第8話 詩織のお願い

 取り乱していたのが嘘のように、それからの気分は落ち着いていた。すでにリーグやトーナメントに敗れて試合の無くなった僕と詩織は、球技大会の午後の部をひたすらのんびりと過ごした。第一コートのバックネットの裏の木陰で寄り添うように三角座りして清涼飲料水を含みながらソフトボールの試合を眺める時間は、穏やかそのものだった。いまいちソフトボールのルールもわかっていない詩織はしばしば僕にプレーの意味を求めたりした。タッチアップの説明には苦戦した。また、何かしらの話の流れを境に、詩織はプレーに関わらないあれこれも僕に尋ねてきたりした。多くは中学や高校での生活に関する疑問だった。僕はその一つ一つにも、丁寧に応じた。

「僕と琴乃で半分こしていた世界を、急に一人で扱うことになってさ。僕はその広さを持て余してしまったんだ」

 中高、僕が琴乃を放棄してからの時間。まるで億劫なテスト期間や、教師の説教を聞き流している無益な時間のように、ひたすら長いだけで手触りもない、思い出にもならない時の流れ。思い出すだけで一苦労なその時間は、それでも僕自身が望んだことでもあった。それが尚更タチが悪い。

「本当は、もっと幸せになれたのかな」

 僕は綿毛みたいに儚い雲の端切れをぼんやり見つめて、長い息を吐いた。

「琴乃に男として意識してもらえるよう頑張ったりすれば。いや、そうじゃなくても、きっと琴乃の友人のままでも今よりはずっと」

 女々しいな、僕が最後にちぎったその言葉は、すぐさまさんざめく歓声にかき消される。視線をグラウンドに戻すと、僕にホームランを打たれたピッチャーがガッツポーズをしていた。どうやら、この試合も完封で勝利したらしい。

「その言葉、琴乃さんが聞いたら喜ぶと思いますよ」

 詩織は寂しげに眉尻を落とし、口角だけで微笑んだ。

「例え悲しい別れがその先に訪れるとわかっていても、それでももっと一緒にいればよかったと思ってもらえるなんて。どうしようもなく、嬉しいでしょうね」

「慰めてくれて、ありがとう」

 僕はぬるくなった炭酸飲料を一気に飲み干し、座ったまま伸びをした。少し高いところの空気は、うんと濃い夏の匂いがした。

「そうだ、詩織の方はどうなんだよ?」

 突然の振りに、詩織は困惑の表情を投げ返す。

「何がですか?」

「詩織の初恋の話も聞かせてくれよ。僕だけがいろいろ知られてるなんて、不公平だろ?」

「はあ? どうしたんですか、急に」

 別に深い意図なんてなかった。単純な雑談でもあり、純粋な興味でもあり、やや雲のかかった不純であった気もする。僕が返答に窮していると、詩織はひとつため息をついた。

「亮介さんと出会って一週間足らずですが。少し変わりましたね」

 ただ首を傾げて詩織を見返す。詩織は説明する言葉を探すかのように、足元に散らばった青い葉の上に目線を走らせ、ゆったりした調子で言った。

「初めてきちんと言葉を交わした日には、まさか私の恋愛事情なんかに興味を抱くだなんて、思いもしませんでした」

 思いを馳せるのはほんの一週間前の火曜日、煙草を詩織が拾ったあの瞬間。もしくは、その一日前の図書室で、接近して目を合わせたあの瞬間。そこから、琴乃の死以降続いた起伏のない低体温症な毎日は、淡い光を取り戻した。生前の琴乃の感情や気持ちの一つに触れるにつれて、また詩織と同じ時間を共有するにつれて、車酔いしたような不快感が身体から剥がれていった。初め、便宜上だと思っていた「友達」。それは境界線も曖昧なまま、辞書通りの意味になっていた。学校生活を円滑に送るためだけに親しくしていた連中の誰にも感じたことのない居心地の良さが、琴乃と一緒にいる時に包まれる種類の優しさが、確かに詩織の隣にはあった。

