第5話 僕と勝負をしないか

 その日の四限のロングホームルームでは、来週の月曜日に行われる球技大会の競技決めが行われた。男子は教卓を囲むようにして、女子は背面黒板のあたりで互いの出方を伺うようにして各々話し合いを始めた。僕は一応話し合いには参加しているというスタンスをとるために輪から少し離れたところで級長の言葉を聞いていた。もちろん頭の中は、琴乃のことでいっぱいだったわけだけれど。僕は昨日の帰り道から今に至るまでずっと、琴乃が僕のことを格好良かったと表現したというその喜びを噛みしめ続けていた。

「うちのクラスではソフトボールとバスケットボールでエントリーするってことで。じゃあ、出たい方に名前書いていってくれ」

 級長がそう言って、男子共がわらわら黒板の方に動き出したタイミングで水を差された。せっかく人が琴乃のことを考え幸せな気持ちになっているというのに。僕はまた苛立った。しかしポケットの煙草を撫でたところで、やっと少し冷静になる。これについては本当に僕がめちゃくちゃなだけだ。そう理解して、心の刺をすっこめた。

 さて、そんなふうにいったん自分を教室の中に返した僕が黒板を見てみると、どうやらまだ名前を書いていないのは僕だけらしかった。ソフトボールの人数が足りていなくて、一方のバスケットボールの方のメンツは多すぎるくらいらしい。どうせ後々人数調整が行われるのだろうし、僕みたいに球技大会に一切の興味のない人間は不人気なソフトボールの方へ回るべきだろう。僕は黒板に下手くそな文字で書かれた「ソフトボール」の欄の一番下に小さく自分の名前を記した。ソフトボール側のキャプテンを務めるであろう野球部の奴が微妙な顔をしているのが目に入ったが、それにはきっちりと睨み返して応戦し自分の机に戻った。奴とも琴乃が死ぬ前まではしばしば話をしたものだが、今となっては昔のことだ。

 バスケットボールを選択した連中で、二人ソフトボールの方へ移動するらしい。教卓前では大盛り上がりのジャンケン大会が開かれていた。僕はそんな馬鹿騒ぎを横目に、窓の外を眺めてぼんやりと昔のことを思い出していた。


 いつもの場所で一服してから空き教室に向かうと、やっぱり詩織は先に来て待っていた。彼女は今日も机の上の錠剤をこっそりしまったそのあとで、僕を明るい笑顔で出迎えまた一段と大きな弁当箱を広げた。

「どうせ、今日も大したものを食べないんでしょう? たくさん作ってもらいましたので、よかったらどうぞ」

 僕は購買の売れ残りのコッペパンを見つめてから、礼を言った。詩織は「どういたしまして」と、僕の方に割り箸を差し出す。

「どうして僕にそこまでしてくれるんだ?」

 僕が聞くと、詩織はにっこり笑った。

「それは私が亮介さんのことを好きだからですね」

「は?」

 耳から爆弾が入ってきて目を見開いた僕を見て、詩織は大きく吹き出した。

「あはは。というのは冗談ですよ。ただ、亮介さんはこの学校にいる私の唯一の友達ですので」

「だから、親切にすると」

「はい。亮介さんを失ったら、私は一人ぼっちですから」

 僕は一つ息を吐き、黙って割り箸を割った。正直なところ、先ほどの詩織の言葉には肝を潰したので、少し安心した。詩織が言うくらい明確な損得感情なら、むしろ僕は余計な気苦労を負わずに済むというものだ。

