第6話 日曜日のバッティングセンター
湿った空気が機械の油と融合して、バッティングセンターには不快な臭いが沈殿していた。金属音が軟球を叩く鋭い音が全体的に緑色の室内に響き、防球ネットの向こうには酸っぱい色の青空が広がっている。僕は両替機で千円札二枚を全部百円玉に崩した後、入り口から一番遠いマシンの前のベンチに鞄を置いた。このバッティングセンターに最後に来たのなんて思い出せないくらい昔のことだったが、一番奥のマシンでは黄色のソフトボールが放られてくることだけは覚えていた。
早速バッターボックスに入って錆臭い金属バットを右手に握り三百円を投入すると、液晶に映し出された右投げのピッチャーのシルエットが下投げのフォームでソフトボールを放つ。ボールは膝下に真っ直ぐ飛んできた。短く持ったバットを逆らわずに出す。真芯で捉えた感触のまま、ボールは正面のネットに吸い込まれた。通常のグラウンドの広さなら分からないが、球技大会ならまず間違いなくホームランだ。僕は手応えを感じたまま次のボールも鋭い打球で返した。思っていたよりも余裕がある。高さを変えたりコースを狙ったりと楽しみながら、九百円分、六十球のほとんどをヒットコースに飛ばしたところで一度打席を外した。後ろ目に順番待ちの影が見えたからだ。バットを所定の位置に戻し、入金口の上に積んであった百円玉の塔を財布の中に回収した僕は、厚いガラスの扉を開けて外に出て、次に譲ろうとした。のだが。
「ストーカーとは結構な趣味だな」
僕は見せつけるように顔全体でため息を吐いた。そんなのお構いなしの目の前の彼女は、ニコニコしたその顔を崩さず僕にペットボトルの水を差し出す。
「お疲れ様です」
詩織はそう言った。
「なんだって僕がここにいると?」
「いえ。勘違いしないでほしいのはですね。流石に私も、休日に亮介さんを探してあちこちを巡るなんてしませんよ。ただ、越してきたばかりのこの街のことを少しでも多く知りたくて、お散歩していたらバッティングセンターを見つけたんです。もしかしたらいるかもな、と思って覗いてみたら。予想通りというか期待通りというか、真剣そうな顔でボールを弾き返す亮介さんがいらっしゃったので。お声がけするのも、と思ってしばらく待っていました」
詩織はそこまで話して、肩にかけたポーチから取り出したピンク色の水筒を傾けた。柔らかそうな唇が、水分を弾いて淡く光る。僕は詩織の説明を聞いて一応は納得し、鉄製の青いベンチに腰掛けた。塗装の剥げた鉄製のベンチの座り心地はお世辞にも良いとは言えなかったが、一通りバッティングを楽しんでほどほどに疲れた身体を休ませるには十分だった。そこでありがたく詩織のくれたペットボトルの水を飲み、鞄の中に入れておいたタオルで汗を拭いながらネットの向こうに見える空をぼんやりと眺めた。詩織はすぐに僕の隣に腰をかけるものと思ったが、彼女はベンチと打席の入り口の間で重心を失った独楽のようにフラフラし続けていた。僕が首を傾げると、詩織は僕の方を見て尋ねてきた。
「私でも、打てると思いますか?」
なるほど。僕が打ってるのを見て興味を抱いたらしい。実際、この日曜日の朝の時間に他の打席に入っているのも野球経験者が多いようで、皆120キロを超える速球を容易く鋭い打球で返していた。これでは、簡単そうに見えるのも無理はない。僕は意地悪に顎をしゃくった。
「やってみ」
