第2話 転校生の秘密

 特別集中できない一日だった。いつもなら適当に授業を受けながら、琴乃のことを思い出したり教科書を読んだりしていれば勝手に時間が過ぎていったものだが。その日はどうにもダメだった。何を考えていても続かない。

 理由は簡単だった。琴乃に「頭の良い割に鈍感」と言わしめる僕にもわかるくらいに。僕の脳はいつまでも昨日の図書室の風景をリピート再生していた。

 深く考えないようにしようなどと思っておきながら、気がつけばそのことばかりを考えている。昨日の図書室で眠っていた彼女のあの反応は、思い返せば思い返すほどに不可解だった。僕には彼女が声も上げずに僕の方をじっと見つめてきた意味も、彼女が流した朝露みたいに澄んだ涙の意味も分からなかった。本来の僕なら関心も寄せないような出来事なのかもしれないが。どういうわけか昨日のことばかりは忘れることができない。

 頭が重たくなって、机の上で伏せた。もう眠ってしまおう。どうせこんな簡単な数学の授業で指されたって、寝ぼけ眼でも答えられるさ。でも、僕はそれから三十分ほどの間、机に顔をくっつけていただけで、期待していた眠気も覚悟していた指名もなく、ただ漫然と時を過ごしていた。やって来たものといえば出どころ不明の苛立ちだけで、僕は伏せながら意識半分にポケットの煙草のケースを触っていた。今すぐにでも煙草を吸って心をなだめたかった。

 チャイムが鳴ると号令も待たずに動き出し、窓際の席でありながら我先に教室を出た。早歩きか小走りで校舎の外に出て、いつもの場所に急ぐ。正直、周辺確認はかなり怠っていた。どうせ今日も人なんかいないはずだ、と。

 校舎と用具庫の間の狭い隙間に身を入れた僕は、ポケットの中のソフトケースに指を掛け、そこで最悪のことに気がついた。念のために取り出して中を開けてみるが。案の定空っぽだ。

 すっかり失念していた。昨日、僕はあの後、起きた出来事に思考を奪われて煙草を買いにいくのを忘れてしまっていたのだ。それでは本末転倒じゃないか。何のために図書室に閉校時刻まで残っていたのか。

 僕は真似事のように二本の指の先を唇に当てたが、ただ不在感と不足感だけが募った。そんな感情に任せて手に持った空っぽのソフトケースを握り潰して、適当なところに投げつけた。ケースは僕がいる校舎と倉庫の隙間を少し出たところに音もなく転がっていった。そんなことでは気持ちは全く晴れないことも、あとで拾うのが他でもない自分であることもわかっていたが、鬱憤のやり場はそこしかなかった。

 ところで、その潰れたソフトケースを拾ったのは、どっこい僕自身ではなかった。僕は自分の頭を力任せに掻き毟った後、少し頭が冷えてまずはこの薄汚い用具庫裏から出ようと身体の向きを変えた。そこでくしゃくしゃな赤のマルボロのケースを、白くて繊細でそれでいて柔らかそうな指がつまみ上げているのを目撃する。息が止まる。視線が持ち上がる。二年生の学年カラーである赤色のスリッパ、黒色の靴下とそこから伸びる傷ひとつない綺麗な細い脚、長すぎないが短すぎない丈のスカート、華奢な身体を守るにはあまりに頼りない夏模様のセーラー服とリボン、膨らんだ胸元、そしてどこかで見たはずの華のある顔立ち、長い髪の毛。

 止まった呼吸が、いつまで経っても動き出さない。

 彼女は昨日図書室で眠っていたあの女だった。学校の僻地で初めて顔を合わせた僕らは、一日を待たずしてさらなる僻地で再会を果たした。その再会の瞬間は、出会いの瞬間と同じくらい僕にとっては最悪なものだった。何せ、いきなり窮地に立たされている。彼女は僕の弱みをじっくりと見つめてから、湿った影に包まれる僕に憎たらしいほど素敵な笑顔で言った。

「これ、いらないんですか」

 その言葉はいささか予想外だった。というか、彼女の反応はとにかく予想外なのだ。昨日のことしかり、今日だってそうだ。普通煙草のケースを見ても拾ったりしないし、明らかにその持ち主である人間に話しかけたりもしないだろう。せいぜい軽蔑の視線を喰らわせるくらいのものだ。ましてその持ち主が校舎と用具庫の間なんていうわけのわからない場所に身を置いているとあれば尚更だ。僕は頭が痛くなりながら、悪臭漂うその隙間を抜けて、広いところに出た。そして、彼女の目を見ずに答えた。

「欲しけりゃやるよ。中身が入ってなかったら、ただのゴミだ」

 どの道、誰かに見つかったらおしまいだった。あとは彼女が教員にでも僕の行動の一部始終を説明すれば、ただでさえ学校に居場所がない僕から、ついに名簿番号まで奪われることは目に見えている。それなら彼女に取り繕って言い訳をする意味なんてない。むしろ僕は一刻も早くこの厄介で訳のわからない女の前から立ち去ってしまいたかった。