「悪趣味な冗談だな」

 僕はそうとだけ言って小さなハンバーグを貰った。やっぱり冷たくても美味しかった。

 それからは、いつも通りの雑談をした。琴乃に関係する話ももちろんしたが、そうでない話もした。例えばそれは、こんな話だった。

「今日、球技大会の選手決めだったんですよ」

「ああ、僕らもだよ」

「この学校って、そういうのずいぶんギリギリになって決めるんですね」

 まあ、確かにそうかもしれない。球技大会は来週の頭だ。うちの学校は行事をとことん雑にこなすタイプの進学校なので、基本的に行事に満足な準備期間が設けられることはない。今度の球技大会も、土日の間に二時間グラウンドと体育館を開放するというだけだ。普通の学校なら何週間も前に競技を決めて、昼休みや放課後の時間を使って球技大会に向けてチーム一丸となって練習して、という感じなのだろうが。生憎うちの学校は、昼休みにバスケットボールの練習なんてするくらいなら英単語帳を開いて一単語でも多く頭に入れろ、そういう教育方針なのだ。別に僕は嫌いじゃないが、不満を持つ生徒も少なくはない。

「詩織の前の学校は、どれくらい前に決めていたんだ?」

 僕がふと尋ねてみると、「えっ」と詩織は大きな声を上げ、「えっとですね」と詩織は目を泳がせた。なんでもない質問だったので、僕は詩織のそんなギクシャク反応に首を傾げた。詩織は取り繕うように息を吸い直して、それからこう答えた。

「あまり覚えてないですが、もう少し練習する時間があった気もします」

「そっか」

 僕はそれからしばらく間詩織を観察してみたが、特におかしなところがなさそうなので少しホッとした。知らず知らずのうちに地雷を踏み抜いて、結果琴乃のことを教えてもらえないまま疎遠、だなんてなったら洒落にもならない。

「ところで、亮介さんはなんの種目に参加するんですか?」

 妙な空白のそのあとで、詩織がピンク色の水筒の蓋に手をかけながら再び会話を再開した。

「ソフトボールだよ」

「へえ。なんだか意外ですね」

「まあ、人数合わせの補欠みたいなものだからな。バスケットボールにもソフトボールにもなんの興味もないんで、人数が足りていない方に行ったんだ」

「ああ、なるほど。ま、私も似たようなものですけど」

 詩織はへらりと笑顔を浮かべてほっぺたを掻いた。

「詩織は何を選んだんだ?」

「バレーボールですよ。女の子は、男の子にみっともないところを見られたくないので、バレーボールなんてやりたがらないんです」

 なるほど。僕は納得する。他のチーム競技以上に、バレーボールはミスの責任の割合が大きい。サーブミス、レシーブのミス、トスのミス、スパイクのミス。失敗は即座に相手の点数となるバレーボールは、その難易度の割に失敗が異様に目立つ競技なのだ。

「それで、友達がいなくて発言権もない転校生に押し付けてしまえと」

「そうなんです。バレーボールなんて、やったこともないのに」

 詩織は困り眉と膨れっ面を合わせたような表情のまま、卵焼きを口に放り込んだ。

「ご愁傷様だな、それは」

 僕が笑うと、詩織は「適当ですね」と唇を尖らせた。

「じゃあ、こうしましょう」

 どうやら、悪知恵を思いついたらしい。

「嫌だね」

 僕が先回りして拒絶するも、そんなの詩織はお構いなしだ。

「今日の放課後、私と一緒にバレーボールの練習をするんです」

「すごく嫌だ」

「どうしてですか。友達の私がこんなにも困っているのに」

 随分と様になっている被害者演技である。しかし僕としたら放課後に学校に残ってスポーツなんて、たまったものではない。僕は学校という空間がとにかく嫌いなのだ。

「練習なら、クラスの子とやればいいじゃないか」

「はあ。私にそんなことを言うだなんて、亮介さんはひどい人ですね。信じられません」

 なんとでも言えばいいさ。僕は半分袋に入ったコッペパンをかじりながら黙っていた。詩織はそんな僕をチラッと見て、もう一度わざとらしいため息を吐いた。

「付き合ってくれたら琴乃さんからの手紙を一つ紹介してあげようと思ってたのになあ」

 パンを食べる口が止まる。詩織は小狡い顔をしながら僕の方をチラチラ上目で見ていた。

「この卑怯者」

「なんのことでしょう」

 それを交換条件にされたらもうどうしようもない。僕は何も言わずにコッペパンの残りを全部口に突っ込んだ。口の中の水分が全部なくなってしまった。


 放課後のグラウンドにはやや赤みがかった陽光が斜めから差し込んでいて、運動部の連中のがなるような声が遠くまで飛び交っていた。制服姿の僕と律儀に体操服に着替え髪を一つに縛った詩織は体育倉庫から空気の半分抜けた黄色と青の二色のバレーボールを拝借すると、グラウンドの空いたスペースを探してみた。

