消えない言の葉
藤琳吾
第一章 郵便屋
第1話 むかしばなし
「郵便屋さん」の話を思い出した。別になんてことのない御伽話だ。ただ、幼稚園の年長の頃、母が亡くなったばかりで失意の底にいた僕に、同い年の幼馴染みの女の子がたどたどしく教えてくれた。
「好きな人が死んじゃったらね、たくさん泣くんだよ。そしたらね、郵便屋さんが手紙を運んできてくれるの。死んじゃった人から生きている人に向けた、『かんしゃ』と『おもい』を伝えるための手紙を。だから、泣いていいんだよ」
彼女は舌足らずにそう言った。彼女の丸っこい声から発するその言葉に「感謝」や「想い」のようなややこしい画数はなく、角のない平仮名の柔らかい雰囲気だったと思う。まだ幼い僕は、ただただ同じ目線の彼女が教えてくれた優しい子供騙しにまんまと騙されて、つい泣いてしまいそうになった。悲しみ色の画用紙に淡いパステルオレンジが落ちる。オレンジは滲みながら広がり、いつの間にか画用紙そのものの見た目すらも変えてしまう。僕は一粒涙を落とした。一言では表せないくらい、いろいろな想いの混じったそんな涙だった。
「泣いても、いいんだもんな」
彼女は僕の髪の毛をゆっくり撫で回した。
「泣いたほうがいいんだよ」
いくら幼い僕だって郵便屋の話を全部鵜呑みにしたわけじゃないけれど、知らず知らずのうちに心のどこかで母からの手紙が郵便屋さんに届けられることを待つようになっていた。「かんしゃ」や「おもい」を聞いてみたかった。
もっとも、そんな話をずっと覚えていられるわけもなく、やがては母の死も郵便屋も過去に流れていったのだが。皮肉にも僕がその話を次に思い出したのが、その女の子が死を迎えた時のことだった。柴原琴乃が交通事故で死んでから一ヶ月後、僕の前に郵便屋が現れる。
その郵便屋は、かつての僕のイメージしていたそれとは随分と違う風貌だった。
四限終了のチャイムが鳴って緩慢な号令とともに授業が解散になると、僕はすぐに教室の外に出た。ポケットの中身の感触を確かめながら薄汚れた廊下を歩いていると、購買部を目指す多くの学生とすれ違い、時折接触も伴った。腕っぷしに自信のありそうな運動部連中は、廊下の真ん中を譲らずに肩をぶつけてきた僕をギロリと睨みつけたが、構わずに押しのけて先に進んだ。階段を下り左に曲がって昇降口の方に出ると、スリッパを履き替えることもせずに校舎の外に出て、いつもの場所へ向かう。そこはランニングロードの先にある用具庫の裏手だった。連日の雨のせいで足元の感触は最悪で鼻が曲がりそうなほどカビ臭い。こんなところに長時間いたら頭か身体のどちらかは確実におかしくなってしまう。人目の死角に入ったことを確かめると急いでポケットから煙草のソフトケースを取り出し、最後の一本を唇の先で咥えた。逸る手つきでオイルライターのホイールを二三回転がして、やっとついた火を煙草の先に付ける。舌の上で薬を炙ったような味と臭い、煙を肺の底にまで落として、それからその煙を用具庫の何色かもわからない壁にぶつけた。鼠色が壁を這って空の方に昇っていく。すぐさま二口目を吸った。一口吸う度に肺は汚染され、しかしその度に心の老廃物は取り除かれていく。苛立った神経を眠りに付けるように、何度も何度も煙草を咥えては煙を吐き出した。
ついにフィルターだけになった煙草を筒状のポケット灰皿に突っ込んだ僕は、秘密の喫煙所を後に校舎に戻った。七月を迎えたばかりの空は久しぶりにスッキリと晴れ渡っているが、ランニングロードのアスファルトは昨晩まで一週間続いた雨を忘れてはおらずキラキラと黒く光っていた。そんな道の中程で校舎からでたらめなトランペットの音がした。昼の間も練習か。結構なことだが、全校生徒にひけらかすように練習をするならもっと上手にやってほしいものだ。僕は舌打ちをして、再び歩きはじめた。耳の奥にはいつまでもトランペットの一音目が反響していた。最近なにかと苛つきやすくなった。煙草を吸い始めたからか、それとも琴乃が死んだからか。全く、嫌になる。