「詩織と出会って、全部が変わったよ」

「そう、ですか。なんだか、照れますね」

 詩織は唇を突き出して、鼻の頭を掻いた。

「いいですよ。私の初恋の話、しても」

「本当か?」

 僕は軽く腰を浮かせた。詩織は幼い子供のように小さく頷き、微笑んだ。

「とはいえ面白い話でも、楽しい話でもないですよ」

 その言葉に、自分がとんでもないミスを犯している可能性が頭をよぎり、僕は話し始めようとする詩織を制するように口を挟んだ。

「話しづらいなら、無理する必要はないからな」

 彼女が失恋直後だったら。あるいはその初恋の相手に何かしらのトラウマを抱いていたら。何かしらの重たい感情を初恋の響きに抱いていたとしたら。僕が今しているのは痛々しいみみず腫れに手垢をつけるような真似かもしれない。あまりに軽率だった。もっと詩織のことを慮るべきだった。僕は慌てて詩織を止めた。そんな詩織はというと、初め呆気に取られたような表情を浮かべていたが、すぐにそれは弾けたような明るい笑顔に変わった。

「やっぱり、亮介さんは優しいですね」

「え?」

「大丈夫ですよ。話しづらいことがあるわけじゃありません。ただ、楽しい話でない、と言ったのは、私が今からする話は亮介さんにとってなんら新鮮なものではないからなんです」

 僕は拳の上に顎を乗せその意味を考えた。僕の頭上のクエスチョンマークを無駄のない仕草で胸元に寄せるようかのに、詩織はひそやかに語を紡いだ。

「いいですか。今から話すのは、全部本当のことです」

 ハナから疑う気もない僕は、長い瞬きの一回を返事の代わりにした。詩織は口元を持ち上げ、人差し指の先で思い出をなぞっていく。

「私にも男の子の幼馴染みがいました。私はその人と、幼稚園に入るよりもずっと前から同じ時を過ごし、悲しいことも嬉しいことも全部共有してきました。私はその人のことが好きで好きで仕方がなかった。それでも、いつしか疎遠になっていました。私はその初恋を諦めることも、思い切って自分の思いを伝えることもできないで、気がつけばどうしようもない別れの日を迎えていたんです。そして今日まで、積もった恋心を約分もできないままで……」

 別れの日とは、彼女が引っ越した日のことだろうか。それとももっと別の、悲しい出来事があったのか。いずれにしても。

「まるで、どこかのみっともない男の話にそっくりじゃないか」

「そうなんですよ」

 詩織は苦笑し、長い睫毛を小さく揺らした。

「亮介さんが琴乃さんを大切に思っていたように、私も彼のことを大切に思っていました。そして、報われる日はついに来ませんでした」

 淡々と話すように意識しているのであろう詩織の口調は、いつもよりも擦り切れ跡が多い。見て取れるのは、その美術作品のように端正な横顔から見て取れる、喪失の悲しみだった。僕はまるで鏡を見ているような気分になる。

「似たもの同士だったんだな。僕たちは」

「そう、似た者同士。だから、ずっと胸が痛かったんです。亮介さんの琴乃さんへの気持ちにもっと早く気がつけていれば、亮介さんにこんなに悲しい思いをさせることもなかったのに。世界で、私だけが亮介さんの気持ちを理解できるはずだったのにって」

 僕はその言葉には、きっぱりと首を横に振る。

「いや、いいんだ。本来知ることのできなかった琴乃の言葉に触れられただけで、とても幸せだった。懐かしくて、優しい気持ちになれた。それだけで、十分だった」

 この失恋すらも愛おしく思えるほど、僕は琴乃が好きだった。

 グラウンドに目を向けると、ソフトボールの次の試合が始まっていた。二年生の決勝戦らしい。自分の試合が終わり暇になった僕たちみたいな連中が続々と観戦に訪れて、周囲は一層騒がしかった。

