第12話 二人ぼっち

 ファーストキスの相手は琴乃だった。そのキスもまた奪われるような強引なキスで、後味は詩織とのそれとよく似ていた気がする。小学校六年生のクリスマスイブ。僕と琴乃が仲が良かったといえる、もしかしたら最後の日かもしれない。あのキスを境に、僕と琴乃の関係は一変した。偏に僕の臆病さが原因なのだ。

 ちょうどその時期の僕は思春期の黎明のような状態で、抑えの効かない様々な感情を持て余していた。それは琴乃が他の男子と会話していたことに対する嫉妬であったり、男手一つで僕を育てる父との些細なすれ違いであったりした。幼子のようにあらゆることにリミッターを外して我田引水に振る舞うにはいささか理性が邪魔くさかったし、かといって素直に周りの言葉に耳を傾けるには僕はまだまだ子供すぎた。そんな頭でっかちな時期だったのもよくなかったんだと思う。クリスマスイブ、僕と父の間で事件が起こる。現在まで尾を引いている、個人的には忘れがたい出来事だった。加えて、僕の臆病さを象徴するような一件でもあった。

 その日、父の帰りは遅かった。僕は部屋で勉強しながら、ケーキを買って帰ってくる父をずっと待っていた。父が帰ってくると言っていた時間から悠に二時間が経過しても、僕は平気だった。そんなことで機嫌を崩すほどクリスマスイブという日が持つ意味は、僕と父にとって小さくなかったのだ。思い出すのはやはり母が生きていた時、家族三人で過ごしたクリスマスイブ。僕にとってクリスマスイブはただの年中行事ではない。父の仕事が忙しくろくに旅行にも行ったことのなかった僕には、家族三人の特別な日の記憶が少ない。そんな中で、大好きな父と母と共に過ごし、サンタクロースを待ち遠しく思いながら眠りについたその日は、夏祭り同様に僕の心の中に燦然と輝く家族の記憶だった。それは母と長い恋人時代を経てきた父にとっても同じか、それ以上だ。そのはずだった。それなのに。

 自室の机の上で算数の発展問題と向かい合いながらうとうとしていた時だった。階下のドアが開く音で目を覚ました。

「ただいま。遅くなってごめんな」

 父の声がする。寝ぼけ眼の僕は算数の問題なんか投げ出して、慌てて階段を駆け下りた。待ちわびていたその時がきた、と餌をぶら下げられた僕はわんぱく少年そのものだった。ところが僕が玄関に大慌てで向かうと、そこにいたのはクリスマスケーキの箱を下げた父だけではなかった。優しそうで、綺麗な女の人。背丈は父より随分低く、年嵩も父より随分若そうだ。僕はその人を見て全てを理解したわけではないけれど、本能的に嫌な予感がした。

「亮介。メリークリスマス。紹介したい人がいるんだ」

 噛みちぎりそうな勢いで下唇を潰しながら僕は俯く。父は少し躊躇いながらも続ける。

「イズミハルコさん。僕の会社の部下で、その、君の新しいお母さんになる人だ」

 父の言葉は音節無く響いた。『新しいお母さん』、その無神経な言い方がとにかく気に食わなかった。僕を産んだ母がもう古い人だとでも言いたのだろうか。僕の血液の温度はあっという間に沸点に達し、荒れ狂う感情はすぐにコントロールを失った。僕は一言二言、言葉にならないぼやきを口から落とし、次には父の手からクリスマスケーキを奪い取っていた。