 それでも、彼女は煙草のケースを両手の中に握りしめたまま言った。

「昨日はごめんなさい。起こしてくれようとしていたんですよね」

 僕はそれにイエスと答えることはできない。ある意味では見惚れていたのだ。彼女の寝顔から琴乃との思い出を想起していた。そんなことを正確に説明するのはバカらしいし、だからと言って今更彼女に対して頭を下げるのも、それはそれで億劫だった。僕は一瞬彼女の方を見て、その真剣な眼差しと目を合わせて、何もかもが面倒になって黙って背を向けた。のだけれど。

「待って」

 僕は振り返らずに足だけ止めた。

「これはお返しします。誰にも言いません」

「別にいいよ。そのゴミがいらなきゃその辺に捨てておいてくれ。問題になったら自首するから。あんたの悪いようにはしない」

「いいえ。捨てませんし、誰にも言いません」

 なんなんだ、この女。意味がわからない。僕は彼女の手から奪い取るように煙草のケースを回収し、ポケットにガサツに突っ込んだ。それからまた歩き始めたのを、再び彼女は大きな声で呼び止めた。もうたくさんだ。さっさと解放して欲しかった。

「なんだよ、しつこいな」

 僕はキッと彼女の方を睨みつけた。彼女はしばらく僕の目を見て、一転ややたじろぎながらも弱々しく言った。

「あなたを探していました。私の友達になってくれませんか……」

 張り詰めていたのが、拍子抜けしてしまった。

「は?」

 僕の口から間抜けな声が漏れた。


 僕の学校には自分の教室に友達のいない人間が昼時に逃げ込む駆け込み寺のような場所がいくつかある。例えばそれは空き教室だった。そもそも公立の割に呆れるほど規模の大きいうちの高校は、数年前に入試の定員を絞ったのもあって、たまに少人数の授業や学級レクリエーションの映画上映をするのを除いて使われない教室の数が異様に多かった。そういう空いた教室では、自分の教室に友達のいない寂しい連中が傷を舐め合うように食事をとっている様がしばしば見られる。その光景は生徒たちの間で「島流し」の言葉から取って「空き教室流し」などと揶揄されるのだが、その一方で、ある一定数の生徒が空き教室を使って食事を取ることは「上洛」なんて仰々しい言い方で崇められたりもする。つまりは、空き教室の中、恋人同士で幸せに食事を取るカップルのことである。皮肉にも空き教室は、普段は学校生活に不満を抱える人間のエスケープゴートでありながら、時たま幸せで仕方ないという顔をした気まぐれなカップルが攻め込んでくる場所でもあるのである。「上洛組」はうっかり「流刑組」の固まっている空き教室のドアを「ここなんてどうだろう」という軽い気持ちで開けてしまうので、「流刑組」は惨めで惨めで仕方がない気持ちになる。らしい。聞いた話だ。

 さて、今しがた少し不思議なことが起きた。僕と件の女子生徒は、どこか手頃な空き教室を探して彷徨っていた。単純にこの蒸し暑い中、外で立ち話するのを僕が嫌がったというだけだ。

 無論僕には一緒に食事を取る友達すらいないので、先ほどのどちらかに分類するとなれば確実に「流刑組」の方なのだが。たまたまいい感じの空き教室を見つけドアを開けてみると、そこにはいかにもという雰囲気の男子生徒が三人で固って携帯ゲーム機で遊んでいた。彼らは急にドアを開けて入ってきた僕らの方を見ると、楽しげな表情の色を変えた。ある一人は露骨な敵意を向けてきて、他二人はしゅんとして首を曲げてしまった。

 僕は黙ってドアを閉めた。連中に何を思われようと知ったことではなかったが、異性を連れているだけで端から見れば「上洛組」と何ら区別がつかない存在になるなんて。前々から痛いほど思っていたが、学校という空間も、人間関係というしがらみも、実にくだらない。

 結局僕と件の女子生徒はその階の北側の角部屋である理科室に程近い空き教室に入って、真ん中くらいの席で腰を掛けた。僕も彼女も弁当やその類の昼食は持っていなかったので、椅子に座ったっきりすることもなく、お互いの出方を伺いながらぼんやりしていた。

 しかしやがて彼女の方が決心したように話しかけてきた。

「私、先日この高校に転校してきたんです」

 転校生、か。

「どおりで見覚えがないわけだ」

 僕は少しばかり納得した。いくら僕が他人に興味がないとはいえ、一応琴乃が生きていた頃はそれなりに社交的な人間だった。友達だって少なくはなかった。そんな僕が、これほどに目を引くほど綺麗な同級生に見覚えもないなんてことがあるだろうかと、違和感はあったが。転校してきたばかりというなら無理もない。むしろ自然なことだ。

 僕がそう自分の中で合点していると、彼女は僕の方をほとんど瞬きもせずに見据えていた。まるで僕という人間を一つ残らず記憶してやろうという視線配りのように感じられて、僕は不審に思った。

