第15話 琴乃の手紙
七月最終日に受けた校内学力テストをもって課外授業の全日程が終わって、いよいよ夏休みも本格的に始まった感じがある。やけに湿度の高い八月最初の日である今日だが、僕がすることは最初から決まっていた。
八月一日は琴乃の誕生日だった。この日はいつにもまして琴乃のことを描こう、そう決めていた。まずは思い出の場所を巡った。例えば最初で最後のキスをした公園や、六年間隣り合わせで登下校した通学路、同じだけ一緒に過ごした小学校に、校庭の裏手にある学校農園。あの手紙にどこまで信憑性があるかはわからないが、琴乃が僕のことを格好いいと思ってくれていたなら、それに越したことはない。園芸委員時代のことを思いながら収穫の終わった畑を見つめ、それからフェンス越しに母校のグラウンドに目をやった。永遠のように果てしなかったあのトラック一周分が、今はこんなに小さく感じるのかと自分の成長を寂しく思った。世界は、確実に進んでいる。琴乃との思い出も母との時間も全ては過去に置き忘れている。それでも、こうして思い出すだけでいつでも目の前に蘇るなら。これからの人生は僕の大切な二人を思い出すことだけに使ってもいいかもしれない。人は忘れ去られた時に二度目の死を遂げると言う。少し前のように積極的に死を目指す気は今はもう起きないけれど、大切な二人がいつまでも生きていられるようにこのくだらない人生を消化するのも悪くはない。むしろ、この臆病者にできる最良のような気すらしていた。
僕は最後にある場所を訪れた。それは僕と琴乃の家から少し離れたところにある小高い丘のような場所だった。裏山的な場所といっていいかもしれない。種類を選んでいる様子などまるでない雑多な木々が自分勝手に成長しているような場所で、不法投棄されたガラクタも無数にあった。その無秩序さが子供心には楽しく、よくそこに琴乃と二人で秘密基地を作っては遊んだものだった。僕は木々の間から差し込む木漏れ日に、懐かしい匂いを感じた。ふとすると隣に琴乃がいるような錯覚を抱いて隣に目をやったりすらした。ここ数日、僕は洗脳とすら呼べるほど琴乃のことだけを思うように意識していたので、常に琴乃が側にいるような感じになっても不思議なことではなかったのだ。
しばらくそのあたりを歩いて、そろそろ帰ろうとしたその時だった。僕の脳に鮮烈な記憶が蘇る。僕は少年の時と同じように足元も気にせず走った。それは、僕の記憶通りの場所にあった。全体的に少し錆が増えてはいるが、間違いない。僕はそのオブジェクトの頭をゆっくり撫でた。手のひらに張り巡らされた血管から吸収されたように思い出が全身をめぐる。瑞々しい記憶が辺りから音を奪う。そうして優しく琴乃の声が響く。
「ここに、秘密の手紙を入れたら素敵だよね」
小学校の三年生の頃の琴乃は、なぜかこんなところで投棄されていた円柱型の赤いポストを見つけると、そういって笑った。
「もし、私がどうしても誰にも知られたくないことがあったら、ここに手紙を入れるね」
琴乃は郵便局員が開ける郵便の回収口に鍵がかかっていないことを確かめると、郵便ポストの口を指さした。琴乃が背比べするように同じくらいの高さのポストを見つめているのを見て僕はふわふわした気持ちになった。
あの時の話をふと思い出す。てっきりいつもの気分任せだとばかり思っていたけれど、もしかしたら。僕は郵便ポストの回収口をゆっくり手前に引いた。中から、沢山の封筒がこぼれてきた。目を見開いた僕はその封筒一つ一つに目を通す。全部で封筒は十通あった。全て琴乃が僕に宛てたものだった。一番古いものは小学校の三年生の時から、一番最近のものは高校の入学式の日まで、気味が悪いほど極めて優れた保存状態で残っている。僕はその一つ一つに食い入るように目を通す。そこには琴乃の僕に向けた本音が綴られていた。両親のことや授業のこと、中には取るに足らないようななんでもない出来事についてのものもあって、そしてその全てに僕への好意が記されていた。それは間接的なものだったり、あるいは目を隠したくなるほど恥ずかしいくらいに真っ直ぐなものだったりしたけれど。その手紙は確かに琴乃の字で、僕へのピュアな想いが書き記されていた。十通目を読み終わった時、僕は手紙を涙で汚してしまわぬように必死だった。琴乃の想いが、痛いほど僕の胸を打った。好きの気持ちが体内のあちこちで小爆発を起こしては、血液が熱くなった。僕はズボンが汚れるのも構わず、じめついた土の上に腰をかけた。どうして今までこのポストのことを忘れてしまっていたのだろう。強い自責の念が押し寄せ、それと同時に喜びと後悔で心の中がぐちゃぐちゃだった。それはいわばパラダイムシフトだった。僕と琴乃が確かに恋愛感情でつながっていたという事実は、何度咀嚼しても味が消えない世界一幸福で不幸なことだった。僕は身体の水分が無くなってしまいそうなくらいに泣いた。喉が擦り潰れるぐらいの声を上げながら、琴乃の笑顔や恥ずかしそうな表情や琴乃との思い出を描く。
僕は何度も琴乃の手紙を読み返した。僕が琴乃を好きだったように、琴乃が僕のことを好いていてくれたのが刺激的なほどに伝わってくる。淡くカラフルな色彩が心に色を載せていく。