「さ、こんな話はもうやめにしてさ。何か、楽しい話でもしようぜ」

 僕がそう雰囲気に唆されたようなことを口走ると、詩織は伏せた目に淡い光を宿しながら口の端を緩めた。

「本当に、変わりましたね」

 僕は途端に小っ恥ずかしくなる。「詩織のせいだな」、冗談まじりにそうかわそうとするも、夏と球技大会の熱気に上せそうになる。詩織は僕の照れ臭さなんて相変わらずの勘の良さで当然察した様子で、晴れやかな笑顔を見せた。

「最近の表情、素敵ですよ。よく笑うようになりました。最初はちっとも見せてくれなかった無防備さを、今では許してくれますね」

「からかうのはやめてくれよ」

「仕方がないですね。ここらへんで勘弁してあげますよ」

 少し密度の詰まった空気も、そんなふうにすぐに夕暮れの毛布のように柔らかくなる。それだけで心は安らかになる。やっぱり僕は詩織の隣にいるのが嫌いじゃないんだなと思う。いや、それどころか、多分結構好きなんだろう。そうじゃなきゃ、最初あれほど嫌だった「友達になる」という約束を、その交換条件である「琴乃の気持ち」が明らかになった今でも律儀に遂行しているなんてあり得ないだろう。僕はこうして詩織と寄り添っている状況を客観的な目で見てみて、少しおかしくなった。

「ねえ、亮介さん。それでは楽しい話をしましょう」

「ああ、望むところだ」

 僕は幼い所作で座る態勢を直す詩織を横目に、ゆったりと頷いた。

「この街では、大きな夏祭りが七月の中旬に開催されるそうですね」

「ああ。そういえば、毎年やっているな。夏休みの直前の日曜日に、商店街から駅にかけて縁日の屋台を並べるんだ。駅前の大通りや商店街のステージなんかは大賑わいって具合だな。田舎町の数少ないハレの日ってやつだ。祭りのことは琴乃から聞いたのか?」

「ええ。小学生の頃、毎年亮介さんと行く度に、夏休みの訪れを予感していたそうです」

「詩織の地元には、夏祭りはあったのか?」

 僕が尋ねてみると、詩織は「まあ」とややぼかすような物言いをした。

「でも、長い間行っていなくて」

「僕も同じだ」

 琴乃を誘わなくなってから夏祭りには行っていない。夏祭りの汗と油の混じった匂いも、うざったくなるほどの騒がしさも、愉快に満ちたあの雰囲気も、全部は思い出の中。

「亮介さん、そこでお話なのですが」

「うん?」

「私の方の『お願い』、ここで叶えてもらってもいいですか」

 詩織はぐいと僕の方に身を乗り出し、張り詰めた面持ちでそう言った。正面のアングルから僕をその目に映し、頬を少し赤らめ顔を硬らせていた。僕はその真っ直ぐな表情にやや怯みながら、首をゆっくり縦に振る。詩織は一つ息を吸った。

「今年の夏祭りは、私と一緒に行きましょう」

 詩織の様子を見て僕は何事かと身構えていたが、取り越し苦労だったみたいだ。張っていたものが弛緩した僕は、姿勢を直しながらなるたけ優しい表情で微笑んで見せた。

「そんなのでいいのか」

 友人と夏祭りに行くなんて、別になんてこともない。わざわざ試合で活躍して勝ち取った『お願い』を使うような場面でもないような気もするが。

「はい! それがいいんです」

 詩織は強く言う。

「もちろん、構わないよ」

 僕が当然そう返すと、「よかった」と詩織はへなへなと腰を落とした。彼女としては、僕みたいな偏屈者を遊びに誘うのは随分と気を遣うらしい。嬉しそうな顔を左手で扇いだ。

「私、夏祭りなんて久しぶりです。小学校の頃、好きな人と行って以来」

「それなら、僕と全く同じだ」

 僕たちは顔を見合わせて笑った。ソフトボールコートで飛び出した逆転スリーランホームランを、あたりは地面の割れそうな大歓声で祝福していたけれど。木陰の静かな涼しさの中では、全てが御伽噺のように優しかった。

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