第二章 代筆屋

第17話 私でない誰か

 父親との喧嘩(というかあの一方性は、今思うと虐待だった)で、心身ともにひどく傷ついた私に大好きな男の子が教えてくれたおまじないがあった。

「苦しい時、悲しい時、緊張する時。あるいはもっと大雑把に、困ったときでもいい。とにかくピンチの時や重大な決断を迫られている時には、目を瞑ってゆっくり三秒数えるんだ」

 どうしてと聞き返す私に、彼は微笑みかける。

「気持ちが楽になるよ。少しだけ冷静になれる。まあ、おまじないだよ」

 それじゃあ物足りないと私は唇を尖らせる。

「それなら、僕が助けに行くよ」

 私から振っておいて、そんなふうに言われたら何も返せなくなってしまう。本当に彼は。いつもぶっきらぼうな癖に、不意にどきっとさせるのだから罪な人だ。

「必ず助けに行く」

 彼はなんでもないように笑った。ずるいんだから、もう。


 妙に冷静な頭でそんな昔のことを思い出した時、私は春の暮れの空を見上げていた。彼になんて返したんだっけ、そんなことを考えながら、今の自分の状況にはとことん他人事だった。

 後頭部や腕や背中や口や、とにかく思いつく限りの身体の部位の全てから出血していて、体感的には二十本くらいの骨が折れている。意識には真っ赤な膜がかかっていて、もう助からないことだけがはっきりとわかった。遠くなった耳はそれでもサイレンの音を鮮明に捉えていた。あるいは私を囲う人だかりの、心配そうにしていたり不気味そうだったりする話し声も、なんとなくだけど聞こえた。きっとこの分だと私にぶつかった大型トラックを運転していた人の顔も見つかるかもしれない。でもそんなの冥土の土産にもならないので、むしろ私は目を瞑った。どんどん五感が遠ざかり、痛覚すら先細りしていく中、私は子宮の中で不安そうに丸くなる赤子のように心の中で静かに唱えた。

 一、二、三.

 きっと、助けに来てくれる。




 私が目を覚ますと、側のパイプ椅子で本を読んでいた男の人が、その本を投げ出してまで飛び上がって大騒ぎした。困惑する私の手をぎゅっと握って、「気分はどうだ?」と聞く。私はふいと首を傾げながら「問題ないです」と返すと、彼は不思議そうな顔で私の頬に手を当てた。

 時を同じくして、押し入るように部屋の中に入ってきた男女がよくわからない言葉を叫んだ。もしかしたら誰かの名前なのかもしれない。そして、同時にその言葉は私に向けられている感じもした。全く状況が掴めない。記憶が混濁している。瞬きの回数が増える。

 後から部屋に入ってきた二人のうち女性の方が私に近づく。顔の造りや見た目年齢を見るに、おそらく先ほど本を読んでいた青年の母親だろう。ということは、あちらの痩せ型の中年男性が青年の父親なのだろうな。母親風の女性は青年を押し除けて私のことを抱きしめると、「大丈夫? どこか痛いところは無い?」と尋ねる。私は多くを喋らないほうがいいだろうと首を一度だけ縦に振った。彼女はリノリウムの床に崩れ込んだ。

 この部屋やベッドの白さや床の感じ、それに私に括り付けられた妙な機械を見るに、ここは病室なのだろう。そうか、私は思い出す。私は確か自動車事故に遭ったんだ。信号無視の大型トラックにぶつかって、軸という軸を軒並みへし折っていくほどの衝撃に身体がぺしゃんこになって。そうか、私は助かったのか。いったんそう納得しても、疑問は晴れない。自分の手を見つめる。真っ白な腕も指先も、交通事故で血塗れになったにしては妙に綺麗だった。傷一つないどころか、積もったばかりの平たい雪のように滑らかで、これが自分の身体だなんてとても信じられない。それに、そもそも、この人たちは誰なのだろう。今、私に向かって「よく頑張った」と優しく褒めるおじさんは、「本当によかった」と息を荒くして涙を流す女性は、「気が気じゃなかったよ」と笑う青年は、一体。記憶を辿っても、私の身に起こった奇跡にこんな風に涙を流してくれた人は一人もいなかった。

 私は目の前で繰り広げられる歓喜の輪を横目に、一人白けた気持ちで窓の外を眺めた。病室に入るのなんて初めてだったけれど、駅前のデパートや大型家電量販店には見覚えがあり、そこは間違いなく藍祥市だった。私はこの街が好きだ。好きな人と一緒に育った街というだけで、どれほど煌びやかな都会よりも、どれだけ伸びやかな田舎よりもはるかに価値がある。

 もしかしたらそんな私の様子に違和感を抱いたのかもしれない。青年が私に話しかけた。

「なあ。俺のことわかっているか?」

 私はどきりとした。別に彼が私を責めている訳ではないというのはその優しい語調からわかったけれど、肝心の答えを私は持ち合わせていない。

「ごめんなさい。わからないんです」

 私は彼に詫びる。彼は相当なショックを受けたらしい。

「じゃあ、こっちは」

 青年は彼と同様に戸惑っている様子の二人を示した。私は首を横に振る。

「それなら、自分の名前は?」

 記憶喪失を疑われたのだろう。無理もないことだ。でもそれだけはわかる。というか、私は事故をする前の全てのことは鮮明に思い出せた。私は息を吸い込んでしっかりと発音する。