「何?」

 恐喝でもするように短い言葉で僕は彼女に尋ねかける。彼女は「いえ」と口籠った。とろくさくて遠慮がちで、何だか昔の琴乃を思い出させる。僕は苛立って人差し指で木の机を叩きながら相手方の話を促した。彼女は肩を窄めて萎縮しながらも、ゆっくりと先ほどと同じことを言った。

「私と、友達になってくれませんか?」

 僕は首を傾げた。

「なんで僕なんだ? 女にだって男にだって、僕より魅力的な奴も僕より明るくてお喋りな奴もいる。君くらい可愛かったら、みんな喜んで仲良くしてくれるはずだ。僕である必要はないじゃないか」

 僕がそう言うと、彼女はふるふると首を横に振った。しかしいつまで経っても理由の方は追いついてこないようだ。彼女はもごもごと自分の口の中だけで言葉を転がしながら、机の傷と睨み合っていた。

 まあせいぜい人見知りを拗らせて孤独を持て余し学校を彷徨いていたら、ちょうど他人の弱みが目の前に転がっていたから、それを条件に一人目の友達を作ろうとしたといったところだろうが。残念ながら、僕と仲良くなったところでいいことなんて一つもない。僕自体面白い人間でもなければ、僕を足がかりにして広がる人脈もない。悪いがこちらとしても、新しい友達なんて一人も募集していなかった。放っておいて欲しかった。

「悪い。僕は誰とも友達になる気なんてないんだ。別をあたってくれ。煙草の空きケース、拾ってくれてありがとう」

 付き合っていられない。立ち上がり出口に向かって歩き出すと、後ろでガタッと椅子を引く音がした。

「待って。亮介、さん」

 「もう勘弁してくれよ」、そう言いかけて、飲み込む。彼女の方を振り返り、妙に思いながら尋ねた。

「名乗った記憶はないのだけれど」

 僕はいろいろな可能性を考えてみた。うちの学校の制服に名札はないし、僕はスリッパや運動靴の後ろに記名もしていない。仮にどこかでうちのクラスの名簿を手に入れたとしても、転校してきたばかりの彼女が「小野寺亮介」という名前と僕の顔をぴったり照合させるだけの時間があったのかは疑問だし、そうするための労力を割くのも謎だ。

 さて彼女はと言うと、自信なさげな雰囲気とは打って変わって悪戯っぽい表情でこう言った。

「あなたは私のことを知らないかもしれませんが、私はあなたのことを割と沢山知っているんです。ね、小野寺亮介さん」

 僕は黙ってしまった。不気味でたまらなかったし、彼女の企みがまだわからない以上、下手な出方をして墓穴を掘るのは御免だった。この様子だと、友達になるなんていうふわふわしたもの以上の狙いが彼女にはありそうだ。彼女は落ち着いた感じで話し始める。まるで自分の言葉の正しさを一から丁寧に証明するかのように。そしてそれは僕の度肝を抜くものだった。

「小学校の六年生のクリスマスイブに、家出をして警察に補導された小野寺亮介さん」

 僕は一歩後ろに引き下がった。彼女は涼しい顔で続ける。

「あるいは。お父様とその再婚相手であるお継母様と三人暮らししている小野寺亮介さん」

 無意識に入り口近くの壁を殴っていた。重たい音とともに、拳に鈍い痛みが走る。彼女はやや怯えた様子だった。

「何が狙いだ。あんたは一体何なんだ」

 僕は自分を強く律して目の前の女を問い詰める。決して動揺を悟られないように。もちろん心の中はひどくぐちゃぐちゃで、空き巣が入った後の部屋みたいな有様だったけれど。彼女が当然のように僕に話したことは、どちらもほとんど誰も知らないことだった。その両方を知っているのなんて、僕には三人くらいしか思い浮かばない。つまり父と継母、そして琴乃だった。

「あんたは誰だ」

 もう一度問いかける。彼女は微笑みながら答えた。

「清川詩織、といいます」

 転校生のはずのその名前に、不思議な聞き覚えがある。どこかで聞いたことのあるその響き。

「柴原琴乃さんの友人です。正確には、琴乃さんの幼い頃からの文通相手です」

 僕は彼女をじっと見つめた。文通相手、外国の料理の名前みたいに遠い場所で響いたその言葉をうまく飲み込めないまま、ただひとまず彼女の話を聴きたくなった。僕は詩織と名乗った女性を観察しながら席に着いた。

 会話の主導権を握った詩織からは、いつの間にか先ほどまでのおどおどした感じが抜けている。あれほど臆病な様子だった女を相手にして、これほど制圧するのに手こずっている自分が情けない。さて、そんな詩織は僕の方を伺いながら、タイミングを見計らって話し始めた。懐かしむような遠い目をしていた。

「私、ずっと東京に住んでいたのですが。七歳の頃、この辺りに住む親戚の家を訪れ、宿泊したことがありました。その時に折に触れて知り合ったのが、琴乃さんでした。琴乃さんとの出会いは完全な偶然でしたが、私が愛知県に滞在している数日の間、とても仲良くしてくれました。そして、私たちは別れる時に約束したんです。『お手紙のやりとりをしよう』、と。それ以来私と彼女との文通はずっと続いてきました」

