第10話 夏の色素

 土曜模試の帰り道。詩織があの問題がどうだのこの問題はああだのを愚痴っていた下校路の中盤あたりで蝉の声がして、僕らは同時にそちらを向いた。二人の視線の交わった電信柱の上の方で、アブラゼミが羽を休めていた。

「今年初めて蝉の声を聞いたかもしれません」

 詩織はしばらく蝉を見つめ、そう言った。

「もう七月も中旬だし、いよいよ夏だな」

 僕は自転車を路側帯の車道側で引きながら赤く燃える夏の空を見上げた。

「夏休みは何をしましょうか?」

「どうせ、だらだらしていたらすぐに終わるんだ。期待せずにいるのが賢いよ」

 それまでだったら、そういう言葉の一つ一つは何も生まないまま、ただ呪文になって自分を縛り上げていたのだろうけれど。

「そんなのつまらないですよ」

 詩織はなんてことない顔で僕の呪いを解いていく。かけ続けていた鉄の仮面は砕け、気がつけば表情が緩んでいる。

「じゃあ、海にでもいくか?」

 半分シャレみたいな提案だったが、いつも通りそれを真に受けた詩織は両手を叩いて「いいですね」と言った。

「それにバーベキューもいいですし、隣の丘見市では花火大会も開かれているって聞きました」

「ああ、そうだな」

「今年の夏は、特別な夏かもしれませんね」

 とも、言っていた。なんのこっちゃとも思ったが、それでいてたしかにこれまでの夏とは良くも悪くも違う夏になる予感はしていた。琴乃のいない夏、心を許せる友人がいる夏、瑞々しい色かそれとも色素が物足りないのか。いずれにせよ、その煌めきが種類を変えることは間違いなさそうだ。

「暑い夏になるかもな」

 そう呟いて、立ち止まる。風が走る。目の前に広がる田園の青い稲が一斉に靡いて涼しい匂いがあたりに弾けた。一年で最も暑い季節が、じりじりと導火線を焼いている。

「亮介さん」

「嫌だ」

 いつものおねだりの口調に一応の警戒。それを詩織が無視するのもまたいつも通りだった。

「今日は二人乗りをして帰りましょう」

「はあ?」

「お願いします。ね」

 こうなったら僕の声なんて耳には入らない。詩織は僕が引く自転車の荷台のところにちょこんと腰を下ろして、もうテコでも動きそうになかった。僕は渋々詩織を載せたまま自転車を手で引こうとしたが。

「ねえ、二人乗り。二人乗りがいい」

 キャンキャン騒いで聞かなかったので、仕方がなく僕もサドルに座った。詩織の薄っぺらな制服と、その向こうにあるか細く繊細な身体が、僕の背中に密着する。不意にドギマギして、息を吸い直した。バランスをとりながらハンドルを握る。

「言っておくけど、危ないぞ。バランス悪いし。いくら車通りないとは言え、うまくいかなかったらすぐにやめるからな」

「はい! それで充分です」

 詩織は満足げだ。やれやれである。僕はペダルを踏みしめ、重たい自転車を浮かせるような感覚で漕ぎ始める。ところで、大抵の場合二人乗りは両者ともそれに慣れていないと、まず上手くいかない。たとえ両者とも慣れていても、漕ぐ側乗る側それぞれにバランスがあって、自転車が真っ直ぐ進むようになるにはそれなりに時間がかかるものだが。

「おー、気持ちいい」

 僕の自転車は、まるで初めから二人乗りをするために生まれて来たかのように軽やかな車輪運びで轍を描く。その快適な自転車操作に、僕は琴乃と同じことをした夏の日に思いを馳せた。今背中に引っ付いたその感触は数年前とまるで違うようで、たしかに同じ種類の感覚になった。それからは、車輪の音も忘れるくらいずっと喋りながら、二人乗り自転車でいつもの交差点まで駆けた。交差点でやっと自転車から降りた詩織は、去り際僕に向かって微笑みを投げた。

「夏祭り、楽しみです」

 いよいよ、その日は明日だ。最近の僕は柄にもなくその日を待ち遠しく思っていた。部屋にいるときにカレンダーを気に掛けることが増え、空白に吊り下がった授業中には簡単な曜日の引き算をして過ごした。

「それでは」

「じゃあ、また明日」

 僕がそう言うと、詩織は意外そうな表情を見せた。

「はい、また明日」

 手を振る彼女を見送った僕は自転車に掛け直し、その軽さに刺激の無さを感じた。

「楽しみだな」

 ひとりごちて、それがらしくないとも思いながら、そんなことはどうだってよかった。自転車を飛ばして家に帰った。やけにスピードが出た。鼻歌なんかも歌って、かなりご機嫌だっただろう。ところが、

「亮介。おかえり」

 家の自転車置きの前で声をかけられたかと思ったら、父だった。家から出て来た様子で、いつもよりもいささか小綺麗な格好をしている。

「さっき携帯にも連絡したんだがな。今日これから寿司に行こうと思うんだが、お前も」

 ああ、そんな話を家族のチャットルームでしていたな、そう話半分に父の声を聞いていたそのタイミングで義母のイズミさんが家の中から出てくる。年甲斐もない短いスカート、真っ赤な口紅。彼女は僕と顔を合わせると、気まずそうに僕の名を呼んだ。「亮介くん」。僕はそれを無視し、自転車スタンドを下ろした。父もイズミさんへの態度を咎めるように「亮介」と僕を叱る。一層うんざりした気持ちになった。

「寿司はいいよ。イズミさんと二人で行ってきて。僕は適当に済ませるから、楽しんで」

 捲し立てるようにそう言って鞄を肩から下げると、ずんずん歩いて継母を押し除けるように家に入った。まだ何か言いたげな二人の注文を遮るようにドアを閉め、手も洗わずに真っ先に部屋へ駆け込んだ。室内は物と物の輪郭もぼやけて見えるくらいに暗くなっていた。そのままベッドに飛び込み仰向けになった。継母と暮らすようになって四年と少し、未だに慣れない、不快感も拭えない。今日のように正面から向かい合った日は、尚更だった。乱れた感情をコントロールしようとベッドの上を転がり回って、やがて疲れて眠ってしまった。静かな眠りの中で夢の鉛筆が縁取ったのは、今は亡き母の姿だった。幼い頃に亡くなった母を僕はいつまでも夢に見る。僕の中で母がまだ生きていることに安堵する。

 楽しい気分を父と継母に乱された僕は、そんなふうに母の温もりに抱かれながら長い夜をやり過ごし、耐え忍ぶように明日を待った。

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