「ふざけるなよ」

 僕はクリスマスケーキの箱を父のよそいきのスーツ目掛けてオーバーハンドで思い切り投げた。箱から飛び出したクリスマスケーキのクリームが玄関一帯に広く飛び散る。僕は唖然とする二人の大人に言葉の体すら保てないほど脆い暴言を浴びせかけたその後で、床に落ちたサンタクロースの人形と苺を踏み潰して、靴下のまま寒空の元へ飛び出した。「亮介!」、父の制止も振り切って、息を切らしながら夜に駆けていく。住宅街に立ち並ぶ家の数々はどれもうんざりするほど眩しいイルミネーションで彩られていて、僕はその輝きに押し潰される前にとにかく走った。途中、人通りの少ない街路の電信柱にもたれかかって、心の中で父への悪態を繰り返した。次第にその強い感情は、悲しみに変わっていった。今でももちろんそうだが、当時の僕には尚更、父が母のことを何もかも捨てたように見えたのだ。母との思い出も、僕と二人で母を懐かしみながら送る生活も。それがとてつもなく悲しかった。僕は一度だって母の死を忘れていないのに。父に裏切られた気分になった。そうして何もかもが嫌になって、足の冷たさと痛みすら忘れひたすら冬の煌めきから逃げていた。気がつけば、僕のボロボロの足は琴乃の家の前で止まっていた。コンクリートの塀で囲われた琴乃の家にクリスマス装飾はされておらず、それに少し安心した自分が嫌だった。

 琴乃とクリスマスの話をしたことはない。琴乃はいつもクリスマスをどう過ごしているのだろう。琴乃があまり両親とうまくいっていないのは知っている。もっとも、今の僕から言わせれば両親が健康なだけでも十分幸せと呼ぶに足るが。琴乃は、この素晴らしい日くらいは家族と楽しくやっているのだろうか。そうだとすると、彼女にとっても貴重であろうその時間を邪魔する気にはならなかった。無論、今すぐ琴乃に慰めて欲しい気がしないでもなかったが。

 僕は心の中に落ちた本音と向き合い、乾燥した笑みを浮かべた。今からどこへ行こうか。家には帰りたくない。警察の厄介にもなりたくない。とりあえず、人通りの少ないところへ。そんなことを思いながら裏通りの方に足を向けたその時だった。

「クリスマスなんて嫌い」

 細い声が聞こえた。僕がその声の主を聞き間違えるはずはなかった。しかし振り返った先には誰もいない。

「自分が嫌い」

 僕は大げさに頭をあちこちに動かして琴乃の姿を探した。見渡して、声のした方を整理して、そうして琴乃は家の塀の内側で泣いていた。僕に気がついていない彼女は寂しげに呟く。

「どこかへ行ってしまいたいなあ」

「どこがいい?」

 気がつくと僕は呼びかけていた。そうして、困惑する琴乃の手を引いて、再び走り出した。

「遠い場所へ行こう」

 彼女は短くも確かな返事をして僕についてきた。

「僕が琴乃を守る」

 走りながら発したその言葉は、決意に満ちていた。僕が先ほど抱いた世界で一人ぼっちになったあの感覚と、琴乃はクリスマスが来るたびに戦い続けてきたんだと、それを思うと孤独の痛みを、もう琴乃に感じて欲しくはなかった。

 二人が行き着いたのは、隣町の公園だった。静かな場所だった。公園にはペンキの剥がれた象とキリンのスプリング遊具と木製ベンチ、それに街灯一本分の明かりがあるだけで、僕らがこの辺に住んでいたとしても絶対に遊び場所には選ばないであろう雰囲気だった。そんな公園に足を踏み入れた頃、部屋着のまま飛び出しては今まで走り続けてきた僕と琴乃の息はすっかり真っ白な煙になっていた。

「寒いや」

 琴乃がはにかんだ。

「寒いね」

 僕が過不足ない文字数でそれに応じる。そして重ねた手はそのままに、二人はベンチに腰掛けた。極寒にさらされ続けたベンチは氷の板のように冷たくて、二人で変な叫び声を上げて二人で笑った。

 そうして、僕らは肩をぴったりくっつけながら空を見上げた。この辺りはやけに間隔の広い街灯の明かりだけで静かなものだけれど、少し離れたところは秋の間に溜め込んだエネルギーを全部、この良き日に解放しているかのように煌びやかだった。おかげで星なんかは慎ましやかに高いところで光っていた。

「あれが、オリオン」

 琴乃は正面の空に陣取る星をなぞるように順番に指差していった。僕が首を傾げると琴乃は嬉しそうに笑いながら、落ちていた枯れ枝を拾って暗い地面に星座を描いた。僕は琴乃が描いた星の連なる線と上空に浮かぶ星々を見比べ、ついにはオリオンを夜の中から探し出した。

