第3話 琴乃の手紙
ここ数日やけに晴れ続きだったが、その日は梅雨らしい重たい空気が街全体に落ちていた。高く積まれた鼠色の雲は今にも泣き出しそうで、歩道のサラリーマンや学生は皆いつ雨が降ってもいいようにその手に傘を携えていた。天気予報など見ない僕はいつも通り傘を持たずに学校に来たのだが、空の雰囲気を見るにさすがに失敗だったらしい。せめて、昼まで降らなければいいのだが、まあ無理だろうな。この分じゃ。
こういう悪い予想はよく当たる。二限が終わった頃にはバケツを逆さにしたような雨が降り出してきて、三限の間には一度ちょっとした雷も鳴った。雷はともかくとして、雨は嫌いだ。こんな天気では雨ざらしの用具庫の裏で煙草を吸うことができず、雨の日は昼の一服を諦めざるを得ない。四限開始のチャイムが鳴った時には、僕の身体から朝学校に来る前に入れたニコチンがすっかり空っぽになったというのに。どうにもトゲトゲして治らない気持ちを紛らわせようと机の上で伏せて眠った。チョークが黒板に数式を刻む軽い音が、夢の鼓動の裏拍を打つように響いていた。夢の内容は言うまでもないかもしれないが琴乃のものだった。こんな天気だから見たのであろうその夢は、記憶の中のキラキラとした彼女の姿を掘り返すような、そんな夢だった。子猫のように震えながら甘えて来る琴乃を見て、この子とずっと一緒に生きていくんだろうなと呑気に思っていた。だから中途半端な時間に目覚めた僕は、残りの授業時間の間ずっと夢の中の間抜けな自分のことを羨やんでいた。雨はまた強くなっていた。
長い午前中が終わり昼休みに入っても、雨のやつは妙に働き者で休むことさえしない。僕は煙草を吸うことのできない苛立ちを引きずりながらシガレットケースをポケットの中で転がし、まだまだ混んでいる購買で昆布のおにぎりを買って、それから待ち合わせ場所である昨日の空き教室に向かった。
滑りの悪い引き戸を開けると、そこにはすでに詩織がいた。最悪な天気、夜のように暗い窓の外とは対照的な甘い光に満ちた教室。彼女はすでに二つの机を向かい合わせの形にしていて、僕が入ってきた入り口から遠い方の椅子に腰を下ろし、机の上に錠剤の束を置いていた。詩織は僕の姿を見るや、さりげなくその錠剤をポケットに隠し、それからどこか安心したような明るい笑顔をぱあっと見せて僕を手招いた。
「遅かったですねっ」
「悪い。購買で昼食を買っていたんだ」
僕が詫びながら左手に持ったおにぎりを机に置いてみせると、詩織はぱちくり瞬きをしてそれを見つめた。
「これだけですか。お昼ご飯?」
詩織はそう尋ね、それから今度は自分の弁当箱に視線を移した。しっかりとした二段弁当、女性にしては少し多めなのかもしれない。やがて彼女は恥ずかしがって俯いて、ほっぺたをぷっくり膨らませた。
「なんだか、私が大食いみたいじゃないですか」
確かに僕はそれなりに身長の高い男子高校生で、彼女はかなり華奢な女子高校生。その体格差を考慮すればこの机の上に並ぶお互いのお昼ご飯の所有者は全くあべこべでもおかしくない。
「そんなに少なくて、お腹空きません?」
詩織は心配そうに言った。
「食えって言われれば食えるけど。親から昼飯用に渡される金は大抵これになっているからな」
そう答えながらポケットの中の煙草をチラッと覗かせる。詩織は呆れたような笑いをこぼす。
「どうせ勉強も運動もろくにしないんだ。これだけでもどうにかやっていけるよ」
僕がそう言うと、詩織は首を横に振りながら弁当の包みを開いた。中には唐揚げや卵焼きやハンバーグが入っている。誰しも飛びつかずにはいられないような魅力的な弁当だった。
「よかったら、一緒に食べましょう」
僕は目を見開く。が、すぐに冷静になった。
「いや、悪いよ」