彼女は強く一度頷いた後、緊張した面持ちでバッターボックスに入っていった。僕がコインを入れる場所やバッターボックスのどのあたりに立つかを座ったまま教えてやると、その度に彼女は大きな声で返事をした。他の客には間違いなく頭の悪いカップルに見られているのだろうなと思うとうんざりしたが、人生初のバッティングセンターらしい詩織はガチガチの格好で周囲の目など気にかける余裕はまるでなさそうだ。どうだっていいかと苦笑しつつ、ボールを待つ彼女の不格好なバッティングフォームを見つめる。思えば、私服姿の彼女を見るのは初めてだった。丈の短い水色ワンピースとサンダルはまさに夏色といった感じで、彼女の女の子らしさを引き立てていた。怖いからと被ったヘルメットから溢れ出た髪の毛やスカートに収まりきらなかった膝より下の脚は目を見張るほどに綺麗で、猫背になりながら重たそうにバッドを持ち上げるその格好は、何とか二足で立っている不器用な小動物のようにも見えた。
そんな詩織は「よーし」と不安な声で意気込んでいたのだが。
湿った夏の空気に、重たい音が無情に響く。マシンから放たれたソフトボールがストライクゾーンの先の防球ミットに吸い込まれた音だ。バッターボックスに立って間近でそのスピードと力強さに圧倒された詩織は、唖然とした様子で僕の方を振り返っては無言でこちらを見つめていた。僕はつい吹き出した。からかってやろうと思った。
「振らなきゃ当たんないぞ」
「わかってますよう」
彼女はそう困った顔で言いながらマシンの方を向き直った。次のボールが出てくる。詩織はなんとかバットを振って見せたが、ボールとバットが大きく離れている上にかなり振り遅れていて、ボールは嘲笑うかのように彼女の足元に転がっていった。この分だとボールが前に飛ぶようになるのに三百円では足りそうにない。
僕は財布から硬貨を数枚取り出すと、今詩織が打っているマシンの一つ隣のマシンのバッターボックスに入った。二、三回素振りしてからいざ挑む。80キロ、軟式の野球ボールの中では最も遅いマシンとは言え、いきなりボールのサイズが小さくなるものだからどうなることかと思ったが。ひとまずは問題なさそうだった。隣の打席で空振っている詩織を横目にヒット性の打球を連発し続けた。
「どうしてそんなに打てるんですか?」
詩織は納得のいかなそうに僕に尋ねる。僕は口元を弛めて嫌味っぽくこんな風に言った。
「センスかな」
「またそれですか!」
詩織は不服な様子でバットを振った。黄色いボールがバッドの下をすり抜けて、詩織は重たいバットに振り回されるかのように身体のバランスを崩した後、ぺたりと尻餅をついた。
「当たらないです」
挙句泣き言を喚き出す始末だ。いよいよ僕はおかしくなって、バットのグリップに体重を預けながらお腹を抱えて笑った。80キロのボールが隣を通り過ぎて、低い音が響く。
「もう、そんなに笑わないでくださいよ」
「あはは」
「亮介さん、ひどいですよ」
かくいう詩織もなんだか楽しそうに空振りを繰り返している。彼女が楽しければ、別にバットにボールが当たろうが当たるまいがどうでも良いのだが。折角なら、ヒットがどんな感触なのかを味わってみるのも良いだろう。僕は自分の打席のマシンが吐き出し続けるボールを完全に無視して隣の打席に立つ詩織に話しかけた。
「なあ、詩織」
「はい?」
「ボールよく見て、いちにのさん、でタイミングとってみな」
「え、あ、はい」
詩織はしっくりきていない感じながら、僕のアドバイスをきちんと声を出して実践した。
「一、二、三」
そのボールも快音に変わることはなかったが、横から見ている感じタイミングはかなり合ったように思えた。詩織のマシンに残っているのはあと三球。さて、微妙な球数だった。
「その調子で、もっとバットを低く出す」
「はい! 低く」
今度はタイミングがずれた。
「一、二、三で低く」
「え、ちょっとわかりません」
高さもタイミングもめちゃくちゃだ。堪えきれず失笑する僕に、詩織は困った視線を送る。
「あと一球です。どうしたら……」
「思い切り振り抜く」
「え。はい!」