「あれがオリオン」

 琴乃の言葉を繰り返すように僕は言う。それを琴乃はまた繰り返した。

 そんな風に僕と琴乃は寒さも忘れていろいろ話をした。クリスマスとも先程お互いの身に起こったこととも何も関係のない、無邪気で平和なやりとりを続けた。何気ない会話が今日はいつにも増して楽しかった。だから僕は、自分に一つだけ許してしまう。

「今日、父さんが再婚相手を家に連れてきたんだ」

 琴乃はそれまでの和やかな様子から一転、目を見開いて深刻そうに頷いた。

「クリスマスイブには毎年母さんとの思い出を語り合っていたのに」

 口にした瞬間に解けるような、なんとも薄弱な言い分だ。だからなんだ、と自分でも思う。でも僕はこの悲しみを琴乃に慰めてもらわずにはいられなかった。琴乃にだって僕にぶちまけたい悲しい思いがたくさんあって、それを飲み込んでいることくらい僕には簡単にわかるのに。

「ごめん。どうしても、僕は母さんのことを忘れたくなくて。それなのに、父さんはいつの間にか新しい幸せの形を探し出してしまったことが、多分許せなかったんだ。父さんが母さんを捨ててしまったような感じがして」

「ううん。なんだかわかるな。だって亮介はお母さんとお父さんと三人揃った家族の形を、ずっと大切にしていたんだもんね。怖いんだよね。お母さんが、家族の中から消えてしまうのが」

 琴乃はそうやって、いつも僕の気持ちをわかりやすい言葉に変えてくれた。僕のやるせなさや、底の方で沈殿した重たい感情は、そうして光を浴びるのだった。

 僕は少しだけ泣いた。いつもそうだ。僕の心はもう琴乃なしではやっていけないくらいだ。

「ありがとう、琴乃。救われるよ」

 僕が言うと琴乃はゆっくり首を横に振った。

「私もさっき、亮介が言ってくれたこと凄く嬉しかったの。『僕が琴乃を守る』、そう聞いて、私は一人じゃないんだって、そう思えたから」

 僕は照れ臭くて頭を掻いた。そんな僕の肩に、琴乃はこつんと頭を乗せた。軽くて何も入っていなそうな頭、寒さと照れで耳まで赤くなっている。

「きっと私たち、世界で二人ぼっちだね」

「ああ」

 僕には琴乃の考えていることや感じていることが、今なら完璧にわかる気がした。僕らはテレパシーで繋がれていた。短い言葉で相手の言いたいことを完璧に理解できていた。

 琴乃が少し強く手を握った。僕はもう少しだけ強く握り返した。琴乃は満足そうに笑った。

「ねえ、亮介。びっくりさせてあげようか」

 僕は首を傾げる。その隙もなかった。琴乃が僕の唇に、自らの唇を乗せたのだ。

 あまりの出来事に、僕は唇が再びの自由を取り戻した後も、うまく言葉を紡げなかった。琴乃は繋いだ手を離して、俯いた。それから、二人は何も話さなかった。

 ただ、長い沈黙の中で、僕はある結論を導いた。僕は琴乃に恋をしている。キスをしたあの瞬間の、世界が壊れたような、頭が馬鹿になるようなあの感覚。身体が芯から火照った心地。これまで見て見ぬ振りをしていた熱い感情は紛れもなく恋なのだ。僕は琴乃を心底愛おしく思っている。彼女のそばにずっと居たいと思っている。彼女の他には何もいらないと思っている。

 だから、それがとんでもなく恐ろしかった。

 もし、琴乃との恋に溺れようものなら、沈んでしまおうものなら、記憶の容量から母との、三人家族の思い出が追い出される日が必ず来る。それでは、父と同じだ。もう母のことを覚え続けられるのは、僕しか居ないのに。母を忘れてしまう日が来るのが、心底怖い。そんな臆病にどうしても打ち勝てなかった。沈黙の間に無数の葛藤があって、ついに僕は琴乃に何も言えなかった。

 僕らはクリスマスイブがクリスマスになった頃警察に補導された。ついに言葉を交わすことはなかった。

 夜が明けた時、テレパシーは使えなくなっていた。ただ僕の心の中に琴乃への恋心だけが残された。決して再び近づくこともないまま、僕と琴乃は疎遠になった。

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