僕と琴乃は、同じ街の近所ですくすくと育った正真正銘の幼馴染みだった。太陽の光を好んだ幼い頃の僕と、部屋の隅や狭い場所にいつも身を置くタイプだった琴乃は、しかし不思議なことに馬があった。同じバスで幼稚園に通い、同じ通学路をたどって小学校に行き、そうして同級生の誰よりも長い時間をお互いと過ごし、足並みをそろえて歩いていたのが良かったんだろう。まるで凸凹で互い違いだったはずの二つのパーツが擦れて磨かれて長い時間をかけぴったりはまる、そんなふうに僕らは、いつしかお互いの完全な理解者となっていた。僕らは息を吸うように相手の気持ちを汲み取り、息を吐くように自分の気持ちを正確に相手に伝えるようになった。小学生にしては、いささかできすぎで気持ち悪いくらいの関係だったと思う。でも逆に、そんなことは小学生の間だから許されたことなのかもしれない。「信頼」や「関係性」といった厄介な語彙を手の届くところに置いていない子供同士の間柄だったからこそ、僕らは「仲良し」の言葉でお互いを満たし合うことができていた。海の魚が海水を選び、温かい空気が高いところを選ぶように、僕は琴乃のそばを、琴乃は僕の隣を、知らず知らずのうちに選んでいた。そこには理屈なんてなく、ただそこにいるということが他のどの状態よりもずっと心地よかったという、それだけだった。
でも、大抵の親密な間柄がそうであるように、僕と琴乃の関係もまた、やがては疎遠となってしまった。二人はいつしか言葉を交わさなくなって、学校の中ですれ違ってもまるでお互いが見えていないみたいに立ち振る舞った。いつまでもだらしなく琴乃への恋心を胸にしたため続けていた僕は、それでもこの関係の隔絶をよしとしていた。無闇に相手に触れることで関係が完全に崩壊し、培ってきた美しい思い出までもが醜く色を変えてしまうのが怖かった。要は勇気が出なかったのだ。失うリスクを犯して手を伸ばすくらいなら、どうせ手には届かないのだと諦めて受け入れ、遠い場所から愛でている方がずっと気楽だった。
そうした先延ばしの結果、僕はあれほど仲がよかった琴乃のことを何一つ知らないまま、ひとりぼっちの永遠に放り込まれることになった。後悔していないといえば、嘘になる。
昇降口の緑色のマットでスリッパについた湿った土を落とした僕は、解放された空気に浮つく廊下を突っ切って購買の方に向かった。もう昼休みが始まってから十分近く立っている。購買部の中にはジュースを選ぶ女子生徒の二人組がいるだけで、ただでさえ品揃えの悪い陳列棚からは魅力的な商品が一つ残らずなくなっていた。僕は仕方なくあんぱんを一つ手にとって、それから飲み物の棚の方へ行った。
「ちょっとどいてくれるか」
いつまでもちんたらと清涼飲料水の棚の前に居座る女子生徒たちにそう乱暴な声をかけ、一番下の段のペットボトルの水を手に取るとレジの方に向かった。レジの中年女性にピッタリの小銭を出して購買を出ると、僕は自分に呆れて一つため息をついた。どれだけ心が狭いんだ、僕は。女の子が飲み物を選ぶのを待つだけの時間も我慢できないのなんて。
「どうしたの。らしくないよ」
きっと、かつての琴乃が今の僕の姿を見たら、心配そうにそう言うんだろうな。何となくそう思って、それから右手のあんぱんをギュッと握りしめた。と、手の中の握り心地が不意に変化し、包装の弾けた音が廊下に乾いて響く。パンは少し潰れて形が歪になった。僕は何かに急き立てられるように歩き始めた。
その後教室に戻っても苛立つ気持ちは収まらなかった。僕の椅子を勝手に使って食事をとっていた女に対して言わなくてもいい嫌味を吐き、乱暴にパンを机の上に置いた。女がおずおずと返してきた椅子に腰を掛けて、窓の外の景色を眺めながら強く思う。僕はなんて救えない人間なんだろう、と。タバコを吸っている間以外、いつだってなにかに不満を抱いている。他人のことなんて知らぬ存ぜぬでその怒りをぶつける。ロクなもんじゃないな。ペットボトルを傾けて水を飲み、パッケージの破れたあんぱんを一口かじった。自分で選んだはずのあんぱんの甘みにすら腹立たしさを覚えてしまうのだから、本当にどうかしている。
