただけで、晴彦は目を覆いたくなるような暗い気持ちになった。

「担任の先生がすぐに水元のことを強く叱って、路花ちゃんに謝りなさいと言ったけど、その時にはもう路花は教室から出て行って姿をくらましていた。後で先生が話したことだけど、このあと学校が終わるまで、路花は保健室のベッドの中でずっと泣き続けていたらしい」

「この一件があってから、吉住は人間嫌いになったしまったというわけなんだ」

「そうなんだよ。次の日から路花はまるで人が変わったように、誰とも口を利かなくたってしまったんだ。さすがに僕たち幼馴染の連中とは家の近所では今までと変わらない様子で話はしていたけど、いったん登校すると誰とも口を利かなくなったんだ」

 その後すぐに柿男と別れる十字路に差し掛かり、吉住路花の話はこれで断ち切れることになった。柿男の話を聞いたからといっても、晴彦の中に吉住路花への興味が湧くことはなかった。

 四月は瞬く間に過ぎようとしていた。青葉学園に通っていた時には、電車で片道一時間も通学に時間がかかったし、午前八時四十五分の始業の前に、七時半から予備校から派遣された講師による補習授業を受けていたので、平日は六時過ぎには家を出ていた。電車の中でも参考書にずっと目を通していた。

 それが、今は歩いて十五分で学校に到着をする。しかも当然、始業前の補習授業なんて存在しない。

 東京での生活習慣が抜けなくて、晴彦はつい午前五時に目を覚ましてしまっていた。二度寝をしても良いのだが、そうすると却って頭がすっきりとした状態で起床することができなくなってしまうので、五時に目を覚ますと、今日の授業の予習を行うようになっていた。それでも、家を出る八時二十分には余裕があり過ぎて、時間を持て余すようになっていた。

 仕方なく四月が半分過ぎた頃に、起きたらまず散歩をすることにした。この時期の午前五時はまだ暗いので、五時半になると道を覚えるのも兼ねて近所を散策することにした。

 四方を山に囲まれたこの地域の四月の午前五時半は、厚めの上着を着込まないと寒さで震え上がってしまうほどに気温が下がっていた。晴彦は青葉学園のロゴの入ったコートタイプのウインドブレーカーを着込んでから散歩に出かけた。

 それは、散歩を始めてから二日目の朝で、昨日とは違うコースを歩くことにした。昨日と違うコースとはいえ、目に映る風景は日本の田舎の原風景で、昨日の景色とほぼ同じだった。田んぼや畑の間に民家が点在するような感じで、どこの家の前にも広い庭があり、必ず今は青い葉をつけた柿の木が植えられていた。

「ああ、これで柿男は好きなだけ柿を食べることができたのだな」と、納得をしてしまった。

 少し歩くと、田んぼや畑が占める割合よりも民家の占める割合が増えてきた。どうやら市街地に入ったらしい。ただ、市街地といってもなんの物音も聞こえないくらいに静かで、薄暗い中で、やっと上り始めた太陽に照らされたポストの赤色だけが、この街がモノクロではないことを教えてくれていた。

 信号もまだ作動はしていなかった。

 これだけ車や人の往来もない、まだ眠りから覚めていない街で特に交通ルールを守る必要もないのだが、それでも晴彦は道路を横断するのに横断歩道を渡っていた。

 この時に、自転車が走ってくるような音が耳に飛び込んできた。まだ鳥の声さえ聞こえてこない静寂の中では、その音はかなりの大きさを持って晴彦の耳に響いた。

「自転車?」

 学校への通学路とは全く逆方向なので、この市街地に足を踏み入れるのは初めてだった。初めての場所でのこの時刻の自転車。晴彦の体に緊張が走った。東京ならこの時刻に出会う人間は、夜飲み歩いで朝帰りをする油断ならない連中の可能性が高い。

 自転車の音がさらに大きくなってくる。晴彦は咄嗟に身を隠すように、しっかりと雨戸が閉じられた民家の後ろに移動をした。

 それでも、こんな早朝に自転車に乗っている人の正体を見たいという好奇心だけは抑えきれなくて、民家の後ろに隠れながらも、自転車が迫ってくる片側一車線の道路にじっと目をやっていた。

 いよいよ自転車が直前まで近づいてきた。そして、通過した。

「あっ、路花!」

 自分でも気が付かなかったが、かなり大きな声を出していたようだ。晴彦の出した声に気づいて、「キキキー」というブレーキの音がした。

「誰、私を呼んだのは?」

 自転車を降りると路花はきょろきょろしながら叫ぶように言った。

「ごめん、あまりにも突然に吉住さんが姿を現したから」

 すんなりと晴彦は路花の前に出た。

「ああ、転校生の四方君だよね。なんで、私のこと下の名前で呼んだの? 私たち下の名前で呼ぶほど親しい関係ではないでしょう。四方君の下の名前、私は覚えていないもの」

 路花は怪訝そうな顔をしたのだろうが、冷たい風から鼻を守るためにしている大きなマスクで本当の表情を読み取ることはできなかった。

「いきなりごめん。柿男がいつも吉住さんのことを路花と呼んでいるから、つい」

「ああ、柿男の奴か」

「こんなに早い時間に、どうして自転車で走っているの?」

「見ての通り、新聞配達」

 路花は前のカゴに入れられた新聞の束を指さした。

「新聞配達のバイトをしているんだ、偉いね。何か欲しい物でもあるの?」

「お坊ちゃまは、考えることが浅いのね。私は、自分が欲しい物を買うために望んで新聞配達をしているわけじゃなくて、家族の生活費の足しにするために仕方なく新聞配達をしているのよ」

「……」

 晴彦は「お坊ちゃま」と言われたことと、同級生が生活費を稼ぐために朝早くから新聞配達をしているという事実をいきなり突きつけられた衝撃で、返す言葉が浮かんでこなかったのだ。

「四方君の方こそ、こんなに早い時間になんでここにいるの?」

「僕は散歩していた」

「お坊ちゃまのやりそうなことだね。じゃあこれ以上、お坊ちゃまの暇つぶしに付き合っている時間はないから、私行くわ」

 そう言うと、路花は自転車にまたがってペダルに足をかけると右足に力を入れた。自転車が動き出す。路花の乗った自転車が遠ざかって行く。

「僕は、お坊ちゃまなんかじゃないぞ!」

 小さくなって行く路花の背中に向かって声の限りに叫んだが、路花からの反応は全くなかった。

 転校して以来、古川や長嶋、柿男たちのグループに混じって弁当を食べていたが、正直、食べたあとの残り時間まで一緒に過ごすことには耐えられなくなっていた。話題が幼稚過ぎたし、学年の中で自分たちは選ばれた存在だという安っぽいエリート意識が随所に垣間見えて、正直反吐が出そうになることもあった。

 相変わらず早朝の散歩は続けていたが、偶然路花と出会った場所には決して近づくことはしなかった。

 そろそろ弁当も一人で食べるようにしようかなと思い始めた頃、三年一組だけ特別に抜き打ちテストが実施された。それも、前日に予告があるとかではなく、朝登校したら、いきなりホームルームで、「今日、全ての時間を使って、主要五教科のテストを行うことになった」と担任から言われたのだ。

 教室中がブーイングの嵐になったが、担任が「このテストはこの三年一組だけが実施する。お前たちは選ばれた生徒なんだぞ。これくらいのことで文句を言ってどうする」と言った途端に、嵐はすぐに去ってしまった。

 昼休みは全員が午後のテスト教科を勉強するために自分の机で弁当を食べた。正直、晴彦にはありがたかった。毎日テストが実施されれば良いのにとさえ思ったほどだ。

 テストの採点結果は翌日の朝のホームルームで担任から各自に手渡された。ご丁寧にも総合得点と、クラス順位だけでなく、教科ごとの得点とクラス順位まで記載されていた。

 晴彦は総合順位でトップだった。教科ごとでは英語と国語は二位で、後はトップだった。結果を表にして教室の後ろに貼り出すわけではないので、これは各自が自身の現在の実力を把握するためのテストだと晴彦は理解した。

 今日から弁当を一人で食べると決めて、晴彦は昼休みになると校庭に出た。体育の授業の時に体調の悪い生徒が見学をするためのベンチに座って弁当を食べることにした。

 母親には外でも食べやすいように、今日からサンドイッチの弁当にしてもらっていた。弁当箱が入っている袋を開くと、プラスチックの筒状の容器におしぼりも一緒に入れられていた。

「気が利くよな」と感心をしながら手を拭いて、サンドイッチを一切れ手に取った時に、ベンチに人影が近づいてきた。影の方向に顔を上げると、そこに吉住路花がいた。

 先にきていた晴彦にひと言も言葉をかけることもなく、路花は少し間隔をとって隣に座った。非難をしたわけではないが、そんな様子を目で追っていたら、いきなり路花に睨まれた。

「別に、あんた専用のベンチじゃないでしょう」

 当たり前だ。僕が寄付をしたベンチではないと晴彦は心の中で思った。

 それから、二人は黙々と弁当を食べた。互いに横を向かないように、真っ直ぐ前を向いたままで食べた。あまりにも目の前だけを見ていたので、すでに活動を始めているクロ蟻の姿を見つけてしまったほどだった。

 これも母親が持たせてくれた水筒に入れた紅茶を飲んでいたら、いきなり路花が話かけてきた。

「昨日の抜き打ちテストの結果、四方君がクラスで一番だったんでしょう」

「……」

 そう訊かれても、「はい、そうです」とは答えられない。

「隠さなくてもいいでしょう。カンニングなどの不正をしたわけではないんだから」

 なんで、カンニングの話にいきなり飛んだりするんだ。

「君はいつも失礼な言い方をするね。あの時もそうだった」

「あの時って?」

「朝の散歩で偶然に出くわした時のことだよ」

 覚えていないとは言わせない。

「あの時、私、なんか失礼な言い方をしたかな?」

 あんな失礼なことを言っておきながら覚えてないと言うのか。

「僕のことをお坊ちゃま呼ばわりしただろう」

「はははは」

 路花はいきなり大きな声で笑いだした。その様子に晴彦は呆気に取られていた。

「四方君って、ちょっと変だね。泥棒呼ばわりとかという表現なら分かるけど、お坊ちゃま呼ばわりなんて言葉、昨日のテストで書いていたら確実に×だよ」

「ほらまた、人を勝手に変人扱いしているじゃないか」

「変人扱いなんかしていないでしょう。私はちょっと変だと言っただけじゃない。それよりどうなのよ、テストの結果」

「僕に訊く前に、まずは自分の成績を話すのが礼儀だろう」

「ちょっと変なだけじゃなくて、だいぶ面倒臭い奴でもあるんだね。はいはい、分かりました。私は、総合順はクラスで二番。教科ごとでは英語と国語が一位で、後の三教科は二位でした。どう、正直に話したわよ」

「どうして僕の成績を吉住さんは訊きたいの?」

「だって、この学校の中で、私はこれまでに一度も負けたことがないから、負けるとしたら転校してきた四方君だけだろうなと目星をつけたからよ」

「それを訊き出すために、教室から出た僕を追いかけてきたんだな」

「まさか、それは偶然よ。ひょっとして自分のこと人気者だと勘違いをしていない?」

「していないよ」

「だったら、勿体ぶらないでさっさとテストの結果を白状しなさいよ」

「そうだよ、昨日の抜き打ちテストの結果は、総合得点で僕が一位だった。教科別では、君が二位の教科は一位で、君が一位の教科は二位だった。正直に話したんだから、これでもう良いだろう」

「五月の中旬に行われる一学期の中間考査も、七月に行われる期末考査でも、今度は私がトップになるから。覚悟をしておいて」

 路花は睨みつけるように晴彦を見た。まるで憎い相手を見るような目で。

「それは、君の目標であって、僕が覚悟をすることではないよ。僕は僕で頑張るだけだから」

「余裕の発言ということ。お前なんか相手にはしていない。たかが田舎の中学校じゃないかということなの?」

「そんなことを軽々しく言うもんじゃない。自分自身を貶(おとし)めている言葉だぞ」

「私には勉強しかないのよ。とにかく一学期中にトップになるしかないの」

 この路花の言い方に、晴彦は切羽詰まったものを感じ取った。

「柿男と親しいなら、もう知っているよね、私の顔の痣のこと」

 そう言うと、路花は左の顔半分を覆っていた髪の毛を手で払い除けた。

「……」

 そこには、まるで曼珠沙華の花が開いたような真っ赤な痣が、左の目の横から頬にかけて広がっていた。

「どう、びっくりした。気持ち悪いと思った?」

「君は自分の顔を鏡で見た時に気持ちが悪いと思うのか?」

「そんなこと思うわけがないじゃない。自分の顔だもの、この赤い痣が愛おしくて美しいとさえ思っているわよ」

「だったら、僕も同じ思いだよ。気持ち悪いなんて微塵(みじん)も思わない。それよりも、これを塗りつぶして隠そうとしていない、君の姿勢を僕は尊敬するよ」

 晴彦は路花の顔を真っ直ぐに見ながら言った。

「したわよ。この痣を隠そうと何度も、色々な方法を試してきたわよ」 

 そう言う路花は、今までの強気な表情とは打って変わって、しおれた花のようだと晴彦は思った。

「ねえ、四方君、今日のように青い空が広がっている時でも、人はなぜ、このとてつもなく大きな青空の中に、ほんの小さな雨雲を探そうとするんだろうね」

「えっ、どういうこと?」

 確かに路花の言うように、見上げると、今日はまるで青い絵の具で塗りつぶしたような気持ちの良い空が広がっていた。

「私ね、中学に入学するタイミングで思い切って、化粧で痣を隠して通学することに決めたの。私や柿男が通っていた小学校は小さかったから、同じ小学校からこの中学に進む子は、三十名足らずだったし、チャンスだと考えたの。実は小学校の時から化粧で隠す方法はずい分練習をしていたから、自分でも完璧だと思っていた」

「実際に、それは実行されたの?」

「したわよ。もう髪の毛で隠す必要もないし、周りは私の痣のことなど知らない生徒ばかりだったし。学校に通うのが本当に楽しかった。でもね、ある日の朝のホームルームで、クラスの女子が手を挙げて、先生にこう言ったの。『先生、校則に違反して学校に化粧をしてきている生徒がこのクラスにいます』って。その子は、同じ小学校から入学した子だった」

「なんで、その子はそんなことを言ったんだろう?」

「私、中学に入学してから、なぜか同学年の男子や、先輩から告白をされるようになったの。もちろん、痣のことがあるから全部断っていたわよ。きっと、その子は私が痣を隠して自由に振る舞っている姿が許せなかったのね」

「それで、もう化粧で隠そうとはしなくなったというわけ?」

「中学に入学する時に、母親と一緒に校長、教頭先生、それに担任になる先生には、正直に話しをして、化粧で痣を隠すことは学校から承諾をもらっていたの。だから、その子の発言に対して、担任の先生が取り上げなかったの。ホームルームはこれで終わったけど、その後からはまるで犯人探しよ。いったい誰が化粧をしているんだって、クラス中大騒ぎ。だから、その子のお望み通り、次の日から私は全く痣を隠さないで学校にくるようにしたの」

「そうだったんだ。翌日からがまた大変だったんじゃないか」

「それは、それは酷いことを言われ続けたわよ。化け物なんて生易しいものよ。中にはまことしやかに、先祖の祟りが痣となって顔に出ているなんて、全くのデマを吹聴する連中までいたわよ。外観でこれほど酷い仕打ちを受けるなら、頭の中身で勝負してやろうと思ったの。お前らには絶対負けないぞと、見返してやりたかったの」

「だから、自分には勉強しかないと言ったんだね。でも、なぜ一学期中にトップになるなんて期限を切ったりしたの?」

「私、一学期が終わると転校をするの」

「えっ、どこかへ行ってしまうということ?」

 晴彦の脳裏を、生活費を稼ぐために新聞配達をしていると言った時の路花の顔が蘇っていた。その転校の陰に不幸の気配が潜んでいるのだろうか。

「そんな暗い顔をしないでよ、おめでたい話なんだから。うちは、私が小さい頃にお父さんが病気で亡くなったから、ずっと母子家庭だったの。でも、お母さんが再婚することになって、新しいお父さんが住んでいる東京に、夏休みに引っ越すことになったのよ。四方君とは真逆な境遇というわけ。二学期からは東京の中学生。来年の四月は東京の女子高校生というわけ」

「それで、転校する前にクラスで成績トップになりたかったんだ」

「うちのクラスでトップということは、そのまま学年でトップということだから。私、頑張るからね。青葉学園になんか負けないよう」

「僕はもう青葉学園の生徒ではないから、関係ないよ。吉住がその気なら、僕も絶対に負けない」

「吉住じゃなくて、路花でいいよ。どうせ吉住は、八月になると別の苗字に変わるから。だって、今度東京で会った時に、私のことどう呼んだらいいか分からないでしょう。路花なら一生変わらないから」

「東京で会えるかどうかも判らないじゃないか」

「でも、大学は東京の大学を受けようと思っているでしょう?」

「そんなの、まだ決めていないよ」

「嘘つき、田舎に引っ越すことが決まった時から、東京の大学に通うことを考えていたくせに」

「僕の人生設計を吉住が勝手に決めるなよ」

「だから吉住じゃなくて、路花だって」

「じゃあ、路花は、今度東京で会った時に僕のことをなんて呼ぶ気なんだよ」

「そうね、お坊ちゃまとでも呼ぼうかな」

「おい、それは絶対に許さないからな」

「嘘、嘘、晴彦君って呼ぶよ。だって、晴彦君の家もうちと同じ境遇だから、お母さん、再婚して苗字が変わる可能性あるものね」

「それはどうかなあ。今は、結婚なんてもうこりごりだと言っているけどね」

「女心は、移り気だから」

「路花、ナニ、お昼外なの?」

 校庭に出てきた二人組の女子から声がかかる。

「うん、あんまり天気が良いから、たまにはいいかなと思って」

 路花はそう返した。

「しかも、ちゃっかりランチデートなんかしているし」

「違う、違う、そんなじゃないって」

「まあ、上手くやりなよ」

「だから、違うんだって」

 こう何度も「違う」と言い続けられると、それが事実であっても結構傷ついてしまうことを、初めて経験した。

「彼女たちとは、知り合い」

「幼稚園からの友だち。三年五組だけど」

 三年五組といえば、二年生三学期のテストで、下位から四十名に入っているということだ。そう思ったことが、きっと晴彦の顔に出ていたのだろう。

「もしクラスを決めるテストが芸能界に関することだったら、あの子たちは確実に上位で三年一組だよ」

 路花がそう言った。

「芸能界という教科がないことが、彼女たちには不運だったね」

「一組に入れたら名誉で、五組だから不名誉というのは、きっと違うよね。何十年か経ったあと、一組の生徒がみんな幸せに暮らしているかは、誰にも分からないもの」

「それは言えている」

「晴彦君」

 言葉が喋れるようになった時から、ずっとそう呼んでいるような自然さで、路花はそう呼んだ。

「なに?」

「私が幸せになることへのプレゼントだと思って、今度の中間考査、手加減なんてしないでよ。私は本気でトップを取りに行くから」

「そんな、失礼なことはしないよ。僕も本気で試験勉強をする」

「それともう一つ、お願いがあるんだ」

「今度はなに?」

「朝の散歩の時、デートしようか」

「朝のデートって、路花は新聞配達で忙しいじゃないか」

「だから、私の新聞配達を手伝いながらデートをするということよ」

「おい、ちょっと待て。それはデートいう名をかたって、只働きをさせるということじゃないか」

「ヘヘヘイ、バレたか。さすがに青葉学園出身、頭いいね。でも、二人でデートできるのはその時しかないよ。こうしてベンチで弁当を食べていたら、さっきみたいにからかわれてしまうから」

「なし崩し的に話が進んでいるけど、僕たち付き合うということ?」

「そういうこと。夏休みまでの期間限定カップルということ」

「なんか、路花に引っ張られている感が拭えないな」

「嫌なの?」

「嫌ではないけど」

「じゃあ、決まりだね。はい、これ。晴彦君から書いて」

 路花は晴彦にノートを押し付けた。

「何、僕から書いてって?」

「カップルといえば、交換日記というのが定番でしょう。私、一度経験してみたかったのよ」

「交換日記をするために、僕と付き合いたいの?」

「それも半分ある。残り半分は、晴彦君に興味があるから」

「魅力があるからではなくて、興味あるから?」

「そう。でも、付き合うきっかけなんて、そんなもんでしょう。大事なのは付き合い始めてからだもの」

「それは言える」

 なぜか納得をしてしまっていた。

「じゃあ、交換日記は明日の朝、受け取るということで。それと、明日から散歩は新聞配達ができる服装でくるようにしてね」

 そう言うと路花は、まるで先ほどまでの二人が交わした会話や、一緒に過ごした時間などには全く未練を感じていないような潔さで、その場を去って行った。

 突然の出現、突然の告白、そして風の如くの立ち去り。この一連の騒動(晴彦にとっては正しく騒動だった)に、どうして自身が翻弄されてしまったのだろうかと、もうすでにかなり小さくなっている路花のうしろ姿を、おぼろげな視界の中に辛うじて捉えながら晴彦は思った。

 学校を終えて帰宅後も、晴彦は今さらながらずっと後悔をしていた。

「どうして付き合うことをOKしてしまったのだろうか」

 夕食と入浴を終えて、机の上に路花から渡された交換日記用のノート置いて、それを睨みつけながら晴彦は思案にくれていた。

 まだ白紙のまま一行も書かれていないノート。もちろんこれまでに交換日記など書いたことはない。それどころか、生まれて十四年八か月間、小学校低学年に夏休みの宿題で描いた絵日記以外、日記すら書いたことがなかったのだ。

 明日早朝には路花に渡す約束(一方的に決められた納期だが)になっている。

「ああ、いったいどんなことを書けばいいのか?」

 考えれば考えるほど、分からなくなってきた。

 入浴を終えて机の前に座ったのが午後九時だが、机の上に置かれた目覚まし時計も兼ねたデジタル時計は、「23」という数字を表示していた。

「とりあえず無難に自己紹介を書いておくか」

 二時間もの長い間、散々思案した挙句、晴彦が辿り着いた結論がこれだった。

 生年月日、星座、生誕地、趣味、好きな食べ物、嫌いな食べ物を簡潔に書いた。

 これでなんとか五行は埋めることができた。

 青葉学園から賀谷町立中学に転校してきた理由も書こうかと迷ったが、登校初日に一緒に下校した柿男さえも晴彦の両親の離婚を知っていたので、決して自慢できる話でもないので、わざわざ知らせることでもないだろうと書くのを止めた。

 日記は完全にプライベートなものだが、これが交換日記となると、どこまでプライベートな領域に踏み込んで良いのか分からなかった。

 これくらいで良いだろうと、書き出すまでには二時間も悩んだが、いざ書き出してしまうとたった五分で終わってしまった交換日記のノートを閉じて、晴彦は目覚まし時計のアラームを五時にセットをしてベッドに入った。

 翌朝、先日路花の自転車と遭遇した、この街のメイン道路の辺りに、この前と同じくらいの時刻に到着するように家を出た。昨夜はベッドに入るまでずっと頭を使い続けていた(実際には交換日記に何を書こうかと悩んでいただけだが)ので、さすがにベッドに入ってからもなかなか寝付けなかった。そのために、目覚ましのアラームに急かされて五時に起きるのは正直辛かった。