 そこまで話したところで、詩織は僕が話についてきているのを確かめるために一呼吸をおいた。僕は続きを促すように相槌を入れる。それを見て、彼女はまた語を継いだ。

「さて、時間と場所が少し飛びます。これは完全に私の個人的な話なんですが、私の父の仕事の関係で、うちの家族はこちらに引っ越すことになりました。三ヶ月ほど前のことです。それに伴い、私は通う高校を藍祥市に移すことになり、私は迷うまでもなく琴乃さんの学校を希望しました。偏差値にも通学距離にも問題はなく、うちの親は特に何を言うこともなく藍祥東高校への転入手続きを始めてくれました。私はすぐさまその旨を琴乃さんに手紙で伝え、彼女も大いに喜んでくれました。二人、手紙の上で、同級生になった未来の二人の話をしました。でも、そんなやりとりが、突然途絶えたんです。一月ほど前に琴乃さんからの手紙が届かなくなりました。私は何か悪いことを言ってしまったのかだとか、もしかしたら私が同じ高校に入ってきて既存の人間関係を荒らされるのが嫌だったのかだとか、色々なことを考えました。そんな不安感を引きずりながら、それでも十年近くぶりに彼女に会えることを楽しみに藍祥東高校に入学して。そこで、私は彼女がもう亡くなったことを知りました」

 それから、詩織は少しの間言葉を詰まらせ鼻を啜っていた。湿った音がした。僕はただ黙って彼女の言葉を待つ。

「ごめんなさい。琴乃さんは私にとって、他の友達とは違う、特別な友人だったので。琴乃さんは、私の知らない私を知っている人で、私しか知らない琴乃さんを預けてくれる人でした」

 そこまで語って、それから詩織は目を伏せた。

「すみません、長々と」

 僕は「いや」と右手を身体の前で扇いでみせたあと、腕を組んで天井を見つめた。無数の黒い毛虫が這っているような柄の天井。程なくして僕の思考はこの模様のように入り組んだ深い場所に沈んでいく。

 正直なところ、半信半疑だった。彼女の話を鵜呑みにするとしたら、つまり琴乃とは小学校低学年の頃から琴乃が死んだ最近まで文通していたということになる。僕にはどうもそれがしっくりこなかった。というか、僕の心が納得するのを嫌がっているとでも言うべきなのだろう。詩織の話には綺麗な一本の筋が通っている。時系列的な矛盾も見てとれないし、何より僕のことに関して、一転校生にしては知りすぎている。琴乃の文通相手というのを否定したとして、他にこれほど僕のことを知っている理由を説明してくれる材料はなさそうだった。そうだというのに、僕はどこかで詩織の話を否定したがっていた。

「私のこと、疑がってますか?」

 驚いたものだ。詩織はかつての琴乃のように、すぐに僕の疑心を看破した。これだけ観察眼に優れた人に図星を見抜かれては誤魔化しても意味がない。僕は諦めて正直に言った。

「少し」

 初めから知っていたように彼女は頷く。僕は言った。

「僕は文通しているなんて話を琴乃から聞いたことはない。あんたのことも、今まで知らなかった。違和感がないといえば嘘になる」

 昔の僕と琴乃の仲の良さといえば相当なものだった。僕には当時の僕が琴乃に関して知らなかったことがあるだなんて、とても思えなかったのだ。つまりある時を境に「不完全」になった僕と琴乃の関係は、その境目の前では「完全」であったと、僕は信じたかったのである。

 でも、それを聞いて、詩織はクスクスと、意地悪に笑った。

「そんなの、当たり前じゃないですか」

「それはどういう……」

「女の子は、たくさんかくしごとをする生き物なんです。かつてのあなたが琴乃さんとどれだけ仲がよかったとしても、琴乃さんがその全てをあなたに教えてくれるはずが、ないじゃないですか」

 僕は、何も言い返せなかった。僕の主張はただ見たくないものを否定しているに過ぎず、一方で彼女が言っているのは紛れもない正論だ。

「そうだな」

 結局僕は力なくそうこぼした。

 僕と琴乃がかつて共に過ごしていた時間は僕が守り続けてきた宝物だった。その宝物を愛し続けるために、僕は琴乃と接近するという一か八かの博打を打つのを諦めてきたのだ。もし琴乃に直接拒絶されたら僕の心に残る鮮やかな過去すら憎しんでしまうだろう、そう思って自分の気持ちに蓋をし続けた。だから、気分は良くなかった。豊かな生活ができるかもしれない可能性まで投げて大切にしていた宝石を、見ず知らずの女の手垢で汚された気分だ。僕は過去の自分と琴乃の関係を神聖視していた。そこに土足で入りこまれた僕の中で渦巻く感情は、困惑や怒りを通り越した失望だった。そんな自分に嫌気がさす。僕はかつての琴乃にひとりぼっちでいて、ただ自分のことだけを頼ってくる女の子であって欲しかったのだな。だから琴乃が僕の他に拠り所としていた詩織の存在を受け入れられない。全く、見下げたものだ。

