第14話 清川詩織の話
終業式が終わり通知表の受け渡しが終わると、いよいよ教室に夏休みが訪れた。進学校なのでそれなりに部活もあるし、七月の間はそれなりでは済まないくらいの課外授業もあるけれど。それでも待ちに待った高校二年生の夏休みだ。部活においては二年生が主体になって行われる大会もある。計画的な者は早くも大学受験に向けて着々と準備を進めている。そうじゃない連中も、たっぷりと青春の思い出を残せるのは今年までだと恋人や友人との予定でカレンダーを埋める。まるで生き急ぐ蝉のように。あるいは辟易するほどの暑さの中で学校に来なくてもいいというだけでひとまず不足のない僕のような者も少なくはないだろう。家嫌いな僕ですらそうなのだから、夏休みが嬉しくない者はそうそういないはずだ。高校生のフレッシュな感情に、教室の空気も明るく弾けていた。
そうしてはしゃぐクラスメイトを他所目に家に持ち帰っていない参考書なんかを鞄に押し込んでいると、「小野寺」と呼ばれた。声の方に顔を向けると、友人に囲まれたノッポな坊主が教室の後ろの方の机の上に腰をかけて僕を手招いていた。僕は自分の席から動かずに尋ね返す。
「何?」
「お前、今日忘れてないよな」
「ああ。打ち上げだろ」
アサマは「そうそう」と大袈裟に頷いた。
「俺ら部活あるから、午後六時に駅集合で」
「僕が行って盛り下がっても知らないぞ」
「はは。そしたらお前の悪口大会にしてやるから安心しろ。大盛り上がり間違いなしだ」
彼の軽口に僕は笑った。彼の周りで話を聞いていたソフトボールのチームメイトも同様に少し笑っていた。決して嫌な空気ではなかったと思う。
「じゃ、俺ら行くわ。食べ放題だから腹減らしとけよ。元取るからな」
彼らは各々の部活の道具で膨れ上がったスクールバッグを肩に下げ、教室の外に出ていった。何人か「じゃあな」と僕に手を振り、僕も反射でそれに応じる。琴乃が死んですぐ、僕が落ち込んでいる理由もわからずに励ましてくれた連中だ。あの時、過剰な苛立ちと自棄に任せて彼らの救いの手を振り払い続けたけれど。今になって申し訳なく思う。でも、自己弁護するではないが、それはある意味で僕が取るべくしてとった行動だった。琴乃が死んで、僕は急に自分が世界から切り離されたような感覚の渦に陥った。これまで騙し騙しやってきていたことに耐えられなくなり、目の前から意味が消失した。一時期は本気で死ぬことを考えていたくらいだった僕に、他人の感情を慮る余裕も相手の優しさに同程度の感謝で返す余裕もなかったのだ。そして、そんな僕がこんなふうに内省するようになるまでには、やはり彼女の力がなくてはならなかったのだと思う。そう、彼女との出会いがなければ。
ため息を吐いて軽く首を鳴らした。そして伸びをしながら心の中で唱える。
考えないようにしよう。
僕は机の内外の荷物を全部鞄の中にまとめて図書室に向かった。午後六時まで時間を潰すには、やはり図書室が都合よかった。あそこならエアコンも効いているし、渚先輩から鍵さえ預かってしまえば何時間でも居座ることができる。
しかし、当然渚先輩が開けてくれていると思っていた図書室は、僕の見通しに反して鍵がかかっていた。
正直、今誰よりも渚先輩に会いたかったのだけれど。
仕方がないので図書室は諦めて、午後六時までは、適当な空き教室の窓を開けカーテンを閉めて、揺らめくカーテンの音を聞きながら突っ伏せて過ごした。
学校の反対方面に藍祥駅から歩くこと十分ほどで打ち上げ会場の焼肉屋についた。ソフトボールのチームメートだった連中はアサマを中心に嫌われ者の僕にも普通に話しかけてくれた。少しだけ気が楽になった。