「柴原琴乃」

 でもそれは彼らの期待していたものではなかったらしい。彼らは深刻な表情で私の顔をじっと見ていた。一つだけわかるのは、私に求められている答えが柴原琴乃ではないという、それだけだった。


 程なくして医者が病室に来た。無精髭の生えた白衣姿の勤務医は、特に説明もなしに真っ直ぐ私の目を見て幾つかの質問を投げかけた。私は医者の要求の通り、全ての質問に正直に答えた。主に体調や挙動についてのものだったが、中には認知や記憶などについての質疑もあった。先ほどまで跳ね上がって大喜びしていた女性は、気が気じゃないという様子でただ私の一挙手一投足に目を貼り付けていた。男性が女性の背をさすっている。

 医者は質問を終えると、私に優しく笑いかけてそれから彼ら二人を連れて病室を出た。病室には私と青年が残った。しばらくの沈黙の末に気持ちを落ち着けたらしき青年は、自らを「清川渚」と名乗った。そして先ほど私に求められた名前も教えてくれた。清川詩織。自分には不釣り合いなほど綺麗な名前がしっくりこない。「清川詩織」、脳に馴染ませるように私はもう一度口にした。「無理をしなくてもいい」と渚は語りかける。

「君は柴原琴乃なんだろう? 焦って書き換える必要なんてないさ」

 それが渚の本心でないことは彼の不機嫌そうな口調から易々わかった。でも、だからといってどうする事もできないので今は渚の言葉を額面通りに受け取ることにした。

「清川詩織というのはね、君の同級生の名前なんだよ」

 渚は言った。私は驚く。少なくとも私の交友網でその名前を聞いたことは一度だってなかった。私が表情を曇らせていると、彼は残念そうに笑った。

「無理もないさ。重い心臓病の治療で、学校に顔を見せたことなんてほとんどないのだから」

 なんとなく、話が見えてきた気がした。私はもう一度掛け布団に包まれた自分の身体を見つめる。私のそれよりもずいぶん華奢で色白で、髪も少し長い。この身体は、私のものではない。私は胸に手を当てた。華奢だというのに、ここだけは私よりもずっと大きい。何もかもが似ていて、そして何もかもが優れているこの身体の中で、鼓動だけは懐かしい感じがした。身体を起こした私は、枕元の手鏡を手繰り寄せた。

 肌は荒れていて、髪の毛は纏まっていなくて、それでもはっきりわかるほどの美人が鏡に映る。私のよく知る野暮ったくて可愛くなくて不健康そうな女は、鏡のどこにも見当たらない。魔法の解けた野獣にでもなった気持ちで鏡と向かい合っていると、自己認知と現実に歪みが起きて、私は気を失ったらしかった。


 次に気がつくと、部屋には医者と先ほど部屋を後にした中年の男女、そして青年が揃っていた。女性は私に水の入ったペットボトルを手渡し、「大丈夫?」とまた尋ねるのだった。私は掠れた声で返事をして、咳き込んで、慌てて水を飲む。皆心配そうに私の一挙手一投足を見つめていた。こうも甲斐甲斐しいとやり辛くもあるが、それ以上に新鮮だった。

 医者はしばらく私の様子を観察した後、私に説明を始めた。

「臓器移植に伴って、稀に『記憶転移』という症状が見られることがあります。端的にいうと、ドナーが臓器や血液を患者に提供した際に、一緒にドナーの記憶が移植されてしまう、という症状です。事故に際して血液を移植した人が、全く記憶のない出来事を夢に見るようになったり、中には臓器を譲り受けた人がそのドナーのかつての恋人に想いを寄せたり。稀とは言いましたが、物語の世界の話というわけでもなく、しばしば外科医の間では話題に上がるもんです」

 医者の他の三人は、思い詰めたような表情をしている。私は頷き続きを待つ。

「ですが、あなたの身に起きた症状は、前例のないものです。術前あなたは、失礼、『清川詩織』さんは、先天的な心不全を抱えていました。長らく投薬治療による保存療法によって院内での経過観察を続けていましたが、病状は悪化する一方で投薬量の増加も効果は薄く、それは詩織さんの若い身体には重度の過負担と言えました。ここまでは思い出せますか?」

 私は首を横に振る。医者は微笑む。女性は嘆きを押し殺したようにリノリウムをきつく睨む。

「そんな詩織さんに、心臓のドナーを申し出る家族が現れました。ドナーは性別年齢体格血液型、全てにおいて詩織さんと同一と言って差し支えないレベルで、しかも搬送先がこの病院でした。その人こそ、交通事故で脳死となった『柴原琴乃』さんでした」