「僕のことも、琴乃から聞いたのか?」

 そう尋ねると、詩織は二回頷いた。

「琴乃さんは頻繁に亮介さんの話をしていましたから」

 一瞬舞い上がりそうになって、すぐに思いやめた。詩織が昔から琴乃と親しくしていたならば、別におかしなことじゃない。ただ仲良しの友人のことを別の友人話すなんてどこにでもある話だ。その程度のことで僕の心を救ってやるのは難しかった。でもそれは、「その程度」のことの場合だ。何かしらの程度が僕の想像を超えていれば、また話は別だ。

 詩織は言った。

「琴乃さんは、亡くなる直前にも亮介さんの話をしていらっしゃいましたし」

 がたっ。僕が勢いよく立ち上がった反動で、座っていた椅子が後ろに倒れた。詩織はびっくりしながら僕の方を見つめた。

「今の話、本当か?」

 目を見開いたまま詩織は黙って頷く。

「どうせロクでも無いことなんだろう」

 そう予防線を張ってみたが、詩織は何も言わずに僕の方をじっと見ていた。僕は立ち上がったまま目を閉じて、少しの間考えた。

 僕は詩織が言った「琴乃が僕の話をしていた」という部分のことを、当然のように小学校くらいまでの昔のことであると解釈していた。無理もないだろう。何せ、それ以降は僕が勝手に片想いをしていただけで、琴乃と僕の実際の交流は全くと言っていいほどなかったのだ。それなのに、つい先日にも僕の話をしていただと。僕はひどく困惑すると同時に、胸が膨れ上がりそうだった。もしかしたら琴乃も、僕に対して何か特別な感情を抱いていたのかもしれない。そんな淡い期待がよぎり、コカインやタールのようにあっという間に全身を巡り、すぐさま脳の中枢を支配する。気がつくと僕は、餌を目の前に垂らされた犬みたいに無我夢中で詩織に尋ねていた。

「琴乃は僕について、なんて言っていたんだ」

「私は、それを伝えるために学校中を探してあなたに会いにきたんです」

 彼女は椅子に掛け直し、僕の顔の一つ一つを確かめるように見つめながら、静かなトーンで話す。

「琴乃さんが亡くなったと知った時、私は琴乃さんが残した手紙の一部の内容を、あなたに伝えることが自分の使命なのだと感じました。琴乃さんがあなたをどう思い、どう感じていたか、あなたにはそれを知る権利がある」

 僕は机の上に置いた指の先が小刻みに震えるのを止められなかった。今は亡き僕の大切な幼馴染みの記憶の欠片。詩織がわざわざ僕を探し出してまで伝えにきたそれを、いざ手にした僕がどういう感情に包まれるのか、考えると落ち着いてなんていられなかった。体裁など気にする余裕もない。

「早く、早く教えてくれないか。琴乃が僕をどう思っていたかを。どうしても、琴乃の気持ちが知りたいんだ」

 昂りを隠せない僕を見て、詩織はしばらく目を瞑った。何かを考えていたのか、あるいは何かを決断したのか。いずれにせよそれは不思議な間だった。そして、次にその澄んだ黒目で僕を捉えた時、

「……まだ、秘密です。なぜなら、それが秘密だからです」

 詩織は、息の荒くなった僕を、その言葉の温度だけでスッと突き放した。

「えっと。私と琴乃さんがしていたのは、女の子同士の秘密のやりとりなんです。おいそれと教えるわけにはいきません。確かに、私は琴乃さんからの手紙を亮介さんに伝えなければならないという使命感は抱いています。しかし、一方で私自身はあなたのことを信用していない。私にはあなたが琴乃さんの託してくれた秘密を預けるに足る人かは、わからないんですよ」

 僕はガックリと肩を落とした。彼女の言うことは確かにもっともだ。

「どうしたら、教えてくれるんだ?」

 情けない声で僕の口から漏れたのは、そんなみっともない質問だった。その響きだけで失望する女の子がいたって何ら変ではない。でも、詩織はまるで最初からその質問が来ることを期待していたかのように、顔を綻ばせながら僕に答えを提示した。

「私の友達になってくれたら、です」

 小首をかしげる僕に、彼女はこう続ける。

「だって、見ず知らずの人には教えられなくても、親友相手なら話せることっていくらかあるでしょう? もし亮介さんが私の友人になってくれて、そして私が亮介さんのことを信用できるって判断したら、琴乃さんが私に話してくれたことを、少しだけ教えてあげます」