横から見ていて、一瞬時が止まった感じがした。大きなボールの軌道を細いバットが捉え柔らかな金属音がしたその瞬間で、時の流れがダムに堰き止められたかのように。そして、次には決壊して一気に溢れ出している。黄色のボールは冴えない弧を描きながらマシンの前に転がっていった。ピッチャーフライとピッチャーゴロの間くらいの打球。しかし、打った詩織は借り物のバッドを振り回しながら大騒ぎした。
「見ましたか。亮介さん! 当たりましたよ。ヒットです!」
詩織がヒットだというのなら、あの打球もきっとクリーンヒットだろう。僕は嬉しそうにはしゃいでいる詩織を横目に眺めながら、自分の打席に戻った。80キロのファストボールが、湿度の高いこの場所に乾いた風を運んでくれた。
それから、二人でしばらくバッティングセンターで遊んでいた。詩織は低速のマシンで段々とバッティングの感覚を身につけていき、最後には強い打球も飛ぶようになっていた。僕は次第に遅いストレートでは満足いかなくなり、マシンのスピードを上げていった。流石に140キロの豪速球には歯が立たなかったが、130キロくらいまでならなんとか大きな当たりを飛ばすことが出来た。何かを心から楽しいと思ったのは久しぶりだった。あの後僕はもう一枚千円札を百円玉に替えた。詩織もバッティングセンターの価格設定にブーブー言いながらも、僕の目を盗んで両替機の前に行っていた。二人して随分と沢山のボールを打ったものだ。二人並んでバッティングセンターの自動ドアを内側からくぐったときには、もう持ってきた鞄すら上手く掴めないくらいに手が疲れていた。
外はとんでもないくらいに暑かった。僕が家を出た時にはまだ肩慣らしをしていたお日様の奴も、すっかり尻上がりに調子を上げてきていた。昼のこの時間の日差しは特別にひどく、頭部にデッドボールでも食らわされているのかと思うくらいだ。尋常じゃない酷暑に運動後の身体をぶつけては、とてもまともじゃいられない。結局僕らは逃げ込むように、バッティングセンターの向かいのファミレスに入った。この辺は、バッティングセンターとパチンコ店の他に建物といえばこのファミレスくらいであとは全部田んぼが広がっている、そんな場所だ。日曜日の真昼間にも呆れるくらいに広い駐車場を持て余していた。店内も騒がしい割にそれなりに空いていて、待ち時間なしにウェイトレスに一番奥の禁煙席に案内された。
「涼しいな」
僕は額に浮いた汗を払う。店内は冷え切っていて、さっきまで燃えるように暑かったのが嘘みたいだった。生き返った心地だ。壁に面したソファに腰をかけた詩織は真っ赤になった手のひらを結んだり開いたりしていた。そんなふうに上がった呼吸を整えていると、しばらくしてウエイトレスが僕と詩織の前に水の入ったグラスを置く。詩織はグラスの水を見て、自分のポーチの中身を気にする仕草を見せた。僕はふとピンと来た。
「食前に飲む薬があるんだろう? 変な遠慮しなくていいよ」
「え? 言った事ありましたっけ」
詩織は殊更意表を突かれた様子だった。僕からしたら、いつものあのいい加減な隠し方でこれまでごまかせているつもりになっていることの方が信じられなかったが。
「心臓?」
「どうして、わかるんですか?」
恐る恐る詩織は僕に尋ねる。
「いや、なんとなく。ずっと昔に心臓病拗らせて死んだ僕の母親が、同じ色のパッケージの薬を飲んでいた気がしただけさ。幼稚園の頃だし、錠剤なんてみんな似たデザインだろうし、勘だけどな」
「なるほど。もしかしたら同じ薬かもしれないですね」
そう言って詩織はポーチから三種類の薬を取り出す。そのうち二つには見覚えがあって、後の一つには見覚えがなかった。
「そんなに飲んで、あまり良くないのか?」
詩織は目を見開いて、微笑みながら否定した。
「いいえ。どれも、調子を整える程度の役割の、大したことのない薬ですよ。心配してくださって、どうもありがとうございます」
詩織は肩を揺らしながら一錠ずつ口に投げ入れていった。僕はというと、一丁前に心配などしていた自分を指摘され、照れ臭くなっていた。