以前は、もっとずっとまともな人間だったはずだ。
僕の性格形成には、何かと柴原琴乃という人間が影響を与え続けてきた。
幼い頃、琴乃はひどく引っ込み思案だった。幼馴染みである僕をたった一つの例外として、他の誰にも心を開こうとはしなかった。琴乃はまるで初めから他者に好かれることを諦めているかのような立ち振る舞いをし、他者からの視線を避けるように僕の背中に隠れた。
「私は、亮介さえいればいいから」
かつて琴乃は、一度だけそんなことを言った。照れ臭くなった。でも、その追い縋るような声の震えに僕は茶化したりできずに、ただそっと肩を抱いた。
「そっか」
当時の僕は今よりもずっと友達が多かったし、ハッキリ言って人気者だった。それなりに運動と勉強ができて、思考も柔軟だったからだろう。僕には一人の友人との関係に心血を注ぐ必要なんてまるでなかった。それでも僕が琴乃との関係を何より大切に、時には他の関係全てと両天秤にかけても即答で琴乃の方を選べるほどに彼女のことを大切にしたのには、その心地良さはもちろんだが、琴乃には僕しかいないという使命感めいたものもあったのかも知れない。琴乃は内気で友達も少なく、しかも何かとぼんやりしていて危なっかしい部分もあった。僕は時に兄のように琴乃と接し、琴乃もまた妹のように僕にくっついて回っていた。そんな時代のことがあったからだろう、琴乃と疎遠になった後も、僕は自分自身のことを厳しく律し続けた。自分は琴乃の模範となるべき兄のような存在なのだ、というどこに根差しているのかもわからない自覚が、僕を誠実で健やかで穏やかな人間たらしめていた。
それが琴乃の死によって、完全に楔が外れた。人生というものが心底どうでも良くなった僕は、まるで鎖の千切れた番犬のように暴力的で喧嘩っ早くなった。まともな人間としての社会性を失うことは楽だったし、死ぬ理由の方から僕に近づいてきてくれるのもありがたかった。僕の周りからはすぐに人が離れていった。徹底的に自分の価値を暴落させた僕は、何かの拍子に死を選べるくらい、あらゆるものへの諦めをつけることができていた。
「まるで人が変わったみたいだ」
誰かの陰口を耳にして、その時ばかりは怒りもせずにただその言葉に納得していた。
琴乃が死んでから、あれほど執着するように取り組んでいた勉強にも全く身が入らない。その日の授業中も退屈に空を眺めて過ごし、時折伸び切った前髪をいじったり、ポケットの中のソフトケースを開けたり閉じたりして暇を潰していた。初めは教師にもこの態度を指摘されていたが、ここ最近は呆れられたのか、まるでいないものかのように扱われている。別に他の馬鹿共のように騒ぐわけでもスマートフォンをいじったりして他の生徒の欲望を刺激するわけでもないから、教師にとってみても構う必要のない存在なのだろう。
僕はあくびをしながら眼下に広がる藍祥の街に目をやった。刺激の無い街だ。全国区のテレビで名前を聞くことなんてほとんどない、たまに新聞の地域欄なんかで見かけたと思ったら公務員の不祥事、華々しいニュースも旧帝大の附属病院での臨床試験だとか。そんななんだか冴えない街だった。それでもこの街で僕と琴乃は背比べするように育った。そしていつしかその背中は遠く離れて行き、気がつけば琴乃は姿を消していた。
琴乃と、いろいろな場所に行った。僕は無地のTシャツみたいに意匠も工夫もないこの街で、琴乃と一緒にいる理由を考えて過ごした。二人で運動会のリレーに向けて一生懸命練習した日々を送ったのも、クリスマスの夜寒空の下で二人一つのコートに包まって過ごすなんて無茶をしたのも、全部この街だった。
どれも大切な思い出だ。あと、こんなこともあったな。そう、
「小野寺。大問二の括弧3」
