第16話 特別な夏

 ひどく濡れた詩織を家まで連れてきた僕は、ひとまず詩織を風呂に入れた。僕はリビングで詩織が風呂から上がるのを待ちながら、バスタオルで濡れた身体を拭いた。下着の中もぐっしょりになっていて、連鎖的な発想で詩織の着替えがないことに気がついた。僕の部屋着の中にいい状態のTシャツと短パンがあるので最低限なんとかはなるだろうが、下着に関してはどうしようもなかった。僕は女性用の予備下着なんて持っていないし、今キッチンで作業しているイズミさんにこんな話をするのも気が引けた。かといって成熟しつつある女性が下着も付けずに男の家にいるのも不安だろうと、あれこれ考えた僕が実行した苦肉の策は僕の新品の下着と肌着を貸すというものだった。曇りガラス一枚を隔てて今まさにシャワーを浴びている詩織のことを妄想の材料にしてしまわないように自分の邪を必死に抑え込みながら脱衣所に着替えを置いた。「使わなくてもいいよ」と書いたメモを下着の上に置くのは、考えた末にやめておいた。そちらの方が気持ち悪くない気がした。下着と肌着は新品である証明のためにタグをつけっぱなしにしておいたので、着替えの横には鋏を添えておいた。にしても、こういうのにちっとも慣れていなくて困る。やりすぎなのだろうか。

 以降、リビングで詩織を待ちながら一つ一つを整理していった。それは詩織にきちんと聞かねばならないことだったり、確かめなければならないことだったりした。

 まずは、詩織がついた嘘とはどこからどこまでなのか、琴乃との関係はなんなのか、どうして僕と琴乃しか知らないようなことを知っていたのか、今日一緒にいた渚先輩とはどういう関係なのか。心臓の調子はどうなのか。できればあの日のキスのことだって、聞きたい。

 椅子に腰掛け詩織とのあれこれに想いを馳せる。不思議と琴乃のことを考えたりはしなかった。琴乃が僕と同様に想いを寄せていた事実は、泣くほど嬉しくも悲しくもあったはずなのに、今は詩織のことで手一杯という感じだ。こんなこと琴乃に知られたらまずいな、そう冗談みたいに心の中で呟いて、そういえば僕は琴乃の墓前で詩織を抱きしめたのだな。僕は苦笑いして湿った髪の毛を掻いた。見られていなければいいのだが。

 と、詩織が風呂から上がった音がした。そこから彼女が出てくるまでしばらく時間があったのは、僕の不器用な配慮への困惑を滲ませていたからなのかもしれない。僕がリビングから出ると詩織は気まずそうにひょっこり顔を覗かせ、「ありがとうございました」と脱衣所から出てきた。僕の風呂上がりには存在しない性質の香りが詩織の方から広がっていて、ソワソワする。風呂上がりの髪の濡れた詩織が艶っぽすぎたのも良くない。

「僕の部屋、二階の階段に一番近い部屋だから。適当にくつろいでいて」

 この妙な火照りを悟られないように無愛想に詩織に言って、僕も風呂場に逃げ込む。リンスの甘い香り。裸になった僕はその甘い匂いと地肌の擦れを感じながら熱いシャワーを浴びた。浴びながら、詩織がまた僕から逃げるために雨の中家に帰ってしまうのではないかという考えに至る。思い至ったらそんな気がしてならず、気が気でない僕は烏の行水で風呂から上がった。髪の毛も適当に拭いて、まだ身体に水滴がついている状態でよれた下着と部屋着を強引に着て、玄関に走った。果たして、詩織の靴はまだあった。僕はそれに安心し、どっと緊張が和らいだ。

 バスタオルで髪の毛をわしゃわしゃと乾かしながら冷凍庫からグレープ味のチューペットのアイスバーを一本取って二階に向かう。部屋に入ると、詩織は電気も付けずにカーペットの上で足を伸ばしてぺたんと座って僕の部屋をキョロキョロと見渡していた。勉強机の上に目をやると、今日郵便ポストから回収した琴乃と詩織の手紙がそのままになっていた。失敗したと思ったが、いずれにせよその話になるので関係ないだろうと割り切った。

