第4話 その日のお喋り

 朝学校に行くときには啜り泣くような雨が降っていたが、昼の間にはすっかり止んだ。昼の間に一服できた僕は、以降珍しいことにすこぶる機嫌がよかった。実に平和な昼下がりがふわふわした眠気とともに流れていき、帰る頃には心地よい西日が校内にも降り注いでいた。濡れたアスファルトは陽光に当てられ蒸し蒸しとした熱気を放っていて、いよいよ夏を感じる。

「わあ、トマト!」

 隣で歩く詩織は、通学路沿いの民家の前のポットに植わったミニトマトの元に蹲み込んだ。まだまだ青いミニトマトは、星飾りのような花の側で午前中の雨を偲んでいる様子だった。隣のポットでは、ミニトマトのものよりも少し大ぶりの支柱が立てられていて、そこに何かの植物のツタが絡まっていた。

「これは……?」

 詩織が髪を揺らしながらそのポットを覗き込む。

「きゅうりだろう」

 僕は答えた。詩織は振り返ってにこりと笑った。

「流石、小学校の頃、琴乃さんと園芸委員をやっていただけのことはありますね」

「詳しいことで」

「琴乃さんからの手紙で、亮介さんのことはきちんと把握していますから。ふふ。にしても、今の姿からは考えられませんね。野菜と正面から向き合う亮介さん」

 詩織は皮肉っぽく肩を揺すった。まあ、そうだろうな。いや、きっと昔の僕だって、葉についた虫を霧吹きで撃退したり、毎日昼休みを投げ売って水をあげに行ったり、そんなのバカらしくて、自分一人の問題だったらすぐに投げ出して枯らしていただろう。

「相方が琴乃だったからな」

 詩織が興味深いといった視線を向けてくる。機嫌の良い僕は正直に話した。

「園芸委員はさ、夏休みに入る前日に育てた野菜を収穫してサラダにしてクラスメイトに振舞うことになっていたんだ。もし、美味しくなかったり枯れたりしたら、他の連中から白い目で見られること間違いなしだろう。僕からしてみればそんなのは全然平気だったけれど、あれで結構ナイーブな琴乃はきっと悲しんでしまうから。みんなから責められると、すぐに恥ずかしさと申し訳なさで泣き出してしまうような子だからさ。だから僕は、琴乃をそういう悲しさから守ろうと思って、園芸委員の仕事にも全力で向き合ったんだよ」

 話しながら、僕はポットの中で一本だけぶら下がったきゅうりを眺めた。無事に一本目のきゅうりができた時、琴乃は飛び上がって喜んだものだった。そんなことを思い出しながら、ふと詩織の方に目をやると、詩織は目の中いっぱいに涙を溜めていた。驚きに度肝を抜かれる僕に、詩織は慌てて言った。

「いや、その。いい話すぎて。やっぱり、亮介さんは優しい人だな、なんて思っていたら、つい涙が出ちゃって。えっと、その。すみません」

 僕はゆっくり立ち上がって、止めていた自転車のスタンドを上げた。歩き出しながら、ポツリと呟く。

「昔のことだよ」

 僕は琴乃のためにならなんだってできた。本当に好きだったんだ。

 詩織は僕の隣に追いついて、黙って付いてきた。おかしなもので、大きさが全然違うはずの僕と詩織の歩幅は、そのほんの一瞬でぴったりと合った。前まで話していたせいなのか、あるいは夕焼けの悪戯か、僕の心の悪魔が生み出した幻想か、その一瞬詩織が琴乃に見えた。息を飲む僕に、詩織はかつての琴乃を思わせる雲のような笑顔で笑いかけた。長い髪の向こうに、形の整った耳が透けて、僕は確かに胸の高鳴りを覚えた。

「それじゃあ、お喋りをしましょう」

 僕は最初詩織のその言葉にピンとこなかったが、彼女が鞄から封筒を取り出したのを見て、それが彼女なりの合図なんだと理解した。

「どうして、急に」

「私がまた一つ、亮介さんのことを信用したからです。琴乃さんの秘密をあなたに預けようと、そう思えたからです」

「そっか、ありがとう」

 詩織は便箋に乗せられた琴乃の言葉を読み上げる。世界に鮮やかな色を落としていく琴乃の言葉は、詩織の声は、まるで楽譜の上で踊る音符のようだと思った。僕は瑞々しい気持ちで、その手紙の文を聞いていた。

 そこでは、小学校の四年生の頃の夏の始まり、僕と琴乃が園芸委員を務めていた時のことが、琴乃の目からありありと映し出されていた。まめに作業する僕の姿に、結構感心していたこと。率先してクラスのプランターの野菜を育てていて、その背中が格好良かったこと。みんなに野菜を喜んで貰えて、それを見てほっとしている僕が、可愛かったこと。

 それを聞けて、本当に良かったと心から思った。

 僕の幸せな気持ちを一緒になって喜んでくれているかのように、夕日は優しく帰り道を照らしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る