 目的の場所には路花が先にきていた。自分のことを待っている路花の姿は。すでに明るくなり始めている朝の光の中で、ずい分遠くから晴彦の視界には入ってきていた。

「走ろうか」

 一瞬そう考えたが、思い止まった。待ち遠しかったと誤解されたくなかったからだ。

 先に声をかけてきたのは路花の方からだった。

「おはよう。眠そうな顔をしているけど、試験勉強のやり過ぎじゃないの」

「普通中学生は、こんな早い時間に、こんな所にはいないだろう。眠くて当たり前だよ」

「それでは、普通ではない中学生二人で、早速新聞を配りに行きましょう」

 そう言うと、路花は晴彦に自分の自転車の後ろに乗るように命じた。

「いいよ、僕は走るよ」

「そんなことしたら、遅くなっちゃうよ」

「いくらなんでも、女子が漕ぐ自転車の後ろには乗れないよ」

「へえ、そんなことに拘っているんだ。うーん、だったら晴彦君が自転車を漕いでよ。私が後ろに乗るから、それなら問題ないでしょう」

「納得はしていなけど、そうするしかないね」

 渋々だが、晴彦は自転車を発進させた。

「道順は路花が指示しろよ」

「OK.まずは二百メートルほど直進」

 街のメイン道路には車の往来など全くなくて、多少ふらつきながらも路花を後ろに乗せた自転車は真っ直ぐに走り続けた。

「次の角を左に曲がって」

 指示された商店の角を左に曲がると、緩やかな上り坂が長く続いていて、その坂に沿った両側にずらりと民家が建ち並んでいた。

「私が配って回るから、晴彦君は自転車を押しながら付いてきてね」

 自転車から素早く降りると、前カゴから新聞の束を引き出して、駆け足で家々のポストに新聞を突っ込んで行った。この地区が終わると再び自転車に二人乗りをして、民家が集まっている集落に移動をして同様に新聞を配って行った。

 晴彦が路花と合流してから、一時間ちょっとで新聞配達は終わった。

 今朝合流をした地点に二人乗りで帰る途中、路花から「ストップ」がかかった。晴彦が自転車を止めると路花が素早く降りて、近くにあった自動販売機から缶入りのコーラを二本買って、その一本を晴彦に渡した。

「新聞配達を手伝ってくれた、ほんのお礼」

 コーラは、もう長い間自動販売機の中にいたように、びっくりするくらいに良く冷えていた。

「晴彦君が手伝ってくれたから、いつもよりもずい分早く配り終えることができたよ。ありがとう」

 路花はコーラを開けると、ごくごくと喉を鳴らして飲み始めた。晴彦は自転車を押していただけだが、路花は走りながら新聞を配っていたので喉が渇くのは当然だ。

 晴彦は自転車にまたがったまま、路花はその横に立って、少しの間コーラを飲んだ。

「そういえば、肝心の交換日記は書いてきた?」

「ああ、ちゃんとリュックの中に入っているよ」

「お利口、お利口」

「それは、お母さんが幼い子供を褒める時に言う言葉だよ」

「誉め言葉に年齢の区別はありません」

「それよりも、新聞配達の手際が良いね。新聞配達は中学に入学してから始めたのか?」

「ううん、小学五年生から。本当はもっと早くからやりたかったんだけど、販売店の決まりで配達員として雇ってもらえるのが、五年生になってからなのよ。だからもう新聞配達を始めて五年目になるから、まあ、手際だって良くなるわよ」

 路花は冗談めいた口調で言ったが、小学五年生の女の子がこんな朝早い時刻から一人で新聞配達をしている光景は、晴彦には想像もできないことだった。真冬の午前五時は真夜中に等しい暗さだろう。

「頑張ってきたんだな、路花はずっと」

「でも、これも東京に行くまでの辛抱。東京に行ったら新しいお父さんのもとで、新聞配達をしなくて良いだけでなくて、お母さんも憧れの専業主婦になれるんだから」

「お母さんの憧れは専業主婦なのか?」

 晴彦の家は離婚をしたが、生まれ故郷に帰ってきてからも母親は専業主婦のままだ。

「お父さんが亡くなってから、お母さんはお父さんの分まで働いてくれていたから、これで少しは楽がしてもらえるかなって、私は喜んでいる」

「良かったな。東京には路花とお母さんの幸せが待っているわけだな」

「うん、そうだよ」

「じゃあ、これ忘れないうちに渡しておくよ」

 晴彦はリュックサックの中から交換日記を取り出すと、路花に手渡した。

「どんなこと書いてあるか楽しみだな」

 受け取りながら路花はわくわくした感じでそう言った。

「常識的なことしか書いてないから、過度な期待はしないでくれよ」

「過度な期待って何よ。例えば『大好きだ』と告白が書いてあるとか?」

「ばかな、そんなこと書くはずがないだろう」

「でも、顔赤くなっているよ」

「路花がろくでもないことを言い出すからだよ。もう帰るぞ。ここでお別れだからな」

 家の方向に歩き出した晴彦の背中を路花の声が追いかけてくる。

「明日もきてくれるよね。私からの交換日記を渡したいし」

「ああ、今日と同じ時刻に、この場所にくるよ」

「判った。今日は本当にありがとう。明日もよろしくねえ」

 自転車の動く音が聞こえてきたので振り返ると、もう路花が乗った自転車はかなり小さくなっていた。

 翌朝も路花の新聞配達を手伝い、路花から交換日記を受け取った。

 帰宅して玄関のドアを開けると、そこに母親が立っていて、晴彦は思わず「うわー!」の声を上げてしまった。

「晴彦、毎日、こんな朝早くからどこへ行っているの?」

「どこって、散歩に決まっているだろう。お母さんには前にもそう説明したよね」

「それは聞いていたけど、毎日こんな早くに起きて散歩に行くことはないでしょう」

「何を言っているんだよ。青葉学園に通っていた時は、もっと早い時間に起きていたでしょう。僕だけでなくお母さんも。その習慣で、早くに目が覚めてしまうんだよ。僕と違ってお母さんはすぐに田舎の生活スタイルに慣れてしまったけど」

「それって、お母さんのこと、咎めている?」

「ううん、事実を言っただけだよ。それより、すぐに朝ごはんにしてよ。お腹ぺこぺこなんだから」

 慌てて台所に行く母親を見ながら、「まさか、路花と一緒にいるところを、近所の人に見られたわけではないだろうな」と、少し不安になっていた。

 朝食を済ませたあとも、学校に行くまでにかなり時間に余裕があり、もったいないことに、この時間を持て余していた。食堂を兼ねた居間で、母親が好んで観ている朝のワイドショーを観るのも、届いたばかりの朝刊を読むことにも、あまり気乗りがしなかったので、晴彦は早々に部屋に引き上げた。

 かといって、路花が絶対にトップに返り咲くと熱くなっている、中間考査のテスト勉強にも、やる気を見出すことができなかったので、晴彦は今朝受け取った交換日記を読んでみることにした。

 交換日記とはいったいなんなのか、どんなことを書くのか、二時間も悩んだ挙句、簡単な自己紹介しか書けなかった晴彦とは違って、路花はノート一ページを全て文字で埋めていた。


  4月17日(火)晴れときどき曇り

 交換日記の始まり。初めて私から書く日記。なんだか、わくわく、どきどき。でも、わくわくの方が大きいかな。

 今朝は晴彦君が新聞配達を手伝ってくれたおかげで、いつもより二十分も早く配達を終えることができた。その分、一生懸命に走り回ったので、終わった頃には喉がカラカラに渇いてしまっていた。晴彦君へのお礼も兼ねて自動販売機で買った缶コーラを飲んだ時、よほど喉が渇いていたこともあるのだが、特別な飲み物かと思うくらいに美味しかった。

 日頃、あんまり炭酸飲料を飲まないので、「あれ、コーラってこんなに美味しい飲み物だったっけ?」と、見直してしまったほどだ。

 晴彦君、今日は新聞配達を手伝ってくれて本当のありがとう。でも、よく考えると、私のわがままに付き合ってくれているけど、新聞配達を手伝うことって、晴彦君にはなんの特典もないんだよね。本当に私って、思いついたらあと先のことも考えないで、すぐに突っ走ってしまうタイプだから、晴彦君ごめんね。ちゃんと特典は考えておくからね。

 こんな自分勝手な感想を書くのは少し気が引けるけど、でも今日感じたことを正直に書くね。

それは、誰かと一緒だと新聞配達も、こんなに楽しいことなんだと、新しい発見をしたことです。

 私は小学五年生の時からずっと一人でやってきたから、新聞を配達することが楽しいなんて、ただの一回も思ったことがなかったの。子供がお金を稼ぐということは、やっぱりこんなにも大変なことなんだと、そればかりを思いながら、特に真冬の暗くて寒い朝や、激しく雨が降っている朝に家を出る時は、本当に辛かった。

 でも、晴彦君のおかげで、十四歳にして早くも仕事の喜びや楽しさを知ることができました。こんな私が大人になったら、きっとばりばりのキャリアウーマンになってしまうでしょうね。

 私は、晴彦君にとても感謝しているのよ。もちろん、新聞配達を手伝ってくれたこともそうだけど、今までに私の顔のあざを見た時に、気持ち悪そうな、不気味なものを見るような顔をしなかったのは、晴彦君だけでした。そのことが私はとてもうれしかったの。

 晴彦君とクラスメイトでいることができるのは、一学期が終わるまでだけど、それまで、ずっと私の大好きなクラスメイトでいてくださいね。     路花


 日記を読み終えて、晴彦は同じ歳の路花がこんなにも色々なことを考えていることに驚いた。持て余した時間のついでに手伝った、たった一時間の新聞配達なのに、路花はこんなにも感謝をしてくれている。労働のあとに飲んだコーラが、こんなにも美味しいものだということを、初めて知ったと言ってくれている。

 小学五年生にして、労働の対価のことをしっかりと考え、生活のために懸命に働いてきた路花と自分を対比することは無意味だし、するつもりもないけど、路花が望むように、一学期が終わるまで、夏休みになって路花が東京に行ってしまうその日まで、僕は路花が大好きと言ってくれたクラスメイトで居続けよう。晴彦はそう思った。

 そして、家を出るまでにまだ時間があるので、日記を書くことにした。


4月18日(水曜日)晴れ(といってもまだ朝だけど)

 僕は、東京の学校に通っていた時にも、今と同じように午前四時半には起きていた。まだ完全に起きてはいない体のまま、お母さんが作ってくれた朝食を、全く食欲を感じないまま無理やり胃の中に流し込んだあとに、お母さんに急き立てられながら、寝ぐせのついた髪のままで、家を飛び出ていた。

 バスで私鉄の駅まで向かい、駅で電車に乗り換えて、学校の最寄り駅に着いた頃に、やっと体と頭が完全に目覚めるという感じだった。学校の正式な始業は八時四十五分だったけど、その一時間以上前の七時半から、予備校の講師が行う補習授業があった。これは自由参加が原則だったけど、クラスで出席をしない生徒は一人もいなかった。もちろん僕もその一人だ。

 四時半に起きて、平日は毎日七時半から勉強をしていた。これが、僕の東京に住んでいた頃の朝の様子だよ。

 それがどうだろう。こっちに引っ越してきて、朝の様子ががらりと変わった。それでも人間の生体時計というものは凄いもので、引っ越した次の日の朝も、四時半に目を覚ましてしまった。しかもお母さんに無理やり起こされていた東京の時とは違って、今では自分の意志で起きることができるようになっている。

 今の僕には、こんなに早く起きてしまっても、もうバスや電車に揺られて、遠く離れた学校に行く必要もないので、朝食の準備が整う七時頃までの、この余裕のありすぎる時間を持て余していた。それで、仕方なく早朝の散歩に出ることにした。そして、散歩に出た初日に新聞配達をしている路花に偶然会った。このことがきっかけで、昨日からは新聞配達を手伝うようになった。

 不思議だよね。同じ日本に暮らしているのに、そして、まだ十四歳なのに、こんなにも住んでいる地域によって時間の使い方に大きな差があるなんて。

 じゃあ、晴彦君はどっちの時間の使い方が好きなの?って、もし路花に訊かれたとしても、今の僕にははっきりとは答えられないと思う。なぜなら、東京での僕の生活は過去であり、もう終わったことだけど、賀谷町での生活は現実であり、これからの未来には何が起こるか分からないからだよ。

 でも、確実に言えることがある。それは、僕は現状に全く不満を持っていないということだよ。東京での通学の時には、電車に座れないとか、ホームを歩いている時に肩をぶつけられたりとか、毎日のようにイライラしたり、嫌な目にあうことが多くて、僕の心は不満でいっぱいだった。

 それが賀谷町に引っ越してきてからは、心の中に不満が溜まることが無くなった。僕は、今のこの朝の時間を大切に使いたいと思っている。だから、路花が東京に引っ越して行く日まで、僕は必ず路花のクラスメイトでいることを約束するよ。

                             四方晴彦


 次の日の新聞配達の時に、晴彦はノートを路花に手渡した。

 二人の新聞配達と交換日記は、その後も一日も休むことなく続いて行った。

 日記の中で、路花は引っ越したあと、東京にやりたいことをよく書いてきた。

・東京ディズニーランドに行って、ミッキーマウスと一緒に写真を撮ること。

・原宿に行って、チョコレートと生クリームがいっぱい入ったクレープを食べること。

・池袋サンシャイン水族館で、ラッコを見ること。

・渋谷109で可愛い洋服やアクセサリーを買うこと。

 地方の中学生が夢見るようなことを、路花も日記の中に書いてきた。

 四月から五月にかけての、世間でいうゴールデンウィークの飛び石連休の日も、晴彦は新聞配達を手伝った。この間、隔日で取り交わされる交換日記が遅れることも、一日飛んだりすることも一切なかった。

 東京で青葉学園に通っていた時には、男子校だったこともあり、同世代の女子と接することなど皆無だった。授業開始前に予備校から講師が派遣されて、補習授業が行われていたので、放課後に学習塾に通うことはしていなかった。だから、学校以外で女子と知り合うきっかけがなかったのだ。

 こうした勉強以外の世界からは、半ば隔離されたような中学生性格を送っていたから、なんの衒いもなく路花と接することができているのかもしれないと、転校して一か月近くが経った今、晴彦はそう自己分析をしていた。

 五月に入ると急に朝の到来が早くなってきた。家を出る午前五時半にはすでにかなり明るくなっている。最初に路花の姿を偶然に見た時には、まだこの田舎町は薄暗さの中にすっぽりと包まれていたのに。

 朝の到来の早さは、気温の上昇を伴った。パーカーの上に青葉学園のウインドブレーカーを着て新聞配達を手伝っていたが、5月に入ってからはウインドブレーカーなしで、パーカーのままでも寒さを感じなくなってきた。

 それは晴彦に限ったことではなくて、路花も同じだった。厚めのジャンバーを着ていた路花も、ジャンバーを着ないで、トレーナーだけで新聞配達にくるようになった。

 待ち合わせの場所までの道のりにある、家々の垣根越しに、つつじやさつきがきれいな花を咲かせているのが見えた。明らかに季節が動いているのを実感として、目で匂いで確かめることができた。路花がトップを狙うと宣言をしていた、中間テストが近づいてきていた。いや、それは路花が東京に行ってしまう夏休みが、近づいてきていることを同時に意味しているのだ。

 着ている洋服が薄くなった分、自転車の後ろに乗っているトレーナー越しの路花の体を、背中に直接感じているような錯覚を覚えてしまうこともあった。体の感触というよりも、それは体温といった方が正確かもしれない。お互いにウインドブレーカーとジャンバーを着ていた時には感じなかった、路花の体温を背中に感じているような錯覚を覚えてしまうのだった。

「私は、この季節が一年の中で一番好きなんだよね」

 連休を終えた月曜日の朝、新聞配達を終えて、この日も自動販売機で缶コーラを飲んでいる時に、空を見上げながら路花が言った。

「テストの話をしていたのに、突然、なんの脈絡もない話にすり変えるんだな。まあ、路花はいつもそうだけでなあ」

 晴彦はすでに飲み干しているコーラの空き缶を右手に持ったまま、笑いながら言った。

「だって、晴彦君もそう思わない? この季節、寒くもないし暑くもないし、天気のいい日も多いし。新聞配達にはもってこいの季節だよ」

 同意を求めるように、路花が晴彦の顔を覗き込むように見た。

「新聞配達の立場で、僕にはどうこう言えないよ。だって、新聞配達を手伝うようになって、まだ一か月足らずの新参者なんだから」

 空になった缶を路花の分まで捨てに行こうと、「もう飲んだ?」と言うように、路花の方に手を伸ばすと、「私が捨ててくるよ、晴彦君の缶も渡して」と言って、強引に晴彦の手から空き缶を奪い取ると、走って自動販売機の横の回収容器に捨てに行った。

「応用力に乏しいなあ。だから、新聞配達の立場ではなくて、私が言いたいのは生活をして行く上での話よ。過ごしやすいかどうかの話」

「ああ、そういうことか。だったら、僕は夏が好きかな。小学校の低学年の頃は、夏休みになるといつもここにきていたしね。でも、中学受験をすることになって、四年生になると夏休みは受験のために塾に通っていたから、それからは季節も何もなかったし。季節といって思い浮かべるのは、低学年の時の夏休みだけだから」

「四年生からもう中学受験の塾に通い始めるの? すごい世界だね」

 路花は想像もできないと付け加えた。

「それでも僕は中学受験だけだったけど、同じ中学には、幼稚園受験のための塾にも通っていたという生徒もいたから、僕なんかまだ楽な方だよ」

「住む世界が違うって、こういうことを言うんだね。この辺では、受験したくても、そんな私立の学校なんか近くにはないし。高校だって試験なんて名ばかりで、希望さえすれば公立の高校には入学できるし」

 路花には珍しく、かなり投げやりな言い方をした。

「でも、路花は二学期からは東京の中学校に通うことになるんだから、否が応でもこうした受験戦争に巻き込まれることになるよ」

「東京じゃあ、受験は戦争なの? 晴彦君はそんな風に感じていたの?」

「少なくとも通っていた塾では、同じクラスの塾生は、全員僕の敵だと思っていた。だから、長い休みごとの集中講座の時には、合宿をするから四六時中一緒に生活をしていたけど、一度も心を通わせることはなかった。それは青葉学園でも同じだよ。僕が言っていることが大げさではないことは、転校してくる時も、誰一人として『寂しくなるよ』と言ってくれるような友だちはいなかった。みんな、ライバルが一人減って喜んでいたんじゃないかな」

 つい二か月前まで通っていた青葉学園のことを思い出しながら、晴彦は話した。話し終わってみて気がついた。そういえば、学校のことを人に話したのは、中学に入学してから初めてのことだったんじゃないだろうか。

「だったら、今は賀谷中学に転校して良かったと、少しは思うことがあるの? 少なくとも受験戦争からは解放されたわけだし」

「この町に越してきて、賀谷中学に転校したことで、良かったと感じることはあるよ。青葉学園の時には、そんなこと考えたりもしなかったから、そんなことを考えるようになっただけでも、自分の心に血が通い始めたという実感はあるよ」

「やっぱり、東京育ちの人間は、自分の気持ちを難しい言葉で話したがるんだね。心に血が通うって言われても、私には全くピンとこない」

「相変わらず、言いたいことをはっきり言うな。だったら、もっと分かり易く言うなら、賀谷中学に転校して路花と知り合えて、東京に住み続けていたら一生経験することがなかった、新聞配達もこうして経験しているし、よかったと思うよ」

「それって本気で言っている?」

「もちろん、本気で言っているよ」

「じゃあさあ、私が東京に転校したら、この私の新聞配達を引き継いでくれないかな。新しい人に一から教えるのは面倒だし。晴彦君なら明日からでもすぐに引き継げるし」

「それも良いかもね。どうせ、路花が転校したあと新聞配達を手伝わなくなったら、朝の時間を持て余すことになるし」

「これで、話は決まった。それなら、明日から引継ぎのために正式に配達を手伝ってもらうということで、晴彦君にも配達料をもらえるように、配達所の所長に交渉をするよ。このままただ働きしてもらうのは、私も気兼ねだし」

「おいおい、話の展開が早すぎないか? 僕の方も母親に、新聞配達を手伝っていることは全く話をしていないし、引き継ぐならそこから始めないといけないし。とにかく、今日、帰ったら早速母親に話をしてみるよ」

「分かった。今日のところは所長には何も言わないでいるね」

「新聞配達を手伝うどころか、自分が配達をするようになるなんて、東京にいた頃には夢にも思わなかっただろうな。それよりも、中間テストまでもう二週間になったけど、試験勉強は順調に進んでいるか? クラスでトップを目指すと宣言していただろう」

「もちろん、目標は変えていないし、そのための努力も怠ってはいません。覚悟をしておいてね、中間テストの学年トップは、私がいただくことになるから」

「そこまで言われると、僕のやる気にも火が付くな」

「まあ、お互いにがんばりましょうということで、はい交換日記を渡すね。そろそろ帰らないと、今朝はいつもより長くおしゃべりをしているから、急がないと」

「あっ、本当だ。じゃあ、僕も走って帰るよ」

 受け取った交換日記をリュックに入れると、路花は自転車で、晴彦は走りでそれぞれ急いで自宅に向かった。

 その日学校から帰り、祖父母も一緒に四人で夕食をとっている時に、何気ない感じを装って、晴彦は新聞配達のことを切り出した。

「お母さん、僕、せっかく毎日早起きの習慣がついているので、新聞配達にチャレンジしてみようかと考えているんだ。せっかくこっちに引っ越してきたんだし、今までやったことがなかったことを経験したいと思って」

「新聞配達?」

 母親にとっては突拍子もないことだったのだろう。そう言った声が裏返っていた。

「懐かしいな。中学生が新聞配達や牛乳配達をするのは、わしらの時代には珍しいことではなかったな。わしも中学の時に三年間新聞配達をしていたし」

「へえ、おじいちゃんも新聞配達の経験者なんだね」

「お父さん、あんまり無責任なことを言わないでよ。お父さんが中学生の頃とは時代が違うの。今の時代、中学生で新聞配達なんてしている子供なんていませんよ。なんで、晴彦はそんなことを考えるようになったの? まさかうちの経済状態を考えてのことではないでしょうね」

「そんな理由ではないよ。それに、今でも新聞配達をしている中学生はいるよ。お母さんの認識が、いつまでも東京の時のままだからだよ」

「わしが新聞配達をしていたのは、家の家計を助けるためだったけどな。でも、お母さんの言う通り、経済的なことを心配して新聞配達をしようとしているなら、それは心配することはないぞ。お前の父さんがそのことはきちんと考えてくれているから」

 祖父が孫の気持ちを考えて、優しくそう言ってくれた。無邪気さを装ってはいるが、もう中学三年生にもなれば、両親が離婚をするにあたって、養育費と、これから僕が大学を卒業するまでの教育費用を、父親がきちんと確保してくれることが条件になっていることぐらいはちゃんと理解している。

「おじいちゃんの言ってくれたことは僕も理解しているよ」

「だったら、新聞配達をしたいだなんて、そんな恥かしいことを言い出すのは、お願いだからもう止めて」

「おい、新聞配達を恥ずかしいことだと思っているなら、それは誤った考えだぞ。汗水たらして行う尊い労働だからな。そんな驕(おご)った言い方は二度とするなよ」

 祖父が厳しい口調で母親を戒めた。

「お父さんの言いたいことは解っているわよ。でも、離婚して実家に帰ってきただけでも世間の目は厳しいのに、その上、一人息子を新聞配達なんかさせてごらんなさいよ、世間からどう思われるか、分かったもんじゃないわよ」

