第7話 琴乃は

 ホームランなんて余裕だと高を括っていた球技大会だったが、実際はそう甘くなかった。単純な話だ。ただ、「ホームランを打てば琴乃が僕をどう思っていたか教えてもらえる」、という条件の裏に潜んだ、「ホームランを打たなければ、琴乃が僕をどう思っていたか教えてもらえない」という事実が、とにかく重たかった。そもそも男子の比率の低い文系のクラスで、しかも満足に人数も集まらなかったこのチームで勝ち上がることは最初から期待していなかった。僕には、第一ブロックで対戦が保証されている二試合でホームランを打つ必要があったのだ。第一試合の先発はバレーボール部のエースだった。運動能力は高いようだが、ソフトボールに限ってはストライクを入れることが精一杯といった雰囲気で、僕の能力を考えればホームランなど造作もない相手のはずだった。しかし、力んでしまった。どうしてもホームランを打たなければならないその事情が、スイングに余分な力を乗せた。結局、乱打戦の末にコールド負けしたその試合で、僕は二打席に立ち内野安打を一本打っただけだった。

 さらに悪いことに、次の対戦相手の先発はどうやら野球部らしい。二年生にしてショートのレギュラーを獲得したと有名な男で、一試合目とはレベルの違うボールが来ることは目に見えていた。第二試合は三十分後、それまでに気持ちを切り替えなければ、そんな好投手からホームランなんて不可能だ。どうにかしなければならない。

 そんな逼迫した場面だというのに思い立ったのは全く関係のないことだった。詩織はどうしているだろう。確か、今頃バレーボールのトーナメントの一試合目をしているはずだ。何だか気になった僕は、他のチームの試合を見ながらあれこれ偉そうに講釈を垂れているソフトボールのチームメイトのそばを離れ、第二体育館の方に向かった。

 女子の甲高い声は体育館の外にまで響いてきていた。耳を押さえたくなる衝動を堪え中を覗いてみると、手前側のコートで詩織のチームが試合をしている。スコアはかなり競り合っていて、応援している観衆の声にも力と熱量が籠っていた。中に入って少し歩くと、僕はすぐに誰が詩織だかわかった。後ろ姿からスタイルや髪の綺麗さが、残酷なまでに他とは違う女の子。ふんわり浮かんできたボールに見事に合わせ、大事な追加点を獲得していた。彼女ははしゃぎながらチームメイトと歓喜を共有しているようで、そんな中で僕の姿を認めたらしい。控えめに僕に手を振った。どうやら、この球技大会で、少しは詩織も周りと馴染めたらしい。やがては僕も用済みになるだろう。それは、寂しくも必然なことだった。第一、あんな美人を多感な高校生の男女が放っておくわけがないのだ。

 琴乃の気持ちを話してくれたその時が、僕と詩織の最後かもな。そんなふうにすら、思えた。それでも構わないとは、簡単に割り切れないが。仕方のないことだろう。そもそも詩織は使命感のままに、亡くなった琴乃のことを僕に教えてくれているだけなのだから。そういう関係性なのだから。その使命が尽きた後に僕らが話す理由は、ないのだ。僕は入ったばかりの第二体育館に背を向け、後にしようとした。しかし、

「ちょっと、亮介さん!」

 呼び止めた声は詩織のものだっだ。聴き間違えたりしない。僕は振り返る。詩織はいつも素直に下ろしている前髪を今日はヘアピンでもち上げていて、真っ白な額を顕にしていた。肌の上にはいくつもの汗の球が乗っていて、かなり疲れた様子。

「試合は?」

 確か両チームとも試合終了には遠い点数だったはずだけれど。

「はい、タイムアウトです」

 僕は視線を詩織より少し奥の方に移した。両チームの選手がベンチに集合して作戦を立てながらお茶を飲んでいる。そして再び手前を見てみるが、当たり前みたいな顔をして詩織はそこにいるのだった。

「詩織は行かないのか?」

 呆れ半分に尋ねてみると、詩織は「えへへ」と舌を覗かせた。全く……。

「ご機嫌だな」

「亮介さんを見かけたので、つい。皆には、謝りましたから」

 いよいよ、僕たちはそういう目で見られる他ないだろう。僕みたいな嫌われ者と友達のいない転校生。実情も知らない連中の反応なんて冷ややかだろうな、そう思った。でも、いざ気にしてみると、詩織のチームのベンチや詩織のクラスの観客席から僕や詩織に向く視線は、案外否定的ではなかった。きっと詩織が、溶け込みはじめている証拠なんだろう。男子のそれは、流石に多少痛かったが。