穏やかな回想に邪魔が入った。舌打ちすると、醜く腹の出た中年の男性教師の眉がピクリと動く。構わずに先ほど配られた英語のプリントに視線を落とした。少しして答えたそれは簡単な和訳問題だ。いくら最近勉強時間が減ったからといって間違えるわけもない。教師は舌打ちの件を含め何も言い咎めることはなく、次の問題の回答者を指名した。
僕は頰杖をついて視線を遠いところに戻して一つため息を吐いた。すっかり興が削がれた。こうやって、後悔や寂寥を立たせないまま純粋な気持ちで琴乃との思い出に没入できる時間は貴重だというのに。また先ほどと同じようにしたって、悲しみや寂しさといった不純物が混じって、綺麗に形取られた過去が汚されるだけだろう。僕は自分の中での思い出に、偏った現在の主観を混ぜるのをとことん嫌っていた。完全である思い出を、いたずらに手を加えて台無しにする真似だけはしたくなかったのだ。そんなわけで僕は回想を諦めてプリントの上でシャープペンシルを滑らせた。張りのない問題たちの横に、雑な字で過不足ない回答が並んでいく。どうしてこんなことを一日何時間も平気で出来ていたんだろう。すぐに飽きて退屈になった僕のシャーペンは、いつの間にやら回答欄を離れて右上の空白で遊んでいた。何気なく綴った「柴原琴乃」の字だけが、くだらない落書きの中で異様に綺麗な形をなしていた。それが嫌で嫌で堪らなくなって、すぐに消しゴムをかけてプリントをしまった。
以降は落ち着かなくて、いつまでも前髪や襟足をいじっていた。最後に髪の毛を切ったのはいつだろう。琴乃が死ぬより前なのは確かだ。
十六時半の終業のチャイムが鳴ると同時にホームルームが終わった。すでに緩んでいた空気はまばらな「さようなら」を合図にすっかり自由に動き回るようになり、制服を脱いでTシャツに着替え部活に行く者、教室に残ってお喋りをする者、友人や恋人と一緒に帰り支度をする者など、それまである程度同じ方向に向いていた生徒たちの行動はてんでバラバラになっていった。いつもならそんな連中になど目もくれずに荷物をまとめて自宅に帰るところだけれど。僕はその日が月曜日なことを思い出した。月曜日と火曜日は、ワタナベさんが午後の十八時からシフトに入るのだ。ワタナベさんとは金髪でニキビ肌の大学生くらいの男性で、学校最寄りのコンビニエンスストアで店員をしている。学生服を着ている人間にもそしらぬ顔で煙草やアルコールの類を売ってくれることで有名な人物だ。僕はポケットの中の煙草が空っぽなことを思う。十八時まで学校で時間を潰し、その帰りに買っていくことにしよう。
煙草なんて家に帰って私服に着替えさえすればどこのコンビニでも買うことができるし、わざわざ学校に残る理由なんてあまりなかったのだけれど。その日はなんとなくそうするのが正しい気がした。そんな考えに至ったのは、ひょっとしたら虫の知らせがあったのかもしれない。とにかく、僕は教材のうち提出課題に必要なものだけを鞄に詰めると、まだまだ騒がしい教室から逃げ出て廊下の人混みをすり抜け、連絡通路を使って職員棟の方へ向かった。僕がこのアウェーな学校空間で落ち着いて時間を潰すことができる場所は一つしかない。そこは職員棟三階の一番奥にある図書室だった。パッとしない蔵書と埃っぽさが相まって本好きにさえも煙たがられるようなこの場所を、しかし僕は人が少ないというただそれだけの理由で気に入っていた。琴乃が死んですぐに見つけたいわゆる学校の穴場であるここに、これまでも何度か足を運んだが、その度に人の少なさに驚かされている。今日もこの場所には、ある一人を除いて誰もいなかった。
「よう、小野寺くん」
その一人である男が、貸し出しカウンターの向こうから僕に声をかけてくる。相変わらず、流れの鈍い図書室の空気に似合わないひょうきんな笑顔を浮かべながら。僕は端の方の席を選んで机に鞄を置きながら、彼に会釈を返した。
「こんにちは、渚先輩」
「うん、こんにちは」