 なるほど、つまり友達とは便宜上の表現なのだな。詩織は僕が琴乃の秘密を教えても問題のない人間なのかを見極めようとしているのだ。

「友達って具体的には何をすればいいんだ?」

 僕のその質問に、詩織は少し考えてから言った。

「ううん、そうですね。一緒にここでお昼ご飯を食べたり、放課後一緒に帰ったりするというのはどうでしょう」

 もちろん、何のリターンもないならばそんなのはお断りだった。自分一人でゆっくり世界と向き合える時間を、大して興味もない別の誰かに預けるなんて、想像するだけで嫌気が差す。しかしそれが耐えられないほどの苦痛というわけではなかった。例えばそれが、どうしても知りたい秘密との交換だとしたら。

「わかった」

 僕が渋々といった感じで短く答えると、詩織はにっこり笑った。

 話がなんとなくまとまったその時、ちょうど五限開始五分前のチャイムが鳴った。詩織は立ち上がって今一度僕と目を合わせると、柔らかな笑顔を見せた。

「えっと、早速なのですが、今日の放課後、一緒に帰るというのはどうでしょうか?」

 別に僕に用事なんてなかった。詩織の信頼を勝ち取ること、それ自体にはそこまで乗り気なわけではなかったが、かといってこんな意味のわからない関係をいつまでも長引かせるのもそれはそれで面倒だ。さっさと詩織の機嫌をとって、早めに琴乃の秘密を聞き出してしまう。長い目で見ればその選択が一番賢いように思えた。

「構わないよ」

 僕が言うと、詩織はわかりやすく喜んだ。

「よかった! じゃあ、放課後、昇降口前で待っていますので」

 弾ける笑顔を残し空き教室を出て行った彼女を見送って、僕は一つ伸びをした。思い出すのは、そう、あの「郵便屋さん」の話だった。琴乃が死んだその一ヶ月後に現れた、琴乃の文通相手を名乗る少女。手紙という語の連想ゲームのような短絡的な思考かもしれないが。僕の目には詩織という少女が、今は亡き琴乃の気持ちを運びにきた「郵便屋」そのものに見えた。

 だから、ある意味では彼女に運命的なものを最初から感じていたのかもしれない。あるいはそれはもっと別の質の懐かしさだったのかもしれないけれど。少なくともその時の僕は、弾力を失ったままパサついていた日々に一滴水分が落ちた感触を覚えた。そして、誤魔化すように咳払い。

「まあ、琴乃の秘密のためさ」

 誰かに言い訳するようにそう呟いて、僕も教室を後にした。

 そんなわけで、僕に新しい友達ができた。


 先ほどの詩織の言葉と実際の僕らの待ち合わせにはやや誤差があった。彼女は先ほど「昇降口で待っている」と言ったが、先に昇降口に着いたのは僕の方だった。とりあえず駐輪場に留めてある自転車を昇降口前に持ってきたが、それでも彼女の姿は見えない。仕方がないのでとりあえず自転車を邪魔にならないあたりに止めて、手持ち無沙汰に英単語帳でも開きながら詩織を待っていた。他クラス他学年の生徒が次々と昇降口から校門のほうに向かっていく中、詩織はなかなか現れなかった。

 梅雨の夕方、気温も湿度も鬱陶しいくらいに高かった。ぼうっとしているだけで背中やこめかみに汗が浮かんだし、雨の日の匂いとよく似た、全てが腐ったような悪臭が漂っているのも不快だった。

 何度も帰ってしまおうとした。近頃再三苛立ちを感じてきた中で、特に「何かを待つこと」に対する嫌悪感は日を追うごとに肥大化していた。電車やバスの待ち時間やニュース番組の合間を縫うようなテレビコマーシャルの間にも苛立ちが山積し、まして他人を待つことなどある種の苦しさを伴った。さらに悪いことに、今の僕は昨日から煙草を吸っておらず、完全に必要栄養素が不足している状況だ。すぐにでも家に帰って煙草を吸いたかった。くしゃくしゃのマルボロの箱を、スラックスのポケットの中で触り続ける。気になって仕方がない。

 そうだというのに、僕がその場所で詩織のことを待ち続けたのは、多分自分が想像するよりもずっとずっと、琴乃が僕のことをどう思っていたかが重要だったからだ。本来なら叶わぬ片想いで、一生触れるはずのないものだった琴乃の本音。それは僕には艶々と煌く美しい林檎のように見えた。それが澄んだ甘い味のする赤い果実なのか、僕を殺すために仕込まれた毒林檎なのかはわからないけれど。そして、仮にどちらの林檎だったとしても、程なくして僕は死を選ぶのだろうな。なんとなくそう直感していた。きっと前者の時には後悔のあまり、後者の時には失望のあまり。いずれにせよそれは僕を死に誘うには十分なきっかけとなり得る。それでも僕はそれを齧ってみずにはいられないのだ。

 萎れそうになるような蒸し暑さの中で、そんなことを考えて彼女のことを待っていた。終業のチャイムから十五分くらいして、やっと詩織が出てきた。息を切らしながら僕の前に現れた彼女は僕が嫌味を言うよりもずっと早く、僕に詫びた。