「じゃあ、遅刻した罰として私のお弁当を少し食べてください。私はこんなに食べられません」
詩織は頬を赤く染めてそう言う。やれやれ。ずいぶんと気を遣われたものである。
「ありがとう」
僕は軽く頭を下げ、爪楊枝の刺さったベーコンを一ついただいた。冷めた弁当とは思えないくらい美味しくて、気がつけば夢中になって次々おかずを口に運んでいた。ハッとして顔を上げると、とても嬉しそうな顔をした詩織がおかずを頬張る僕のことを見つめていた。少し、恥ずかしくなった。
それからは、なんでもない話をした。高校のこと、天気のこと、琴乃のこと。話している最中に、また雷が鳴った。ざらざらと継続的な雨音に亀裂を入れるような光の筋、空き教室の床も心なしか揺れた感じがした。
「きゃあ」
目の前で詩織が耳を押さえて姿勢を低くした。雷の音が止んだ後もしばらく頭を下げたまま、背中を震わせていた。僕にはそれが記憶の中の一ページと重なって、なんだかおかしくなった。
「亮介さんは、平気なんですか……?」
雷鳴を警戒しながら、詩織が僕にそう尋ねる。僕は今にももう一発ぶっ放してきそうな黒雲をぼんやり眺めて、「まあ、平気かな」と言った。
「さっきも似たような光景を見たものだから」
不思議そうな顔をする詩織に僕は話す。
「夢を見たんだよ」
琴乃は雷が苦手だった。僕も少年の当時は一般的な同年代の子達くらいには雷に怯え、その地面を揺らすような太い音には本能的なところから来る嫌悪感を抱いてはいたが。琴乃の苦手さといえばもっと切実なものを孕んでいた。
昔、小学校五年生くらいの時のことだろうか。雨が降ったので外で遊ぶことのできない僕たちは、二人僕の家で映画を見ていた。冴えないサイズのテレビスクリーンは冴えないセンスのコメディパートを流していて、僕らの間にはなんとなく弛緩した空気が流れていた。僕は琴乃が退屈していないだろうかと彼女の方に目を合わせるけれど、彼女もちっとも映画なんて見ていなくて僕の方ばかり様子見していた。多分二人ともそれに気が付きながら、指摘したり冗談にして流したりはしなかったんだ。僕にはそうする勇気がなかったし、そうするには僕は少しずるくなりすぎていた。こんなふうな穏やかな空気が、いつまでも続けばいいと思った。直感的なことだけれど、琴乃も似たようなことを考えていたような、気がする。
でも、幸か不幸か、そんな雰囲気はある一瞬の間に崩れ去る。映画の内容が退屈に退屈になっていくのと反比例するかのように、外の世界の雨脚は強くなっていた。そしてちょうど爺さんと孫が事故的なキスをしたタイミングで、眩い光が暗くしていた部屋を包み、その光が爆発でも起こったかのような強烈な音を引き連れてきた。僕は身震いした。生命の本能により近しい部分が恐怖を訴えていた。咄嗟に耳を押さえた僕は、琴乃の方をちらりと見る。そこには、頭からクッションをかぶって強く震えている琴乃がいた。僕は呆気にとられつつ彼女の名前を呼んだ。「琴乃」。すると、「りょうすけ……」、琴乃があまりに弱々しくそう呼び返すものだから、たまらず彼女のもとへ駆け寄った。もう一発雷は鳴ったが、気にしてられなかった。
「大丈夫か?」
そう尋ねる間も無く僕がそばに寄るなり彼女は僕の腿に身体を預けてきた。
「怖いよ」
涙まじりの声で琴乃はそう言った。だから僕は、自分も雷を怖がっていることなんてすっかり忘れて、彼女に笑いかけた。
「安心して」
そしてここぞとばかりに彼女の髪を撫でる。琴乃がくすぐったそうに笑ったのを見て、僕は彼女が少し落ち着いたんだと思った。テレビのモニターはだらだらと映画を流し続けていたけれど、もう僕は先ほどのような空気は欲してはいなかった。琴乃を守る、その使命感に心を奮い立たせていた。三十分ほどで雷は収まったが、その後も僕たちはしばらくの間そうしていた。