 つまりは母親にとって最も重要なのは世間体なのだ。それを聞いたら、これまで抑えていた自分の気持ちが急に沸騰してきて、もう抑えることができなくなっていた。

「そんなに世間体を気にするなら、なんでこんな田舎に引っ越してきたんだよ。全ては母さんが自分の気持ちを最優先にして、僕の気持なんかちっとも考えないで衝動的に決めたことじゃないか。離婚することで一番傷ついているのは、自分だと勝手に思い込まないで欲しいよ。両親の都合で離婚をして、母親の都合で学校を転校させられる子供のことを、少しでも考えてくれたことがあるの? まさか、子供は親の付属品だとは思っていないよね。こちらは母さんに気を遣って、ひと言の文句も言わないでここについてきたけど、それで新聞配達をしたいと言ったら、世間からなんと思われるか分からないから止めて欲しいだなんて、どれだけ自分の都合を子供に押し付けるつもりなんだよ」

「……」

 母親は唖然とした顔をしていた。それも仕方がない、これまで晴彦は聞き分けの良い息子を、無意識のうちに演じていたことを、話をしているうちにはっきりと認識してしまったのだから。

「急にどうしてそんな話になってしまったの? たかが新聞配達を晴彦がしたいと言い出しただけの話でしょう」

 祖母はおろおろしながら、今の状況をなんとかしようとしていた。でも、もう晴彦は自分の感情を抑え込むことができなくなっていた。

「そんなに世間体を気にするなら、僕は父さんの方に行ってもいいよ。これからも母さんの世間体のために、雁字搦めにされるのはごめんだからね」

 そう言い捨てると、晴彦は食事を途中で止めて、自分の部屋に引き上げた。まさか、新聞配達を始めたいと言ったことで、ここまで話が深刻さを帯びることになるとは、晴彦自身考えてもいなかった。

 部屋に入って机の前に座ると、部屋の照明は消したままで机の上のスタンドだけを点けた。スポットライトのように、小さな範囲だけを照らす蛍光灯の光に浮かび上がったのは、今朝、路花から受け取った交換日記のノートだった。

 明日朝、路花に渡すには今夜のうちに日記を書いておく必要があるが、今の気持ちのままでは日記なんか書けるはずもなかった。でも、この気持ちのまま寝ることなど、さらにできないことだと思えた。かといって、こんな気持ちを聞いてくれる友だとなど一人もいない。

 成す術を失くして目を閉じてみた。今朝の路花との何気ない会話が蘇ってくる。

『賀谷中学に転校して路花と知り合えて、東京に住み続けていたら一生経験することがなかった新聞配達もこうして経験しているし』

 この町に引っ越してきて何か良いことはあったかと問われて、そう答えたのだ。だったら、今のどうしようもない気持ちを、日記帳の中にぶつけてみようと思った。自分にはこうした時に話を聞いてくれる友だちが一人もいないという現実を、素直に受け止めて、それに代わる日記という相談相手に今の気持ちをぶつけてみよう。晴彦はそう思った。


5月6日(月曜日)晴れ

お母さんに自分の感情をそのままぶつけてしまった。そして、卑怯なことに一方的に感情をぶつけるだけぶつけたら、最後に捨て台詞を投げて、夕飯の途中で部屋に引き上げてきた。

どうして、こんなことになったかの原因ははっきりしている。僕が新聞配達を始めたいと言い出したからだ。それを聞いたおじいちゃんは、かつて自分も中学生の頃に新聞配達をしたことがあると、好意的に受け止めてくれたが、お母さんは、世間体が悪いから絶対に止めて欲しいと言ってきかなかった。しかも、新聞配達を恥ずかしいことだと一方的に決めつけた。

僕はそれが許せなかったし、おじいちゃんも、新聞配達が恥ずかしいことだと思っているなら、それは間違った考えだ。そんなおごった考えをするなと、お母さんに意見をしてくれたけど、お母さんはさらにこう言ったんだ。

「離婚して実家に帰ってきただけでも世間の目は厳しいのに、その上に一人息子を新聞配達なんかさせてごらんなさいよ、世間からどう思われるか、分かったもんじゃない」って。

 これを聞いた瞬間に、僕の中に閉じ込められていた感情が一気に爆発をしてしまったんだ。路花にはあまり僕の家のことは話してはいなかったけど、僕のお父さんは、公認会計士の資格を持っていて、社員が二十名を抱える中規模の会計事務所を経営している。お母さんは、結婚後しばらくは事務所の事務を手伝っていたけど、僕が生まれたからはずっと主婦を専業にしていた。

 そんな中で、事務所で働いていた女子所員とお父さんとの不倫が発覚してしまい、お父さんとその女性は、すぐに関係を解消したけど、お母さんにはお父さんの裏切りがどうしても許せなくて、半年間の別居生活を経て、今年の二月に正式に離婚をして、僕の学年末を待って、お母さんの実家がある賀谷町に引っ越してきたんだよ。だから、今でもお父さんは東京のマンションで一人暮らしをしている。

 小学四年生から受験塾に通い、苦労して入学した青葉学園は中高一貫だから、まだ四年間残っていた。今後の僕の教育を考えるなら、晴彦はこのまま東京に残った方が良いとお父さんは主張したけど、この時のお母さんは精神的にもかなり衰弱をしていて、冷静な判断ができる状態ではなかったんだ。だから、お父さんの提案に対して、半狂乱になってしまったんだ。

「私から晴彦まで奪い取ろうと思っているの。私の人生を滅茶苦茶にするだけではもの足らず、私から一番大事な晴彦まで奪い取ろうとするなんて、あなたは鬼よ、私に死ねと言っているのと同じことをしている」

 こんな修羅場をなん度も見ていたから、僕は自分から「お母さんといっしょに田舎に行きたい」と申し出たんだ。お父さんは、「一時の感情で判断をしてはいけない。晴彦自身の将来がかかっているんだぞ」と言ってくれたけど、その時は、「勝手なことを言うなよ。だったらどうして浮気なんかしたんだよ。僕の将来を心配するなら、どうしてこうなった原因を作ったんだよ」と、心の中で父さんを怒鳴りつけていた。

 こうした状況だったから、正直、僕にはお母さんについて賀谷町に引っ越すしか選択肢はなかったんだよ。お母さんの言い分を聞いている中で、急にこの時の状況を思い出してしまって、僕はこれまで抑え込んでいた感情を、一気に爆発させてしまったんだ。

「そんなに世間体を気にするなら、なんでこんな田舎に引っ越してきたんだよ。僕はお父さんの方に行ってもいいよ」と言ってしまった。

 一度口をついて出た言葉は、もう取り戻すことはできないけど、僕はとても卑怯なことをしてしまったと、今になって強く後悔をしている。お母さんにとっては逃げ場のない言葉を浴びせられたわけだから、これまで言葉にはしてこなかっただけで、お母さんが、僕を父親から離して転校させたことを申し訳ないと思っていることは、僕にも十分に判っているし、日頃の態度でも感じている。それなのに、僕がお母さんに浴びせた言葉は、鋭いナイフとなって、お母さんの胸に突き刺さり、致命傷を負わせるような毒のある言葉だよ。

 明日朝、僕はどんな顔をしてお母さんと接すれば良いのか分からない。

 部屋に引き上げてからも、ベッドに入ってからも、胸の中にわだかまっているもやもやは一向に晴れなくて、ずっと眠れないまま時間をすごしていた。でも、僕にはこんな気持ちを聞いてもらえる友だちは一人もいないし、このまま朝まで一睡もできない夜をすごすのだろうかと思った時に、今朝、路花から受け取った日記のことを思い出したんだ。

 でも、こんな重たい話を路花にするつもりは全くないんだ。僕は、もし親友と呼べる存在がいたら、きっとこんな話を聞いてもらっていたと仮定をして、その役目をこの日記帳に代行してもらっただけなんだよ。

 実際にここまで書いたおかげで、気持ちがずい分楽になったよ。眠れないまま朝を迎えることもなくなりそうだ。

 交換日記帳をこんな使い方してしまって申し訳ないと思っている。でも、書いたことはもう消せないし、それにこれが今の僕の本音だから。この日記に書いたことを路花が読もうが、あえて読まないことにしようが、僕にはどちらでも構わない。ただ、読んだあとに、路花が不愉快な気持ちになったとしたら、それは許して欲しい。そして、このページを破り捨てて欲しい。勝手なお願いをしてしまうが、どうか分って欲しい。

                               四方晴彦

 翌日の新聞配達の時に、訊かれるかなと思っていたら、「新聞配達の件、家の人はどうだって?」とかの新聞配達に関する話は路花から一切出なかった。

 いつも路花と待ち合わせをし、別れる市街地への入り口で、別れ際に交換日記を路花に渡した。

「今日も新聞配達を手伝ってくれてありがとう」

 なんの屈託もなくそうお礼を言われて二人は別れた。

 その翌日、「日記を読んで、路花はどんな気持ちになっただろう」と、いつもになく緊張感を持って路花と会ったが、様子には全く変わりはなく、いつもと変わらず晴彦が漕ぐ自転車の後ろに乗って他愛のない話をしながら新聞配達を終えた。

「はい、交換日記」

 何一つ変わらない様子で、いつものように路花は交換日記を晴彦に手渡した。

 路花と別れてから家までの帰り道、昨日自分が書いたページは路花によって破り捨てられたのではないかという思いが強くなっていた。新聞配達を晴彦がしたいと言ったことが発端となって、親子での諍いになってしまったのだ。しかも、母親が言った「新聞配達のような恥ずかしいこと」の言葉まで馬鹿正直に書いてしまった。母親の言葉とはいえ、小学五年から毎朝路花が修学旅行の時以外一日も休まず続けている、新聞配達を貶(おとし)めるような発言を晴彦の日記で書いてしまった可能性がある。

 帰宅して、朝食を済ませた後、通学のために家を出るまでに三十分以上の余裕がある。いつもはこの時間を利用して路花の書いた日記を読むのだ。けれど、今朝だけは日記を読むのが怖かった。そして、後悔をしていた。何故、あんなことを日記に書いてしまったのかと。取り返しのつかないことをしてしまったことを。

 結局日記は読まないまま家を出た。学校にいる間は、路花とは一切言葉は交わさない。親し気な素振りも一切見せない。一度偶然に外で一緒に弁当を食べた、あんなことはあれ以来一度もなかった。

 今は晴彦も、弁当派閥のどこの島に加わることなく、一人で弁当を食べていた。同じく一人で食べている路花は相変わらずだ。

 弁当を食べ終わると、周りの目を全く気にすることなく、路花は中間テストのための勉強を始めた。連休が明けてテストまで二週間を切っているので、学年のエリート生徒が集まっているこのクラスの生徒全員が路花と同じように試験勉強をしたいはずなのに、他の生徒は誰一人としてそんなことはしない。

「あからさまに勉強熱心さをアピールされてもなあ、嫌味にしか取れないよ」

 そういう連中に限って家に帰れば夜遅くまで勉強をしているのだ。相変わらず同じ帰宅部で一緒に下校している、試験勉強には無頓着そうに見える柿男ですら、寝るのは早くて十二時だと言っていた。

 路花とは条件が違い過ぎた。柿男たちと同じように夜中の十二時過ぎまで試験勉強をしていたら、新聞配達のために午前四時過ぎには起きている路花は完全に睡眠不足になる。帰宅後の勉強時間の不足分を補うために、路花は誰よりも早く弁当を食べて勉強の時間を確保している。それだって他のクラスメイトと比べて勉強時間は格段に少ないだろう。けれど、これまで路花は学年トップの座を誰にも譲ったことがなかったのだ。

 柿男と別れて一人で家まで歩いているうちに、学校では忘れていた交換日記のことが頭をもたげて来た。路花の書いた日記を読んで、その後に晴彦分の日記を書かなければならない。この事実。

 自宅に帰ると、いつもすぐに「おかえりなさい」と顔を出す母親ではなく、祖母が「おかえり」と言って顔を出した。一昨日の夕食の時以来母親とは一度も口をきいていなかった。だから、いつもなら夕食の前に小腹を満たすために菓子パンか袋物のお菓子を食べるのだが、それを母親に言い出せないのでここ二日間は我慢していた。

 部屋に入るとドアをノックする音がして、開けたら祖母が切ったカステラを皿にのせたものとオレンジジュースを持って来てくれていた。

「おばあちゃん、ありがとう」

 素直に嬉しかった。今日は体育の授業があったのでかなりの空腹感を覚えていた。これでなんとか夕食までは我慢出来そうだった。

「これ、母さんに言われて代わりに持って来ただけだから、お礼を言うなら母さんに言ってあげなさい」

 カステラとジュースを運んで来たお盆をそのまま手渡すと、祖母はすぐに台所の方に帰って行った。

「まずは腹ごしらえだ」

 制服を着替えることもせず、晴彦はすぐにカステラにかぶりついた。カステラはとなり町の大きな和菓子屋にしか売っていない。贈答用に四方家が昔から買い求めている高級品で、夏休みを終えて東京に帰る時に、迎えに来た父親に祖母が毎年お土産として渡していた。

厚めに切った二切れのカステラを食べ、オレンジジュースを一気に飲むと空腹感はなくなった。カステラを祖母に持って行ってもらったことが、母親の謝罪を示す行動だということは中学三年生の晴彦にも判る。そう思うと母親に対する申し訳なさと、なんであんなことを言ってしまったのだろうという後悔の気持ちが強くなって来た。

制服を着替えて、机の引き出しに仕舞っておいた交換日記のノートを取り出した。ページを開く前にチェックをしてみると、どうやらノートを破った形跡はないようだった。

晴彦は続きを示すために栞(しおり)が挟んでいるページを、大事な贈り物の包み紙を剥がすような慎重さを開いた。やはり晴彦が書いた日記のページは破られてはいなかった。それを見て安堵したとの同時に、路花の日記を読む勇気も湧き上がって来た。机のスタンドを点けて、晴彦は路花の日記を読み始めた。


5月7日(火)晴れのち曇り (窓から入る光が少し暑いと感じるくらいに強くなって来ている)


今日受け取った晴彦君の日記を読んで、これまでとは全く違う晴彦君の内面を見たように気がした。まるで、テレビで生中継されている劇場でのお芝居を観た時のような、劇場が暗転し再び明るくなった後に全く異なる場面に替わっていたくらいの変化だと感じた。

これまでの晴彦君の日記は、読後感がすごく爽やかで、こんな例えは適切ではないかもしれないけど、風邪を引いて詰まっていた鼻がすうーと通った時のようなすっきり感さえあった。文章も上手だし、引っかかるところなど全く感じなかった。

けれど、今日読んだ日記には、引っかかるところが沢山あった。こんな生意気なことを書くと、路花は何様なんだと怒られてしまうかもしれないけど、それを覚悟で書きます。やっと本音で日記を書いてくれたんだと、それが読み終わった最初の感想でした。

 これまでの日記が、よく練り上げて書かれた台本通りに演じられた芝居なら、今日の日記は台本のないドキュメンタリーだと思います。書かれている日記の随所に晴彦君の生々しい本音が感じられました。

お母さんとの諍いについては、他人の私が口出すことではないので、このことについては全く触れることはしません。日記の最後の方にも書いてあったけど、晴彦君はすでに自分が発した言葉のことを後悔しているし、おそらくこれからどうすべきか判っていると思う。それに、お母さんが世界中で自分のことを一番に愛してくれていることも、そんなお母さんのことを晴彦君が大好きなことも、当人同士だけじゃなくて、周りの家族みんなが判っている。

だったら遠慮しないでどんどん互いに言いたいことを言い合った方が良いじゃないかと思うよ。根底に相手のことを愛するという気持ちがある以上、決して最悪な状況にはならないと思う。

晴彦君の日記を読み終えた時に、私はこの交換日記を始めてから晴彦君が初めて心を開いてくれたと嬉しくなりました。私は、校庭のベンチで初めて晴彦君と弁当を食べながら話をした時に、顔の痣のことを話したよね。この時、髪をかき上げて痣を見せたけど、晴彦君は全く嫌な顔も、不気味なものを見たという表情も浮かべなかった。それが嬉しかったって前に日記にも書いたよね。これで、私は晴彦君に対してある程度の自分の内面を見せたと思っていたの。内面を見せるというのは、自分がコンプレックスだと思っていること露呈することだと考えていたけど、晴彦君の日記を読むたびに、この考えが私の独りよがりだと思うようになっていたの。だから、それからの日記には当たり障りのないことを書き並べるようにしていたの。

今日の日記の中に、「僕は、もし親友と呼べる存在がいたら、きっとこんな話が聞いてもらっていたと仮定をして、その役目をこの日記帳に代行してもらっただけなんだよ」と書いてある箇所を見つけた時に、私が晴彦君と交換日記を始めようとした本当の目的が晴彦君にやっと通じたんだと嬉しくなった。

 二人ともまだ十四歳、晴彦君は七月十日に、私は十一月二十二日に十五歳になるけど、悩み多き思春期には間違いないよね。今日の晴彦君の日記のように、私もこの日記を親友に話すように書いてみようと思う。晴彦君がそうしてくれたから。私もそうしようと思う。交換日記の本来の目的を思い出させてくれてありがとう。

                             路花


この二日間の日記のやり取りがあってから、晴彦と路花の交換日記は、これまでよりももっと本音で語りあうものになって行った。

 路花が学年トップを狙うと宣言をしている、一学期の中間テストが始まる一週間前になった。賀谷中学校では中間、期末を問わず、定期テストが始める一週間前から、テスト準備のためにクラブ活動が一斉に休みになる。

元々転校して来て依頼どこのクラブにも入部していない晴彦には、テスト準備のための一週間と通常の一週間とに全く違いがなかったが、路花は違っていたようだ。


 5月15日(水)くもり

 家から学校までの通学路から見える畑で栽培されている菜の花が、今日見たらすっかり刈られていて、桜のあとのあの黄色いじゅうたんのような菜の花畑を楽しみに通学していたので、少しがっかりした。でも、農家さんにとっては農作物なので仕方がないことだ。

 でも、少し楽しみなこともある。昨日から中間テストのための一週間の準備期間に入った。学校では運動部、文化部問わず全てのクラブ活動がこの準備期間中は休みになる。元々私はどのクラブにも入っていなくて、授業が終わるとすぐに下校しているけど、この準備期間は毎日帰宅後やっている家事の手伝いもお休みになるのだ。この期間は家に帰るとすぐに勉強に専念出来るのだ。こういうふうに書くと、私ががり勉女だというふうに誤解されてしまうよね。

 いつもは学校から帰るとすぐに、日曜日にお母さんと一緒に買い出しに行きまとめ買いをした材料と、近所のおばさんたちがお裾分けしてくれた野菜などを使って、二人分の夕食の下ごしらえと、明日の弁当用のおかずを作っている。その後は、朝、お母さんが干してくれた洗たく物を取り込んで畳んでタンスに仕舞う。これくらいのことは小学校に入学した頃からやっているので全く負担だとは思わないし、半分は自分のことなんだし今までに投げ出したいと思ったことは一度もない。

 けれど、中学校に入学をした時に突然お母さんから、「テスト準備期間とテスト期間中は家のことをするのは一切禁止」と言い渡されたのだ。

「そんなこと気にかけてくれなくても大丈夫だよ」と、笑いながらそう言ってお母さんの顔を見たら、意外にも真剣な顔をしていて怖いくらいだった。

「路花には勉強をがんばってもらいたいの。進学校に合格してもらって、大学まで進んでもらいたいと思っているの。それがお母さんの夢でもあるんだから」と言われたの。

 そんなこと言われたこと初めてだったから少し驚きもあったけど、お母さんの私に対する思いやりと優しさを強く感じることができてとっても嬉しかったのを今でも覚えているわ。そして、お母さんの夢を叶えるためにも勉強がんばろうと思った。

「でも、なんで突然、中学校に入学したとたんにそんなことを言い出したのだろう?」と疑問に思っていたら、その日の晩ごはんの時にその答えを聞くことができた。

 私が物心ついた頃にはもうお父さんはいなかった。だから私の中でのお父さんの記憶はおぼろげで、あの記憶の中の大人の男の人が本当にお父さんなのかどうかも自信がないくらい。

 晩ごはんの時に、「どうしてお母さんは私に大学まで行って欲しいと思うの?」ってなにげないふうを装って聞いてみたら、食事が終わるといつもならすぐに後片付けをするのに、この日はお母さんがお茶を淹れ直してくれて、その理由を話してくれたの。

 でも、この話まで書いてしまうと長くなるけど大丈夫かな? と言いながらもここまで書いておきながら止めてしまう方が失礼かなと思うので、最後まで書くことにしました。

 この話は、私のお母さんとお父さんが知り合った頃から始まる話です。

 お母さんがお父さんと知り合ったのは病院だった。今も続けているけど、お母さんはその頃県庁所在地にある総合病院の看護婦として働いていて、その病院に入院していたのがお父さんだったの。

 ちょうどお父さんが入院をしていた病棟の担当看護婦をしていたのがお母さんで、患者と看護婦という立場で知り合ったのが最初の出会い。検温や注射などで毎日病室を訪れるたびに顔を合わせているうちに、入院患者の中でずば抜けて若かったお父さんと、看護婦になりたてで同年代だったお母さんはすぐに親しく話をするようになった。

 その出会いは、お父さんが退院した後には交際に発展をした。当然、二人は結婚を意識して交際をしていたけど、二人の結婚には乗り越えなければならない大きな障害があった。

それは、お父さんの病気だった。二人が知り合うきっかけとなったお父さんの入院はその時が初めてはなくて、検査と治療のために小学生の時から定期的に入院をしなければならない持病があったからなの。

この病気の根治療法はまだなくて、これからも一生うまく付き合って行く必要があった。この持病のために定期的に入院をしなければならないので、お父さんはまともに学校にも通えない少年期を送ることを余儀なくされて、高校進学も諦めるしかなかった。それに、仕事の方も同じ理由で正社員として採用してくれる会社はなくて、契約社員として職場を転々としながらぎりぎりの状況でなんとか生計を立てていた。

それでも、お母さんはお父さんと結婚したいと願った。一生付き合って行かなければならないほどの病気を抱えていても、常に前向きで、泣き言や愚痴を一切口にしない。それどころか人の痛みや心の傷に敏感に気づいて優しく包んであげることの出来る、そんなお父さんの心の美しさにお母さんは、この人となら一生幸せに暮らして行けると確信を持つことができたから。

経済的には決して楽ではないだろうけど、自分も看護婦を続けることで二人力を合わせて幸せな家庭を築くことができると、猛反対を続ける両親を辛抱強く説得をして、二人は無事に結婚することが出来た。そして、私が生まれた。

生まれた子供の名前をつける時に、お父さんが自らの願いを込めて、「路花」という名前をつけてくれた。誰も名前を知らない路地の脇に生えている雑草にも、必ず花は咲く。雑草の逞しい生命力と、その可憐な花のように、逞しさとしなやかさを合わせ持った可憐な娘に育って欲しいという願いを込めて、路の脇に咲く花と書いて、路花と名づけてくれた。

結局、お父さんは私が二歳の時に持病が悪化して亡くなってしまったけど、生前、いつも夢を語るように言っていたことがあったの。もう一度生まれ変わることがあったなら、今度は健康自慢の子供として生まれたい。そして、一生懸命に勉強をして大学に行ったみたいって。