「ごめんなさい。私から誘っておいて、遅れてしまいました」

 彼女があまりに深々と頭を下げたものだから、僕は皮肉攻撃の矛先を失った。

「別に。それほど待ってはいないよ」

 今でも自分がそんなふうに相手を気遣って物を言えるのを少し意外に思った。詩織はほっとしたようにもう一度お辞儀をした。

「それでは、行きましょうか」

 彼女はいい加減に突っかけていたローファーを履き直し、正門の方に向かった。

「あんた、自転車ないの?」

 僕が尋ねると、詩織は少し恥ずかしそうに言った。

「一応自転車通学できるんですけど、申請まだしていなくて」

 そう言えば、自転車通学するために提出する書類もあったな、と思い出した。あんなの出さなくても、自転車で学校にきているやつなんていくらでもいると思うけれど。まあでも、そうとは言わずに英単語帳を籠の中のスクールバッグに突っ込んで、自転車を引きながら彼女の背中についていった。

「入れていいよ」

 僕が自転車の籠の空いたスペースに指を差すと、彼女は遠慮がちに僕の鞄の上に自らの鞄を重ね、ニコニコしながら礼を言った。

「ありがとうございます」

 僕は何も言わずに少しだけ重たくなった自転車を転がした。真面目なのだろう、自転車の申請をするまで自転車通学しないし、きっとこの鞄の重さでは置き勉なんかもしていないんだろうな。自分とは全く対極にいる女の子を見つめながら、僕はそんなことを考えていた。

 学校の敷地の外に出ると、目の前に広がる田園風景や背の低い建物たちはややオレンジがかっていた。ふと自分たちの足元を見ると、昼間ランニングロードで会った時よりもその影はずっと長くなっていた。荒いアスファルトに映し出される長い影は立ち止まっている間も落ち着きなく形を変えている。

「もうすっかり夕方ですね。本当に遅くなってしまってごめんなさい」

 詩織は心配性な表情で僕を見た。僕は首を横に振った。

「うちの学校がいつまでもだらだらと授業をしているのが悪いんだよ。あたりの高校の中でも一番授業が多いって話だ」

「そうなんですね。前の学校もこんな感じだったのであまり授業が多いとは感じませんでした」

「ついていないな」

 僕が言うと、彼女は笑った。

 そんな会話を正門前で交わしていると、遅れて学校の方から出てきた自転車にベルを鳴らされたので、僕らは端に寄って道をあけた。詩織は出てすぐに左に曲がったその自転車の背中を見つめ、ハッとした表情で僕に尋ねかけてきた。

「亮介さんの家って、どっちの方向なんですか?」

 おそらく、正門からどちらに曲がるのかということだろう。ちなみに左に曲がれば二つの路線の交わる駅やそれなりな住宅街、公営団地があり、右に曲がれば広大な農地と要塞みたいな工場群がある。つまり、大半の生徒は左に曲がる。

「左だよ」

「お、私もです」

 僕らも例外ではなかった。校内の生徒をどう組み合わせても、左に曲がる者同士になる可能性の方が圧倒的に高いのだろうけれど。それでも転校したての詩織は、ある意味で必然に近いような事実を偶然の事象かのように素直に喜んだ。

「途中まで一緒に帰ることができますね」

 彼女は上半身を左右に揺らしながらそんなことを言った。僕は何も返さずに自転車を引いて歩き出した。「待ってくださいよ」、詩織は慌ててついてくる。

 そうして並んで歩いているとコンビニが見えてきた。

「今何時かわかるか?」

 詩織にそう聞いてみると、詩織はポケットから携帯電話を取り出して画面をじっと見た。

「あと十分で六時ですね」

 僕は迷った。火曜日の十八時、今日もそろそろワタナベさんがシフトに入る。今は、新しい煙草を調達するにはそれなりに優れたタイミングだった。だが、ちらりと隣の女の子の横顔を見て思いやめた。余計なことをして詩織に呆れられたら、結果琴乃のことを聞き出せなくなってしまうかもしれない。それでは本末転倒だ。

「そうか、ありがとう」

 僕はそう言って、なあなあで流そうとした。でも、詩織は逃さない。

「もしかして、何か予定があるんですか?」

「そうじゃない」

 僕は言ったが、詩織はいつまでも疑り深くこっちをじろじろと見てくる。全く本当に鋭いな。

「まるで琴乃だな」

 僕はため息を吐いた。詩織は一瞬身を縮める仕草を見せたが、何も言わないで僕の方にただ疑問符を投げかけるような表情をしていた。

「琴乃も昔からいやに鋭いやつだったんだ。さっき『女の子はたくさんかくしごとをする生き物なんです』、だなんて言っていたけれど、君ら相手にはかくしごとなんてできそうにないな」

 僕はため息をつきながら説明した。詩織は「ああ、そういうことですか」と苦笑した。

「で、本当は何かあるんですか?」

 抜け目ない彼女にそう尋ねられてはお手上げだ。「煙草だよ」、僕は先ほど彼女に拾ってもらったくしゃくしゃのソフトケースを揺すって見せた。空気と銀紙が中で擦れる音がする。