それと同時に、詩織と琴乃の間で交わされた文通のことが気にならないでもなかった。詩織が球技大会の日に読み上げた手紙の中では、琴乃は明確に僕という存在を恋愛対象の枠の外に置いていた。もちろんその手紙に記された日付はここにある手紙の一番最近のものとでも半年近くのラグがあるので、その間に琴乃の前に魅力的な男が現れ彼女の気持ちが変わったという悲観的な想像もできないではなかったが。もしかしたら詩織の嘘というのは琴乃の気持ちという部分にまで及んでいたのかもしれない。でもそこまでする理由が僕には思いつかない。僕を手に入れるため? 無限に近い選択肢がある彼女が、こんな陰気な男を手に入れるために? その想像は、彼女が梅雨の間だけ僕の前に現れた天使であるという想像以上にあり得なく思えた。全く、意味がわからない。
にしても、なぜ琴乃のことを考えるといつも詩織が脳内で姿を見せるのはなぜだろう。琴乃が僕を想ってくれていた。僕はそれだけを大切にすればいい。詩織のことなんて考えたって仕方がないじゃないか。次第に脳内で膨張する詩織を振り払うように首を左右に動かした。
そうだ、墓参りに行こう。琴乃に伝えたいことがたくさんあった。話したいことがたくさんあった。今なら、琴乃に会える気がした。
琴乃からの手紙を机の上に置いた僕はすっかり汗で濡れたTシャツを別のものに変えて、琴乃の実家に向かった。琴乃の葬儀に出席しなかった僕が彼女の家に行くのは久しぶりだった。個人的に線香をあげにいこうと思ったことは一度や二度ではなかったが、その時はまだ琴乃の死を消化し切れていなかったのもあってなかなか足が向かなかった。
「柴原」の表札の下のインターホンを押してしばらく待つと家の中から琴乃の母が出てきた。
「あら、もしかして亮介くん?」
相変わらずの厚化粧と猫撫で声だった。僕は不快感を抑えながら「お久しぶりです」とよそゆきの微笑みで応じる。要は相手の表情を真似すればいいだけだった。
「琴乃のことかしら?」
その声には面倒臭さを滲ませていた。僕は恐縮したふりをして頷いた。
「琴乃さんの納骨はもう済んでいますか?」
「ええ。先日の四十九日に、親戚家族で」
「もしよろしければ、お墓の場所を教えてもらえないでしょうか」
琴乃の母は一瞬面倒くささを滲ませたがすぐに愛想笑いに戻って「待っていてね」とメモ用紙の裏に簡略的な地図を書いてくれた。その地図は結構見やすく、ありがたかった。
「ありがとうございました」
僕は素直に礼を述べ、その場を後にした。
そうして地図に従いながら歩いていると、ふと空の色が気になる。先ほどから白い雲に覆われていた空に、鉛色が混じり始めていた。そのうち降り出すかもしれない。急ごう、僕は小走りで地図の場所に向かった。
琴乃の家から歩いて十分ほどで目的の場所に着いた。そこはあたりでは一番広い霊園で、幽寂な雰囲気だった。無数に立ち並ぶ墓標に空の黒さが相まって、なんだかこの世の陰影の部分みたいに思えた。僕は地図の端のメモ書きに書かれている、琴乃の墓の細かい位置の情報を頼りに階段を登ったり下ったりした。そうして迷っていると、ついに小粒の雨が降り出してきた。僕は雨粒から避けるように身を低くして琴乃の墓を探した。
琴乃に会いたかった。僕のこのどうしようもない心を余すところなくぶちまけたかった。琴乃ならわかってくれるだろうと思った。許してくれると思った。そうして、僕はいつまでも琴乃を想いを続ければいいと、そう思っていた。
雨はどんどん強くなっていた。前髪が濡れて鬱陶しかった。耳の中にまで水が入ってきていた。半袖では寒くて耐えられそうになかった。震えながら低く集めていた視線を持ち上げた。
一人の男と女が、墓の前で佇んでいた。男は傘を差そうとして、離れたところにいる僕と目があった。彼のことを僕は知っていた。傘を差した彼は音も立てず僕の方に近づき、真面目な顔で僕に傘を手渡した。
「渚先輩……」
先輩は何も言わずに雨に打たれながら僕の背中の方に歩いていった。感情のない目、というよりかは自らの気持ちを押し殺しているような、そんな瞳だった。
僕は意味もわからず視線をさらに持ち上げる。墓の前に一人残された女の方は、俯いていた。黒く長い髪が降り頻る雨で滴る。白くて透明感のある肌が、薄闇の中悲しげに光る。胸が確かに高鳴った。小さな言葉がいくつかちぎれた。
もう、忘れようとしていたことなんて、全てがどうだって良くなっていた。
僕は真っ直ぐに歩いて、ただ彼女を傘の中に入れる。そこは琴乃の墓前だった。上で雨粒が破裂する音が、傘の内側にまで重たく響いた。
「先に帰っていてください」
僕のよく知るその声が、冷たく悲しい色を帯びている。放っておくわけにはいかなかった。
「そういうわけにはいかない」
「大丈夫ですから」
「大丈夫じゃない」
僕は毅然として言った。
「だから!」
彼女は強く言って僕の方を振り返り、そうして驚きに口をあんぐり開けた。
「亮介……」
彼女はまるで琴乃がそうしたみたいに僕の名前を呼んだ。僕は詩織の肩をできるだけの優しさをもって掴む。
「風邪、引くから」
「ごめんなさい、私。私……」
そうして詩織は僕の胸で泣き出すのだった。僕はただ、胸がつまるほど切ない泣き声を聞いて、思わず詩織を抱きしめた。その心地を確かめると、今まで考えていたことが全部くだらなく思えた。そうして僕は臆病の中に隠して誤魔化していた、それでも力強い輝きに満ちた本音を見つけ出す。重たい雲の隙間から覗いた鋭い光の柱のような、真摯で真っ直ぐなこの想い。
僕はずっと詩織に会いたかったんだ。強く優しく詩織を包む。もう、離したくはない。
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