この話をしたあとにお母さんが、「生まれ変わることあったならと考えるようになった時から、あの人は自分に残された命がそれほど長くないことを悟っていたのかもしれないね。だから生まれて来た娘に路花という名前をつけて、自分の思いを託したのだと思う」と言ったの。なんだが、しみじみとした言い方だった。

この時から、お父さんの思いはお母さんの夢になったのだと思う。私が進学校に進んで大学に合格することが両親の夢なら、私はこの夢をなんとしても叶えるためにがんばりたいと思っているの。だから、今度の中間テストはとにかく根性を入れ直してがんばるから。

長くなってごめんね。こんな話だれにもしたことがなかったから、少し重たい話になったね。ゴメン。                         路花


これまで路花という名前の「路」という漢字が珍しいなと思っていた。ずっとその由来を訊いてみたいと思っていたわけではないけど、こうして由来が解った今となっては、路花の日頃のあの凛とした態度や、学年トップの成績に拘る背景も理解出来る。だから、自分もこの中間テストは青葉学園に通っていた時以上にがんばらなければならないと晴彦は思った。


 5月16日(木) くもりのち雨

 今日は天気予報で雨が降ると言っていたので、起きた時にすぐにカーテンを開けてみたら、午前五時前の空はもう明るくて、どんよりとくもってはいたけれど雨はまだ降り出していなくてホッとした。それでも念のために雨合羽をリュックに入れて行くことにした。

 路花の日記を読んで、路花という名前に込めたお父さんの思いにかなり心を打たれた。それと同じくらいに、一生完治することのない病気を抱えた人と、家族の猛反対を乗り越えて結婚をしたお母さんの強い気持ちと、それを受け止めたお父さんのお母さんを愛する気持ちの強さ、互いを愛する二人の思いの深さに感動をした。

 そして、路花がお母さん、いやお父さんの夢でもある大学進学を目標に勉強に励む思いは僕にもしっかり伝わったよ。だから、僕も賀谷中学での初めての中間テストに対して、路花の言葉を借りるなら根性を入れ替えてがんばるよ。

 僕は自分が学年トップになるためにがんばるけど、でもそれは同時に路花のためにもなると思っている。これまで路花は賀谷中学の中では常に学年トップの成績をとっていたかもしれないけど、二学期から通う東京の中学ではそう簡単にトップの成績をとることは出来ないと思う。

 それは人口の多さや学習塾の充実度に、この町と東京では雲泥の差があるから、必然的に高い学力を持つ生徒の絶対数が多いからだ。

 東京の中学に転校した後に、あまりの学力の違いを目の当たりにして路花が挫折しないように、まずは僕と競うことで東京の中学に通いトップの成績が狙えるだけの学力をつけて行けば良いと思う。

 こんな強気のことを言っていても、いざ中間テストを終えてみると、大差で僕の方が負けてしまっているかもしれないけどね。そうならないためにも、一応中高一貫の進学校に中学二年まで通っていた僕の実力をきちんと見てもらうためにも、中間テストがんばるから、覚悟をして勉強をしろよ、路花。

                          四方晴彦


 いよいよ五月二十一日から中間テストが始まった。

 一日目は国語と理科の二教科。二日目は数学の代数と社会。そして、最終日は英語と数学の幾何学だった。三日間とも午前中で学校は終わりになる。

 このテスト期間の三日間も当然路花の新聞配達に休みはなかった。だから、それを手伝う晴彦も休まないことにした。

 母親と揉めて以来、新聞配達のことについては面と向かって母親と話はしていなかったが、晴彦としては路花のあとを引き継いで新聞配達を続けるつもりだったので、今は例え手伝いの立場とはいえ、テスト期間中に休むという甘えを自分に許したくはなかったのだった。

 中間テストが始まる前日の朝、いつものように新聞配達を終えた後、自動販売機で冷たい飲みものを買って飲みながら他愛もないことを話していたら、話の流れを全く無視して路花が言った。

「明日から中間テストが始まるから、テスト期間中お手伝いはお休みね」

「えっ、どういうこと?」

「だから、テストの三日間は晴彦君も新聞配達のお手伝いを休んで、勉強に集中してくださいということよ」

「路花もテスト期間中は新聞配達を休めるのか?」

「そんなことできないよ。代わりにやってくれる人なんかいないし。テストだからっていちいち休んでいたら販売店の人にも迷惑かけるしね」

「だったら、僕もいつも通りに手伝うよ」

「そんなことして大丈夫なの?」

「なにが?」

「今だって新聞配達のことお母さんに反対をされたままなんでしょう。テストの間も朝早くに散歩に行くという口実は通らないんじゃないの?」

「そんなことを心配していたのか。大丈夫だよ、結果さえ出せば誰にも文句は言われないから」

「すごい自信だね」

 路花は笑いながら言った。

「それだけの努力はしているつもりだよ。それに、テストの間、新聞配達の手伝いを休んだから学年でトップになれたと思われても心外だしね。最大のライバルの路花とは同じ条件で闘いたいと思っている。フェアーにやりたいから」

「そういうことなら了解よ。明日からの新聞配達のお手伝いもいつも通りにお願いします。それとテストお互いにがんばろうね」

 中間テスト当日の朝、交換日記は晴彦から路花に渡した。

 新聞配達を休んでもいいよと気遣ってくれたことへのお礼と、互いの健闘を願っていることを記した。

 一日目の国語と理科のテストを終えると、まだ午前中のうちに帰宅をした。

 昼食は祖父母も一緒に四人で食べた。土曜日以外の平日に家で昼食を食べるのは学校に行き始めて初めてのことだった。

「こっちの学校での初めてのテストはどうだった?」

 チャーハンとかきたま汁の昼食を食べ始めたタイミングで祖父がそう訊いてきた。おそらく母親の気持ちに配慮して祖父が訊いてきたのだろうと晴彦は思った。

「答案用紙はすべて埋めたよ」

 これは決しておごった気持ちではなく正直な感想だが、テストで出題された問題は難しくはなかった。日頃の授業を真面目に聞いていれば無理なく全ての答案を埋めることが出来る、ひねったところのない正当な問題だった。

「それなら八十点以上は確実だな」

 祖父は晴彦に重荷にならないようにそう言ってくれたのだと思う。親の都合で離婚をし、住み慣れた土地と学校から遠く離れた母親の実家に引っ越し、町立の中学校に転校をさせられたという精神的なストレスを受けているのではないかと、先日の晴彦と母親の諍いも目の当たりにして、それを気遣ってくれた言葉だと思う。

「今日のテストの国語も理科も、両教科共に満点がとれていると思う。その自信はあるし」

 晴彦はきっぱりとそう言い切った。

「おお、そうか。頼もしいな」

 祖父は苦笑まじりにそう言ったが、母親は心に中で喜んでいたと思う。

 昼食のあとも明日の代数と社会の勉強に、夕食までの時間を全て費やした。今日の出題傾向から授業中にとったノートと教科書を再度徹底的に見直した。

 テスト二日目、新聞配達を終えた後に路花から渡された交換日記には、一日目のテストのことには一切触れられていなかった。


 5月21日(火) 晴れ

 テストが始まったね。今日から木曜日までの三日間。一日二教科だけなので、毎日午前中で学校は終わるけど、昼ごはんを食べたあと明日のテスト教科の勉強をしなければならないから気が抜けないよね。でも、最終日は次の日の心配も要らないし、学校が終わってから一緒にお昼ごはんを食べませんか。

 こういうことを書くと晴彦君は負担に感じるかもしれないけど、毎日新聞配達を手伝ってくれているささやかなお礼として晴彦君の分までお弁当を作るから、学校が終わったあとにどこか外で一緒に食べようよ。OKなら(OKしてもらえることを祈っているけど)、苦手な食べ物があったら日記か学校で直接教えてください。それと学校が終わったあとの待ち合わせの場所を指定してください。

                                   路花

 

 次の日の日記には、喜んでごちそうになります。苦手な食べ物はありません。待ち合わせの場所は、いつも新聞配達の時に待ち合わせている自動販売機の前でどうでしょうか? まだ地理的に詳しくないから、ここが良いと思うと書いた。

 五月二十三日木曜日。テスト三日目。最終日のテスト教科の英語と数学の幾何学のテストが終わった。これで全て六教科のテストが終了し、一学期中間テストは終わった。

「一緒に帰ろう」と誘ってくれた柿男に、「今日はちょっと家の用事を頼まれていて一緒には帰れないんだよ、ごめん」と言って、家とは別の方向に歩いて待ち合わせの場所に行った。

 晴彦が到着した時にはまだ路花は来ていなかったが、それから五分もしないうちにカバンと一緒に、おそらく二人分の弁当が入っているのだろう、今までに持っているのを見たことがなかったスヌーピーの布製のバッグを持って路花がやって来た。

「荷物を持つよ」

 そう言って有無を言わせず晴彦はスヌーピーのバッグを路花の手から奪い取った。

「へえ、意外に晴彦君は紳士なんだね」

「ご馳走になるんだから、せめてものお返しだよ」

 褒められたのが照れくさくてそう素っ気なく返した。

 ちょうど正午を回ったばかりで太陽が真上に来た頃で、初夏を思わせるほどにほんのり汗ばむくらいの気温になっていた。

「水辺公園の方に行ってみようか。あそこの菖蒲園、今、とってもきれいだから」

「いいね、菖蒲の花を見ながら弁当を食べるなんて最高だよ」

 待ち合わせの場所から歩いて十分くらいかかったけど、平日ということもあって訪れている人もまばらだった。菖蒲園を少し遠くに望む場所に木製のベンチがあったので、そこで弁当を食べることにした。

「菖蒲園が良く見える絶好な場所を見つけられてラッキーだったね」

晴彦はこの公園に来るのは初めてだったが、路花は休日に母親と散歩がてら立ち寄ることがあると話してくれた。

「はい、どうぞ。私が詰めたから盛りつけには自信がないけど」

 そう言ってタッパウエアーに入った弁当を一つ晴彦に手渡した。ポットには冷たい麦茶を入れてきていて、二つあるふたを兼ねたカップの大きい方にお茶を入れて、割りばしと一緒に渡してくれた。

「詰めたのは、ってことは作ったのは路花じゃないということだよな」

「テスト期間中は家事も免除されているので」

 と小さく笑った。早速ふたを開けてみる。

「わあ、大ごちそうだ!」

 思わず晴彦は声を上げてしまった。見ると、ご飯は赤飯でおかずは鶏のから揚げに卵焼き、カニときゅうりの酢の物がアルミ製のカップに入っていた。その横には赤ウインナーも入っている。

「わざわざこの弁当のために赤飯を炊いてくれたのか?」

 あまりの驚きにそう訊いてしまった。

「まさか、昨日の晩ごはんが赤飯だったのよ」

「へえ、なにかのお祝いとか?」

「実は、昨日の五月二十二日は私の十五歳の誕生日だったの。うちではお母さんの時もそうだけど、亡くなったお父さんの誕生日にも、必ず赤飯を炊いて、おかずには鶏のから揚げと缶詰のカニときゅうりの酢の物というのが定番なの。昨日の晩ごはんのものに加えて、今朝お母さんが卵焼きとウインナーを準備してくれたのよ」

 路花の話を聞いていると、家族の記念日や節目となる日をみんなでお祝いすることっていいなあと素直に思えた。

「さあ、食べて。作ったのはお母さんだから味には自信があるから」

「では、いただきます」

 まずは最初に赤飯から食べた。ちゃんとゴマ塩が振ってある。

「うまい! 本当にうまいなあ。店で買ってきた赤飯ではなくて、家で炊いた赤飯を食べたのは生まれて初めてかもしれない」

「晴彦君の口に合ってよかった」

 続いておかずを食べてみた。どれもすごく美味しかった。それを言うと、「よかった」と路花は嬉しそうに何度も頷きながら言った。

「でも、誕生日のごちそうの定番が、赤飯と鶏のから揚げ、それにカニときゅうりの酢の物って、なんでこの組み合わせなんだ?」

「お父さんの好物だったからなの。私がもの心ついた時にはもうお父さんはいなかったけど、私がもの心ついた時から、誕生日のお祝いのごちそうはいつも決まってこれだった。今は大好物だけど、小さい頃は酸っぱい酢の物が苦手だったから、残そうとすると決まって怒られた」

「カニ缶って高級品だぞ。うちではほとんど食卓に出てこないよ」

「うちでもそうだよ。誕生日以外には食べないもの」

 あまりの美味しさにすぐに弁当を平らげてしまい、まだ半分以上残っている路花が食べている間、晴彦は菖蒲園の方に目をやっていた。

「中間テスト、どうだった?」

 自然と言葉が出た。交換日記でも決して触れなかったことだ。

 口の中に入っていた食べ物を慌てて飲み込んだあとに、路花が答えた。この様子を見て、よく確認しなかったことを反省した。

「一応答えは全部書けたよ。自信がないところもあるけど、晴彦君はどうだったの?」

「僕も答えは全部書いたよ」

「前の学校とは問題の難しさが違っていたでしょう?」

「うん、大きく違っていた。それは難しさというよりも、問題を作る教師の意図の違いと言った方がいいのかな」

「ごめん、晴彦君が言っていることの意味がよく解らない。教師の意図って?」

 箸で卵焼きをつかんだままの格好で路花はそう訊いた。

「賀谷中学校は、授業内容や教科書に忠実にテスト問題を作っているよね」

「テストの問題って基本そうだと思うけど、前の学校では違っていたの?」

「前の学校は中高一貫校だったから、高校に進学するための受験は基本的にはないんだよ」

「中高一貫なんだからそういうことだよね。でも、高校入試の心配が要らないなんてうらやましいな」

「でも、中等部の成績で、高等部でのクラスを振り分けられるんだ。例えば、国公立の医学部、私立の医学部、国公立の理系みたいに。前の学校では厳しい中学入試のために遅くとも小学四年生から準備を始めて、わざわざ入学してくる生徒のほとんどが医学部に合格することを目指しているから、中等部の時から校内のテストは受験の予行演習という傾向がすごく強いんだ。

 教科書をどんなに念入りに復習をしてテストの臨んでも高得点は絶対に取れない。出題をする教師にしたって、授業の理解度を確認するという意図よりも、受験の技術がいかに身についているかどうかを確認する意図の方が強いからね」

「そういえば、日記に前の学校では毎日授業が始まる前に、予備校の講師による補習授業を受けていたと書いてあったよね」

「そうだよ。僕も入学してみてびっくりしたよ。学校で予備校の授業を受けることになるなんて、想像もしていなかったから」

「でも、それくらいしないと医学部には合格できないってことだよね」

「路花は医学部に入ることを目標にしているのか?」

「お父さんのこともあるから、もっと小さい頃は漠然にそう思った時期もあったけど、より現実を知った今ではそんな大それたことは目標にしていない」

「僕は結局本人の能力の問題だと思うよ。受験の技術だけ身につけても本番には勝てないと思う」

「やっぱり、受験は勝負なの?」

「希望すれば全員が合格出来るわけではないから、敗者が出るということは勝負ということだと思う」

「まあ、そうだよね。受験には競争率が付きものだしね」

 弁当を食べ終えた二人は、しばらく麦茶を飲みながら他愛のない話をした後に、いつもの自動販売機の場所まで一緒に帰って、そこで別れた。

 別れてすぐに晴彦は気づいた。でも、もう遅い。

 路花に、「誕生日おめでとう」と言っていなかったことに。

 次の日の新聞配達の時に、昨日の弁当のお礼を言った。

「すごく美味しかった。ごちそうさまでした」

「いえ、どういたしまして」

 路花は照れた笑顔でそう言った。

「それから……、誕生日おめでとう。二日遅れてしまったけど」

「えっ、ありがとう。お母さん以外で『おめでとう』と言われたのは晴彦君だけだよ。不意打ちだったから余計に感動しちゃった」

「それと、これ」

 そう言うと晴彦は背負って来たリュックの中から、デパートの紙袋を取り出して路花に渡した。

「わあ、重たい。なに、これ?」

「僕が前の学校の時に、予備校の補習授業で使っていたテキストだよ。東京の中学校に転校した時に役立つと思うから。一応、誕生日プレゼントのつもり。本当はもっと気の利いたものの方が良かったと思うけど、すぐに思いつかなくて。僕の使い古しでゴメン」

「ううん、すごく嬉しい。昨日、前の学校の話を聞いて、私も二学期からのことが少し不安になりかけていたから、とても助かる。でも、晴彦君はいいの? これがなくなると困らない」

「これでも二年間補習授業を受けて来たから、勉強のやり方は身についていると思うよ。だから、もう必要はない」

「そう。じゃあ遠慮しないで受け取るね。本当にありがとう」

「重いから新聞配達が終わるまでは僕がリュックに入れておくよ」

「うん、助かる」

 晴彦はリュックにテキストを入れ直すと、路花をうしろに乗せて自転車を漕ぎ出した。

 この日の二時間目は中間テスト一日目の教科だった国語の授業だった。授業を始める前に採点されたテストが各自に返された。

 晴彦の点数は満点だった。満点なのだからこれ以上の良い成績を取った生徒はいないということだ。自分が満点であったことが確認出来ると、今度は路花の成績が気になった。四月の抜き打ちテストの時には、この国語で晴彦は路花に負けていた。国語は路花の得意教科のはずだ。

「高校受験を意識して、三年生最初のテストは少し難しくしてあるから、やっぱり二年生の時と比べると全体的に平均点が下がっているな。でも、このクラスでは満点を取った生徒が二人いたぞ。さすがに三年一組だと先生は感心をした」

 先生の言葉に、しばらくの間クラス中がざわついた。犯人探しという表現は適切ではないかもしれないけど、満点探しにやっきになっていた。

 もう一人の満点はきっと路花だなと思ってそっちの方に目を向けたら、我関せずといった感じで静かに教科書に目をやっていた。その凛とした姿が「なんだか、いいな」と晴彦は思った。

 昼休みを終えた五時間目は社会の授業だった。社会はテスト二日目の教科だったのでテストが返ってくるのは次の授業の時だろうと勝手に思っていたら、今日の授業が始まる前に返された。社会はどちらかといえば得意科目ではない。単純に暗記すれば良い点数が取れる科目は得意ではないのだ。

 けれど今回はがんばった。その甲斐があって返された答案用紙には「100」の数字が赤いサインペンで書かれていた。

 社会科の担当はまだ独身の二十代の男性教師だ。他の教師と比べると格段に若くて、生徒、特に女子生徒には人気があるらしい。テストを配り終えたあとに、「このクラスには満点が二人いる」と軽い口調で言った。それでなくても教師の持っている雰囲気が軽いので、国語の時より何倍も大きくクラスがざわついた。もう晴彦は路花の方を見なかった。

 次の日の土曜日は起きて窓の外を見た時から空模様が怪しかった。それでも家を出る時にはまだ雨は降り出していなかった。けれど、すでに風には雨が近いことを告げるほどの湿度の高さを感じたので、晴彦は家から雨合羽を着て出た。

 家を出た直後に晴彦の予測通り雨が降り出し、またたく間に雨足が強くなった。

 いつもの待ち合わせ場所の少し手前に差し掛かった時に、雨合羽で雨に濡れながら晴彦のことを待っている路花の姿が目に飛び込んで来た。そんな姿がなんだかいつもの路花よりも小さくて儚げに晴彦には映った。一昨日行った水辺公園のベンチの足元に咲いていた小さなすみれ草を連想させた。

 晴彦は思わず駆けだした。これ以上待たせては可哀そうだと感じたからだ。

「遅くなって、ゴメン」

「おはよう。雨の日なのにありがとう。ごめんというのは私の方だよ、雨の中来てもらって」

 雨に濡れながら待っていた路花が、なぜかこのまま雨に溶けて消えてしまうのではないかと心細く思っていたから、路花の元気な声を聞いてどこか安心をしている自分がいた。

「雨が降るのは路花のせいではないだろう。それよりも、こんな雨の日はやっぱり配達は大変なんだろう」

「冬の雨じゃないから配達するのはそんなに大変じゃないけど、新聞を一軒分ごとに雨に濡れないようにビニール袋に入れるのに時間がかかるから、販売所に入るのはいつもより三十分早くなるのがちょっとね」

 そう言われてみると、自転車の前カゴに入れてある新聞は全てビニール袋に入れられていた。

「じゃあ、いつもより早めに配達が終わるようにしよう。早く家を出たんだから、早く帰れるようにしようよ。僕もこの一か月以上手伝っているから配達する家は覚えたから、今日は二人で手分けをして配ろう」

「本当、助かる」

 路花は素直に頷いた。今日は自転車に二人乗りするのではなく、路花が自転車に乗って、晴彦は走ることにした。雨合羽を通して雨の冷たさが体に伝わってきた。この冷たさが走って熱くなってくる体を冷やしてくれた。

 狙い通りいつもの半分の時間で配達を終えることが出来た。

「ありがとう、本当に助かった。こんなに早く配達ができたのは晴彦君のおかげだよ」

 雨は強いまま降り続いていたので、今朝は自動販売機で飲み物を買うのは止めて、少しだけ話をして解散することにした。

「国語と社会の、もう一人の満点は路花だよな」

 訊いたのではなく、断定をしたのだ。

「ということは、当然もう一人は晴彦君ということだよね」

「うん、まあ。滑り出し順調というところかな?」

「国語と社会は得意教科だからテストが終わった時点で満点の自信はあったけど、問題はこれから返ってくる分かな。特に幾何。晴彦君は私とは逆で理数系は得意教科だよね」

「文系よりも理数系の方が、答えが明確だから好きだけど。その分、解き方を最初に間違ってしまうと、その答えを使って次の問題を解いていく応用問題は自滅してしまうことになるから怖いよ。とくかく返ってきた答案を見るまでは安心できないよ」

「今日は幾何、理科、英語の授業があるものね」

「うん」

 これだけ話をしただけで二人は別れた。晴彦は家まで全力で走った。

 今日の一時間目の授業は英語だった。テストを返した後、担当教師が、「満点がこのクラスには二人いる」と発表をした。もちろん、その一人は晴彦だった。当然、もう一人は路花だろうと思った。

 二時間目は理科だった。この時もテストが返された。理数系は得意ではないと言っていたので路花の点数が気になっていたが、ここでも担当教師から「満点は二人」とのコメントがあった。二人と聞いたとたんにホッとしている自分がいた。

 ここまでに採点済みのテストを返された四教科全てで晴彦は満点だった。英語と理科は未確認だが、おそらく路花も同じだろうと晴彦は疑わなかった。土曜日は午前中だけの授業なので、今日最後の四時間目の授業は幾何学だ。路花が最も苦手としている教科だった。今回のテストでも応用問題が多く出題されていて、教科書を復習するだけでは解くことが難しいと晴彦も感じた。

 幾何学の授業でも、授業を始める前にテストが返されることになった。理数系の中でもこうした幾何学などの証明問題が最も得意な晴彦は、今回の六教科の中でも幾何学のテストで一番手応えを感じていた。

「今回のテストは学年全体での平均点も低いけど、このクラスも他のクラスと比較して決して高いわけではないぞ。そんなに難しかったか?」

 生徒の反応を期待しての問いかけではなかったのだろうが、意外にも生徒からは大きな反応が返って来た。

「めちゃくちゃ難しかったよ!」

 異口同音にこう叫ぶ声が教室内に響き渡った。

「でも、このクラスにはちゃんと満点の生徒だっているんだぞ。学年全体でも満点はこのクラスだけだ。しかもたった一人」

(えっ、一人! じゃあ路花は?)