「あそこなんてどうでしょうか」

 詩織が指さしたのは、野球部グラウンドのすぐそばだった。僕はすぐに頭を振る。

「あんなとこで遊んでたら、ライトフライが直撃するぞ。打ちどころが悪かったらそのままぽっくりだ」

 僕はゲンコツを硬球に見立て、詩織の頭の端にこつりと当てた。詩織の顔が一気に青ざめる。そう、人なんていつ死ぬかわからないんだ。僕も詩織も、それを思い知ったばかりだ。

「窓を割るといけないんであまり派手な練習はできないが、中庭でやるのが安全でいいだろう」

「そうですね、そうしましょう」

 詩織は頷くと、ボールを胸に抱えながらたっと先に走り出した。僕は大股でのんびりと歩きながらその背中を追いかけた。にしても、僕は走る詩織の後ろ姿を見て改めて思った。詩織は相当に綺麗な女の子だな。普段はすっきりとおろされている黒髪が夜の湖面のようにキラキラと揺れる様も、無駄な部分なんて一切なさそうな細い脚や腕も、時々こっちを振り返ってニコッと笑うその女の子らしい仕草と表情も。僕が彼女の美しさを実感する度に、やっぱり、彼女が僕との関係性に固執する意味がわからなくなる。普通の人が詩織の立場だったらどうだろう。きっと、琴乃の手紙の内容なんてさっさと伝えてしまうなりあるいは適当にごまかして隠し通すなりして、僕との関係性なんてさっさと見限るだろう。すぐに格好いい恋人を作って、それでいて素敵な笑顔をあちこちに振り撒いて、周りからチヤホヤされて。

「亮介さん! 早くしてください!!」

 詩織が向こうから満面の笑みで呼んでいる。きっと、彼女も僕と同じなんだろうなと思った。理屈っぽくなるよりも前に、大切な友人であった琴乃のことを優先してしまうんだろう。もっと上手な生き方なんて、いくらでもあるはずなのに。

「今行くよ」

 僕は苦笑いしながら少し歩くペースを早めた。

 中庭に着いてカッターシャツの袖をまくった僕は、詩織とやや広いスペースで向かい合って軽いパスを繰り返した。男子の体育でするよりもずっと短い距離でのパスだったのでオーバーハンドトスもアンダーハンドレシーブも僕にはかなり容易だったが、詩織はどちらもかなりたどたどしく、先が思いやられる感じだった。

「亮介さんは、どうしてそんなに上手なんですか?」

 十分ほど簡単なパスをした後で、すでに息を切らした詩織が尋ねかける。僕は一人でボールを突いたり上げたりしながら、「そうだな」と返答を考えた。

「センスかもしれない」

 少し嫌味っぽくそう言うと、僻むように詩織は表情を歪めた。

「だって、僕だって体育でしかやったことがないんだ」

「それは結構なことで。流石運動神経に大変優れた亮介さんですね」

 嫌味っぽく詩織は言う。

「そんなこと言われたって……」

「ふふっ。冗談ですよ。でも、流石だなと思うのは、本当です。琴乃さんは、しきりに亮介さんの運動能力の高さに言及していましたから」

「そっか」と短く言って、ボールを手で持った。僕は汗を拭う詩織を正面で捉え、詩織もまた僕の方を見て微笑んだ。

「琴乃さんは小学校五年生の頃の運動会のことを印象深く覚えていらっしゃったようです」

「僕も、同じだよ」

「本当に仲がよかったんですね」

 詩織はにっこりと笑って歩き出し、中庭のベンチにそっと腰を下ろした。「休憩にしましょう」。僕は少し離れた自動販売機でお茶とサイダーを買って、詩織の前に差し出す。詩織が遠慮がちにサイダーを選んだので、僕は緑茶のボトルの蓋を開け、彼女の隣に座った。