「友達は、出来たのか?」

「はい!」

 詩織は嬉しそうに言った。僕は無言で詩織の髪のてっぺんをくしゃくしゃにした。詩織はほっぺたを真っ赤にして驚いた。

「何やってるんですか?」

「ふふ。悪い」

 どうせ詩織との関係も、時間の流れよりも素早く途切れていくのなら。何となく、仲の良い間にこうしたコミュニケーションも取って置きたかった。記念品的なもの、旅行先のお土産を買うみたいなものだ。

「ほら、始まるぞ」

 主審のバレーボール部員が、ホイッスルを鳴らした。尖った高音が、体育館全体に響く。詩織は慌ててコートの方に戻って。その途中で振り返った。

「あと一点入れれば、自分の力で五点とったことになるんです」

 真っ直ぐな目だった。僕はその目線に、同じだけの強さで返す。

「嘘じゃないですよ。なんなら誰かに聞けば……」

「はは。疑ってなんかいないよ」

「約束、忘れてないですよね」

「もちろん。あと一点詩織の力で入れれば、僕は詩織の望むことをできる限りで叶えてやるよ」

「よかった」

 にへっ、と詩織は表情を崩した。かわいい笑顔だった。グッときた。ときめいた。

「じゃあ、見ていてください」

 そう残してコートの中に入った。僕は棒立ちになりながら入り口近くで試合の行方をもう少しだけ見ていくことにした。

 彼女は前衛、レフトのポジションでサーブを待つ。敵チームの華奢な女の子が打ったサーブは、山なりで詩織の方に飛んで来た。詩織はそれを、丁寧にレシーブする。この前あんなに下手くそだったアンダーハンドレシーブ、今日は練習の跡を感じさせるほどに上手だった。コートの真ん中に浮かんだボールを、背の高い女の子が情けない声と一緒にボールを真上にあげる。詩織はそのトスに迷わず突っ込んだ。

「行け!」

 力が入って、思わず声を上げた。次の瞬間、詩織のアタックが、相手方コートの誰もいないところにポトリと落ちた。強くなくて、上手じゃなくて、それでもそのアタックは、確かに詩織の力で取った一点だった。

「やった」

 詩織を中心に輪ができる。詩織は嬉しそうに飛び跳ねて、一瞬こちらを見た後に、すぐにまたチームメイトと感情を共有させていた。そんな詩織の姿を見て自分の感情を迷わせながらも、僕は体育館を去った。なんだか、あの運動会の日と重なった。もし、琴乃のバトンパスが邪魔されていなければ、こんな風だったのかもしれない。まあ、今になってそんなこと言っても仕方がないけれど。

 今度は僕が頑張る番だ。詩織のお願いのことを考えながらソフトボールコートへ向かう。


 試合はワンサイドゲームだった。一打席目、九人のバッターのうち僕を含めた八人が凡退した。相手の先発はさすが野球部と言うべきなのか、コーナーに速球と緩いカーブを投げ分け、生半可な能力では到底太刀打ちできそうに無かった。打線も優勝候補を謳われているだけあって、登板した三人のうちの投手はみんな失点した。チームも球技大会のファーストブロック敗退が濃厚となり、すっかり空気は重たくなっていた。

 でも、僕にはやらねばならないことがあった。

 最終回である四回の表、僕は先頭打者だった。サイズの合わないヘルメットを乗せて打席に向かう。バッティングセンターではあんなに狭く見えたバッターボックスの広さに、圧倒される。ストライクゾーンの先では、ピッチャーが余裕そうな笑みを浮かべながら、大きなボールをグローブの中にしまっていた。気がつけばバットを握る手が震えていた。

「タイム」

 その声も上ずった。緊張していた。これは、どう都合よく考えても僕の最終打席だ。状況は最悪。しかしここでホームランを打たなければ、琴乃の気持ちに触れることはできない。力んではダメだというのは先日のバッティングセンターでの練習で嫌というほどわかっていながら、身体の節々に余分な力が入る。結局打席に入り直した時、僕はタイムをとる前よりずっと張り詰めていた。心臓の音がやかましくて、クラスメイトのギャラリーの声がバラバラと散っていく。全部が背中から通り抜けていく。にしても、皆優しいものだ。こんな敗戦濃厚の試合で、打席に立つのが嫌われ者の僕であっても、一応は応援してくれるんだから。これでも琴乃が死ぬまでは、皆とも仲良くやっていたんだけれど。全部自暴自棄になった僕が、学校生活を円滑に進めるためにやってきた細やかなそれまでの努力を一瞬で無に返すなんて簡単なことだった。でも、仕方がないだろう。琴乃が死んで一ヶ月、本当に僕は誰とも話したくは無かったんだ。それまでの僕を知っている奴とは誰一人。結果、今の僕の話し相手なんて、図書室みたいな学校生活の僻地で親しくなった渚先輩くらいしかいなくなってしまった訳だけれど。