「答案用紙は全て埋めたけど自信がない答えもある」と言っていたが、これが現実となったということなのだろうか? 晴彦は自分のことよりも路花のことが気になって仕方がなかった。それは、路花が母親の夢を叶えるために大学に進学したいと思っていることを知ってしまったからだろうか? 

 答案用紙が返され始めた。女子から名前が呼ばれている。出席番号順の答案が返されるので、路花の苗字は吉住(よしずみ)なので、女子の最後に答案を受け取った。その様子を晴彦はずっと見ていたが、路花はチラっと答案用紙を見ただけ表情一つ変えないで席に着いた。

 続いて男子の答案用紙が返された。比較的早い順番で晴彦は答案用紙を受け取った。

「えっ? えっ!」

 受け取った答案用紙に書かれた点数を見て、最初は目を疑い、続いて衝撃を覚えた。

「75点!なんでこんなことに?」

 あまりのショックに答案用紙を受け取った後、どんなふうにして席まで帰って来たか分からないほどだった。席に着いてからもずっと答案用紙を見続けた。もう授業どころではなかった。教師の声が耳に入らないくらいに、晴彦は答案用紙を見続けていた。

担当教師が「満点は一人」と言った時に、自分は安泰だと勝手に決め込んで、路花のことを心配するような高慢な気持ちになっていたことを今は強く恥じていた。

 毎違いなく満点を取ったのは路花だろう。それに引き換え最も得意な教科のはずの幾何で七十五点しか取れないとは、なんと情けないのだ。

 気づいて黒板に目をやると教師が、今回のテストの正解を説明していた。その説明がちょうど晴彦が間違えて、二十五点も減点をされてしまった問題の解説を始めたところだった。

 どこで間違えてしまったのだろうと、晴彦は目を皿のようにして黒板に書かれた模範解答を見た。この問題を読んだ時には、それほど難解だとは思わなかった。そのおごりが単純なミスを誘導してしまったのだろうか?

 問題は相似に関するもので、一辺の角度が各々違う不等辺三角形を1.25に拡大した相似形に関する問題だった。

 教師の解答の説明を聞いているうちに晴彦は気づいた。この問題に関しては正解が二つあることに。きっとそのことに教師は気づいていないのだろう。だから、自分の回答が×になったのだ。

 授業が終わってからこの件に関して説明をしようと、一度は考えた。しかし、路花の見ているこの教室で、自分の答えが正しいことを証明したい気持ちの方が勝っていた。

「先生、この問題に関してですが、今説明されている解答だけでなく、もう一つ正解が存在するのではないでしょうか?」

 生徒にそう指摘をされて、教師はあからさまに不愉快そうな顔をした。

「数学の正解は一つに決まっているだろう」

 取り付く島も与えないというように、晴彦の質問を吐き捨てた。

「確かに数学の答えは一つしかないというのが常識ですが、この証明問題に関しては、答えが二つ存在すると思います」

「四方は私が出題したテスト問題にケチをつけているのか?」

「いえ、そのような意図は全くありません。ただ、正解が二つあると言っているだけです」

「それがケチをつけているということなんだよ。四方は生徒で私は教師だ。教師が正しいと言っているのだから間違いはない」

「では、先生はこのテスト問題に関して、正解は絶対に一つしかないとお考えなのですね?」

「そうだ。だから、何度もそう言っているじゃないか」

(こいつ、無能だな)

 心の中で晴彦がつぶやいた時に、「先生」と言う声が聞こえ、その方向に目をやると路花が真っ直ぐに手を挙げていた。

「吉住、なんだ?」

「私もこの問題には正解が二つあると思います。この問題を解いている時にどちらの答えを書こうかと私は迷いました。四方君と同じく、もう一つの正解の方を書いて×になっている人が他にもいるんじゃないでしょうか?」

「えっ、そうなのか?」

 クラス中がざわつき始めた。もともと三年一組は優等生の集まりだ。それだけにテストの点数には敏感な生徒が多い。路花の指摘通り晴彦と同じ答えを書いて不正解と判断をされた生徒は他にもいるはずだ。

 ざわつきの声が段々と大きくなって行き、とうとう収集がつかないところまでになってしまった。

「じゃあ、四方の答えを黒板に書いてみろ。その答えを全員で検証をしようじゃないか」

 教師からの挑戦的な提案を受けて、晴彦は席を立って黒板に向かった。

 たった今まで教師が黒板に書いていた解答の横に、晴彦が答案用紙に書いた答えを書いた。書き終えた瞬間に、クラス委員の古川から声が上がった。

「僕の答えと同じだ!」

 これに続くように何人もの「同じだ!」という声が続いた。

「先生、この答えの説明を改めてここでした方が良いですか?」

 晴彦が黒板に書いた解答を見て、担当教師もその答えが正しいとすぐに理解したのだろう、顔が引きつっているのが傍目にもはっきりと判った。

「いや、必要ない。それよりも答案用紙を回収する。各自、この机の上に裏返しにして置きに来て欲しい。回収後採点をし直してから次の授業の時に改めて返す」

 そう言うと、回収したテスト用紙を持ってまだ授業時間が半分以上残っているにも関わらず、「自習だ」と言い捨てて担当教師は教室を出て行った。

「四方君ありがとう。僕もこの答えが×なのがどうしても納得できないでいたから、気持ちがスーとしたよ」

 古川が席を立って晴彦の席まで来ると、そう言って頭を下げた。

「自分のためだから、古川君がお礼をいうことではないよ。でも、お互いに答えが間違いじゃなくて良かったね」

「全くその通りだよ」

 自習をするように言われていたが、中間テスト後の初めての週末ということもあり、真面目に教科書を開いている生徒は一人もいなかった。いや、一人いた。路花は教科書ではなく晴彦が誕生日プレゼントに贈った予備校のテキストを真剣な顔で読み込んでいた。

 この日、授業が終わって久しぶりに柿男と一緒に学校を出た。

「今日の数学の時間の四方君、カッコよかったね。僕も四方君と同じ答えを書いていたけど、間違っていたと素直に受け入れてしまっていたし。僕は自分に自信がないことを今日のことで強く認識をしたよ」

「そんな大袈裟に考えなくても良いんじゃないのか。あれはテスト問題を作る時の検証が十分にされていなかったというはっきりとした原因が判っているんだし」

「そういうふうに言えるところが四方君のカッコよさなんだよ」

「でも、あの場面で本当にカッコよかったのは吉住の方だよ。女子の立場でなかなか手を挙げて発言出来る状況ではなかったと思うよ。勇気あるなあ吉住は」

「路花は周りの目や先生の評価を恐れていないからだよ」

「それはどうして?」

「だって、路花は実力があるから。今日の幾何のテストだって、四方君が満点ではなかったということは、先生が言っていた学年でたった一人の満点獲得者は路花以外に考えられないもの」

「きっと柿男の想像通り、満点はきっと吉住だろうね」

「どんな勉強のやり方をしたらあんな優秀な成績を取ることができるんだろう? 路花は毎朝新聞配達をしていて、他の生徒よりも勉強する時間は少ないはずなのに。やっぱり頭の中の構造が僕とは違うのかな?」

「吉住が新聞配達をしていることは、周りの人たちがみんな知っていることなのか?」

「そりゃそうだよ。小学五年からやっているのだから」

 なんで路花が新聞配達をしていることを四方君が知っているの? と訊かれるかなと警戒したが、そんな些細なことなど気に留めない性格なのか、柿男はこのことには一切触れてこなかった。

「偉いんだよ、あいつ。お父さんが早くに亡くなったから、家計を助けるためにずっと新聞配達を続けているんだ。今はもう暖かくなったし、夜が明けるのも早くなったから良いけど、真冬なんて寒いし暗いしで、僕なんか絶対にできないよ。しかも、小学五年生と言えばまだ小さい子供だもの。頭が下がるよ。おまけに成績も常に学年トップを続けているし、僕にとっては尊敬に値する人物だよ」

 そんなことを話している間に、二人が別れる三叉路に着いてしまった。

「今週末は思い切り遊ぶぞ!」

 叫ぶように言うと、柿男は家に向かって駆け出した。テスト勉強中は色々と我慢していたんだろうなと、小さくなって行く背中に向かって晴彦は、「楽しい週末を」と声をかけた。

 週明けの月曜日。この日の時間割に幾何学はなかったが、昼休みを終えて五時間目の英語の授業が始まる前に、英語の担当教師と一緒に幾何学の教師が教室に入って来て、事前に了解を得ているということで、再度採点をし直した答案用紙を全員に返した。晴彦は七十五点から百点に修正されていた。これで、路花と並んで返されたテストの全てで満点を獲得し、二人で学年のトップを争う立場になった。

 最後の教科、数学の代数の授業はこの日の六時間目にあり、最後の答案用紙が返ってく

る。晴彦の心境としては、路花に勝つというよりも、二人とも満点で学年トップが二人というシチュエーションが最も望ましいと思っていた。

 月曜日の六時間目の授業は代数だった。中間テスト教科のうち唯一答案用紙が返されていなかった代数のテストが返ってくる。これで中間テスト六教科の答案が全て返って来ることになる。

 代数の担当は三十代前半の男性教師で、他の教師のように平均点がどうの、満点が何人いる等のコメントは一切しなかった。答案用紙を受け取った時に晴彦の点数は満点だったが、クラスに満点が何人いるのか? 二人いるならもう一人は路花の可能性が高いが、もし一人なら路花の成績はどうだったのか? 知りたいのはそのことだった。

 明日の新聞配達の時に直接路花に確認しようか? それとも、交換日記に書くか? そのそう考えながら、今日も帰宅部仲間の柿男と一緒に下校した。

 その日の夕食を終えてお茶を飲んでいる時に、返された答案用紙全六枚を祖父母と母親に見せることにした。

「これ、先週の中間テストの結果。全て返って来たから」

 裏返してテーブルの上に置くと、すぐには誰も手を付けず互いの顔を見合っていた。手付かずのまましばらく経った後に、祖父が答案用紙をひっくり返した。テストの時間割通り一番上には国語の答案用紙を置いた。

「百点! 満点じゃないか」

 悪い点数だったらどうリアクションしたら良いのかと考えながら裏返したのだろう。想像していた以上に祖父は驚きの声を上げた。

「えっ、そうなの、晴ちゃんがんばったじゃない」

 親の都合で田舎に転校をさせることになってから初めてのテストだったので、晴彦本人よりも何倍もナイーブになっていただろう母親が、祖父の声を聞いて緊張の糸が切れたのか、思わず祖父以上の大声を上げた。

「すごいじゃない」

 祖母が一番冷静で、嬉しそうな表情を受かべながらそう褒めてくれた。

「ええっ、これ全部のテストが百点満点じゃないか」

 手に持った答案用紙を全て確認した祖父が、さっきの時よりも大きな声を上げた。

「えっ、それ本当なんですか?」

 母親が慌てて祖父の手から答案用紙を奪うように取ると、六枚全ての答案用紙を確認した。

「本当だ。晴ちゃん、すごいね。六百満点だよ」

 最後の頃は放心したように声が小さくなっていた。

「六百満点なんて、言い方が変だろう」

 祖父が笑いながら言った。

「変だってなんだって、百点満点が六教科で六百点満点に違いないじゃない」

 反論というよりも、母親は六百点満点の言葉に酔っているようだった。

「晴彦はすごいね。天才だ」

 祖母にとってはいつまで経っても孫は幼い子供なのだろう、そう言いながら頭を撫でてくれた。

「こういう時には天才ではなくて秀才を表現するんだよ」

 祖父が祖母の表現を訂正した。

「あら、天才と秀才は違うの? 私はてっきり同じかと思っていた」

「勉強がよく出来るのは秀才、ダイナマイトや電気を発明するのが天才だよ」

「じゃあ、晴彦も大きくなったら電気を発明するような天才にならないといけないね」

「電気はもう遅いよ。とっくにエジソンが発明しているし」

「じゃあ、別の発明で天才になるしか手がないねえ」

「ばあさんは、どうしても晴彦を天才にしたいんだなあ」

「そりゃあそうでしょう。孫が天才なんて近所でも鼻が高いもの」

「やれやれだな」

 少なくとも自分がテストで満点を取ったことで、夕食の後の団欒の時間に嬉しい情報を提供したのは間違いないようだと晴彦は思った。いつまでもこの話題で盛り上がり続けている三人を残して、晴彦は部屋に引き上げた。

 机の前に座り、両親が離婚し母親と一緒に母親の実家がある賀谷町に引っ越す日、この日は家族で住んでいた家を出て行く、父親にとっても引越しの日だった。自分たちが引っ越した後も父親がそのまま自宅に住み続けるのだと思い込んでいたので、父親が荷作りをしている姿に驚いて晴彦がその理由を訊いた。

「父さんも引っ越すんだ。この家から出て行くんだよ」

「えっ、じゃあこの家はどうなるの?」

「この家は売るんだよ」

「この家、無くなっちゃうということ?」

「家は無くならないけど、もう父さんの物ではなくなるということだよ」

「どうして? 父さんがそのまま住めばいいじゃない」

「そうはいかないんだよ。離婚をするということは、これからも母さんや晴彦の生活を守らなければならない責任を背負うことだから」

「そのためにお金が必要だということ? だから、この家を売るの?」

「それ以上のことは言わせるなよ。父さんどんどん惨めで情けない気持ちになって来るから。ごめんな、晴彦」

 家族がバラバラになること。ただ寂しいだけじゃない、そこには沢山の大人の事情が存在していることに、晴彦は初めて気づいた。青葉学園から母親の実家がある賀谷町立の中学校に転校することが決まり、それ以降、心を閉ざして母親とは一切口を利かないでいた晴彦は、実情を知ったこの時から少しずつ母親と話をするようになった。

 引越しの日、父親が勉強にも役立つからと贈ってくれたのがウォークマンだった。クラスにも持っている生徒は沢山いたけど晴彦は買ってもらっていなかった。持っている生徒も親に買ってもらう時には、「英語のヒヤリングやリスニングのため」を口実にしていたが、大方はカセットテープに録音した好きなアイドルの音楽を聴くためだった。

「ありがとう。大事にする」

 胸がいっぱいになって、これ以上話したら涙がこぼれるぎりぎりのとこまで来ていたので、嬉しくて仕方がなかったのに、その気持ちを父親に言葉で伝えることが出来なかった。

「長い休みになったら必ず遊びに来いよ。離れていたって、高校生になっても大学生になっても、社会人になっても、一生父さんは晴彦の父親だからな。それを忘れるなよ」

 大きく頷くだけで限界だった。涙が溢れて、嗚咽が漏れてくる。誰一人として悪くないのに、悲しくて辛くて、心が痛かった。

 父親から贈られたウォークマンで音楽を聴いていたが、頭の中には路花の代数の点数のことがこびりついて剥がれないでいた。

 翌朝、日曜日だがいつもの時刻に起きて待ち合わせの場所に行った。これもいつものようにすでに路花は到着していて、晴彦が来る方向に体を向けて待ってくれていた。

「今日はテスト後初めての日曜日だから、少しは遊んだり出来るのか?」

「テストに関係なく、日曜日だからって遊んだりはしないよ。それに、今日はお母さんの結婚相手が来ることになっているから、新聞配達が終わったらその準備で大変よ。掃除をしなきゃならないし、早めに洗濯も済ませておかないといけないし」

「そんな表面的な部分を飾るよりも、真の姿を見てもらった方が良いんじゃないか。取り繕っても、そんなこと、結婚して一緒に住み始めた途端に化けの皮がすぐに剥がれてしまうぞ」

「まあ、晴彦君の言う通りなんだけどね。でも、秋山さんがこっちに来るのは初めてだから、やっぱり表面だけでも取り繕いたいじゃない」

「秋山さんと呼んでいるんだ、お父さんじゃなくて」

「だって、まだ籍を入れていないもの。戸籍では他人だし。一緒に暮らすようになると自然に『お父さん』と呼べるようになるよ」

「そうかな? 今日から練習を兼ねて『お父さん』と呼んだ方が良いんじゃないか。その方が秋山さんもお母さんも喜ぶと思うよ」

「だって、結婚するのはお母さんなんだから、そんなの関係ないよ」

「そんなことないって、秋山さんは路花という娘がいることも含めてお母さんと結婚することを決めたのだし、お母さんにしても路花の気持ちを考えて、色々と葛藤を繰り返した結果、秋山さんとの結婚を決意したんだと思う。うちと違って路花のところはお父さんとは死別だから、新しいお父さんと打ち解けるのも早いんじゃないかな」

「うん、そうだね。アドバイスありがとう。相変わらず晴彦君は考えることが深いね」

「まあ、うちは離婚も経験しているし」

 晴彦としては自虐的な気持ちで言ったわけではないが、この発言に対して路花は全く反応しなかった。

 配達が始まる前の会話でも、配達中の会話でも代数のテスト結果については話題にならなかった。互いに敢えて避けているという意識はなかったが、愉快に会話出来る話題でもなかったので必然的に出なかったのだろうと晴彦は思った。

 路花が書いた交換日記を受け取って、いつもの場所で別れた。

「新しいお父さんによろしく」

 晴彦が別れ際にそういうと、「晴彦君のこと話しておくよ」と笑いながら言った。

 今日は日曜日。帰宅して台所に行っても誰もいなかった。日曜日は祖父母も母親もゆっくり起きて来る。祖父はすでに定年を迎え、自分たちが自給できる程度の農作をしている。祖母は元々専業主婦で、今は母親と家事を分担し、祖父の農作を手伝っている。

 決まった時間に家を出なければならないといった、規律正しい毎日を送っているわけではないはずなのに、三人は日曜日になると朝寝坊を決め込んでいた。こうすることで一週間という区切りを自分の中で明確にしているのかもしれない。

 一人だけで勝手に朝食を済ませるわけにもいかないので、冷蔵庫から牛乳のパックを取り出すとコップに注いで、それを持って部屋のある二階に上がった。

 今朝部屋を出る時にはカーテンは閉めたままだったので、ドアを開けた時に一瞬暗闇が目に飛び込んで来た。部屋の照明を点けるよりも自然の光を入れた方が良いと考えて、すぐにカーテンを開けた。

 起きた時のままになっているベッドをメーキングしてから机の前に座った。牛乳をひと口飲んでから、今朝路花から受け取った交換日記をリュックから取り出した。


 5月26日(土)晴れ

 中間テストの最後の教科、代数のテストが返って来た。これで、運命が決まる。おそらく晴彦君は代数も満点だろうから、私が満点を取ればこれでどちらも六百満点で同点トップになる。そう思うと、もう採点まで終わっているテストなのにドキドキして来た。

 代数のテストが終わった時の感触は悪くなかった。満点も期待ができそうだと思っていた。「期待」七割、「不安」三割の気持ちで自分の名前が呼ばれるのを待っていた。

 いざ、採点された答案用紙を受け取ってがっかり。計算問題の一問に×が付いていて、結果は九十五点。残念! でもこれは私の実力。結果は三割しかなかった「不安」の方に軍配が上がってしまった。

 この代数の結果を受けて、「今回も学年でトップ成績を取る」という目標はもろくも崩れ去ってしまった。でも、引っ越しをする夏休みまでには期末テストがあるので、この最後のチャンスでは絶対にトップに返り咲くことを目指すのだ。

 満点ではなかってけれど、六教科の合計点が五百九十五点なんて、自己最高得点だ。自己最高得点でもトップが取れないなんて、恐るべきライバル出現だ。がぜんやる気が湧いて来た。「覚えていろよ、晴彦。期末の時は、簡単にトップを取らせないからな!」

                               路花 


 路花の日記を読んで、「よかった」というのが正直な気持ちだった。落ち込んでいたらどうしようかと心配していたので、「覚えていろよ、晴彦。期末の時は、簡単にトップを取らせないからな!」と書いてくるなんて、意外に逞しいところがあるんだなあと感心をした。小学生の時から新聞配達を続けているという事実だけでも、逞しさは十分に理解出来ることなのだが。

 期末テストでは今回の中間テスト以上に勉強をしてくるだろうから、こちらもうかうかはしていられないと晴彦は気持ちを引き締め直した。

 月曜日の朝五時、週初めの新聞配達。いつもの待ち合わせ場所で晴彦は路花を待っていた。

「おはよう」といつもの見慣れた自転車でやって来た路花だったが、晴彦にはどこか違っているように見えた。やって来る時間も自転車も、着ている服装もいつもと全く変わらないのに、見た瞬間に「いつもと違う」と感じてしまうほど大きな変化が、路花の外見にあるはずなのだ。それはなんだ?