 今日もお喋りが始まった。


 刹那の出来事だったけれど、僕がそれを見逃すことはなかった。バトントスの瞬間、後ろを走る他のチームの女が琴乃の体操服を引っ張った。琴乃は膝から地面に倒れて、鉄製の赤いバトンが宙に浮いた。万国旗に彩られる運動会の賑やかしい会場から、一瞬音が消えて、次の瞬間様々な感情の混じった声がうねる。バトンの受け渡しに失敗した琴乃と僕のクラスは、第二走者の時点で他クラスの後塵を拝することになった。

 学年別クラス対抗リレーの走者に滑り込みで選ばれた琴乃が、周りの足を引っ張らないように必死で練習していたのを僕は知っていた。競技決めがあった五月の頭から運動会当日の五月末までの約三週間、琴乃は毎日のように僕を引き連れて一緒に走っていたのだ。運動会前日、その日は軽い練習で終えた琴乃は、僕に対してこう言った。

「明日、勝てるといいね」

 最初は周りから白い目で見られるのを避けるようにして始めた練習の中で、琴乃はいつしか他の面々と一緒に勝利を掴み取ることを祈るようになっていた。僕はその琴乃の健気な横顔に、強く心が動いた。

「絶対に大丈夫さ。だってこんなに練習したんだ」

 僕が琴乃の肩に手を置いてそう笑いかけると、琴乃は嬉しそうに「えへへ」と笑った。

 そして運動会の当日。おそらく黄色の鉢巻の女は同じ第二走者である琴乃のことは甘く見てかかっていたんだと思う。僕は琴乃の体操服を引っ張った彼女に特別な悪気があったとは思わない。ただ、底意地と往生際の悪さが行動に現れただけなんだろう。ほとんど差のつかなかった第一走者のバトンを受け取った第二走者がそれぞれ出走し、その女は微差ながらも二番手で走り出した。勉強も運動も得意なクラスの中心人物である彼女、つまりは琴乃の対極にいるような彼女は、なんでもないことのように一番手の女子を抜き去って一位に立った。さながら群衆を導く自由の女神のような自信満々な表情で。しかし独走していると油断し切っていたところで、敵チームの地味な女子がするりと自分の前に出てきた。焦ったんだろうな。三週間の鍛錬は努力を知らない小学生の間ではあまりに長く、生まれ持った差を埋めるには十分な時間だった。自分の能力に絶対的な自信を持っていた彼女は、自らを抜き去っていった琴乃の背中が少しずつ離れていくことを許せなかった。そして衝動的に、バトンを持っていない方の手で琴乃の背中を。ぐい、と掴みやがった。

 転倒した琴乃は、からがらになって第三走者の男子にバトンを手渡したが、差は絶望的だった。一瞬一位に立ったことでぬか喜びしたチームメイトに琴乃の味方はおらず、またあの黄色鉢巻の悪行に気がついて琴乃を庇う者もいなかった。彼らの目に映った琴乃はいいところでバトン渡しをミスったドジでしかなく、膝を強く擦り剥いて半泣きになりながら肩を落とす琴乃を迎え入れたのは、冷ややかな視線だけだった。

 さて、僕はというと、200mトラックの内側の琴乃が走り終えた側とは反対側で自分の出走番を待っていたのだが。なまじっか足ばっかりが速いためにアンカーを押し付けられていたのが幸いだった。まだ自分の出番まで多少の余裕があることを確かめると、トラックの真ん中を横切って琴乃の方に駆け出す。僕の一つ前の走者である女子のウメミヤの「ちょっと!」の言葉にも、耳もくれなかった。ひとりぼっちで三角座りしていた琴乃はその視界に僕を捉えると、胸の中に飛び込んできて泣き出した。