渚先輩は髪の毛に癖のある、一つ上の先輩だった。一応図書委員の一人に過ぎないらしいのだが、どういうわけか図書室にはいつも彼しかおらず、僕は図書委員長とやらの顔も知らない。そして誰もいない図書室を退屈に思っているのだろう、先輩は初めて僕が図書室を訪れた時、嬉しそうに話しかけてきた。学校に友達がいない僕と図書室に話し相手のいない渚先輩は、程なくして友人になった。渚先輩は図書室の主を気取るには少しやかましすぎる人だったが、個人的な話はほとんどしないので、僕は結構彼のことが好きだったのだ。
「今日も機嫌が悪そうだね」
僕は椅子の向きを少し渚先輩の方に向けて笑った。
「先輩は今日も楽しそうですね」
「そんなことないよ。こう見えて俺も結構大変なんだから」
渚先輩は、その飄々とした雰囲気からは想像もつかないが、意外にも受験生なのだ。以前、偶然カウンターの台で作業しているのを覗き見たときに、その脇に誰しもが知っている有名大学の過去問題集が置かれていて驚いた。
「あ、小野寺くん。君に読んで欲しい本があるんだ」
先輩はカウンター越しに僕に一冊の文庫本を見せた。先輩はしばしばこんなふうに僕にお勧めの本を教えてくれた。読書初心者の僕にとって、先輩のわかりやすく面白い小説のセレクトはこの広い図書室の海路図そのものだった。僕は今日もありがたくその本を受け取る。それは聞いたこともない海外作家の物語だった。
「ところで、どうして今日は来たの? 俺は嬉しいけどさ。」
しばらくあって渚先輩は、本を読んでいる僕に声をかけた。僕は目線を文字の羅列から外す。
「煙草切らしちゃって」
僕が笑いながら正直にそう答えると、渚先輩はさぞ愉快そうに笑った。
「それは良くないな。ワタナベさんに売ってもらわないと」
そう、渚先輩こそが僕にワタナベさんのことを教えてくれたその人だった。先輩との最初の会話は、今思い出しても訳のわからないものだった。彼は図書室に入った僕に駆け寄ると、何かに気がついたような顔をした後、僕の襟元に鼻先をそっと寄せて笑いかけたのだった。
「君、煙草吸う人?」
初めて学校で煙草を吸ったのがその日だったものだから、僕は臭いで気がつかれたことにとにかく動揺した。
「やっぱり、臭いますか?」
先輩は天然パーマで思いのままに丸まっている髪の毛を揺らしながら首を横に振った。
「普通は気がつかんと思うよ。俺は鼻いいから。あと俺も煙草吸うからな」
そうして笑いながらカウンターの向こうに戻っていった。琴乃が死んで、学校で久しぶりに口をきいた人がこんな調子だったので、しばらくの間呆気にとられていた。そんな僕を気にかけるような素振りも見せず、渚先輩は身勝手に自己紹介をし、身勝手におすすめの本とワタナベさんのことを教えてくれた。
「でも、なんで吸い始めたの?」
思えば、あれが最初で最後に先輩が僕個人のことについて聞いてきたタイミングだった気がする。僕は適当な椅子に腰掛け、先輩が勧めてくれた本をパラパラめくりながら、しばらく考えて答えた。
「死ぬほど嫌なことがあったから、吸い始めました」
彼はまるで僕の声のトーンや瞳の色を見て全ての事情を察したとでもいうかのように、「ふうん」と短い相槌を打って、そこから何も聞いてこなかった。きっと僕の想像がつかないくらい多くの人に愛されている人なのだろうな、と直感的にそう思った。神業に近いその相手との距離感の捉え方に半ば感動を覚えた僕は、渚先輩と図書室で放課後の時間を過ごすことが多くなった。
もっとも、渚先輩は僕のように孤独な人間ではなかった。何度か図書室の外でも彼のことを見かけて挨拶を交わすようになったが、彼の横にはいつも綺麗な女の子や背の高い男子生徒がいた。僕の最初の見立て通り、渚先輩はとにかく多くの友達がいて、どこかで耳にした噂話にによるととびきり美人な恋人もいるらしかった。彼は僕と違って約束と予定の多い人だった。そんなわけで彼が図書室に僕だけを残して早めに帰ることも少なくはなかった。