「あっ!」と声を上げた。そうだったのか。

 路花は耳にイヤホーンをしていたのだ。

 声には出さないで、人差し指で耳を指さして、「どうしたの?」と訊ねた。

「ああ、これ? ウォークマンで音楽を聴いていたの?」

 片方の耳からイヤホーンを外して路花は嬉しそうにそう言った。

「ウォークマン、買ったんだ?」

「プレゼントしてもらったの、新しいお父さんに」

「へえ、高価なプレゼントをもらったね」

「初めてこちらに来たから、ちょっと奮発したってあとでばらしていたけどね」

「どう、かなり音、いいだろう?」

「うん、びっくりした。こんなにクリアで迫力のある音で聴けるんだね。晴彦君も持っているの?」

「僕もお父さんからプレゼントしてもらったんだ」

「誕生日のプレゼントとか?」

「いや、離れ離れになってしまう日に、『勉強にも役に立つから』って言って。だから、僕にとってはとても大切な物なんだ」

「そうなんだ。でも、どんなに離れ離れになっていたって、どこに居ても、晴彦君にとってはお父さんだからね」

「うん、僕もそう思っているよ」

「私もね、新しいお父さんができるけど、二歳までしか一緒に暮らせなくて、今では記憶もおぼろげになっているけど、亡くなったお父さんのことは一生忘れないでいようと思っている。でも、これは、新しいお父さんのことを受け入れないということではないよ。ただ、私の身体の中にはお父さんから受け継いでいる遺伝子が生き続けている事実を大切にしたいと思っているだけなの」

「うん。路花のその気持ちは僕にも理解出来る。そして、路花は実のお父さんのことを一生忘れないと思う。だって、路花という名前を付けてくれたのはお父さんだし、自分の名前を口にしたり聞いたり、書いたりするたびに路花はお父さんのことを思い出すと思うよ」

「きっとそうだね。お父さんは私に路花という名前の最強の絆を残してくれたんだもの」

 話し込んでしまい新聞配達を始めるのが少し遅くなってしまったので、先日の雨の日と同じように手分けをして新聞を配った。結果的にはいつもよりも配達が早く終わってしまった。

 だから、自動販売機で買った缶コーラを飲みながら、少し話が出来る時間が確保出来た。

「もうすぐ五月も終わるね。制服も衣替えするから、学生服姿の晴彦君を見るのもあと少しだね」

「どうしたの、急に学生服の話なんかしちゃって?」

 晴彦には学生服の話をし始めた路花の意図が分からなかった。

「秋山さんがウォークマンと一緒に斉藤由貴のカセットテープをプレゼントしてくれたの?」

「へえ、優しい気遣いをしてくれる良い人だね。ところで、これまでに路花の口から出てきたことがないけど、斎藤由貴の歌が好きだったのか?」

「ううん。歌謡曲にはあまり興味がなかったから、斉藤由貴だけじゃなくて歌はほとんど聴いたことがなかった。朝が早いからテレビもほとんど観ないし。秋山さんが、中学生の女の子ならきっと好きだろうと思って、斉藤由貴のカセットを選んでくれたらしいの」

「ここに来るまでの間に聴いていたのが斉藤由貴の歌ということだね。それで、初めて聴いた斉藤由貴の歌はどうだった?」

「すごく良かった。特に『卒業』という歌がなんだが自分とダブるような感じで、初めて聴いた時には泣きそうになっちゃった。晴彦君、この歌、知っている?」

「もちろん知っているよ。かなりヒットした歌だからね」

「へえ、意外」

「意外って、何が?」

「晴彦君は歌謡曲なんか聴かないと勝手に思っていたから」

「聴くよ。勉強している時や日曜日の昼間にもラジオを聴くから、この斉藤由貴の『卒業』はよくラジオから流れていたし。その『卒業』の歌と、まさか学生服が関係あるわけではないよね?」

 路花がポーチに仕舞っていたウォークマンを取り出した。

「さすが元青葉学園生は勘が鋭いよね。これを聴いてみて」

 そういうと路花はイヤホーンの片側を晴彦に手渡してきた。それを耳に当てる。もう一方のイヤホーンを路花が耳に当てて、「スタートするよ」と言った。卒業の前奏が流れ始める。やがて、斉藤由貴の歌声がメロディーに乗って耳に入ってきた。

♪制服の胸のボタンを下級生にねだられ

 すでに女優として大人気だった斉藤由貴が満を持して発売したデビュー曲。ラジオ番組にも沢山のリクエストのはがきが寄せられていて、頻繁にこの歌が流れていた。聴きなれた歌声が耳に心地良かった。

♪ああ、卒業式で泣かないと冷たい人と言われそう。

 曲を聴いている間は二人とも無言だった。間奏が終わり二番の歌が流れる。

♪人気のない午後の教室で机にイニシャル彫るあなた

 リアルな情景が浮かんでくる歌詞に晴彦は賀谷中学の教室を重ね合わせていた。

♪セーラーの薄いスカーフで…… 東京で変わって行くあなたの未来は縛れない。

 セーラー服姿の路花が浮かんできた。

 一学期が終わると路花は東京に行ってしまう。この卒業の歌詞のシチュエーションとは正反対だが、まったく逆の季節の中で、「卒業」という言葉が不思議と心に沁みてきた。

 曲が終わる。路花がウォークマンをオフにする。でも、二人ともしばらくの間無言のままでいた。

「私、賀谷中学で卒業式はできないでしょう。だから、晴彦君の学生服姿を見ることができる最後の日、晴彦君の制服の第二ボタンを私にくれないかな?」

「えっ、僕の制服のボタンを?」

「そう。記念にしたいし、東京で寂しくなった時にこれを見て、楽しかった時のことを思い出して自分を励まそうと思って。ダメかな?」

「そんなのお安い御用だけど」

「本当に、ありがとう」

 少なくとも路花にとって自分とこうして過ごしている日々を、楽しいと思ってくれていることが分かって、晴彦は嬉しかった。

「まだ五月なのに卒業式の話をしているなんて、あまり臨場感がないね」

「晴彦君にとってはそうかもしれないけど、私にとっては一学期の終業式イコール賀谷中学からの卒業だから。めちゃくちゃ臨場感あるよ」

「転校なんだから、イコール卒業なんてちょっと大袈裟すぎないか?」

 晴彦は深刻なムードになることを避けるために、笑いながら言った。

「東京に行ったら、私にはもうこの町に帰ってくる家もなくなってしまうから、賀谷との永遠のお別れになってしまうの」

「そんな寂しいこと言うなよ。いつでも好きな時に仲のよかった友だちや、幼馴染の柿男や、それに僕を訪ねてきたらいいじゃないか。それに、案外東京で沢山の友だちに巡り会えるかもしれないじゃないか。明るい方に考えろよ。僕たち、まだ十四歳。あっ、路花はもう十五歳か、それでも人生、まだまだ始まったばかり。こらから、沢山の楽しいことが待っていると期待しようよ」

「晴彦君はポジティブだね」

「まあ、両親の離婚を乗り越えて来ているからね。それよりも、『卒業』の歌詞じゃないけど、路花の方こそ東京に行っても僕たちのこと忘れたりしないでくれよ。紛れもなく路花は十五歳までこの賀谷の町で育ったんだから」

「町も、みんなのことも絶対に忘れないよ」

「それに、変わるなよ。いつまでも路花は路花のままでいて欲しい」

「うん、それも約束する」

 晴彦はいつもになく別れ難い気持ちを振り切って、一度も振り返らないで家に向かって走り続けた。

 約束の五月三十一日は金曜日だった。昼休みに、サンドイッチの弁当を持って校庭に出た。すぐに路花が追ってきた。最初に路花と話をしたベンチに向かった。あの日と同じくらいに今日も良く晴れていた。でも、季節が二か月近く夏に近づいた分、空の青さの濃度が濃かった。当然、日差しは格段に強くなっている。

 教室内の室温も午前中のうちにぐんぐん上昇をして、教室の窓は全開にされていた。だからクラスの男子生徒の中で、授業中に学生服を着ている者は一人もいなかった。

 椅子の背もたれに掛けていた学生服を掴み取ると、晴彦は一目散に教室から出て行った。そして、ベンチに着くと学生服を着た。

「暑いから、弁当を食べる前に先に儀式を済ましてしまおうぜ」

「儀式?」

「ああ、卒業式の儀式だよ」

「そうだね。では、私から晴彦君におねだりをするね」

「おお」

「晴彦君、私に制服の第二ボタンをください」

 いきなり改まった口調で路花が言ったので、軽くボタンを引きちぎって不愛想に渡そうと考えていた晴彦の目論見が大きく外れてしまった。

「ああ、いいよ。喜んで」

 晴彦も改まった口調になって、力を込めて制服の第二ボタンを引きちぎった。

「はい」

 ボタンを路花に手渡した。

「ありがとう。大切にするね」

「もう制服脱いでもいいよな? 暑くて仕方ないよ」

 照れ隠しにぶっきらぼうに言った。

「ごめんね、無理させちゃって」

 そんな、優しい言葉かけてくるなよ。ボタンを渡した瞬間に想定外にも寂しさが込み上げてきていて、このままだと不味い状況になりそうなのに。

「それより、昼めし食べようぜ」

「うん。そうしよう。今日、冷たい紅茶を入れて来たから、お裾分けするね」

 中間テストの最後の日、菖蒲が見えるベンチで路花から弁当をご馳走してもらった時にも、麦茶を入れて来ていたポットに、今日は冷たい紅茶をいれてきてくれていた。

「はい。これは晴彦君の分」

 ポットの大きい方の外蓋にいれた紅茶を路花が渡してくれた。自分は小さな白いカップに注いでいる。

「路花、今日の弁当、お互いに半分ずつ分け合わないか?」

 そう提案した後に、晴彦は紙袋からサンドイッチを取り出した。

「わあ、美味しそう。それに、すごく豪華な具だね。分けっこしてもいいの? 私は梅干しのおにぎりと卵焼きとウインナーだけだよ」

「そっちもご馳走だね。お母さんが作ったなら味は間違いないし」

「それなら、お母さんが作ってくれたから安心をしていいよ」

 おにぎり一個と卵焼き一切れ、ウインナーを二本、弁当の蓋の上にのせて、「どうぞ」と言って手渡してくれた。

 晴彦からはマヨネーズで和えたゆで卵のサンドイッチ、ハムとキュウリ、チーズのサイドイッチ、鶏肉の照焼きとレタスを挟んだサンドイッチをラップに包んだまま渡した。

「えっ、こんなにもらっていいの?」

「だって、これが半分の量だよ」

 早速、晴彦はおにぎりにかぶりついた。巻かれた海苔の湿り具合も、梅干しの塩気を考えてごはんには塩を使っていない味のバランスも、一度食べ出したら止まらないくらいに美味しかった。卵焼きは一度食べたことがあるのだが、今回も間違いなく美味しい味だった。

「やっぱり路花のお母さんの料理の腕は最高だな」

「このサンドイッチだってすごく美味しいよ。挟んである具だけじゃなくて、パン自体も美味しいんだね」

 昼休みの時間の終わりが迫ってきていたので、二人は夢中で食べ続けた。

「ああ、お腹いっぱいになっちゃった。昼からの授業眠くなりそうだよ」

「たまには居眠りとかした方が良いんじゃないか。真面目なイメージを壊すなら今のうちだぞ」

「なにを訳の分からないこといっているの、私がイメージを壊したいといつ言ったのよ?」

「いや、僕が勝手にそう思っただけだよ。大きく羽ばたくためには自分の殻を一度壊した方が良いと思って」

「大きく羽ばたくって、東京に行くってこと?」

「それだけじゃなくて、これからの路花のことだよ。これまではお母さんを助けるために無意識のうちに自分を戒めてきたことだってあると思うから。お母さんは結婚で幸せになるんだから、こらから路花は自分のことだけを考えて行けば良いんじゃないかと思ってさあ」

「ありがとう。でも、だからって授業中に居眠りなんかしないよ」

「これは例えばという話だよ。それより、明日から六月だな。梅雨に入ると新聞配達もやり難くなるね」

「そうだけど。でも、冷たい雨じゃないからそれほど辛いとは感じないよ。それより、六月入って初めて雨が降った日は、いつもより三十分早く家を出て来ない?」

「いいけど、どうして?」

「ちょっと連れて行きたいところがあるんだ」

「わかった。雨が降るのを楽しみにしているよ」

「そろそろ教室に戻ろうか?」

「そうだな。弁当ごちそうさま」

「こちらの方こそ、サンドイッチごちそうさま。それと……制服のボタンありがとう」 

「どういたしまして」


 今年の梅雨入りは例年よりも少し早く、六月の第二月曜日に気象庁から正式に梅雨入りが宣言された。六月十日の月曜日。昨夜の天気予報で「明日は朝から雨で、梅雨入り宣言が出される可能性がある」と報道をされていたので、目覚ましのアラームをいつもより三十分早い四時半に合わせていたが、晴彦はその前に雨の音で目を覚ましてしまった。それほど雨は激しく降っていた。

 朝の散歩ならこんな激しい雨降りの日には出て行かないだろうと、もし家を出る時に母親に見つけられたらなんと言い訳しようと危惧をしていたが、母親が姿を見せることはなかった。

 せっかく早く起きたので、以前雨が降った時に路花が、新聞を一つずつ雨に濡れないようにビニール袋に入れる作業のために、いつもより三十分早く家を出るので、それが辛いと言っていたのを思い出して、四時すぎに家を出て新聞販売所に歩いて行った。販売所の場所は路花から聞いていたので分かっていた。

「あれ、晴彦君どうしたの?」

 四時半前に新聞販売所に到着したが、すでに路花は来ていて新聞をビニール袋に入れる作業に取り掛かっていた。

「新聞をビニール袋に入れる作業を手伝おうと思って、早く出てきたんだ」

「ありがとう。でもよかったのに、今日は六月に入ってから初めての雨だから、それでなくてもいつもより三十分早く出て来てもらう日だったから、いつもより一時間早く出て来たんじゃないの?」

「でも、路花の後を引き継いだら、一人でやらなければならない作業だから、路花がいるうちに経験しておこうと思って」

「それは殊勝な心掛けだね。じゃあ、手伝いながら覚えてもらおうかな」

「わかった。新聞をこのビニール袋に入れて行けばいいんだね?」

「袋に入れたら、口を一回折り曲げてセロテープで止めてね。これをやらないと口から雨が入り込んできちゃうから」

「了解」

 販売事務所を出た時にもまだ四時五十分にはなっていなかった。雨は家を出た時よりも小降りになっていた。

「晴彦君が手伝ってくれたから予定よりもずい分早く配り始めることができるよ。ありがとう」

「早いついでに今日も二人で分担して配達をしよう。それで余った時間は路花が連れて行ってくれる場所でゆっくり使おうよ」

「うん、そうしよう。なんと頼もしい後継者でしょうか」

 いつもの坂の登り口に自転車を止めると、二人は分担を決めて朝刊を配り始めた。

 配達は五時半には終了した。いつもなら路花と待ち合わせる時刻だ。

「かなり時間的に余裕ができたから、ゆっくり見学することができるよ。それに運がいいことに雨も止んだし。晴彦君は持っているね」

「持っているのは僕ではなくて路花の方だよ、きっと。それより、これからどこに連れて行ってくれるの?」

 こんな早い時間にどこに連れて行こうとしているのだろうか? 確かさっき見学とか言っていたなあ。こんな朝早くから見学出来る場所って?

「白髪神社だよ。行ったことある?」

「しらかみ神社って、聞いたことも、もちろん行ったこともないよ。この町では有名な神社なの? しらがみってどんな漢字?」

「白髪、白い髪って書くの。互いに白髪の生えるまで夫婦が長生き、いつまでも家族が円満に過ごせるようにという神社。もちろん、賀谷町では歴史のある有名な神社だよ」

「へえ、知らなかった」

「この町で生まれたお母さんは知っていると思うよ」

「その白髪神社に行って、お参りでもするのか?」

「頭脳明晰な優等生はすぐに事前リサーチをしたがるのね。いいから黙ってついて来なさい」

 雨も止んだので、自転車に二人乗りをして、少し離れた所にある白髪神社に移動をした。

 白髪神社は、鬱蒼とした森に囲まれた場所にあった。大きな石造りの鳥居が神社の存在を示してはいたが、この鳥居がなければ森と間違えてしまうくらいの深い緑に囲まれていた。

 鳥居の手前に自転車を停めて、鳥居の前で一礼をしてから中に向かって歩いた。

「なんだか厳かな気持ちになるね」

「実際に、厳かな場所だけからね」

 かなり重厚感のある門を入ると正面に境内が見えた。そして、境内の背後に目を移した時に思わす声が出てしまった。

「きれいだ!」

 ものすごい数の紫陽花が、境内を飾るように、今が盛りとばかりに咲いていた。ピンクに青、紫に白色と、七色の鮮やかな花々が咲き乱れていた。

「晴彦君にこの紫陽花を見せたかったの。紫陽花は雨の季節の花だから、雨が降っている時とか、特に雨上がりで花びらに雨粒が残っている時が特にきれいなの。だから、雨の日に連れて来ようと思って」

「ありがとう。もっと近くで見ることが出来るのかな?」

「境内の後ろは紫陽花を見学できるように遊歩道になっているから大丈夫。行きましょう」

 近くで見ると、紫陽花は色だけでなく、花びらの形や花の付き方にも色々と種類があることに気づく。それを晴彦が口にすると、路花が答えてくれた。

「この花がまばらに見えるのは、ガクアジサイ。これが原種で、花がまんべんなく付いているのがホンアジサイ。晴彦君はどっちの紫陽花が好み?」

「ガクアジサイの方かな。なんだかこちらの方が、色が引き立つ感じがする」

「ガクアジサイはすべての紫陽花の原種で、これを改良したのがホンアジサイなの。ねえ、紫陽花って原産地はどこだか知っている?」

「知らないけど、雨の時期に咲くということを考えると、亜熱帯から熱帯気候の国だから、例えばマレーシアやタイ、ベトナムあたりとか?」

「残念、不正解です。正解は日本だよ。世界中で栽培されている紫陽花の始まりは、このガクアジサイなのよ。すごいでしょう。紫陽花の学術名は、日本に西洋医学を広めたとされるオランダ人のシーボルトがつけたの」

「すごいな」

「そうでしょう」

「いや、僕が感心をしているのは路花のことだよ。路花がこんなに紫陽花のことに詳しいのに驚いたよ」

「だったら、同じ小学校に通っていた生徒はみんなすごいということになるよ」

「柿男とか? なぜ?」

「この白髪神社、私たちが通っていた小学校から近くて、この紫陽花の時期には毎年社会科見学でここの見学に来ていたの。そのたびに宮司さんから今私が話した説明を受けていたから、六年生になる頃には目をつむっていても話せるくらいに紫陽花には詳しくなっているということ」

「なんだ、感心して損をしたよ。でも、夫婦仲の良さ、家族団欒を祈願する神社にこんなに沢山の紫陽花が植えてあるのって矛盾していないか?」

「どうして?」

「だって、紫陽花は咲いている間に色々と花の色が変るから、『移り気』とか『浮気性』とか、あまり良い花言葉ではないと聞くじゃないか」

「これも、宮司さんの受け売りだけど、紫陽花の花言葉は色によって各々違っていて、どの花言葉も悪いのはないよ。例えば、この青紫の紫陽花には、『強い愛情』という花言葉があるし、白い紫陽花の花言葉は『寛容』だよ。それに、同じ種類の中に沢山の色の花があるし、同じ花でも根から吸収する成分によって色が変わるから、『和気あいあい』『家族』『団欒』という花言葉があるの。それを知ると、この白髪神社に紫陽花の花はぴったりだと思うでしょう」

「なるほど、白髪神社と紫陽花の関係については納得出来たよ。それにしても、雨粒が花びらの上できらきら輝いている紫陽花をこうして近くで見ると本当にきれいだね」

「毎年見ている私も、見るたびにそう思うのだから、この神社で雨上がりの紫陽花を初めて見たら、晴彦君ならきっと感動するだろうなと思ったから今日連れて来てあげたかったの」

「ありがとう。この賀谷町での楽しみが増えたよ」

「白髪神社は秋の紅葉もすごいから、秋も楽しみにしていて」

「じゃあ、秋も路花が連れて来てくれるといいのに」

「それは無理だよ。東京から賀谷町に引っ越してきた晴彦君なら実感していると思うけど、東京からここに来るのは遠すぎるよ。紅葉を見るためだけに来るのには交通費がかかりすぎちゃうよ」

 路花は寂しそうな顔をしてそう言った。そんな路花の気持ちを代弁したわけでないだろうが、雨粒が路花の頬に一粒落ちた。

「あっ雨がまた降ってきた。急いで帰ろう」

 二人とも雨合羽は着ていたが、急いで自転車を停めている鳥居のところまで引き返し、二人乗りしていつもの場所まで帰って来た。


6月10日(月)雨のち曇り

 今日は販売所での作業まで手伝ってくれてありがとう。まさか、販売所に晴彦君が姿をみせるなんて考えてもいなかったので、最初顔を見た時に大げさだけど、現実に起きたことだとは思えなかった。思いがけないことが起きるとすぐには脳が反応できないことを生まれて初めて経験しました。

 雨に濡れないように新聞を一束ずつビニール袋に入れるのは、広告も一緒なので結構分厚くて、地味にしんどい作業なの。だから四年以上やっていても、どうしても好きになれない作業の一つです。でも、今朝は晴彦君が手伝ってくれたので、あれほど嫌いだと思っていた作業が意外に楽しいなと感じるくらいでした。要するに私にとっては、楽しいイコール楽ができるという構図なのかもしれません。

 白髪神社の紫陽花に感動をしてくれたね。想像していた以上のリアクションに、サプライズを企画した私としては大満足でした。でも、初めて見た人なら誰でも感動をすると思うくらいに見事な紫陽花だよね。

 白髪神社は別名「紫陽花神社」と呼ばれていて、この時期休日は近隣からも見物客が押し寄せて来るので、今日みたいに雨上がりの絶好なタイミングでゆっくり見物できることは、朝早い時間だけなので、今日は本当に運がよかったです。

 桜が散って、ハナミズキが咲いて、それが散って。梅雨に入って紫陽花が咲いて。こうして夏に一日一日と近づいて行くんだなと考えたら、毎日が愛おしいと感じてしまう。夏休みまでもう四十日しか残っていないんだよね。

 なんだが、雨のせいで少しセントメンタルな気持ちになってしまったようです。

 あっ、言い忘れたことがありました。晴彦君は「雨粒が花びらの上できらきら輝いている紫陽花をこうして近くで見ると本当にきれいだね」って言っていたけど、晴彦君が勝手に花びらだと思っているのは、実際には紫陽花のガクで、真ん中にゴマ粒みたいに粒々があったのを覚えていますか? あれが紫陽花の花です。夢を壊すようなことは言いたくなかったけど、物ごとは正確に伝えたいという性分なので、書き加えておきます。

                                 路花


 路花の日記を読んで、最後に吹き出してしまった。きっと花とガクの違いについても神社の宮司さんから説明を受けたのだろうなと容易に想像が出来た。

 このまま、夏休みに向けて滞りなく時間が流れて行くのだろうなと晴彦は漠然と考えていた。七月に入ると一学期の期末テストが、中間テストの六教科に、保健体育、美術が加わり八教科で実施される。テストが終わり、答案用紙が返って来たら、路花が「学年トップになる」と掲げた目標達成に決着がつく。そのあとは終業式の前日まで午前中だけの短縮授業になる。

 短縮授業が始まると、そのまま路花が東京に行く日へのカウントダウンが始まることになる。それを思うと素直に寂しいと気持ちになる。それは、単純にクラスメイトとの別れが寂しいのか、これまでの学生生活の中で唯一親しく付き合うことが出来た女子だからなのか、それとも自分は路花のことが好きなのか?

 寂しさの源が晴彦自身にも明確には分かっていなかった。


 それは、すでに前日の晩ごはんの時から兆候をみせていた。いつもなら、母親と祖父のやり取りでにぎやかに食卓を囲んでいたが、昨日の晩ごはんの時には妙に全員が静かだった。けれどこの静けさが晴彦にはまったく不快ではなかったので、そのままいつものように晩ごはんが終わると部屋に引き上げた。

 兆候が現実のものとなったのは、次の日の朝だった。

六月十三日木曜日。いつものように午前五時に起きて部屋を出て一階の台所に下りようとしたら、階段の上からでも台所に明かりが点いているのが分かった。当然昨夜消し忘れたとは考え難いので、誰かが台所にいるということだ。

 一瞬ためらいの気持ちが生じたが、それを一掃して思い切って階段を下りた。

 やはり台所に人がいた。それも一人ではなかった。

「おはよう」

 台所に入って、祖母と母親に当たり前に朝の挨拶をしたが、二人からは「おはよう」は返ってこなかった。もうそれだけでこの状況は尋常ではないことを悟るしかなかった。

 二人の存在を無視して冷蔵庫から牛乳パックを取り出す勇気もないので、「おはよう」に続く言葉を探してみた。なかなか適当な言葉は見つからなかったが、この流れからしたら、祖母と母親に発言をするタイミングを与えてあげるのが自分の務めだろうと考えて、こう言ってみた。

「二人とも今朝は早いけど、出かける用事でもあるの?」

「晴彦は今日もこれから散歩に出るのか?」

 これに反応を示したのは祖母の方だった。

「そのつもりだけど、どうして?」

「雨が降りそうなのに、こんな日でも散歩に行くの?」

 これは母親の言葉だ。さすがに二人が醸し出している緊張感漂う雰囲気で、新聞配達の手伝いをしていることが二人にばれてしまったなと思った。

「うん、行くよ」

 悪びれない感じを出して当たり前のように言った。

「もう行くのは止めなさい」

 今までに聞いたことがないほどの低い声で母親が言った。晴彦は無言で母親の顔を睨みつけた。これは想定外の反応だったのだろう、一瞬母親が怯んだ目をした。

「晴彦、あんた同級生の吉住路花という女生徒と毎朝会っているんだってね?」

 祖母が直球を投げてきた。誤解はあるようだが路花と毎朝会っていることは確かだ。

「新聞配達の引継ぎをしているから、必然的に毎朝会っていることにはなるけど」

 回りくどい言い訳をするよりも、正直に真実を言った方がよいだろうと咄嗟に判断をした。

「新聞配達と吉住路花と会っていることを混ぜこぜにしなで」

 明らかに感情的になっているのがその無表情な言い方で容易に分かる。

「二人してこんなに早く起きて来て、僕になにを言いたいのか分からないけど、同級生のことを呼び捨てにするのはとても失礼なことだと思うから止めてくれないかな」

 感情的にならないように注意をしながら言ったが、路花のことを呼び捨てにされたことで晴彦の中では怒りの炎が燃えたぎっていた。

 冷蔵庫から牛乳パックを取り出すとグラスに注いで台所から出ようとした。

「今朝は外には出させないよ」

 出口を塞ぐようにして母親が立ちはだかった。

「いきなりなんなんだよ? 訳が分からないことを言い出して、なんの権利があって人の行動を規制するんだよ」

 もう自分の意志では感情が爆発するのを抑えることが出来なくなり、つい大声になってしまった。

「なんと言われようと、とにかく行かせない」

 立ちはだかる母親を押しのけて晴彦は階段を大きな音を立てて駆け上がった。部屋に戻りベッドに倒れ込んだ。いつもなら、台所で牛乳を飲んだ後、顔を洗って歯を磨いた後に洋服に着替えて五時二十分には家を出ていた。

 このまま待ち合わせの場所に行かなかったら、路花はどう思うだろう。晴彦の体調が急に悪くなり、それで来ないのでないかと心配するだろうか? まさか、家を出ることを母親に反対されたとは想像もしないだろう。

 このまま強引に家を出ることも可能だ。けれど、一度出てしまうと戻ることがかなり困難になる。無鉄砲な行動が出来ないほどには子供ではなくなっていた。

 ベッドに横になったまま空しく無駄な時間を過ごした。いつもの場所で路花が待っていると思うと時間がすごい速さで進んで行くが、学校に行くまでの時間を考えると牛歩のようにゆっくりとしか時間が流れていかなかった。

 祖母と母親がどうして、路花と会っていることを知り得たのだろうか?