「ごめん、私ダメだった」

 シクシクと泣く琴乃の髪の毛を僕はゆっくり撫でた。そうしている間にもまたバトンは渡っていき、うちのチームと他クラスとの差は絶望の濃度を増していく。先ほど琴乃の背を掴んだ女はクラスメートに讃えられている。その得意げな面が目に入った。だから僕は決意した。

「脚、痛くないか?」

「少しだから、大丈夫」

 確かに傷の具合はそこまで深刻そうではない。出血こそしているが、さほど傷口は深くなさそうだった。

「じゃあ、顔を上げて見ていてくれ。必ず、いいものを見せるから」

 僕は最後に琴乃の顔を低い体勢から見上げて、微笑みかける。琴乃もそれに答えてくれた。所定の位置に戻るときに「頑張って」と周りの目も気にせずに琴乃が叫んだものだから、僕はただ琴乃のために頑張ろうと思えた。

 クラス別対抗リレーは、七人の男女の走者が交互に走ることで行われるのだが、ほとんどの走者はトラックの半周を走るのに対し、アンカーとその一つ前の走者は一周を走ることになっていた。つまり先ほど引き留めようとしたウメミヤと僕が一周ずつを走るということだ。逆転のチャンスはそこにしかなかった。ウメミヤは地元の中学の陸上部の練習にもたまに参加しているという実力者で、僕も足にはそこそこ自信があった。それでも四分の一周差の逆転は難しいように思えたが、僕は燃えていた。だから、バトンの受け渡しエリアに一人取り残されたウメミヤに、僕は言った。

「よろしく頼む」

 ウメミヤは複雑に笑った。

「まかせといてよ」

 そしてやっと第五走者のバトンが届く、ウメミヤはスマートなフォームでそれを受け取ると、筋肉質な身体をしなやかにふるわせながら、最短経路をとって走っていった。素人目にもわかるくらい滑らかなフォーム。見る見るうちにその差は小さくなっていく。ウメミヤが戻ってきた時には、三位のチームとパッカリ開けた差が、逆転も現実的なくらいの差に変わっていた。僕は呼吸を止め、二度瞬きをした。静かに運動靴を見つめる。周りが次々バトンを受け取る中、最後に赤色のバトンを右手に握った僕は身体に積んだエンジンを初っ端から全開にした。応援席からの声援が、後ろに流れていく。一人目の緑の鉢巻の背中を捉えた僕はさらに強く地面を蹴って一気に抜き去った。そして少年野球のピッチャーも同様にかわして、僕の前を走るのはあと一人だった。残り半周、差はかなり微妙だった。しかし相手は琴乃を泣かせた黄色のチーム、負けるわけにはいかない。だって琴乃はあんなに頑張っていたんだ。ただ勝つために必死になって。だから僕が頑張らなくちゃ。歯を食いしばり、苦しさを飲んだその時だった。

「亮介!!」

 他の声援とは違うその声が、確かに僕の心に届いた。僕は口元を弛めた。そうだ、何も難しいことはなかった。琴乃が練習しているのと全く同じ時間、僕だって練習してきたんだ。勝てないはずが、なかった。

 頬を切る風が鋭くなる。纏う空気が軽くなる。僕はさらにもう一つ奥にギアを倒した。限界の、先へ。会場を包む声が大きくなる。でも、そんなの関係がなかった。琴乃と地道に積み重ねた時間だけが、確かに僕を前へと引っ張った。後押ししてくれた。

 ゴールテープを一番に切ったのは、僕だった。

 走り切った僕は、係員の誘導も無視してトラック上に倒れ込んだ。情けないもので、しっかりとした鍛錬を積んでも、200メートルも走ればこのザマだ。僕が空を見上げながら息を切らしていると、赤い鉢巻を結んだクラスメイトたちが次々に僕のもとに来て手荒い祝福をした。しばらくは僕も仲間たちとそうしてはしゃぎあっていたが、やがてそうとばかりしていられないことに気がつく。

 僕はフラフラなまま立ち上がって、遠巻きに僕を気にかけている女の子のもとへ行った。目を真っ赤にした彼女は砂まみれの僕を見て、笑った。

「琴乃、脚」

 今思い出したかのように琴乃は擦り剥いた膝を見て痛そうに目をパチクリさせた。

「保健室に連れていくよ」

 僕は琴乃を引き連れてゆっくりと保健室の方に歩いて行った。クラスメイトの熱い視線なんて、気にもならなかった。

「格好良かったよ」

 途中で琴乃がポツリとそう言ってくれて、だから僕には全部がどうだって良かった。


「あの時、本当に亮介に救われたの」

 まるで自分のことを語るような強い口調で、詩織は僕にそう言った。

「琴乃は、そう言っていたんだな」

 詩織は熱くなった感情をいなすような咳払いを挟んで続ける。

「琴乃さんはこう仰っていました。『亮介が一番でゴールテープを切ったあの瞬間、私は今まで頑張って良かったって、そう思ったの。本当におかしいよね。だって私はただヘマをこいただけなのに。でも、私はそれ以上に一生懸命勝利をもぎ取った亮介のことを格好いいと思った。そしてその後クラスのヒーローを独り占めできた感じがして、小狡い嬉しさに包まれたの』」

「そっか……」

 僕は短く言った。

「今は鞄の中にその手紙は入っていますので、帰り道にお見せしますね。その手紙の中には、私が今言った以上の感謝と感動の言葉が綴じられていますので」

「ありがとう」

「いえ。この彼女の言葉は必ず亮介さんに届けたいと思っていたものの一つでしたから。私もお届けできて満足しています」

 詩織はまるで本物の郵便屋みたいになんだか素っ気ない感じでそう言って、バレーボールで遊び始めた。僕は教室棟と職員棟の二本の校舎の隙間から覗く夕焼け空をぼんやりと眺めて、それから詩織が教えてくれたことを頭の中で飴玉のように転がしていた。琴乃が僕に感謝していたこと、僕のおかげであの運動会が楽しい思い出になったこと。詩織は繰り返し僕にそう語った。僕はゆっくり目蓋を閉じて、その裏側に何度もあの五月の景色を再現して映した。琴乃の言葉の息吹を受けたその物語は、さらに生き生きと僕の記憶の中で煌き出す。

 だから僕は、さらにその先まで知りたくなった。焦りすぎだとはわかりながら、またそれがこれまで築いてきた詩織の信頼を損いかねないものであると気がついていながら、それでも僕は自分を律することが出来なかった。どうしても、琴乃の心理のその奥を、求めてしまった。

「なあ、詩織」

 詩織はボールを頭上でトスしていたのを止めて、僕の方を見た。おそらくその畏まった顔つきに何かを警戒したんだろう、両手でボールを挟みながら訝しげな表情を浮かべた。

「あの、どうかしましたか?」

「僕と勝負をしないか?」

「勝負?」

 ますます詩織は意味がわからなそうだ。

「球技大会で活躍した方が、そうじゃない方のお願いを一つ聞く。どうだ?」

 僕はできるだけ強気にそう提案した。でも詩織は僕の浅はかな狙いなんてあっさりと看破してみせた。

「つまり、琴乃さんが亮介さんをどう思っていたか教えてくれってことですか?」

 相変わらず、手強い。僕はため息を吐いて額を抑えた。

「そうとも言う」

 詩織は軽やかに笑った。

「ふふっ。本当に、大切に思っているんですね。琴乃さんのこと」

「ああ、もちろんだ」

 僕は迷いなく返す。詩織は微妙な反応をした。

「たとえ琴乃さんが亮介さんのことを好きだとしても、この世にもう彼女はいないんです。どこにも。それでも、いいんですか。悲しく思ったり、後悔したりしてしまいませんか?」