焼肉屋に着くと、奥の方のテーブル席が二つ分予約席として取られていた。まずはドリンクバーで適当に選んだソフトドリンクで乾杯するところから打ち上げが始まった。学生の食べ放題ということで店側からの配慮なのだろう、注文前からすでに我々の座る二つのテーブルの上には沢山の肉と人数分のライスが並んでいて、アサマの「乾杯!」の声と同時に皆熱い網の上に肉を乗せていった。黒く旨い匂いの煙が舞う。肉にこんがりと色がついていく。「わかってねえなあ、こいつら。まずは牛タンからこう並べてだな……」、「野菜いらんよな」、「アサマ食い方汚すぎ」、「俺の飲み物も頼むわ」。そこには僕が捨てたはずの、男子高校生の普通の会話が繰り広げられていた。不思議なものである。これは詩織が僕を立ち直らせてくれたからこその光景だ。そうだというのに、彼女はもう僕の近くにはいない。
「おい! 小野寺。全然食ってねえじゃねえか。元取るんだぞ」
隣のテーブルのアサマが僕を指差す。僕は少し笑う。
「イノウエが全部食っちまうからな」
ソフトボールではキャッチャーだった柔道部の男にチラリと視線を向けると、皆イノウエを見て思い思いに笑った。イノウエは困惑したように首を横に振った後僕を差し返した。
「こいつすごい食ってるから。俺の育てたやつも食ってたし。ほら、それもだ小野寺」
「いや、がめついな、お前」
メガネで頭が切れるミヤタが半笑いに茶々を入れたところでいよいよ笑い声は大きくなりすぎて収集がつかなくなり、大学生風の店員にまとめて注意された。本当にどうしようもない。僕はひとしきり笑った後でグラスにいっぱいに注いだコーラを飲み干した。こういうのも悪くないかもしれないと、本気で思った。勿論、僕がまた皆に心から許されるには十分な努力が必要だろうけれど、それを差し引いてもこういう馬鹿をやれる連中とつるむのも悪くないかもしれないと思った。同時に僕がそういう道を選ぶことなどないこともまた、自明であったが。
店員に注意されてから皆声量に気を遣ったのもあって、会の盛り上がりはいい具合のところで落ち着いてきた。一時は置き場がないほどに並んだ肉の皿も、今では大方食べ切られてテーブルの端で回収されるのを待っている。半分ほどの人間は膨れ上がった腹を満足そうにさすっていた。もう半分は苦しそうだった。どちらかといえば前者の側だった僕が会話を途中で切り上げて追加の飲み物を取りに行っていると、帰ってきた時には僕の話題になっているらしかった。案の定の悪口大会、というわけでもなく、むしろある時期から人が変わったようになった僕を不可思議で触れづらく思っていたらしい。何か不幸でもあったのか、と。
「でも、突然とびきり美人の恋人と一緒に過ごすようになっていたんだから驚いたよな」
アサマの言葉に皆首を縦に振る。僕は空けてもらったスペースを通って奥の席に戻りながら「恋人じゃないよ」と訂正する。皆面食らったように声を上げるのも忘れぽかんとしていた。
「友達だよ。ただの」
後ろの言葉をできるだけ強調したのは、あのキスを振り払いたかったからだ。本当に、ただの友達だったはずだ。でも周りは僕に疑いの視線を集中させていた。
「嘘だろ」
そう口火を切ったのもアサマだった。
「お前にはもう訂正したじゃないか」
「まさか本当だとは思ってなかったからな。今でも疑ってるよ」
「球技大会の時も一緒にいたしな」
ミヤタが眼鏡を押し上げながら言う。多くはそれに同調し、「俺も見た」などと証言をしだす始末だ。それを皮切りに話が転がるわ転がるわ。僕には手が付けられなくなって肉を焼いていると、イノウエが苦しそうに米を掻き込みながら「でもさ」と口を挟んだ。
「あんな子、今までいたか。あんなに美人なのに、一年の頃には話も聞かなかった」
その質問には答えようと思った。僕の中には簡潔な「転校生」の一単語の回答が用意されていたのだから。でも、その質問に僕よりも早く答えた奴がいたものだから驚いた。それも、僕とは違う形の答えで。それは、バレーボール部でクラスで一番背の高いシミズだった。
「あいつ、心臓の病気なんだよ」
皆が今日一番の大声を上げた。その一方で、僕の中からはありあわせの言葉が一つ残らずなくなってしまったみたいだった。シミズは続ける。