 灯りを付けた僕はチューペットを半分に折って詩織に手渡す。詩織は遠慮がちにそれを受け取った。甘いアイスバーをぺろっと舐める表情が拾ってきた子犬のように見えて可愛らしかった。僕はあえてベッドではなく床の上であぐらをかいた。そうして、詩織とぴったり背中合わせになった。詩織はぶつぎれの短い声を上げたっきり押し黙ってしまった。どうしてそんなことするんですか、と聞きたかったのかもしれない。その答えは僕にだってわからない。小っ恥ずかしかったのもあるし、気まずかったのもあるし、なけなしの勇敢を振り絞ったのもある。少なくとも一月前の僕ではこんなことしていないのだけは確かだ。背中越しの詩織の体温が次第に風呂の湯気に似たものから、琴乃と手を繋いだ時のようなほのかに温い感じに変わっていく。不思議と僕はテレパシーのような要領で、今見えていないはずの詩織の表情に薄紅が差さったのがわかった。自分の顔が同じようになっているのもまた、わかってしまう。

「また、会えてよかったよ」

 詩織とくっついていると、皮肉屋も卑屈な性格も忘れ、つい思ったことがそのまま漏れてしまう。僕の言葉を聞いて、詩織は嬉しさと気まずさを混ぜたように「ふふ」とわずかに笑った。そうして彼女の身体は小刻みに震えるのだった。僕は彼女の手を捕まえようと背中の方を探った。一瞬重なった手は、詩織によってそっと剥がされた。

「謝らなくてはならないことが、沢山あります」

 今にも擦り切れて無くなってしまいそうな声だった。僕はすぐに首を横に振る。

「謝らなくてもいいよ。ただ、教えて欲しいんだ」

「……手紙、読んだんですよね」

 今更隠すこともないので「ああ」と首を縦に振った。

「全部嘘なんです。琴乃さんが亮介さんを恋心抜きに見ていただなんて。琴乃さんは亮介さんのことが大好きでした」

 詩織は声を震わせながら続ける。

「でも私はそんな琴乃さんの気持ちを知っていながら、嘘をついたんです。亮介さんと話している間、私はとてつもないくらいに幸せだった。恋に、落ちていました。そうしてほんの一瞬でも恋人の気分を味わいたくて、ずるいことをしたんです。琴乃さんの本心を亮介さんから隠した。亮介さんに自分のことを選んでもらいたかった。許されないことをした。本当にごめんなさい。今度こそもう二度と、あなたの前には現れませんから」

 詩織はスッと立ち上がって翻った。彼女はドアノブに手をかける。

 まだ詩織に何も聞けていない。何も確かめられていない。話すべきことは沢山あるんだ。

 でも、僕の口から出た言葉は、そういう「真実」の響きに似た堅苦しいものではなく、もっと生の僕の気持ちだった。

「いつ、海に行こうか? これでも楽しみにしているんだよ」

 詩織は驚いた顔で僕の目を見つめる。久しぶりに視線がぶつかって交差し、気持ちが昂る。夏の果実のように、あるいはレモン味のかき氷みたいに、乾いていなくて爽やかで、そうして勢い任せな感情。真実なんてどうだっていいとは思わないけれど、今はとにかく詩織のことを。

「今年の夏は、特別なものになるんだろう?」

 詩織はまた泣いた。また泣いて、僕の胸に飛び込んできた。僕は彼女をできるだけの優しさで持って包み込んだ。詩織はくすぐったそうに僕の胸の中で転がる。雨の音がやかましくて、だから少しくらいの物音は平気だった。

 僕は詩織のことをまだ何も知らない。彼女の病気のことも、琴乃との関係も、僕に好意を寄せるようになったワケも、何もわからない。詩織の嘘とはなんなのか、僕はまだ何も知らない。それに僕の中に宿る詩織へのこの気持ち、この気持ちを既存の言葉でカテゴライズするのもまだ難しい。とどのつまり、僕は詩織にとってのなんでもなくて、詩織は僕のにとってのなんでもない。ただ雨あがりの空に、一本虹が架かっただけだ。でも、とりあえず。

 特別な夏が始まる。



 この日から八月最後の日までの三十一日間を、僕は決して忘れないだろう。

 それは封筒を開いて、手紙に書かれた世界の秘密を盗み見たような日々だった。

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