僕がそんな話をし終わった頃には少しだけ雨も弱くなっていて、詩織も少し雷に対する警戒を緩めたようだった。頷きながら僕の話を聞いていた詩織はにこりと笑いながら僕に言った。
「その話、琴乃さんも私に教えてくれましたよ」
僕は驚いて、爪楊枝に刺した唐揚げを一旦弁当箱に戻した。
「琴乃は、なんて?」
「それは、直接本人の言葉を聞いてみるのがよろしいかと」
詩織はスカートのポケットからポーチを取り出して、その中に入った洋封筒を一つ、机の上に置いた。昔のもののようだが、保管状態はかなりいいらしい。住所の字や切手、消印までかすれず残っている。それにオレンジ色のやや幼い字で表面に書かれた「清川詩織ちゃんへ」。僕は確信する。それは確かに琴乃の字だった。丸まった角も、さんずいの三角目の丸みを帯びた跳ね方も、平仮名の柔らかな雰囲気も。僕は懐かしさのあまり目を細めた。詩織は封筒を開いて、僕に向かって微笑みかけながら便箋を取り出す。
「昨日今日と話した感じ、亮介さんはそこまで悪い人ではなさそうなので。特別に一通だけ亮介さんに琴乃さんからのお手紙を紹介しようと思いまして。偶然ですね、私が今朝選んだこの手紙には、まさにお二人が小学五年生だった頃の、豪雨が雷を引き連れてきた日のことが書かれています。じゃあ、読み上げますね」
詩織は畳まれた便箋を開き、僕の方を見る。なるほど、まるで本物の郵便屋のようだ。僕の気持ちは、過ぎ去りし時間を遡上しノスタルジーの方に帰っていく。
時の流れが緩やかになる。雨音が消える、廊下から遠くに響いていた喧騒が消える、弁当の匂いが消える、やがて世界には、僕と詩織と、そして琴乃の手紙だけが残る。他のものは全部なくなる。そうして僕は、琴乃のことだけを想う。
「それじゃあ、お喋りをしましょう」
詩織の優しい声が、琴乃の手紙に綴られた一文字一文字を大切に拾い上げていく。
『詩織ちゃんへ。ひさしぶりです。琴乃です。
最近は雨が多くていやになりますね。朝のニュース番組でお天気コーナーを見るたびに重たいため息をついてしまうし、軒先のてるてるぼうずも心なしか不満げな顔を浮かべています。どうにも、うんざりしてしまいますね。でも、いやなことばかりじゃないんです。亮介がこの前、すごく優しかったから。
一昨日、愛知県にすごい雨が降ったんです。私と亮介は、亮介の家で映画を見ていたんだけれど、その間にも雨は強くなっていって、ある時大きなかみなりが鳴りました。かみなりが苦手な私はもうびっくりしちゃって、思わず叫んでふるえ上がっちゃった。そしたら亮介が私のそばに来てくれて、そして「大丈夫」ってくれた。嬉しかったな。亮介はスケベだったけれど、でも、恐ろしいかみなりも亮介がいてくれたから、乗り越えられた。一人だったら、泣き出していたかも……。いつだって亮介は私のことを助けてくれる。彼に助けられる度に思うんだ。私にとってのヒーローはすてきな変身を繰り返すま法少女でも、かっこいいベルトをこしにはめたなんとかライダーやなんとかレンジャーでもなくて、いつもいっしょにいてくれる亮介なんだって。こんなこと本人に言ったらまたバカにされるから、絶対に言わないけど(笑)。
雨続きですが、梅雨が終わったら夏がきます。夏休み何をしようかな。どこへ行こうかな。今から楽しみで仕方ありません。
6月25日 柴原琴乃』
読み終わった詩織は、一つ息を吸った。一方の僕はというと、長い息を吐いて、琴乃が詩織に送った手紙の内容を噛み締めていた。詩織の声を通じて語られた琴乃の言葉からは、確かに琴乃の息遣いを感じられた。
「なあ、その手紙、僕にも読ませてくれないか?」
詩織は少し顔を硬らせた。
「絶対に汚さないでください。あと当たり前ですけれど、これはいくら亮介さんといえどあげませんよ。わたしの宝物なので」