 詩織は言葉を選んでいる様子だった。だから僕も、誤解が無いように努めながら話す。

「もしずっと琴乃が僕を大切に思っていてくれたなら。それはもちろん後悔すると思う。琴乃の恋人になって、してみたいことがたくさんあった。琴乃に伝えておきたいことがたくさんあった。それができる可能性を自ら破棄していたことに、悔いを残さずにはいられないと思う。でもさ、僕が抱いていた琴乃への特別な想いのほんの一割でも琴乃が持ってくれていたとしたら、それを知ることが出来たなら、きっと僕はそれ以上に満たされる、そんな気がするんだ」

 詩織は静かに僕の話を聞いて、それからボールの表面を撫でた。何かを決心して、何かを諦めたかのような繊細な指使いだった。彼女は僕の方をじっと見つめた。

「琴乃さんは幸せ者ですね」

「そうかな」

「ええ、そう思います」

 僕が反応に困っていると、詩織はボールで口元を隠してくすりと笑った。

「いいですよ。でも、勝負といっても決着が難しいですよね。純粋な運動神経では、女子の中ですら鈍い私が他の男性陣を軽々凌駕できる亮介さんにかなうはずありませんし」

「それほどはないけれど……」

「亮介さんが球技大会で、ホームランを打ったら。というのはどうでしょうか?」

 ホームランか。まあ、そこまで広くもない運動場をさらに何分割もして作られる狭いソフトボールコートなら、必ずしも難しい条件とは言えない。

「わかった」

 僕は強い意志でもってその条件を飲んだ。バットなど久しく握っていないが。下手投げで放たれる緩い球、芯を喰えばどれだけ非力でもスタンドに運べるはずだ。まして、そこまで力も弱くなく、ある程度運動神経もいい僕ならば、まあ休日の間にバッティングセンターにでも行けば大丈夫だろう。

 僕がそんなことを考えながら、バッティングフォームをイメージして構えを作っていると、詩織が「えっと私はどうしようかな」と言い出したので驚いた。

「詩織も、僕に何か頼みたいことがあるのか?」

 詩織は僕の質問にやや微妙な顔をした。

「というよりは、私もそういうのやりたいなって思って。せっかくの勝負事ですし」

「なるほど」

 確かに、「僕がホームランを打ったら、琴乃が僕をどう思っていたかを教える」というだけだと、詩織に得は何も無い。それなら、自分も何かしらの条件をクリアすることで見返りを得られるようにした方が、関係性としては対等だ。あるいは僕にそう思わせることで、琴乃の秘密を聞き出すことへの後ろ暗さ的なものを軽くしようとする詩織なりの気遣いなのかもしれないが。もちろん僕に断る理由なんてなかった。

「じゃあ、詩織は自分の力で一試合に五点取ったらっていうのはどうだ?」

 おそらく厳密に言えばバレーボールみたいなチームスポーツで自力で点を取る方法なんて、サービスエースを決めるくらいしか無いのだろうけれど。実際の僕の意味合いとしては当然それほど畏まってはおらず、ただスパイクやらサーブやらで五点取ったら、という程度に過ぎない。それは詩織にも問題なく伝わったようで、彼女はしばらく考えた後に「そうしましょう」とにんまり笑った。

「で、詩織は僕に何を頼もうっていうんだ?」

 いざ僕が尋ねてみると、詩織は不意を突かれたような表情でドギマギして見せた後に、困った仕草でこう言った。

「まだ、思いつかないので」

 なるほど、僕が考えていたことはおおよそ正解らしい。彼女にとってみれば、きっと頼み事なんてどうだっていいんだろう。ただ、妙なところに拘りがちな僕の性格をよく知っていて、気を遣ってくれたのだ。僕はおかしくなった。

「わかった。当日までに考えておいてくれ」

 僕が言うと、詩織は控えめに頷いた。

 その頃には西日の赤色をランニングロードが盗んでいた。

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