その日も、渚先輩はしばらく本を読んだり僕と話したりした後に、思い出したかのように掛け時計に視線を向けた。時計の二本の針は五時二十分を指している。
「俺そろそろ帰るね」
渚先輩はくたびれたスクールバッグを持ち上げて肩に下げると、本を開きながらその様子を見守っていた僕に図書室の鍵を手渡した。
「いつも通り鍵かけて職員室に持って行ってくれると助かる」
彼がそうやって図書委員ですらない僕にそういう仕事を押し付けることも、珍しくなかった。僕は毎度のことながら渋々鍵を受け取った。
「帰りたい時に帰っていいから。ほら、人も来ないし」
渚先輩は相変わらずのいい加減な物言いと憎めない人に共通する愛嬌を残して図書室から出ていった。本当に図書室の似合わない人だと思う。
僕は空っぽになった図書室を見渡して、ふうと一つ息を吐いた。几帳面に整列した古い本も、何年前のものかもわからない読書週間のパンフレットも、角の方や隙間にたまったチリと埃も。ほどよく刺激のないこの場所は、渚先輩の存在を抜きにしても十分僕が気に入る要素を持っていた。もし渚先輩の目に届かない方法があるのなら、この図書室を自らの最後の空間とするのも悪くないアイデアだろう。どこかに縄をくくりつけてしまえば、あとはできるだけ古くて厚い本を高く高く積み上げて。重力に身を委ねるように足を離してしまえばいい。うん、それは午睡のように穏やかな最後になるだろう。僕はそんな最後を思い、ゆっくりと目蓋を落とした。
と、ガラガラとドアを引く音がした。先輩が忘れ物でもしたんだろうかとそちらに視線をやる。ところがそこにいたのは、綺麗な女子生徒だった。でもその綺麗さは、図書室の棚の前で思慮深そうに本を選ぶ姿が似合うような綺麗さではなくて、どちらかというと舞台の真ん中で観衆の注目を一身に集めながら言葉を紡ぐ様が似合う、そんな綺麗さだった。つまりは、とにかく華やかな目鼻立ちをした人で、渚先輩ともまた違う意味合いで図書室の似合わない人だった。静かに下ろした長い髪が彼女の歩みに連動して柔らかく揺れている。これほどの美人とうっかり目を合わせ、変な勘違いでもされたらたまったものではない。僕は慌てて視線を彼女から外した。それからはまた自らの死について考えてみたが、案の定一度思考にブランクが入るとなかなか集中力はもたない。仕方なく渚先輩に勧められた本を読み始めた。しかし文章の世界の中でも彼女の顔を忘れられず、気がつけば彼女のことで頭がいっぱいになって。
一般的にはそういう反応をするものなのだろう。確かに彼女は男が一目惚れするに足る要素を全て持ち合わせていた。
ところが実際の僕の反応はそういう不健全に健全な男子高校生的な発想とはかけ離れていた。僕は実に冷め切った気持ちで手の中の鍵を見つめて、間違っても聞かれないような声で「面倒くさいな」と独り言を呟いた。
この学校の閉校時間は、夏の間は午後の六時半であり、本来図書室もその時間まで開いていることになる。今まで僕や先輩は図書室に人が来ないのをいいことに、自分の帰りたい時間に勝手に鍵をかけて帰っていたが、人がいるなら話は別だ。その日、十八時の手前にはここを出てさっさと煙草を買いに行ってしまう算段だったのだが。もし彼女がいつまでもここに居座るとしたら、僕は予定よりもずっと長い時間この学校にいなければならないということになる。なんで図書委員でもないのに、他人に気を使って帰る時間を決めなければならないのか。
さっさと帰って欲しいな、そう思った。