「にしても、こんなに身体を動かすのは久しぶりです」
「僕もだ。学校行事に全力で挑むのも、な」
思いっきり伸びをしながらそう返すと、意味深に詩織は前歯を覗かせた。
「それは、どうでしょう」
僕はその少し低まった詩織の声を聞いて、詩織の方を見た。詩織は涼しい顔をしながら、なんでもなさそうに言う。
「案外、琴乃さんにはバレているものですよ。あなたが学校行事に、真剣に取り組んでいる姿」
「なんのことやら」
すっとぼけても無駄だとわかっていながらそんな風に調子を外したのは、少しその先を聞きたかったかもしれない。とぼけながらテーブルの上にメニューを広げるが、詩織はそんな僕の態度を特に気に留めた感じも見せず、続きを話した。
「それこそ小学校五年生の頃の運動会なんかはもちろんですが。そうですね。中学校、そして高校に入ってからも案外体育祭には全力投球だったんじゃないですか? 毎年、出場した競技では何かしらの賞状を貰っていたのでしょう?」
詩織の言葉に、僕は安っぽい画用紙に安っぽい字で印刷された賞状のことを思い出す。100m走だの走り高跳びだのハードル走だの。成績第一位だの学校新記録だの。思えば一銭の価値も無い称号に、僕は異常に固執したものだった。
「体育祭、うちの通っていた中学だと成績トップは昼食の時に校内放送で名前を読み上げられるんだよ。『男子100走、誰々〜』みたいな感じでさ」
察したように、詩織は微笑んだ。
「なるほど、それで」
「ああ。琴乃と疎遠になった後も、僕は琴乃に自分の存在を認識してもらいたくてさ。成績上位者の張り出しのある定期考査と、成績発表のある体育祭や球技大会の個人種目では、とにかく頑張ったもんだよ。しかしきっちりそのことが勘づかれているとは、かえって格好悪いな」
僕は苦笑いを浮かべる。しかし、詩織は強く首を振った。
「そんなことない!」
突然の大きな声に、僕はギョッとした。詩織はハッとして赤面しながら咳払いし、「すみません」と言ったが、それからも細々と話し続けた。
「つまりですね。琴乃さんは何かと活躍する亮介さんの姿に、いつも励まされていたそうですよ。『亮介は私と違ってずっと格好いいんだ』、そう仰っていました」
ハートの形をした心臓は内側から弾けたように激しく震えた。誰もいないところだったら、ついガッツポーズをとってしまっただろう。そのくらい琴乃のその言葉が僕に及ぼしうる意味は大きかったのだ。僕は自分を宥めるように先ほどウェイトレスに運ばれてきたグラスに入った冷たい水を飲んだ。
「凄いですね。亮介さんは。本当に琴乃さんは幸せ者です」
こぼすように言った詩織は、それっきり窓の外を眺めていた。僕も、その視線に従った。夏物のカッターシャツとセーラー服を乗せた一台の自転車がウキウキと田の間を横切っていく。空を一本の飛行機雲が切り分ける。冷房がよく効いていて有線放送と家族連れで賑わう店内と全く対照的な、田舎の穏やかな風景がそこには広がっていた。
「でも、琴乃も凄かったんだぞ」
僕の文脈無視なその言葉に、詩織はピンと来ていない顔をした。それも構わない。今度は僕が詩織にお喋りをする番だった。
「小学校の頃の学芸会の話だ」
きっと琴乃の謙虚な性格だ。詩織に対してもきちんとは話していないだろうと思った。琴乃がとにかく演技が上手だということを。僕の持つ運動能力や学校の成績なんて少し綺麗な石ころに見えるほど、琴乃の演技は煌びやかだった。
僕はできるだけ丁寧に、詩織に琴乃の演技の素晴らしさを教えてあげることにした。僕自身が少しムキになったのかもあるだろう。なにせ詩織が琴乃の手紙と結託して、あまりに僕の事ばかり持ち上げるものだから、少し悔しくなってしまったのだ。琴乃だって素晴らしい人間で、その人間性に負けないくらい優れた能力があったことを詩織に知って欲しかった。