「清川詩織、俺と同じ中学なんだが、それはそれは男子生徒から人気があったよ。でも、実際に清川詩織と話したことのある奴はほとんどいなかった。何せあいつは入学式に出てからしばらくの間保健室登校していたっきり、ずっと重たい心臓の病で入院して学校を休んでいたみたいだからな。それでもあれほどの美人だ。校内で一目見ただけで惚れ込んじまった奴らが次々と彼女の兄貴を通じて病室にラブレターを送っては、清川はそれを断る手紙を書くのにも労力を使って。ついに学校問題にすらなった。学校に来ていないというのに、清川詩織は注目の的だったよ。その注目は、生徒の間だけじゃなかったんだけどな。きちんと全ての課題をこなしていて彼女にできる最大限の努力をしていたと判断され色々な教師に内申点も融通してもらったらしく、入試も病室で教員の立ち合いのもと受けたんだと。すこぶる勉強できるという噂の通り、彼女は軽々この高校に入学した。ところが、ついに入学式にすら現れなかった。よほど心臓が悪いんだろう、うちの中学出身の連中の話題は皆清川詩織に釘付けだった。だが、ある時突然清川詩織はこの学校に現れた。今までの過保護が嘘みたいに、涼しい顔をしながら。なんでも心臓移植の手術を受けたんだとか」
「心臓移植だって」
僕はたまらず聞き返す。シミズは
「まあ、出どころの知れない眉唾だけどな。うちの中学の間では、そんなわけわかんない噂が立つくらいには、清川詩織には話題性があるんだよ。そんでもってその話題で大盛り上がりした一日後には、清川はお前の隣を幸せそうな顔で歩いていたんだ」
シミズは最後に僕を指差す。
「清川詩織はお前の想像よりずっと人気なんだ。余裕こいてるとすぐに他の男に取られるぞ」
きっと彼としては僕の思い詰めた表情が、詩織のとてつもない人気を知ってのものだと受け取ったのだろう。シミズは「モノにしろよ」と僕に乱暴なエールを送った。皆それにつられて様々な形をした明るい言葉や冗談を僕に投げる。でも僕が考えていたのは全く違うことだった。
詩織は転校生のはずだった。琴乃からの手紙には必ず琴乃の字で知らない街の住所が書かれていて、「清川詩織」名義の住所も記されていた。
それなのに、重たい心臓の病気だと。心臓移植だと。薬の存在を知っていたことを差し引いてもあり余る衝撃だ。僕は記憶の中からとにかく詩織に関する情報を集めて回った。一秒ごとに、疑問は倍々に膨張していく。そもそも琴乃との文通というのは、詩織が転校生であるという前提を差し置いては成立しない。仮に今までの手紙が完全なる詩織の偽造で、何かしらの要因で好意を寄せた僕に接近するための嘘をついていたとしたならば、まあ理屈は通るが、それでは詩織が僕と琴乃しか知らないようなことまで手紙に記せる理由にはならない。詩織が嘘をついていたのはまあ間違い無いとしても、どこが嘘でどこまで嘘なのか、何のために僕なんかを欺いたのか、その理由が見えてこない。平静を装うために齧った肉は古くなって脂ぎったゴムみたいだった。肉を噛みながらあれこれ考える。そうして次第に一つの考えがまとまった。それはあまりに強引な結論だったが、一応筋も通っていて理由も推測がきかなくはなかった。
「詩織の小学校時代はどうだったんだろうな」
僕はシミズにできるだけ動揺を悟られないに話を振る。
僕の仮定はこうだった。つまり詩織は本当に琴乃の文通相手で、しかし愛知県に引っ越してきたのは小学校の終わり。そこから愛知で心臓病の治療を受けるも、高校二年生で病が完治した時には琴乃はもう亡き人になっていた。そこで、心臓病なんて物騒な単語で僕を混乱させないように一端の転校生を名乗りながら、琴乃の想いを僕に伝えようとしてくれた、というのはどうだろう。詩織が見せてくれた手紙のうち高校時代のものが一枚だけあったが、僕が琴乃の成長してからの字をあまり知らず、消印にもそこまで気を配らないことがわかっていた分その一枚だけの偽造は容易だったのかもしれない。
などと必死に理屈を後付けしてストーリーをこねてみたが。
「うちの高校にも幼稚園からずっと清川の同級生の奴がいるけれど、そいつが言うには昔からずっと入院生活だったらしいな。もっとも、中学校の間や高校一年生の間ほど酷くはなかったらしいけれど。レアキャラ扱いなのは変わらないそうだ」