「亮介さん!」

 声がして、思い出す。もう一人いた、物好きのことを。

「絶対打てます!」

 その声だけは、嫌というほど胸にずしんと響く。

「ボールよく見て、いちにのさん、でタイミングをとるんです」

 馬鹿。あまり舐めるなよ。

 ピッチャーがこちらを睨みつける。審判の「プレイ!」の低い音が、コート中に響き渡る。僕はバットを構えて、ピッチャーは隙のないスマートなフォームで投球姿勢に入る。リリースポイントを、見逃しはしない。静かにバッドを出して、一、二。

 三!

 乾いた音が、夏を告げる。大きな白いボールが、気持ちよさそうに空を半分に切り分けていく。フェンスのずっと向こうを歩いていた体育教師が、驚きの反射神経でそのボールを避けた。


 昼休み、中庭のベンチはどれもカップルに占領されていたので、いつも通り僕らは理科室近くの空き教室で昼食をとっていた。よく晴れた夏の初め、外の眩しさに輝きを奪われたかのように教室は全部影だった。鋭い風に時折端にくくりつけられたカーテンが踊っていた。二人はそんないつもより広く感じる空き教室で、相も変わらず真ん中の二つの机だけをくっつけて、少しだけ贅沢な昼食の時間を始めた。詩織が薬を飲んだ後、購買で特別販売されていたラムネを飲みながら、詩織のお弁当を少し分けてもらう。時折頬を伝う汗を体操服の袖で拭う。出会って間もないというのに、明確に気を許しあった二人の、居心地の良い時間だった。

「見事なホームランでした」

 詩織は懐かしむようにそうポツリと呟いた。落ち着かない感情と僕は嬉しい気持ちを押さえ込んで、退屈な感じで言った。

「試合は惨敗だ。ただの焼け石に水だよ」

「いえ。そんなことありません」

 僕はただそう言って欲しかったんだ。つまらない自虐、自分でも嫌気がさすが。まあ今日くらいは欲しがったって構わないだろう。

 詩織の弁当箱の中の卵焼きに箸を伸ばし、一息にサイダーを飲み干す。口の中で炭酸が弾ける。飲み干すと同時に爽やかな感触が喉を打つ。

「亮介さんからは執念を感じました。なんとしてもホームランを打つんだという、そんな執念」

 ああ、そうだ。どうしても僕は打たなければならなかった。他でもない、自分のために。僕には知りたいことがある。

「教えて欲しい。琴乃が僕のことを、どう思っていたのかを」

 詩織は静かな表情で僕を見た。まるで、朝バケツの中で凛としている水のような。あるいは寝静まった夜に歌う風のような。僕は心臓を射抜かれた心地がした。

「琴乃さんの気持ち、女の子の秘密です。本来なら男の子に教えるなんて、ありえません」

「ああ」

「だから、内緒にしておいてくださいね。琴乃さんには」

 詩織は切ない表情で、人差し指の指先を唇にくっつけた。僕は姿勢を正し、詩織の目を見て短く言った。

「僕たちの、秘密だ」

 詩織はしめやかに微笑み、机の上に両手で一枚の洋封筒を乗せた。薄桃色の表面には、「清川詩織様へ」の几帳面な文字。僕がこれまで教えてもらったどの手紙よりも、大人びた琴乃が出した手紙なのだろう。僕は椅子に掛け直し、姿勢を正した。詩織は綺麗な指でその手紙を再び拾い上げると、僕を見て小さく微笑んだ。

「それでは、お喋りをしましょう」

 今から僕は、琴乃の気持ちに触れる。二度と触れられないと思っていた「本当」に。


『拝啓

 冷たい風が街に届き、着る服が一枚、また一枚と増えていくこの頃。いかがお過ごしでしょうか。私は駅前の裸の木に括り付けられた電飾に目がチカチカしてしまいます。幸せな顔をした恋人達の頬を照らすイルミネーション、いつかは私のことも祝福して欲しいな、なんて思いながら今日のところは背中を向けて。そんな帰り道にふと思いました。詩織ちゃんには、まだ話していないことがあることを。クリスマスの話、私の人生で一番寒くて、それなのにどうしようもないほど温かかったあの日の話。