「六時から学生にも煙草を売ってくれる人がレジに入るんだ。折角切らしていることだし買って行こうかと思ったってだけだよ。もちろんすぐにやめたけどさ」

 僕が言うと、彼女は「なるほど」と頷いた。そして僕が見せた煙草のケースを手に取って、蓋を開いて臭いを嗅いだ。すぐに変な表情になる。そんな彼女の一連の動作を見て、「何してんだよ」と呆れまじりにそう言うと、彼女は蓋を閉めながら柔和に微笑んだ。

「変な臭いですね」

「いい香りなんてしないさ」

「どうしてこんなの吸うんですか?」

 詩織は首を傾げる。僕はしばらく考えた。

「逃げ場、かな」

 そしてこう答える。その表現が適切かはわからなかったけれど、琴乃の死後に煙草と出会い、そしてハマってしまったのが全てだと思う。「逃げ場」というその短い言葉で詩織も僕の言う意味を悟ってくれたらしい。少なくとも、その言葉と琴乃の死を繋げるくらいのことはしてくれたのだろう。彼女は神妙そうに「そうですか」と言った。

 僕は詩織の手の中のソフトケースを回収し、ポケットに入れ、再び自転車を引いて歩き出した。ところが、後ろに引かれる感覚があって僕は足を止める。詩織が僕のカッターシャツの背中を指先で摘んでいた。

「どうした?」

 僕が尋ねると、詩織は笑った。

「買っていきましょうよ、煙草」

 僕は肩を竦めた。優等生かと思ったら、意外と大胆なところもあるらしい。結局僕は詩織に押されるがまま、コンビニの前で自転車を止めた。成り行きで、六時までコンビニの前で潰すことになったのだ。わざわざ、僕の煙草を買うためだけに。詩織はバリカーに腰を乗せ、僕は自転車のサドルに浅く座った。カラスが一度鳴いて、僕は赤色の空の方に視線を向ける。詩織が僕の背中に話しかけた。

「亮介さんは素敵な人ですね」

 詩織は軽やかにそう言ってはにかんだ。

「お話も面白いし、優しいし」

「意外と人を見る目がないんだな」

 僕はつっけんどんに吐き捨てた。別に謙遜でもなんでもない。ただ、素敵だの優しいだの持ち上げられるのが、ひたすら気味が悪かっただけだ。今の僕は褒めるべきところのない人間だ。他の誰でもない僕がそのことを理解しているのだから、おだてられても虚しいだけだ。

「僕はくだらない人間だよ」

「そんなことないですよ」

「そうなんだ。出会ったばかりの詩織には、わからないかもしれないけれど」

「でも、琴乃さんもそう言っていましたよ」

 その名前を出されると、僕は何も言えなくなってしまう。「琴乃」その響きだけで正常な判断ができなくなるのが嫌だった。突沸しそうになる心臓を宥め、僕はできるだけ毅然として吐き捨てた。

「それが本当だったら、どれほど良いだろう」

 詩織は何か言いたげな表情を浮かべていたが、結局黙って向こうの歩道の小さな女の子と彼女に連れられる犬を見つめていた。

「六時になりましたよ」

 しばらくして詩織はそう言った。僕は短く返事をし、コンビニの中にワタナベさんがいることを確かめると、店の中に入った。詩織がアイスを選んでいるのを横目に見ながら、レジで煙草を買った。ワタナベさんは気怠げに新品のマルボロを後ろの棚から取り出し僕に手渡した。滑らかな感触に少し落ち着く。金を払って店を出ると、程なくして詩織も出てきた。ペンギンがパッケージに描かれた棒アイス、安上がりな女だなと思いながら煙草をポケットにしまい、自転車のスタンドを蹴り上げた。二人、すっかり赤く焼けた帰り道を往く。

「吸わないんですか?」

 詩織はソーダ味のアイスを舐めながら尋ねた。いつぞやの景色が蘇る。僕は付き纏う記憶を振り払いながら「吸わないよ」と答えた。

「こんなところで吸って、他の奴や近隣住民に見つかったら大問題だ」

 詩織はそう聞いて、拍子抜けしたように僕の顔を見ていた。かと思うと、突然たまらず笑い出す。僕は眉を顰めた。

「何?」

「ごめんなさい。やっぱり、琴乃さんのおっしゃっていた通りの方なんだなって」

 琴乃が僕に下した人物評だ。弱気、あるいは臆病といったところだろう。多分詩織は、僕がどれだけ攻撃的に振る舞っていても、本質的には弱気な人間だとでも言いたいんだろう。全く、その通りだ。僕はどれだけ勝気に明るく振る舞ったとしても、あるいは暴力的に振る舞ったとしても、根っこの部分はずっと臆病なままなんだ。昔から、この臆病と付き合って生きてきた。

 僕は新品のマルボロの表面を撫でた。

「もうすぐ夏ですね」

 詩織が言った。僕は転がっていた缶を蹴り飛ばして、その音を返事がわりにした。

「では私、こっちですので」

 詩織はコンビニから二つ先に行った四つ角でそう言って、僕らは別れた。

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