シミズの端的な回答でそれも否定される。文章の感じから言っても琴乃と詩織の間にやりとりがあったのは間違いないと思うのだが。頭がこんがらがる。
僕は先ほど烏龍茶を注いできたグラスを一息で空にした。そうだというのに身体の芯が渇いて渇いてたまらない。どれだけ静かな顔をしていても指先が小さく震える。それは恐らく、もう一個の懸念点も思考の隙間から湧き上がってきたからだ。それは少し前、アサマとの会話でもチラついて、そうして見過ごした小さな癌細胞みたいなものだった。それが、ある程度の可能性をもってピリピリと脳を刺激する。もう、見て見ぬ振りはできなかった。
一次会の焼肉は会計で少し揉めながらも基本的には何事もなく終わった。皆駅前のカラオケに行くらしいが僕は存在しない明日の約束を理由に断った。面倒だったので使った詩織の名前は覿面だった。アサマを筆頭とした馬鹿共はブーブー言いながらも手を振って帰路につく僕を見送った。少し心が痛くなったが、言っていられなかった。帰り道、突然僕を支配した暗闇に脳味噌以外の全てを預けながら、脳味噌は思考の広くどす黒い海に沈める。
それは詩織が僕の前から姿を消した理由だった。彼女はもしかしたら、いまだに心臓に爆弾を抱えているのかもしれない。完治するどころか救いようのない状況に身体を落とし込んでしまったのかもしれない。彼女が学校にきた数週間は、もしかしたら彼女にとって最後の時間だったのかもしれない。それは無根拠なものだった。ただの悪い予感である可能性の方が高い。でも何が真実かわからない僕には、その無根拠もまた一つの真実と同じだけの信憑性を持って映った。
だから僕は、詩織との時間を忘れることにした。
取り返しのつかないほどの後悔に苦しむことも、わかっていた。もう僕の手から大切な人がこぼれ落ちていくことには耐えられない。でも、今の僕に詩織と正面から向き合う勇気はなかった。本当に最悪のケースで彼女が死んでしまった時、詩織のことを大切に思っている僕のままでいたら、もう再起不能になってしまう。それならいっそ彼女のことなどなかったことにしてしまえばいい。琴乃との十六年間を消すことは困難でも、詩織との二週間くらいなら、どうにかなるだろう。
詩織は琴乃の死に苦しむ僕の前に現れた、僕を救う天使だったのだ。だから琴乃の死と正しく向かい合い、きちんと失恋した今では必要なくなって僕の前から消えただけなのだ。あるいは、琴乃が僕を友達としてしか思っていないというのすら、詩織の嘘だった可能性を考えるのはどうだろう。それはくだらない妄言でありながら、今の僕には希望の光のようにすら映った。だって僕はこれから琴乃のことを考え続ければいいのだから。今まで以上に琴乃を想う。詩織はそのきっかけに過ぎないのだ。
そんな支離滅裂が、琴乃と心を引き離した小学校の六年生の時と同じような思考回路だということも痛々しいほど明らかな事実だった。あの時は母を忘れないために僕の中の琴乃の濃度を下げようとし、今は僕の中の詩織を薄めるために琴乃に気持ちのピントを合わせようとしている。ふと一歩ひいてしまえば自分のくだらなさに反吐が出る。
この臆病が妬ましい。ほんの少しの勇気があれば、僕は今すぐ県内の全ての大病院を巡って詩織の足跡を探し出して、どんな些細な情報でも集めて回るのに。この心の中のざわめきや温度に、きちんと名前をつけてあげられるのに。僕はなんて情けないんだろう。
帰り道は早歩きだった。頭の中では意識的に琴乃のことをリピートさせる。いまだに僕の中の大半を占めている琴乃への褪せない想いだけが、僕を難しいことから守ってくれた。
明日から夏休みだというのに、吹き抜けた風は冬のような冷たさと乾燥で、半袖から伸びる肌を刺々しく攻撃した。街灯に照らされた足元には一匹目の蝉が天を仰いで転がっていた。
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