 少し冷静さを取り戻してくると、当然といえば当然なこんな疑問が浮かんできた。思い起こしてみると昨日の晩ごはんの時から母親の様子がおかしかった。ということは、昨日の時点ではすでに路花とのことが母親の耳に入っていたということだろう。

 二人が新聞配達をしている姿を同級生や近所の人に見られることはないはずだ。なぜなら、配達をしている地域には同級生は住んでいなかったし、配達している時刻もかなり早い。

だからこそ、二か月以上も前から新聞配達を手伝っているのに、今日までクラスや学校で生徒から指摘をされたことはなかったし、からかわれたこともなかったのだ。

 時計の針が六時を指している。すでに路花は新聞配達を半分以上終えているだろう。晴彦はパジャマのまま、ベッドに横たわったまま、夜行性の動物のように動く意欲を失くしていた。

「晴彦、学校に行く時間だぞ」

 いつの間にかウトウトしていたらしい。祖父の声で目を覚ました。さすがに母親と祖母は声を掛けて来ることが出来なかったのだろう。祖父は今朝の諍いのことを二人からどのように聞かされているのか? なにも答えないことにした。

「晴彦、学校に行く時間だぞ」

 一度目よりも大きい声で、しかもこれにドアをノックする音が加わった。

「学校には行かない」

「どうしたんだ。体調でも悪いのか?」

「理由はお母さんとおばあちゃんから訊いてよ」

 晴彦からの答えを受けて、祖父が急いで階段を下りて行く音が聞こえた。

 時計は十時を指していた。朝からグラス一杯の牛乳しか飲んでいなかったが、一向に空腹感はなかった。これまでに一度も味わったことのない無気力感を全身にまとっているような気分だった。ベッドに寝返りを打つことさえももどかしい。

「晴彦、ちょっといいか?」

 祖父が再び声を掛けて来たのは十時半をすぎた時だった。

「なに?」

「ちょっと中に入れてくれないか。少し話したいことがあるんだ。今朝のことは二人から聞いた」

 晴彦は緩慢な動作でベッドから下りると、ドアを開けた。

「なんだ、パジャマのままじゃないか」

「どこにも行かないんだからこのままで構わないでしょう。それより話したいことってなに? おかあさんやおばあちゃんと同じように僕を説得しようと考えているなら、話は聞かない」

「そんなことは考えていないから、とにかくおじいちゃんの話を聞け」

 その言葉を信じて晴彦は祖父を部屋の中に入れた。

 晴彦がベッドに腰かけ、祖父が机のイスに腰かけた。

「お前、腹は減ってないのか?」

「全然」

「腹は減ってないけど、腹は立ててはいるんだな」

 本来、ここでは笑う場面なんだろうが、笑う気分ではない。

「前に晴彦から新聞配達をしたいという話があったな。あの時の話が具体的に続いているということだな?」

 前に話した時にも祖父は新聞配達をすることには反対はしなかった。晴彦はただ黙って頷き返した。

「本気で新聞配達をするつもりなのか?」

「夏休みに入ったら正式に始めようと思っている」

「吉住路花ちゃんの後任としてか?」

「引継ぎを受けているのは、吉住からだからテリトリーはそうなると思う。お母さんとおばあちゃんはあの時の話をぶり返して、今朝、僕に対して嫌がらせをしたの?」

 晴彦は祖父の目を真っすぐに見て訊いた。祖父は基本的に新聞配達をすることには反対ではないはずだと思いながらの質問だった。

「晴彦が新聞配達をすることに、二人が反対でそれで今朝実力行使に出たとおじいちゃんは勝手にそう思っていたが、二人の思いは違うところにあるようだ」

「違うところ。それってどういうところなの?」

「……」

 てきぱきしている印象のある祖父にしては珍しく、ここで口ごもった。

「言い辛いことなの?」

「いや、それを言わないとここに来た意味がないからな。晴彦が路花ちゃんと親しくしていることが、あの二人には許せないことらしいのだ」

「えっ、吉住と親しくしていることがなぜ許せないの? 吉住は同じクラスの友だちだし、新聞配達をしているのは母子家庭の家計を助かけることが目的だよ。自分が欲しいものを買うためや遊びたいことに使うためにやっていることではないよ。それに、成績だって学年でトップクラスだし」

 つい声が大きくなって行くのを、晴彦は抑えることが出来なかった。

「そうか、努力家で母親思いの優しい子なんだな」

「おじいちゃんだってそう思うでしょう。なのに、どうしてお母さんもおばあちゃんも吉住と親しくすることに反対なの?」  

「そのことだが、どうやら路花ちゃん本人というよりも、彼女のお母さんに理由があるようだ」

「吉住のお母さんに? それはどんな理由?」

「晴彦は路花ちゃんから、お母さんの話を聞いたことがあるのか?」

「看護婦さんをしていることくらいしか聞いてないけど」

「そうか。さっき母子家庭の家計を助けるために路花ちゃんが新聞配達をしていると言っていたから、十二年前にお父さんが亡くなったことは知っているんだよな?」

「それは知っている。元々身体が弱かったということも聞いている」

「じゃあ、その亡くなったお父さんの両親がこの近くに住んでいることは知っていたか?」

「ううん。聞いたことがなかった。吉住のおじいちゃんとおばあちゃんがこの近くに住んでいるの?」

「元々、路花ちゃんのお母さんは他所の土地の人で、お父さんがこの賀谷町の近くの人なんだよ。二人が結婚をしてお母さんがこの賀谷に移り住んだということだ」

「へえ、そうなんだ。その話は初めて聞いたよ」

 でも、この話と今朝の二人の行動とにどのような繋がりがあるのだろうと、祖父の話を聞きながら晴彦はその先のことを考えていた。

「お母さんやおばあちゃんが言っている、吉住のお母さんの話はおじいちゃんも良く知っている話なの?」

「いや、おじいちゃんは全く知らなかった。二人から聞いたのが初めてだった」

 祖父が話してくれた路花の母親の話はこういうことだった。

 路花の父親の名前は知之。母親は芳江。知之は先天的に肺に病気を持っていて、小学校の時から体育の授業を見学しなければならないほどの虚弱体質だった。そのせいで風邪をひきやすく、ひいてしまうと重症化しやすいので特に冬場には風邪をこじらせて肺炎を引き起こし入院することは珍しいことではなかった。

 中学生になっても虚弱体質が一向に改善されず、体調を崩しやすい上に入退院を繰り返していたために学業も疎かになり、高校への進学を諦めざるを得なかったのだ。

 そんな病弱な知之のことを両親は、溺愛しながら大切に育てて行った。吉住家の長男として生まれた知之は、まるで繊細なガラス細工を扱うように周りから気を遣われながら育てられ、地元では古くから地主だった吉住の家にとっては、高校には進学することは出来なかったが、跡取りは長男の知之だと決まっていた。

 そんな時に、入院をした病院で担当の看護婦をしていた芳江と出会い恋に落ちたのだった。路花の話では、両親の結婚に母親の両親が猛反対をしたと言っていたが、猛反対をしたのは知之の方の両親で、すでに知之の妻の候補を決めていた矢先のことだったのだ。

 何度、どんなに説得しても知之の意志は固く、芳江との結婚を諦めようとしなかった。知之の両親、特に母親は、知之に言っても埒が明かないので直接芳江を訪ねて来て、「知之と別れて欲しい」と手切れ金まで持参して談判に来た。

 この申し入れを断った芳江に対して、知之の母親は、「財産目当ての薄汚い雌猫が、お前になんかにびた一文の財産も分けてやらないからな」と罵った。

 そして、最後の手段として、吉住家は知之に対して、「芳江と結婚をするなら家から勘当する」と言い渡したのだった。これでこの結婚は破談になると両親は踏んでいたが、知之は勘当を受け入れて家を出たのだった。

 知之と芳江は、知之のかかりつけの病院の関係で遠くには行けなったので隣町に引っ越し、慎ましくも幸せな新婚生活をスタートさせたのだった。

 しかし、これまでまともに働いたことのない知之には、生活のために働くことは無理だった。そのことは結婚前に十分に二人で話し合い、看護婦をしている芳江が家計を支えることは知之も納得していたが、娘の路花が生まれてからはそう甘えたことも言っておられず、芳江の反対を押し切って働き始めたのだった。

 結果的にはその無理がたたって、路花が二歳の時に知之はこの世を去ったのだった。この知之の死に対して、吉住家は可能な限りの汚い言葉を使って芳江を罵った。

「鬼のような恐ろしい女が息子に鞭を打ってぼろ布のように働かせたために、息子は死んだ」

「息子の呪いが娘の顔にあざとなって残された」

「身体の弱かった息子に子供など作れない。子供は誰の子は分からない。どこの馬の骨か分からない子供に吉住家の財産など分け与えることなど絶対にしない」

 夫や父親を亡くした路花親子の悲しみなど微塵も考えることなく、吉住家の人々はそう触れ回った。挙句の果てには知之の遺骨さえ奪い去って行き、これまでに一度も二人に墓参りさえさせなかったのだ。

 この時の知之の母親の異常すぎる振舞いの様子のことは、隣町に住んでいた祖母も良く覚えていた。母親はすでに東京に嫁いでいたので全く知らない話だった。

 あれから十二年が経ち、知之が他界した時の騒動を記憶に残している人たちも少なくなっていた。けれど、知之の両親は健在のままだった。そして、芳江の再婚話の噂が流れ始めた途端に、知之の母親の嫌がらせが再び息を吹き返したのだった。こともあろうにこんな根拠もない噂を流し始めたのだった。

「あの芳江が再婚する男とは、知之が生きている頃から関係を持っていた。芳江は知之を裏切り続けていたのだ。娘の路花は知之ではなく再婚する男の子供だ。あの女はとんでもない性悪女で、それを知った知之はショックのあまり命を縮めたのだ」

 この噂を聞きつけた祖母が母親に教えた。母親は、「馬鹿げた話だ」と取り合わなかった。けれど、状況が一転した。梅雨入りをした日、朝早い時間に白髪神社で晴彦と路花が紫陽花を見物している姿を、近所の人に見られていたのだ。

 近所の人が何気ないこととして祖母に伝え、祖母が母親に話した。そして、六月十二日の早朝、散歩に出た晴彦の後を母親が尾行したのだった。そして、自転車に二人乗りをする二人の姿の見たのだ。噂通り路花の顔には大きな赤い痣がきっきりと見えた。

 母親からの目撃報告を受けて祖母は言った。

「母親の血が、娘にも流れている」

 これが祖母と母親の今朝の行動の理由だ。

 祖父の話を聞いている間中、晴彦の身体は怒りで震え続けていた。母と娘、二人だけで真っ正直で真面目に生きて来た。吉住家が噂をするような親子なら、小学五年生の女の子が朝四時に起きて新聞配達などするはずがない。

 祖父の話を聞きながら晴彦は、昼休みの校庭で初めて路花と二人きりで話をした時に路花が言った言葉を思い出していた。

「ねえ、四方君、今日のように青い空が広がっている時でも、人はなぜ、このとてつもなく大きな空の中にほんの小さな雨雲を探そうとするんだろうね」

 まさにこの小さな雨雲を探し当てて、路花親子に集中豪雨を降らしているのが今の状態だ。

「そんなの根も葉もない噂だということぐらい良識のある大人なら分かることでしょう。おじいちゃんの話を聞くと、これまでにも吉住親子は嫌な思いをいっぱいして来ているじゃないか。それでも母と娘の二人で懸命に生きてきた弱い立場の人間を、どうしてこれ以上追い詰めるようなことをするの? どうして吉住親子が幸せになることを願ってあげられないの?」

 話しているうちに晴彦は祖父の顔が識別出来ないほどに涙が流れ出していた。悔しくて、悲しくて、心が砕け散りそうなくらいの痛みを発していた。

「おばあさんもお母さんもちゃんと、これが根も葉もない噂話だということは分かっているんだよ。分かっていながら、この噂に自分の孫や息子が巻き込まれてしまうことを恐れているんだよ」

「僕がこの噂に巻き込まれているということ? 吉住は夏休みになると東京に転校することになっているんだよ。あと一か月ちょっとしかないのに、どうしてそんなことを心配するの?」

「だからだよ。あと一か月ちょっとで路花ちゃんはこの町を去ってしまう。けれど、晴彦はこらからもずっとこの町に住み続けるわけだ。だから、噂に巻き込まれた後の後遺症を晴彦がずっと背負って行くことになるのを、二人は心配しているんだよ」

「おじいちゃんも同じ考えなの?」

「おじいちゃんだって、晴彦のことが可愛い。それだけだよ」

「じゃあ、僕がそれでも吉住と明日の朝新聞配達をしたいと言ったら、味方になってくれる?」

「味方にはなるけど、味方だからこそ晴彦のその行動を阻止する」

「それじゃあおじいちゃんのことを、味方とは呼べないよ」

「会いたいのか? 路花ちゃんのことが好きなのか?」

「なにも告げずに新聞配達に行かないということだけはしたくないんだ。だから、会いたいと思う。吉住のことを好きか? と訊かれてもはっきり『好きだ』とは答えられない。大人が考える恋愛とは違う感情を吉住には抱いている。東京に行くまでの間、この町や学校で良い思い出を沢山作って欲しいと思っている。その手伝いをしたいと思っている」

「晴彦は優しい青年に成長をしたな。優しいことは良いことだ。ただ、なんでも過ぎると身を亡ぼすことになる。敢えて火中の栗を拾うことはないというのが、おじいちゃんからのアドバイスだ」

「…… おじいちゃんだけは僕の気持ちを分かってくれると思っていた」

 最後の言葉は声に出したのか、心の中だけで言ったのかは、晴彦も定かではなかった。

 最後はお互いの顔を見ないまま祖父は部屋を出て行った。

 祖父がこの部屋にやって来た目的はなんだったのだろう。学校にも行こうとしない孫に、今朝の祖母と母親の行動の理由と、その正当性を話すためだったのか? この家で一緒に暮らす全員が晴彦のことを心から大事に思っていることを改めて知らせるために。

 正午を過ぎた時、祖父が昼食を持って部屋のドアをノックした後、ドアを開けようとした。けれど開かなかった。さっき祖父が出て行った後内側からロックをしたからだ。

 先ほど話をしたことで、祖父は免罪符を手に入れたと錯覚をしたのかもしれない。だから、昼食を持っていくのは自分の役割だと考えたのだろう。

「晴彦、昼ごはんを持って来た。開けなさい」

「要らない」

「ドアの外に置いておくから食べたくなったら、食べたらいい。いいか忘れるなよ、おじいちゃんは晴彦の味方だからな」

「……」

 返事する気力さえ無くなっていた。

 柿男が訪ねて来たのは、午後四時すぎだった。この時刻だと学校から直行ということになる。

「まあ、佐々木君? わざわざ心配して訪ねてくれたの? ありがとう」

 玄関口でのやりとりの声が部屋の中まで聞こえていたので、柿男が訪ねて来たことはすぐに分かった。訪ねて来た目的は分からなかったが、来たからには部屋に招き入れようと思って晴彦は急いでパジャマから部屋着に着替えた。

「晴彦、クラスの佐々木君が訪ねてくれたわよ」

 母親の声が飛んで来た。部屋から出ると階下に向かって叫ぶように言った。

「柿男、二階に上がりなよ」

「おお」

 柿男は晴彦に言われるまま大きな音を立てて階段を上がって来た。

「佐々木君、冷たい飲み物と温かい紅茶のどちらがいい?」

 階段を上がり切らない途中で母親が柿男に訊いた。

「なにもいらない」と晴彦の方から答えようと思ったら、それよりも一瞬早く柿男が、「冷たい飲み物を。でも炭酸飲料は得意ではないので」と明確に自分の好みを答えた。

「じゃあ、オレンジジュースでいいかな?」

「はい、満足です」

 やっと階段を上がり切った柿男の手を引っ張って部屋の中に入れた。さすがに食べなかった昼食は片付けてあった。

「なんだ、全然元気そうじゃないか。体調を崩したと聞いていたから心配したていたから安心をしたよ」

 まさか本気で心配をして訪ねて来たわけではないだろうと、晴彦は踏んでいた。柿男がメッセンジャーとしてここに来たことを晴彦は期待していた。

 ドアをノックする音がした。

「晴彦、ジュースとお菓子を持って来たから」

 無言でドアを開けてジュースと袋入りのスナック菓子が載ったお盆を受け取った。

「どうぞ」

 そういうと柿男はストローを使わずグラスからそのままオレンジジュースを飲み始めた。スナック菓子の袋は晴彦が封を切った。午前四時過ぎの男子中学生の空腹度は半端じゃない。それを物語るように、柿男は貪るようにスナック菓子を食べ始めた。

 あっと言う間に袋の半分くらいのスナック菓子を平らげて、やっとお腹が落ち着いたのか、柿男は学生カバンを開けた。

「これ、路花から預かってきた」

 頑丈に包装紙で包んでいる平べったい物を晴彦に手渡した。柿男は、「今日の授業のノートだと思う」と言ったが、晴彦はすぐに交換日記のノードだと分かった。本来は今朝新聞配達の時に受け取るはずの日記帳。昨日は路花が書く順番だった。

「路花親子のことで変な噂が流れているのを晴彦君は知っている?」

 一学期の始まりの日、初めて登校した下校時に、晴彦は柿男と一緒に学校を出た。帰り道、柿男からいきなり、「晴彦の両親は離婚をしたんだよね」と訊かれた。この佐々木家は家族揃って噂好きなのか、どうやら路花親子の件で詳細な情報を柿男は知っているようだ。

「知らない。そんな噂が流れているのか?」

「流れているよ。酷い噂が」

 柿男が話してくれた噂の内容は、午前中に祖父が話した内容とほぼ同じだった。ただ、路花の家の内情に詳しい佐々木家では、この噂が根拠のない真実とは大きくかけ離れたものだということを、周りの人たちに話して回っているとのことだ。

「クラスの女子もこの噂の話を休憩時間にしていたから、僕が強く否定をしたんだ」

「女子たちが噂をしている声は、吉住の耳にも入ったのか?」

「それはないと思う。うちのクラスの女子はそこまで性格が悪くないから」

「人が傷つくことをなんとも思わない、腐った性格の奴ってこんな田舎にもいるんだな」

「こんな田舎だからいるんだよ。都会と違って刺激が少ないから、そういう連中にとっては他人が不幸になるような噂話は密の味なんだよ」

 お前本当に中学生かと突っ込みたくなるような、大人びた言い方を柿男はした。午前中の祖父との話ではないが、少なくとも路花にとって柿男は味方だと信じて良い存在だ。

「明日は学校に来れそうか?」

「多分行けると思う」

 新聞配達は行けないだろうけど、交換日記は学校で渡せると思った。

 たった三十分くらいの短い滞在だったが、柿男と話が出来たことは大きかった。路花にとって味方がいることが分かって安心をしたことが大きかった。

 柿男が半分食べたスナック菓子の残りを夕食にすることにして、すぐに柿男が届けてくれた包みを開いた。やはり出てきたのは日記帳だった。

 すぐにページを開いた。


6月12日(水)曇り

 晴彦君、もう新聞配達の引継ぎは十分だね。今朝も分担をして配達して回ったけど。坂の上の方は晴彦君がほとんど配ってくれて、私は楽ちんだったよ。早めに引継ぎをして、新聞配達をしていた時間を期末テストに向けた勉強時間に当てちゃおうかな? なんて冗談だけどね。こんなことして期末テストで学年トップの成績を取ってもフェアーじゃないものね。

 東京に引っ越した時に住む家が決まりました。私には東京の地理が良く分からないけど、東京二十三区内で杉並区という所に住むそうです。最初は秋山さんが今住んでいるマンションに住むことに決めていたんだけど。一人暮らしの部屋に三人で住むにはさすがに狭過ぎるということになって、秋山さんが一か月かけて部屋を探し回ってくれたおかげで、私の部屋もちゃんと確保された住まいが見つかりました。

 すでに秋山さんが先に入居していて、今はお母さんと相談をしながら少しずつ必要な物を買い足してくれているようです。

 東京での生活の基盤が整って行くのは嬉しいけど、賀谷中学から転校して行く日が近づいていることを現実として突きつけられているようで、やっぱり寂しい気持ちになります。

 でもこんな気持ちは、どんな時も同じだよね。小学校の卒業式の時もそうだった。幼馴染のような同級生と別れる卒業式の準備が着々と完了して行くにしたがって、気持ちの中に吹く寂しさの風の強さがだんだんと増してきた。同級生の全員が同じ中学に入学をするのに、それが分かっているのに、やっぱり寂しかった。

 夏休みというゴールが決まっているから、私にとっては一学期の終業式が賀谷中学の卒業式。だから寂しい。私だけが卒業して行くのが寂しい。

                                  路花

 

 路花の日記はこれで終わるはずだった。十二日の夜に書いた日記はここまでだった。けれど、この日記には続きが書かれていた。

 晴彦が十三日の朝、いつもの待ち合わせ場所に姿をみせなかったことで路花はなにかを察した。新聞配達を終えた後自宅に帰り、学校に行くまでの僅かな時間で書いた日記の追伸があった。

 几帳面な路花にしては珍しい走り書きの文字。


<追伸。

 晴彦君、今、町中に広がっている私たち親子の噂が晴彦君の耳にも入ってしまったということなんだね。だから、今朝新聞配達のために家を出ることができなかったということだよね。ごめんね。まったく関係のない晴彦君にまで迷惑をかけることになってしまって、本当のごめんなさい。

 でも、噂はまったくのデマで、亡くなったお父さんの実家から勝手に流されたものです。どんな風な噂が晴彦君の耳に入っているのか正確には分からないけど、私が知っている限りでは、今度お母さんが再婚をする秋山さんと、お父さんが生きている時から付き合っていて、私が秋山さんとの間にできた子供だという噂です。