「もちろん。ただ、中を見てみたいんだ」
強く頼み込むと、わずかな逡巡を見せなながらも僕に手紙を渡してくれた。僕はその手紙を何度も何度も読み返した。薄黄色の便箋に浮かぶ紫色の文字が、横に時折小さく書かれたイラストが、僕について語る言葉が、優しく僕の心を抱きしめた。
僕は手紙をそっと詩織に返した。同時に、それまでどこか半信半疑だった「琴乃の手紙」の存在を、ついに僕は認めた。
「この手紙を、読めてよかった」
もちろん、琴乃が当時僕をヒーローだとかそんな目で見ていてくれた事実も嬉しかったけれど。それ以上に、本当に久しぶりに琴乃の紡ぐ言葉や想いに触れられた気がして、それが何よりも良かった。奇跡に近い幸運だと、そう思えた。
「ありがとう」
僕は詩織に礼を言った。詩織は手紙を封筒の中にしまいながら微笑んだ。
「どういたしまして。また今度、別の手紙を持ってきます」
「楽しみにしているよ」
たとえ、琴乃が別の手紙で僕を悪く言っていても、それはそれで構わないと思えた。琴乃の言葉が自分に対して持つ意味の大きさを認識した僕は、とにかく多くの琴乃に触れていたかった。それだけで、心はずっと満たされる気がした。
と、次の瞬間眩く光って雷が鳴った。雨音はすっかり穏やかになっていたので、油断していたらしき詩織は、声を上げて驚いた。
「ひゃあ!」
僕は彼女のそばに椅子を近づけ、震えている背中をさすった。
「大丈夫か」
詩織は顔を上げないまま「何を企んでいるんですか」と言った。
「私は、琴乃さんじゃないですよ」
「なんてことはないさ。ほんの優しさだよ」
「そんなふうにあからさまに優しくしても、何も出ませんよ」
「琴乃からの手紙を出してくれればいいんだ」
「そういうことを言う人には渡せませんね」
詩織は少し笑った。次の雷鳴にも怯えてはいたが、先ほどみたいに恐怖で震えることはなかった。
終業後、いつも通り帰り支度をしていると、僕の教室の入り口から詩織がひょこりと顔を見せた。詩織は僕の姿を認めるや否や、すぐに僕の名前を大きな声で呼びかけた。クラスに残っていた連中の注目がいっぺんに詩織と僕の間を往復する。まあ、当然だろう。人目を一身に集めるほど美人な転校生少女といけすかない陰鬱野郎の僕では、どう見たって不釣り合いだ。他の目から見たら、僕らの関係性すら些か不気味なものに映るかもしれない。別に他者の目など至ってどうでも良かったが、こうもひそひそ声が自分に向かって飛んでくるのは流石に鬱陶しかった。僕は周りの人間に聞こえるように舌打ちをし、一気に場の空気が冷めたのを確かめて教室の外に出た。そんな僕を詩織は相変わらずの能天気で迎えた。どうやら彼女には僕が舌を打った音は聞こえなかったらしい、ニコニコしたまま僕に話しかける。
「お疲れ様です」
僕は詩織の顔を見下ろし、首を捻った。
「今日、一緒に帰る約束したか?」
「いえ」
平然と詩織は言って、それから笑顔で続けた。
「でも、どうせ亮介さんは傘も合羽も持ってきてはいないだろうなと思いまして」
全くの図星だった。雨に濡れながら家まで自転車を漕ぐ労力を考えうんざりしていたところだ。先ほどまでしていた帰りの支度というのも、スクールバッグに詰めていた教科書類を全て机の中にしまって、濡れても大丈夫なものだけを鞄に入れ直すという作業だった。
「入っていきますか?」
「助かるよ」
僕と詩織はそうして昇降口を抜け、一つの傘に入って肩を並べて歩いた。にしても、僕が傘を家に忘れがちだなんて、よくそんな勘まで利くものだと思う。昔から雨の降る日に傘を持ってこないのなんて日常茶飯事で、小学校の頃は頻繁に琴乃の傘に厄介になったものだった。琴乃はいつも呆れたみたいな顔で「今日だけだよ」、と僕をピンク色の傘の中に入れてくれた。僕は琴乃の小さな傘を無理やり二人で分け合うあの時間が結構好きで、わざと天気予報を見ないようにしていた節もあった。とはいえ、中学生以降はそんなことをする間柄でもなかったので普通に置き傘を拝借していたのだが。