 四年前、小学校六年生のクリスマス。私はサンタさんに出会うの。その人は髭も生えていなければ、トナカイも引き連れていない。ボロボロの靴下にみっともない部屋着姿。おおらかな性格ってわけでもなければ、慈愛の心に満ちているわけでもない。それでもどうしようもなく優しいサンタさんは、私が一番欲しかったものをくれたんだ。

 以前から、何度か話したけれど、私と両親、あまり仲が良く無かったんだ。ずっと、両親ばかりが想い合う家庭の中で、肩身が狭い思いをしてきた。自分の父や母が私を他の子たちのように愛してくれないことに違和感を抱いていた。そんな私はずっとクリスマスが嫌いだった。毎年のクリスマスイブの日、仲良しな両親の元で私はいつだって邪魔者だったから。私はいつしかクリスマスイブを一人静かに過ごすようになった。そうして声を殺して泣く。遠くの部屋で、親が愛を育むのを心底不快な気持ちで聞きながら。

 でも、小学校六年生のクリスマスの時に私、食卓で両親に少し不満をこぼしたんだ。よくは覚えていない。私のことも愛して欲しい、みたいなことだったと思う。小学校六年生、女の子が大人になり始める時期。言い方が皮肉っぽくなりすぎたのかもしれない。父は、逆上に近い形で激昂した。私の頬に、大人の力で一発ぶつけて、その勢いのまま私を外に追いやった。冬の夜に一人に放置されペタリ、座り込んだ。冷たい風が叩かれて腫れているところを撫でて、すごく痛かった。泣いてしまった。涙ながらに見た我が家の窓から漏れてくる光は、うちのものとは思えないくらい甘く柔らかいものだった。クリスマスケーキのスポンジのように。

 師走末の空気は冷たくてトゲトゲしていた。あっという間に指も関節もうまく機能しなくなり、私は塀の裏側に隠れて震えと泣き声を無理やり抑えていた。だって騒ぐとまた、ぶたれてしまいそうで、怖かったから。早くこの最悪の夜が終わって欲しかった。今年のクリスマスイブも、私は相変わらずの邪魔者だ。

「クリスマスなんて、嫌い」

 気がつけば、ぼそり呟いていた。

「自分が嫌い」

 ため息を吐く。白い煙になって、夜に溶けて、消えてしまった。

 そうして私は目を瞑って三秒を数える。いつものおまじない。一、二、三。

「どこかへ行ってしまいたいなあ」

「どこがいい?」

「じゃあ、とにかく遠いところ」

 何気なく出たその言葉に、やっとこさ驚きが追いつく。思わず大きな声を上げ、すぐに慌てて口を塞いだ。亮介が、私の隣にいた。

「亮介……。どうして?」

 その疑問文の、クエスチョンマークも待たずに、亮介は私の手を引いた。

「遠い場所へ行こう」

 私は彼に導かれるまま夜の街路を走り出す。田舎を抜け、駅前の賑やかな通りに行き着く。まだ走るペースは緩まない。眩い街灯が流れていく。イルミネーションが尾を引いていく。

 私は走りながらに、一つだけどうしても尋ねたかった。

「ねえ、亮介」

 そして亮介は、それを見越したように言った。

「泣いていたから」

「え?」

「隣の家から、泣き声が聞こえてきたから」

 私は、もう一度泣き出した。今度は走りながら、声だって遠慮はせずに。わんわん言って涙を落とした。亮介は一度立ち止まって、私をゆっくりと抱きしめてくれた。

「琴乃、大丈夫」

「うん……」

 声がひしゃげる。亮介の胸で、音が潰れる。

「僕が琴乃を守るから」

 後にも先にも、私はこれ以上の誕生日プレゼントを知らない。

 随分、長くなってしまったね。この後、亮介と寄り添いながら二人、長い時間を過ごしたのだけれど。それは、二人だけの秘密だから。

 もし、この先誰と一緒にクリスマスを過ごすことがあっても、あの日のクリスマスを忘れることはないだろうなって、そう思う。本当にあの時の亮介の優しさがなかったら、私はどれだけ寂しい夜を過ごしたのだろうって。でも、感謝を伝えるタイミングを逃してしまって、少し口惜しいかな。

 いつか、伝えたいなって思うの。私が亮介との思い出を、大切にしていること。感謝していること。恋人や相思相愛の関係とも違う、なんでも打ち明けられる友人に戻りたいと願っていること。

 ごめんね。自分の話ばかりになってしまって。

 それでは、良いお年を。

 敬具 

 12月20日 

 柴原琴乃 

 清川詩織様』


 実に琴乃らしい文章だと思った。妙なところで形式張ってみたり、季節の挨拶を書いたかと思えばそのまま昔話に移ってみたり。僕との時間を大切にしてくれていて、僕と友達に戻りたがっていた琴乃。僕はその長い手紙が詩織によって最後まで読まれたその時、想像よりもずっと穏やかな気持ちだった。

「友人か」

 短く呟いて、天井を見上げる。長い恋が、散った瞬間だった。僕がくだらない恋慕に火をつけていなければ、もっと素敵な友人関係が僕と琴乃の間にはあったのかもしれない。そう考えると少し心は重たかったが。それでも。

「聞けてよかったよ。その手紙のこと」

 僕は不安そうな顔をする可愛い郵便屋に、そう声を掛けた。もちろん気を遣ったわけじゃない。僕はそんなに器用じゃない。詩織もそれを分かったんだろう、少し顔色に赤みを戻した。

「私はこの手紙のことをあなたに伝えるために近づきました。琴乃さんが亮介さんに感謝していたことを、伝えるために」

 落とさないように慎重に、詩織は言葉を紡ぐ。

「本当は初めてきちんと言葉を交わしたあの日に伝えるつもりだったんです。この手紙の内容」

 青葉の色の便箋を、細い指が示す。僕は小さく笑った。

「でも、僕が琴乃に好意を抱いていることを知って、急遽方針変更をしたんだな」

 詩織は困り顔でこくりと頷いた。

「『友達になって欲しい』と頼んだのは、あなたにこの話をした後、琴乃さんの思い出話を一緒にしたいと純粋に思っていたからなんです。でも、私はあなたの『琴乃さん』という言葉の反応を見ていくうちに、次第に勘付きました。琴乃さんがあなたへ抱いていたであろう好意と、あなたが琴乃さんに抱いていた好意の種類が違うことに。でも、そう気がついたときには、もう私と琴乃さんの関係も明かしてしまった後で……」

 今日まで引き伸ばしてきたというわけだ。僕に残酷な真実を告げるその時を。なるほど、詩織も随分演技派だな。だから、昨日改めて僕の琴乃に対する好意に触れた時、つい堪えきれずに泣き出してしまったわけか。

「本当にごめんなさい。琴乃さんの感謝だけを伝える方法を模索し続けたのですが、力不足でした」

 いつの間にか、詩織は半泣きになっていた。罪悪感か、責任感か。どちらも彼女が抱く必要のないものだ。僕は彼女の涙袋に人差し指を掛け、そして机越しに彼女の髪の毛をゆっくりと撫でた。彼女は無抵抗でそれを受け入れた。甘える猫のようなその反応も、琴乃そっくりだ。

「琴乃の気持ちを知ることができて本当によかった。心底感謝している」

 僕は詩織の表情が和らいだのを確かめて立ち上がった。窓を目一杯開けてレールに肘を乗せ、雄大な田舎町を眺める。学校の前に爽やかに広がる稲の絨毯、夏の昼間の喧しい空気、少し先に見えるわずかに栄えた駅前通り。僕と琴乃が育った街。

 僕はつい癖で、ポケットからシガレットケースを取り出した。思えばここ数日、あまり吸わなくなったが。一本取り出し、二本指で挟む。火を付ける。それは何気ない仕草で、そのはずだった。そうだというのに、指先から煙草がこぼれ、教室の床に音もなく落ちた。すぐに拾い上げようとして、指が震えて上手く掴めなくて、気がつくと落ちた煙草のそばで水滴が弾けた。それは僕の目から溢れたものだった。

 僕は、泣いていた。

 琴乃が死んでから、初めて泣いた。

 琴乃が死んでしまったことが、今になって悲しく思えた。悲しくて仕方がなかった。

 嗚咽に飲まれそうになって、感情を堰き止められなくて、僕はポケットの煙草のケースを握りしめる。中に入った煙草が情けなく折れる感触だけが、手の中に残った。

 今、失恋してみて理解する。僕が琴乃にどれほど恋をしていたか。どうしようもないくらい琴乃のことが好きだったのに。どうしてもっと頑張れなかったのだろう。恋人に選んでもらえるような努力をできなかったのだろう。

「もうこの世に、琴乃はいないんだな」

 呟いた言葉は、夏の湿った風に流れた。

 やっと、琴乃を失ったその実感が、後悔が、身体の深いところに流れ込んできた。あるいは滲み出てきた。どれだけ苦い味を噛み締めても遅かった。

「本当に、大好きだったんだ」

 そして、きっと今もなお。僕は琴乃に恋をしている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る