第13話 天使仮説
何の起伏もない常温の一日は、祭りの熱気を洗い流すかのような雨音の中で漫然と過ぎていった。昼休みに念のためにいつもの空き教室を訪れてみたが明かりはついておらず、そこには誰もいなかった。教室に帰った僕はメロンパンを野菜ジュースと一緒に食べた。久しぶりに一人で過ごす昼休みは気楽で、平和で、面倒じゃなくて、そうだというのになんだか物足りない。パンの包装と空になった紙パックを教室の奥のゴミ箱に放り込むと、あとの時間は机の上で伏せて過ごした。目を閉じて、暗闇のスクリーンに映るのは女の人の影だった。それは琴乃でも母親でもない女性。
今頃詩織は何をしているのだろうか。もしかしたらどこか狭い部屋で一人でいるのかもしれない。あるいはもっと想像のつかない場所にいるのかもしれない。例えばそれは天国的な場所。そんな全く現実的でない想像がやけにしっくりくる。詩織は本当に「郵便屋さん」で、その役目を終え僕の前から姿を消した。僕に琴乃の気持ちを伝える過程の中で、案外人間界での生活が気に入り、僕にねだって最後の日に夏祭りへ赴き、そこで熱に絆されて僕にキスを……。
そこまで妄想していたところで名を呼ばれ、中断して顔を上げた。その視線の先に、ソフトボールのチームでキャプテンも務めた野球部員のアサマがいた。彼は真っ直ぐに僕を見下ろしていて、僕はかつて親しくしていたその相手との妙な沈黙に気まずくなったりした。のだが。
「今日は、恋人と一緒じゃないのか?」
アサマは坊主刈りの頭をさすりながらちょっと意地悪に言ったあと、強張った笑みを見せた。僕はそれが詩織のことだと理解すると、しかしそんなアサマの物言いにも少し前のように苛立ちに我を忘れるようなことはなかった。
「余計なお世話だよ。彼女とは恋人じゃないさ」
僕も微笑みでもって返すと、アサマは硬直が溶けたような表情になった。
「残念だ。小野寺がとんでもない美女を連れていると話題になっていたもんだからな」
「それも余計なお世話だ」
「はは。相変わらずだな」
アサマは砕けた雰囲気で僕の肩を二度ほど軽く叩いた。
「それで。わざわざ嫌われ者に話しかけてきたのには用事があるんだろう?」
僕が卑屈っぽく言うと、アサマは「まあな」と隠し立てしないすっきりした感じで応じた。
「他の連中の部活なんかの折り合いもあってずっと後ろ倒しになっていたんだがな。今週の金曜日、終業式終わりに球技大会でソフトボールだった奴らで打ち上げしようと思ってさ。店とか諸々は未定だが、参加意思があるか確かめたくてさ」
驚いた、という他なかった。去年の球技大会の後にはそういった催しにも当然声をかけられたが、今年はそういうものとは無縁だろうと思っていた。
「どうして僕を?」
「お前が最後の試合でホームラン打ってなきゃ誘ってねえよ」
アサマは冗談ぽく笑う。僕は窓の外のグラウンドに視線を落とした。
あの詩織との勝負で飛び出したホームランには、どうやら意外な副産物もあったらしい。僕の思考はまた妄想に入る。詩織は本当に天使かなんかで、琴乃の死に沈み人間関係も崩壊し堕落した僕を救いにきてくれたというのはどうだろう。琴乃の死に対する心の折り合いをつけ、友人と過ごすなんでもない平和な日常を取り戻すのに一役買ってくれた優しい天使。
実に馬鹿げていた。自分が天使に救われるような高等な人間だとでも言うのか。それに世界のどこに消印の押された手紙を持ってくる天使がいるのだろう。心臓の薬を飲む天使がいるというのだろうか。
と、一瞬嫌な考えがよぎる。思考の死角に不意にスポットライトが当たった格好だ。これまで見てみぬふりをしていたが、もしかしたらあの心臓の薬は……。
「で、どうする?」
「行かせてもらうよ。どうか爪弾きにはしないでくれよ」
でも、今は余計なことは気にしないでおくことにした。
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