「うちの高校は厳しいんだよ、置き傘泥棒に」
細い雨の降る下校路で詩織の大きな傘に入れてもらいながら、僕はそんなふうに愚痴った。詩織はクスクスと笑い声を上げて、肩を揺らした。
「当たり前ですよ。泥棒は悪いことです」
「泥棒ったって、持ち主もわからない傘の一つや二つ。別にいいとは思わないか?」
「あはは。だめですよ。人のもの盗んだら。誰かが困っちゃいますから」
「でも、僕は自分さえ良ければいい、そんな人間なんだよ」
軽く自虐した。でも、詩織はすぐさま否定する。
「そんなことないですよ」
「どうしてそう言える?」
僕が聞き返すと、詩織は傘を握る僕の左手にそっと右手を重ねた。
「私が背が高い亮介さんまで傘の中に入れようと少し肘を高く上げていたら、何も言わずに傘の持ち手を引き受けてくれました。それに、私の右肩が濡れないように、自分の左肩をそうして濡らしている。もしかしたら亮介さんは当たり前に思うかもしれませんが、でも、きっとそれって特別なことなんですよ」
雨粒が目の前で弾けた。アスファルトの黒色を吸い込んで、重たく煌く。二人の間に広がった静寂の隙間を雨音が埋めていく。
「買い被りさ」
僕が詩織に優しくしている意味なんて、彼女が持っている琴乃の秘密、すなわち生前の琴乃が僕をどう思い、手紙の中でどんなふうに語っていたのかを知りたいからというそれだけなのだ。だから、あまり褒められても後ろ暗くなるだけだった。
「僕に期待しないほうがいい。何も」
僕は唇を尖らせた。でも、詩織は関係ないとでも言うように、もう一歩僕のそばに近づいて微笑みかけた。
「私、琴乃さんが亮介さんのことを好きだった理由が、分かる気がします」
傘の柄がつるりと手から滑り落ちそうになった。慌てて阻止するも、傘に乗っていた水滴があちこちへ飛び散る。少し袖が濡れてしまった。でもそんなことに構っている余裕はなかった。
琴乃が僕のことを好きだった、だと。さらっと言ってくれたが、それは僕にとっては格別な一言だった。僕のこれまでの人生がガラリと変わってしまうくらいに特別な意味合いを持っている。僕は逸る気持ちをグッと堪えて立ち止まり、詩織に尋ねた。
「それは、どういう意味の『好き』なんだ?」
「さあ?」
急に止まった僕の方をやや振り返る形になった詩織は、表情そのままに首を傾げる。
「いつ言っていたんだ?」
「さあ?」
詩織はローファーの先についた水滴を先に飛ばして遊んでいる。
「僕は真剣に聞いているんだ」
「大丈夫ですよ。私だって、ふざけているわけじゃないですから」
詩織は穏やかな顔で僕の隣に戻ってきて、滑らかな仕草で肩に手を置いた。
「必ず、話しますから」
行きましょう、沈黙を破るように詩織は言った。僕は彼女の歩幅に合わせて歩きながら考えた。琴乃が僕のことを好いていてくれたかもしれないというあまりに甘美で魅力的な可能性のこと。それは割れてしまったガラスの煌めきのようで、取り返しがつかなくともただただ僕を幸せにしてくれるだけの美しさを孕んでいた。もし生前の琴乃が僕を好きでいてくれたのなら。僕はきっとその事実だけを胸に抱きしめたまま、穏やかな死を選ぶことができるだろうな。
と、ふと顔を上げると、歩行者用の赤信号に弾けた雨粒が宝石か血液のように見えて、それはそれは綺麗だった。雨降りの世界は、そうだというのにこれまでよりもずっと輝きを増している気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます