第9話 今の僕には必要ないので
詩織との夏祭りを数日後に控えた曇りの日の午後。その日詩織が用事があるとかで早く家に帰りたがっていたというのもあって、昼食時珍しく一緒に帰る約束をしなかった。まあ、一緒に帰ればなんだかんだでコンビニの前や帰り道途中の小さな児童公園でくっちゃべってしまうので賢明な判断だ。かくして放課後の暇を持て余した僕だが、のんびり帰り支度をしていた時にふとある一つの野暮用を思い出した。別にそんなのいつだってよかったし、もっと言うとやらなくてもよかったのだけれど。せっかくのいい機会だ、そう思い、僕は図書室に赴いた。
久しぶりの図書室には、相変わらず来客は一人もいない。中に入ると折り重なった渋い臭いが、書庫に敷き詰められた退屈そうな本たちの鼓動を感じさせる。毎日のように通っていた頃に比べ荒んでいた心も均されたが、それでもやはりここに来ると落ち着いた。僕はいつもの長机に鞄を置いて、目的の人物を探した。図書室の鍵が空いているということは、彼がいるのは間違い無いのだけれど。本棚の間を歩き回ってもなかなか見つからない。結局僕は諦めて適当な本を一冊棚から抜き取って机に戻った。椅子に座り、頬杖つきながら本を開いて、そんな時に図書室の景色に違和感を覚えた。それは、たまにしか図書室に来ないような人間には決して気づき得ないような些細な差で、しかし毎日通っていた頃の僕にとっては決定的であろう差だった。実際、少し期間が空いたために反応が遅れたが、今でも僕はその違和感をきちんと言語化することができた。つまりは、図書準備室に続くドアが少しだけ空いていたのだ。あの部屋は僕が図書室と教室を往復していた頃には一度も開いたことがなかった。その中に彼がいるであろうという確信と、純粋に中を見てみたいという好奇心にかられ、まだ一文字も目を通していない文庫本を机の上に放置し、円形のドアノブに手をかけた。そのまま前に押す。熱のこもった蒸し暑い空間だった。まず目に入ったのは、タイトルが読めないほどボロボロになった古い本を天井近くまで並べた鉄製の棚。次に、その棚の下から数段を完全に覆い隠しているこれまた古い本の山。乱雑に積み上げられたそれらは、もはや書物と読んでもいいほどの格好で、さながら図書室の老人会といった趣だ。僕はその光景に半ばの感動を覚えながら、慎重に視線をずらす。物音を立てないように息を飲む。そこにあったのは、準備室の隅の小さなテーブルの上、入ってきた僕にも気がつかないほど真剣に本を読む渚先輩の姿だった。
先輩が大粒の汗を垂らしながら読んでいたのは信じられないくらい厚い本だった。ここからではよく見えないが、ページにはいくつか大きな図が並んでおり、その後詰のような形で文字が敷き詰められていた。彼はその書かれた内容を一字たりとも取りこぼさないような前のめりの姿勢になっていた。右手側にはノートを広げており、時折紙面に乱暴に何かを書き殴っていた。その様子を見て僕はもしかしたら大学の過去問なんかをやっているのかもしれないと思ったが。なんとなく渚先輩のその鬼気迫る様子は、勉学や進学なんかに向いたものではないような気がした。如何せん、こんな先輩を見るのは初めてだ。いつもの飄々とした様子とは違う、物騒さすら感じさせるほどの凄みがあった。邪魔をしても悪いので、僕は音を立てないように黙ってそこから出ようとして。誤って足元に積んであった本の山を倒してしまった。わずかな物音すら嫌っていたのに、とんでもないないことになってしまった。さすがに気がついた先輩は鋭い視線のままこちらを向いて、僕の顔を見ていつもの柔和な表情に戻った。
「いらっしゃい。来ていたなら声をかけてくれれば」
少し安心した僕は笑い返す。
「集中しているのに迷惑かなと思いまして」
「どのみち今日はここまでのつもりだったから」
彼は厚い本とノートを、表紙が僕に見えない向きにして閉じた。
「小野寺くん。なんだか、俺の見ていない一週間で少し雰囲気が変わったね」
僕は驚き、短く「えっ」と声をあげた。
「なんて、余計なお世話かな」
本当によく人を見ている人だと思った。
「いえ、そうなのかもしれません。ある一人によって、僕は完全に作り替えられてしまいましたから」
「ほう」
「そこで、変わったついでにお願いなんですが」
先輩の手が机の上に落ち着いたのを見計らって、ここを訪ねる要因になった用事に触れた。先輩はそのまま続きを促すよう顎を持ち上げる。
「煙草、貰ってくれませんか?」
「煙草?」
僕は先輩の目の前にマルボロのケースを差し出す。ほとんど新品に近いのは、球技大会の帰りに新しく買ったはいいが、ちっとも吸う気にならずに全然吸っていなかったからだ。もう、琴乃の死に傷ついた心を慰める頃合いじゃない。僕に出来るのは、彼女を覚えてい続けることだけだ。だから、
「今の僕には必要ないので」
先輩は、何かを察したような表情で、僕の手から煙草のケースを拾い上げ、「よかったね」と頷いた。
「ところで、金取らないよね」
そう言った時には、先輩はもういつものおちゃらけた調子に戻っていた。
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