 これ絶対に違うからね。私は正真正銘、吉住知之、お父さんの子供だからね。だからこそ病弱で進学を諦めざるを得なかったお父さんの夢を叶えるために大学進学を目指しているんだからね。これだけは信じてね。町中のみんなが噂を信じても、晴彦君だけは私の話を信じてね。

 こんな噂を流されてしまい、近所の方にも沢山の迷惑をかけてしまっています。こんな状況を考えて、私たちは予定より早く東京に引っ越すことを決めました。

 期末テストで晴彦君に勝って学年トップになることを目標に頑張って来たけど、どうやらそれは果たせそうにありません。

 学校で顔を合わすことがあっても、私のことは無視した方がいいと思う。晴彦君に仲良くしてもらったこと、本当に嬉しかった。急なことでまともなお礼をすることができないけど、この前二人で聴いた斉藤由貴のカセットテープを贈ります。

 この「卒業」という歌を聴いたら、路花が東京で元気になっていると思ってね。こんなことになるとは予想もしていなかったけど、晴彦君の制服のボタンをもらっていてよかった。無事に二人だけの卒業式を済ませていてよかった。

                             路花


 晴彦は衝動を抑えることが出来なくて、すぐに日記を書き始めた。明日の朝も家族は見張りの手を緩めたりはしないだろうから、新聞配達の手伝いに行くことが不可能だ。日記はこっそり教室で渡そう。とにかく、自分が噂話などまったく信じていないことを伝えよう。そして、こんな噂なんかに負けるなと伝えたい。


 6月13日(木曜日)くもり(でも一歩も外に出ていないので部屋の窓から見た天気)

 今日ほど自分の短絡的な性格を悔やんだことはない。なぜ、もっと冷静に判断をして学校に行かなかったのだろうか。このことを僕は今、心から激しく後悔をしている。

 今朝僕が新聞配達の手伝いに行かなかったことで、路花はある程度のことを察したのだろうと思う。正直に言うよ。いつも通りの時間に起きて家を出る準備をしようとしたら、祖母と母親にそれを阻止された。納得出来るような説明もないまま、ただ、「路花と会うのは許さない」と言われただけだ。二人とは言い争いになり、それでも強行突破は可能だったと思う。けれど、僕はそれをしなかった。なぜなら、帰る場所を失うのが怖かったからだ。さっき短絡的だと自分の性格のことをそう表現したけど、帰る場所のことを考えるなんてかなり保身的な面も持っていると思う。

 けれど、母親と祖母に当てつけるために学校を休んでしまったことは、自分でも誤った判断だと思っている。冷静に考えれば、今朝新聞配達に行けなかった理由を学校で直接路花に話すことが出来たのにと、そうすれば、路花に余計な心の負担を掛けずに済んだのにと思っている。

 母親も祖母も、新聞配達の手伝いに行くことを阻止した詳しい説明はしてくれなかったけど、祖父が路花とお母さんに関する噂の話をしてくれました。この話を聞いた時に最初に思ったのは、人はこれほどまでに悪質なことが出来るのだろうか? ということだった。

 安心をして欲しい。こんな根も葉もないデマなんて僕は全く信じてはいない。前に、路花が話してくれた、「身体が弱くて行きたくても上の学校に行けなかったお父さんの夢を、自分が叶えるために学年でトップになり続けたい」の路花のこの言葉が総てだと僕は思っている。

 周りからどんなことを思われようと、言われようと、真実を知っている柿男の家族を始めとする近所の人たちや、僕は必ず路花やお母さんを守るために戦っていく。

 だから、こんなに早く東京に行くな。あんなでたらめな噂話なんかに負けるな。ちゃんと夏休みになるまで同じ中学に通って欲しい。そして互いに切磋琢磨して期末テストのトップ争いをして欲しい。

 大切な斉藤由貴のカセットテープは、一学期の終業式が終わった後に受け取りから、一度路花に返すことにしたいと思う。

                              四方晴彦


 次の日の朝、当然新聞配達の手伝いには行かなかった。朝、七時に起きると無言のまま朝ごはんを済ませ、弁当を受け取って八時十分には家を出た。他の家族全員が腫物にでも触るように晴彦に対して気を使っていたが、今はまだ家族と会話をする気持ちにはなれていなかった。

 それでも家を出て学校に向かう通学路では、学校に行けば路花に会えるという前向きな気持ちが湧き上がって来た。

 学校に到着し、三年一組の教室に入る寸前に、中から慌てて飛び出して来た柿男とぶつかりそうになった。

「あっ、柿男。昨日はありがとうなあ」

「晴彦君遅いよ、早く」

 そういうと柿男は晴彦の手を引っ張ってすごいスピードで校庭に向かって走り始めた。

「なっ、なに? カバンも置いていないのに」

 教室にも入っていないので、カバンを持ったままだ。

「路花が東京に行ってしまうんだよ」

 走り続けながら柿男はそれだけ言った。でも、それだけで十分だった。路花が今日東京に行ってしまうということだ。それを聞いた途端に、逆に晴彦の方が柿男を引っ張る形になった。とにかく、路花の家に急がなければ。

「実は昨日の夜、気になったので路花の家の辺りを見たら、いつも朝早いから十時すぎには明かりが消えているはずなのに、こうこうと明かりがともっていたから、おかしいなあとは思っていたんだよ。朝起きても気持ちが落ち着かなかったから、朝、家を出る時に誘いに行こうかなとも思ったんだけど、いくら幼馴染でももう互いに中学三年の男女だからと思って、いつもより早めに登校したんだ。路花も登校して来るのは早いから。でも、なかなか登校して来ないから、おかしいなあと思って職員室に訊きに行ったら、工藤先生から、『急な話だが、吉住は今日東京に引っ越すことになった。昨日夜にお母さんと二人で先生の自宅にわざわざご挨拶に来てくださった。吉住からクラスのみんなに向けたメッセージを預かっているから、朝のホームルームの時に話すつもりだよ』と、馬鹿みたいに呑気な調子で言われたんだよ。すぐに路花の家に駆け付けようと教室を出てところで、運よく晴彦君に出くわしたというわけだ」

「やっぱり、あの噂が原因なんだろうね?」

「それ以外、どんな原因があるというのさ。あの連中、どれだけ路花たちを追い詰めたら気が済むんだよ」

 憤慨をしながらも足だけは止めないで、路花の家に急いだ。かなりのスピードで走って来たので、呼吸が苦しくなっていたが、それでも焦る気持ちに背中を押されて走り続けた。

「あっ、母さんだ」

 柿男が指さした先に女の人が立っていた。その人が柿男の母親だった。

「路花ちゃん、行っちゃったよ。今日引っ越すのが分かっていたら、あんたを学校になんか行かすんじゃなかったよ」

 そう言って柿男の母親は目頭を押さえた。

「近所にもあの噂話を鵜呑みにしている人たちも多くて、ほんの一握りの人たちしか見送る人がいなくて、寂しい見送りだったよ。芳江さんにも路花ちゃんにも東京で幸せな暮らしを送って欲しいね」

 柿男の母親は目頭を押さえたままそう言った。

「晴彦君、追いかけたらまだ間に合うんじゃないのか?」

「分かった、行こう」

「僕はもうこれ以上走るのは無理。晴彦君は昨日も会っていないんだし、急いで!」

「分かった、行くよ」

 晴彦はカバンを脇に抱えると、全力で走り出した。大きな道路に出るまで、この賀谷町には信号がない。信号待ちで車が止まっていることは期待出来ない。

 このまままともなコースを走っていたんでは絶対に路花を乗せた車に追いつくことは出来ない。大きな道路に出るための近道を走るしかない。

「おーい、晴彦君」

 名前を呼ぶ声に振り向くと、柿男が自転車に乗って晴彦を追って来てくれていた。

「これの方が早いから、後ろに乗って。大きな道路に出るまでの裏道は目をつむっていても走れるから」

 まるで以心伝心だと晴彦は思った。柿男の好意に甘えて自転車の後ろに乗った。

「きつくなったらいつでも交代するから遠慮なく言ってくれ」

 自転車は田植えの終わった田んぼのあぜ道を通り、雑木林の間を通り向けて大きな道路に出て来た。

「晴彦君、赤信号で止まっているトラック、引っ越し社のトラックだよ。急ごう、すぐに信号が変わってしまう」

 柿男にそう言われて時には、もう晴彦は自転車から飛び降りてトラックに向かって走り出していた。

「路花、路花」

 トラックのサイドミラーで確認しやすいように大きく手を振りながら走った。けれど、トラックのドアが開く気配は一向にない。

 もう少しでトラックに追いつくと思った時に、歩行者側の青信号が点滅を始めた。

「急げ! 晴彦」

 晴彦は自らを鼓舞しながら最後の力を振り絞ってスパートをした。

 信号が赤から青に変わった。この時にやっと助手席側に到着した。窓を叩いた。トラックが発進した。窓が開いて、路花が顔をのぞかせた。

「晴彦君、私、噂に負けたから逃げているんじゃないからね」

 路花はそれだけ言うのがやっとだった。トラックは加速して行き、こちらに向けていた路花の顔も見えなくなった。

「少しは話せたのか?」

 やっと追いついた柿男が肩で息をしながら訊いて。

「うん」

 それだけ言うのがやっとだった。その直後に嘔吐してしまった。走り続けたことによるものなのか、路花との別れがあまりにも辛かったせいなのか。晴彦はその場に座り込むと嘔吐を繰り返した。

「晴彦君、大丈夫か?」

 優しい柿男が背中をさすり続けてくれている。そのおかげでやっと気持ちの悪さが改善してきた。

「ありがとう。だいぶ楽になったよ」

「それは良かった。顔色も良くなってきているね」

「柿男のおかげだよ。本当にありがとう」

「それよりも、晴彦君、路花のことを『路花』って呼んでいたね。二人、どういう関係だったの?」

「吉住が転校した後、僕が新聞配達を引き継ぐことになっていたんだ」

「へえ、そうだったんだ。まったく知らなかったよ。だからって、転校して来てまだ二か月足らずなのに、『路花』って下の名前を呼び捨てにはしないよね」

「柿男だって、呼び捨てにしているじゃないか?」

「だって、僕と路花の付き合いは十五年だよ」

「付き合いの長さではなくて、いかに相手を信頼しているかが重要なんだよ」

「だからどんな関係なのか聞いているんだろう」

「そんなのどうでもいいだろう」

「良くないって」

「それより急いで学校に帰ろう。自転車の後ろに乗るぞ」

「帰りは晴彦君が漕いでよ」

「残念。僕、人の自転車だと上手く乗れないんだよ」

「この大ウソつき」

 学校にはそのまま自転車で帰った。申請をしないと賀谷中学校では自転車通学は認められていないので、厳密にいえば校則違反になるが、三年一組の生徒に軽い校則違反でクレームを付けて来る教師はいない。

 教室に入る時に、「遅くなってすみません」と頭を下げてから自分の席に急いだ。一時間目の国語の授業が半分ほど進んでいた。遅れて教室に入って来た二人のことを国語の担当教師は咎めなかった。路花の転校を柿男が担任教師に聞いているのを、職員室でこの教師も見ていたのだろう。柿男と晴彦が路花を見送りに行くことは、国語の担当教師には想定の範囲だったということだ。

 それに、中間テストでは学年全体で、晴彦と路花の二人だけが国語のテストで満点を取っている。この実績を高く評価してくれたのかもしれない。

 一時間目の授業が終わった後、二時間目の授業は理科で、化学の実験があるので理科室に移動をすることになっていた。教科書とノート、それに筆箱を持って柿男たちと理科室に移動をしていた時に、情報通の長嶋から路花親子の噂の話が出た。

「あの実(まこと)しやかに流されていた吉住のお母さんの噂、君たちも知っているだろう?」

「ああ、吉住本人は亡くなったお父さんの子供ではなくて、今度結婚する人の子供ではないかという噂だろう。知っているよ」

 古川が答えた。こんな根も葉もない噂話をお前らは信じているのか? と怒鳴りつけようと構えていたら、晴彦よりも前に柿男が大声を上げた。

「あの噂はなあ」

「根も葉もないデマだということだろう」

 出鼻を挫くように長嶋が言った。

「知っていたのか?」

 柿男が長嶋だけじゃなく、一緒に移動をしていた生徒全員の顔を見た。

「昨日、うちの母さんから聞いたよ。なんでも、十二年くらい前にも同じように吉住親子を中傷するようなでたらめな噂が流されたらしいな。その時は亡くなった吉住のお父さんの実家の連中が逆恨みで流したらしいけど、今回の噂もそうじゃないかと噂の出所を探してみたら、やっぱり吉住のお父さんの実家からだったらしい。しかも、今回も根も葉もないデマだったということだよ」

 長嶋が情報通らしく解説をした。

「酷い話だよな。こんな噂を流されて吉住がどれだけ傷ついたか。だって、吉住は噂を流した張本人の実の孫ということだろう。狂っているとしか思えないよ」

 古川が言った。こういう風に路花のことを心配している生徒がクラスにいることを本人が知っていたら、この時期の引っ越しは考えなかっただろうなと晴彦は思った。

「さすが偽善者古川だな。あれほど吉住のお母さんのことを薄汚いと言っていたくせに」

 古川が正義の味方になることだけは許さないと思っているのか、長嶋は余計なことを暴露した。

「それは、柿男は全面否定していたけど、あの噂話は絶対に本当のことだと長嶋が言い切っていたからだろう。あんなデマの噂を広げたのは、吉住のお父さんの実家じゃなくて、長嶋のような者たちだろう」

 本当に古川の言う通りだ。

「言うねえ、古川も。でも、結果的には良かったじゃないか。噂話のおかげで予定よりも早くに吉住が転校をしたんだから、これで期末テストの順位が確実に一つ上がるだろう」

「長嶋、お前なあ」

 気づいた時には晴彦は長嶋の胸倉を掴んでいた。

「止めておきなよ、晴彦君。こんな奴を殴ったって手が痛くなるだけ損だよ」

 そう言ったのは意外にも柿男だった。

「長嶋、天に向けて吐いた唾は、必ず自分にかかってくるからな」

 柿男はそう付け加えた。

「なんなんだよ、僕一人を悪者にして。クラス中があの噂を信じていたじゃないか。吉住のことを汚いものでも見るような目で見ていたじゃないか」

「……」

 これには誰一人として相手にはせず、そのまま理科室に移動をした。

 化学の実験をしている時も、使ったビーカーやメスシリンダーを洗っている時にも、考えていたのは路花のことだった。伝えたかったことは日記の中にすべて書いたのに、日記帳を渡すことが出来なかった。だから、なに一つ路花に自分の気持ちを伝えることが出来なかった。そのことが悔やまれて仕方がなかったのだ。

二時間目の理科室での授業が終わり、再び教室に帰って帰ったあと、移動に時間を取られたために、ほとんど休憩時間も取れずに三時間目の英語の授業に入った。

英語の時間もほぼうわの空で授業を聞いていなかった。授業中頭の中に浮かべていたのは、昨日路花が交換日記帳と一緒に渡してくれた、斉藤由貴のカセットに入っている「卒業」という曲の歌詞だった。片耳ずつのイヤホーンで一緒に聞いた曲。

♪制服の胸のボタンを下級生にねだられ

歌詞が頭の中で、文字となって流れて行く。あの時、二人でこの曲を聞いている映像が、まるで映画のように浮かんでくる。

♪人気のない午後の教室で、机にイニシャル彫るあなた

 やめて 想い出を刻むのは心の中にして

この歌詞に触発されて、何気なく机の上を触ってみた。

「えっ?」

 手のひらに感じる凹凸感。

「まさか?」

 すぐに教科書とノートを取り除いた。

-私、東京にいっても変わったりしないから-

 コンパスの針なのか、それとも彫刻刀なのか。机の上にメッセージが彫られていた。名前は書いてなかったけど、路花以外に書く者などいない。

 これを見た途端に涙が溢れ出して来て、涙は嗚咽を誘発した。声が漏れてしまい、もう自分の意志ではどうすることも出来ない状態になっていた。

「どうしたんだ、四方?」

 さすがに晴彦の異変に気付いた教師が様子を見に席に近づいて来た。

「先生。四方君、今朝から体調が悪くて昨日も学校を休んだので、僕が保健室に連れて行きます」

 柿男が助け舟を出してくれた。柿男に身体を支えられて、二人は教室から出た。保健室に移動する間、柿男はなに一つ晴彦の涙の理由を訊こうとはしなかった。

 保健室のベッドで横になりながら、「卒業」の歌詞の続きを思い出していた。

 ♪東京で変わってく、あなたの未来はしばれない

 この歌詞に答えるために、路花は僕の机にあの言葉を彫ったのだ。

-私、東京にいっても変わったりしないから-

 斉藤由貴のカセットテープを聞くたび、机の上のメッセージを見るたび、路花のことを思い出すことが出来るように、路花はちゃんと自分の痕跡を残してくれていたのだ。


 その後、卒業するまでの間、何度か席替えが行われたが、その度に晴彦はこの机と一緒に新しい席に移動をした。 

  

 昭和六十一年三月十日。賀谷町立賀谷中学校の卒業式が行われた。三年一組の生徒は六月に東京に転校した吉住路花を除いた四十名全員が無事に卒業をした。

 高校受験をするにあたり、高校の選択でひと悶着が起こった。

 まずは、東京で独り暮らしをしている父親から、東京の進学校を受験することの勧めがあった。何度か受けた全国共通模擬試験では、父親が勧める進学校も合格ラインを越える成績だった。現在父親が住んでいるマンションからも通学出来る距離なので、父親と一緒に暮らせることと、父親のマンションは世田谷区にあり、杉並区に住むと言っていた路花に偶然どこかで会う可能性もあると考えたので、父親からの提案を受けた時、晴彦の気持ちはこの提案に大きく傾いていた。

 祖父母は、地元の公立高校への進学を勧めた。その一番の理由が自宅から近くて通学に余計な労力を使わなくても良いということだったが、その奥に潜む本音は、大学進学の時に東京に行かせたくないということだった。

 祖父母にとって母親が唯一の子供で、したがって晴彦はただ一人の孫だった。東京に嫁いだ時点で孫と暮らすことは諦めていたが、その娘が離婚をして孫と一緒にこの家に帰って来た。だから、もう孫を遠くに行かせたくないのだ。例えるなら、照明が消えかけていた部屋に、娘と孫が帰って来たことで煌々と明かりが灯り、にぎやかで楽しい日々を送っていたのに、再び孫は遠くに行ってしまい、再びこの家に帰って来る保証はない。一度明るさを経験した部屋の中では、あの寒々とした暗さにはもう耐えることが出来ない。祖父母はそのことを恐れているのだ。

 母親は、この祖父母の考え方とも違っていた。東京では難関校の青葉学園に合格し、賀谷中学に転校後も、学年トップの成績を一度たりとも他の生徒に譲らなかったように、高い学力を維持してきたこの学力を最大限に活かせる高校に進学をさせたいと考えていたのだ。ただ、これには条件があった。自宅から通えることだった。物理的にそれが難しいなら、下宿は許すが、それは絶対に東京を含めた関東圏ではないこと、下宿先は学校が運営する学生寮であること。とにかく、母親としては父親が暮らす東京に一歩も近づけたくなかったのだ。

 結論からいうと、晴彦は県庁所在地にある国立大学の付属高校に合格をした。賀谷中学からこの付属高校に合格した生徒はこれまでに一人もいなかったので、晴彦の合格の報告を聞いた後しばらくは、学校中がまるでお祭り騒ぎになるほどのお祝いムードとなった。

 この付属高校への受験を決めたのは、離婚の時と同じように、母親が息子を父親に奪われてしまうという強迫観念に雁字搦めになってしまったからだった。この状況に耐え切れなくて、晴彦は自分の中で妥協点を見つけるしかなかったのだ。

 両親の離婚を機に、青葉学園から賀谷中学校に転校することを承諾せざるを得なかった状況が、高校受験の時にも再び晴彦を縛り付けたのだ。

 けれど、この受験には一つの救いがあった。賀谷町と県庁所在地とは同県内にありながらも、東西に大きく離れていて、自宅通学は不可能だった。旧制中学校の歴史をもつ付属高校には昔から県内各地の名家の子息たちが入学してきていたので、高校が運営する学生寮がきちんと完備されていた。

 高校に入学すると同時に晴彦の寮生活が始まった。

 六月十四日に別れて以来、路花とはまったく連絡を取ることが出来ないままだった。路花の家とは家族ぐるみの付き合いをしていた柿男の母親に、路花の引っ越し先の住所を訊いてみた。

「なにも聞かないまま、急に引っ越してしまったから、実は私にも分からないのよ。その後、連絡もないしね。よほど、この町の人たちに行き先を知られるのが嫌なのかな?」

 柿男の母親は表情を歪めながらそう答えた。

 その柿男は同じ県内だが、隣の市にある県立のA高校に無事に合格をした。これまで、賀谷中学の生徒はA高校に合格することを目標に勉学に励んで来ていた歴史があった。その目標の高校に柿男は合格した。

 晴彦や柿男の高校合格の話を知ったら、路花はどんな反応を示すだろうか?

「晴彦君はさすがだね」

 そう言って喜んでくれるだろうか?

 学生寮で独り暮らしをしながら通った国立大学付属の高校生活を終えて、今度こそ晴彦は大学進学を機に東京に出た。

 高校の三年間、離れて暮らしたことで免疫ができたのか、東京の大学を受験することに母親が反対することはなかった。大学に無事に合格し上京するに当たって、父親からは同居を提案されたが、晴彦はこれを断った。母親に遠慮をしたわけではなく、もうこれ以上両親の各々の思いに縛られたくないと思ったからだ。

 四年間の大学、さらに二年間の大学院を経て、晴彦は二十四歳で社会に出た。大学時代は実家と父親からの支援に加えていくつかのアルバイトもしたが、大学院の二年間はアルバイトをする時間の余裕がなくて、実家と父親の支援だけで学費と生活費を賄った。両親の思いに縛られたくないと口では言いながら、実情は両親がいなければ大学も大学院も行けなかったということだ。大学院を卒業する日、久しぶりに両親が揃う姿を見た。互いの間を隔てていた固いバリアのようなものが剥がれ落ちて、二人が並んでいる姿は長い時間を共有してきた夫婦のようだと晴彦の目には映った。

 そういう意味では、東京の大学に進学したことで、離婚以来こうした元夫婦が卒業式に会えるきっかけを作れたことが、支えてくれた両親へのせめてもの恩返しが出来たかなと、晴彦は思った。

 中学三年生の六月十四日に渡すことが出来なかった日記帳は、今も大事に保管している。あれから、日記を書く習慣もなくなってしまったが、時々路花と交わしていた交換日記のノートを開いて読み返すことがある。

 それは、決まってなにかに行き詰った時とか、自分の無力さを痛感した時だった。日記を開くと、その日一日を精一杯生きている中学三年生の晴彦が居て、路花が居た。

 そして、ふと心にすきま風が吹いた時、晴彦はいつも目を閉じて寂しさをやり過ごすことにしていた。

 目を閉じると浮かぶ顔があった。

「十五歳の吉住路花の笑った顔」がそこに浮かんでいた。


 四方晴彦は二十五歳になった。

 中学校を卒業してから十年。これからどんな人生が待っているのか?


 目を閉じると浮かぶ顔(中学生編)完

 目を閉じると浮かぶ顔(二十五歳編)に続く

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