 脳死、つまりは事実上の死ということだ。でも私は、自分が死んだという事実にちっともピンとこない。はっきり言って、悲しさや絶望感すらない。空虚という感情が、喜怒哀楽に混ざっていたとしたら、それが一番ぴったり当てはまる気がする。

 私は胸に手を当ててみる。懐かしいどころではない、今なお一定間隔で世界を切り分けているこの心臓の音は、この音だけは、ずっと私のものだったのだ。私が死んだ世界で、この心臓だけが生きている。なんだか不思議だった。

「琴乃さんの身体は様々な臓器や器官が重病に喘ぐ患者の助けとなりましたが、とりわけ詩織さんの身体への適合率は異常なほどに高く、それまでの病状が嘘であったかのように凄まじいペースで身体の機能は回復していきました。そしてそれ故、それこそ物語の世界のような症状が起こってしまった。つまり、詩織さんの身体に移植されたのは、心臓だけではなかったということです。柴原琴乃さんの記憶と性格、ひいては人格がこの身体に転移してしまったのです」

 なるほど、私が琴乃という命の死にピンとこない理由がわかった。あり得ないことだが、どうやら柴原琴乃は清川詩織の身体を借りてしぶとく生き残っているらしい。そうだとすると、今目の前にいる人たちの失望の理由がはっきりとわかる、この身体に居ついていいのは私ではないんだ。誰にとっても絶対に。

「この人たちは、清川詩織さんの家族なんだけれど……」

 私は首を横に振る。誰のことも知らない。と、私がシーツのしわに視線を逃していると、これまで黙り込んでいた中年の男性が話し始めた。

「僕は詩織の父です。こっちが詩織の母。そして、そこのブスッとしているのが渚、詩織の兄に当たる人間なんだ」

 放課後の教室から覗く夕焼け空みたいに優しい声だった。私が顔を上げると、詩織の父は横長長方形のレンズのメガネを両手を使って掛け直し、私に近づいてそっと笑いかけた。

「受け入れ難い事態だろうが、まずは礼を言わせてくれ。本当にありがとう。君が死んでよかったと言っているわけではない。だからこの言い方がふさわしいとは思わないし、恩人に対する無礼であることも心得ている。でも、君の心臓が今詩織の命を救い続けている。それもまた消せないほど色濃い事実なんだ」

 そして父は目を細める。

「君のご両親にも繰り返し礼を述べた。君の両親は、『娘の命が誰かを救うならそれに越したことはないですから』そう慈悲深く仰った」

 違う、あの人たちは見栄のことしか考えていない。

「だから、もし君が望むなら、これから両親と共にその身体で次の人生を健やかに生きたって、僕は構わない」

 父は少し寂しげにポツリそう言った。

「父さん!」

「いえ!」

 同時に制したのは渚さんと私だった。皆私が突然声を上げたのに注目した。そんな中で、スラスラと言葉を操れるほど器用ではないが、私は辿々しくも間違いのないように先生に尋ねた。

「もうこの身体を支配する人格は私になってしまったのですか? 詩織さんの人格は死んでしまったんですか?」

 おそらくそれは、誰もが聞きたくて、そして聞く勇気の持てなかった質問なんだと思う。好き好んで自分の娘や妹が死んだかどうか聞ける人間なんているはずがない。皆固唾を飲んで次の医者の言葉に耳を澄ました。先生は軽い咳払いの後で「私なりの考えで断言はできませんが」と前置きしながら所見を述べた。

 つまりは術後の精密機器などの検査結果を鑑みるに、詩織という人格が死んだわけではない。今彼女の人格は潜性の遺伝情報のように表出していないだけで、柴原琴乃自身の心臓がより清川詩織の身体に適応していけば、すぐにでも清川詩織は目覚めるだろう、とのことだ。

 一同が安心したのがわかった。私も同じだ。借り物の身体で誰にも望まれない生を続けられるほど面の皮は厚くない。今ですら最悪の居心地なんだ。むしろ、この素敵な家族のもとに詩織を返してあげたい気持ちでいっぱいだった。

 でも、詩織の母は先生に尋ねた。

「そうなると、琴乃ちゃんの人格はどうなってしまうんでしょうか」

 私は驚いた。そんなこと、この人にはどうだっていいはずではないのか。いや、きっとその質問は、私の人格がきちんと死んでくれるか、この身体が詩織だけのものになるのかを尋ねる意図で発されたものに違いない。

「おそらくは、琴乃さんの人格の方は薄まっていくでしょう。いずれは、その……」

 先生は答えづらそうにしていたが、その回答は大方予想通りだった。私は母の方をチラリと見る。安心しているだろうか、それとも安堵を隠しているだろうか。怖いもの見たさだった。そして、そんな想像よりもずっと怖いものを見てしまったばかりに、私は思わず目を擦った。

 母が、目一杯に涙を溜め、次の瞬間には決壊したように泣き出して私を強く抱きしめた。

「本当にごめんなさい。あなたにこれほど苦しい思いをさせてしまって。謝っても謝り切れないけれど、私たちの前に現れてくれて本当にありがとう、琴乃ちゃん」

 私も、泣き出してしまった。そうした種類の愛は、私が知らないものだった。

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