「特に、僕が最後に彼女の演技を見た小学校六年生の時。演目は『ロミオとジュリエット』。ほら、小学校の頃の学芸会の演劇って、場面ごとに登場人物の演者が変わるだろ? 僕は人生で初めて希望して、主役、それも一番いい場面でのロミオに手を上げたんだ。それまではモブの役ばかり選んで楽していたが、何せその場面のジュリエットが琴乃に決まったものでね。僕もロミオの役を他に譲るわけにはいかなかったんだよ。でも、残念ながらそのシーンのロミオに選ばれたのは僕ではなかった。僕は第一場面のロミオになったんだが、琴乃がジュリエットじゃないシーンでのロミオに価値なんて無かった。結局本番まで僕は気が入らないまま練習をこなした。学芸会の練習の時、僕はいつだって別の教室で別の場面で、そして別のロミオを愛するジュリエットに想いを馳せていた」
からん。氷が落ちた音がした。詩織のグラスが空になって随分時間が経ったらしい。僕は話を中断してウェイトレスを呼ぼうと手を上げかけて。
手首を詩織に掴まれた。彼女は真剣な眼差しで言う。
「続けて」
僕はどきりとしながらも、彼女の言う通りにした。
「うん、本番の日が来たんだ。僕はやや投げ気味に自分の場面を終え、あとは舞台下で他の連中と一緒に並びながら、後ろ目に劇の動向を追っていた。ろくすっぽ台本も読まないものだから知らなかったが、なかなかどうして面白い演劇だった。どいつもこいつも決して演技を褒められたもんじゃないが、それを差し引いても余りある脚本で、気がつけば僕は演劇に見入っていた。そんな時にだ、可愛らしい衣装に身を包んだ琴乃が出てきて、言うんだぜ。『ああ、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの』ってさ。なんていうんだろう、あの感覚を。まるで演劇の世界と現実の世界が調和したとでもいうのかな。琴乃のか細く美しく柔らかな声が紡ぐ一言が、チープな演劇のワンシーンを『光景』に変えてしまったんだ。彼女の繊細な身振り手振りが、切ない声が、悲痛さと切実さを持って見るものの胸に訴えてきたんだ。もう、あの演技は小学生のままごとじゃなかった。何せ僕は彼女の演技に打ち震えたんだ。同時に、情けなくもなった。あの舞台上にいるべきは、ロミオであるべきは、自分だったのに、ってさ。ああ、ごめん。話が逸れてしまったな。とにかく、琴乃の演技が凄かったって話だよ」
長い話が終わった時、僕と詩織のグラスはぐっしょりと汗をかいていた。テーブルに水たまりが点在している。僕はふうと一つ息を吐くと、詩織の様子を伺った。驚いたと言う他ない。詩織は俯いたまま、テーブルの上の水たまりを増やしていた。泣いていたのだ。困惑した僕は試しに名前を呼びかけてみた。
「……詩織?」
反応がない。彼女は止めどなく溢れ出る涙を両手のひらの硬いところで擦り続けていた。だから、僕は試しに詩織の頭を撫でてみた。深い意味はなく、ただ琴乃も泣きじゃくっている時に頭を撫でてやると落ち着いたと言う経験則に基づいたものでしかないが。詩織は頭に僕の手のひらが触れるや否や、はっと顔を上げて、僕とバッチリ目を合わせた。騒がしかったはずの店内に訪れた一瞬の静寂がその瞬間と重なる。初めて出会ったあの日の図書室と同じような構図だった。引き延ばされた長い長い一瞬が、拍動一つ分のその短い時間が、僕を何色もの感情で塗りたくった。
「ごめんなさい」
詩織は慌てた様子で詫びた。僕は詩織の涙の意図を問いかけてはならないような気がして、ついに何もいえなかった。重たい沈黙がテーブルを挟んで落ちた。その末に、詩織がはにかんで言った。
「そろそろ、何か注文しましょうか」
それがいいと思った。
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