そうは願っても虚しいものだ。結局僕は、十八時半の五分前に響く校内放送を図書室の中で聞く羽目になる。ずいぶん長い間図書室にいた。来たばかりの時明るい西日と伸び切った影で二色に分かれていた図書室は、今ではすっかり忍び込んできた薄い夜の色に変わっていた。入り口の壁にかけられた避難口を示す緑色の光が人魂みたいに朧げに浮かぶ。別に家に帰ってもすることなどないので構わないといえば構わないのだが、他人が自分の行動の決定に関与してくるのが我慢ならなかった。本来僕が図書室にいるはずのなかった三十分で読み切ることができたこの小説も、はっきり言って全然面白くなかった。それもまた、僕の神経を逆撫でた。僕は聞こえよがしに大きなため息をこぼした。別に僕の怒りが彼女に届かないことなんて百も承知だったが、そうせずにはいられなかった。それから女子生徒の方をちらりと覗き見て、今度は腹の底から本当のため息が出た。僕の考えなんて知る由もない女子生徒は、幸せそうな顔をしながら長机に突っ伏して眠っていた。これを起こすのも僕の役目らしい。
うんざりしながら鞄を肩にかけて、彼女の方に歩いていった。僕の知る限りで一番乱暴な起こし方をしようと思った。強く肩を揺すった後に、寝起き端の彼女に「迷惑だ」なんてきつく言い放てば、こいつは二度と図書室に来ないだろう。そう言ってやろうかなんて思ったりもしたし、むしろ言ってやる気満々だった。
でも、僕は彼女の肩に手を伸ばして触れそうになるその直前に、突然思いやめてその体勢のまま固まった。目が彼女の寝顔に釘付けになったのだ。
昔のことが蘇った。それは小学生の頃、僕の部屋で琴乃と二人、一つのコーヒーテーブルを分け合うように使いながら一緒に漢字力テストの勉強をしていた時のことだった。僕と琴乃はカリカリと机の上で練習帳に漢字を書き続けている。たまに琴乃が僕に話しかけて、二人の鉛筆の音が一旦止まって、しばらくするとまた思い出したかのように勉強を始める。そんな穏やかな午後のことだ。ある時、僕は自分の鉛筆の音しか聞こえないことに気がつく。顔を上げて、「琴乃?」と尋ねかけそうになって、その声を必死に飲み込んだ。琴乃はコーヒーテーブルの上で顔を半分ぺしゃんこにしながら眠っていた。
「琴乃」
改めて僕は、細々とした声で呼び掛けた。琴乃はすうすう眠っている。呆れた僕は、声を殺しながらも笑ってしまう。
「勉強しようって言ったのはそっちじゃないか」
僕は鉛筆を置いて、琴乃の寝顔を見ていた。それだけだった。
特に何があったわけでもない。そんな何でもない思い出を、なぜか今思い出してしまった。なぜかこの女に、かつての琴乃を重ねてしまったのだ。僕はあの日の琴乃のようにすやすや眠っている彼女を起こすのが躊躇われて、しばらく同じ体勢のまま彼女を見ていた。
すると、空気が変わったのを感じたのか、それとも些細な物音を夢の世界で聞いたのか、彼女がゆっくりと目を開けた。暗い図書室の中で彼女の瞳は闇を弾いて艶々と煌めいて、そして確かに僕と目が合った。
かなり焦った。眠っていたはずの彼女に手を伸ばしながら膠着しているという今の僕の状態を、彼女の視点から見てみるとどうだろう。自分が寝ている間に、見知らぬ男が迫りかかったようにしか見えないだろう。何も後ろ暗いことはないはずなのに、僕は自分が大罪を犯したような気分になった。
さて、そんな彼女は大きく瞳を見開いて、でも、それだけだった。驚きにのけぞるわけでも、恐怖に悲鳴を上げるわけでもない。ただ、僕を見つめながら言葉を探している様子だった。
そうして、ただでさえ静かな図書室に、本たちの呼吸が聞こえるくらいの透き通った静寂が落ちた。その間は、一瞬だったようにも数秒続いたようにも感じる。やがて彼女はビー球みたいな澄んだ雫を一滴だけ、目から落とした。
「えっ」
驚きのあまり僕は息を飲んだ。彼女はふと我に帰ったみたいに視線を逸らし、慌てて隣の椅子に置いてあった鞄を拾い上げると身体を低くしたまま立ち上がった。
「えっと。ごめんなさい」
その見た目に劣らないくらい綺麗な声でそう言って、そして逃げ出すように僕の元から去っていった。いや、あれこそがまさしく逃げ出すという感じだった。まるで強い風が吹いたかのような出来事の前に僕はただ呆然としていたのだが。
「帰るか」
結局のところは、あまり深くは考えないことにした。どうせ僕には、手元から落ちる評判も守る物もない。これで醜聞が広まっても、どうだっていいさ。手の中で鍵を鳴らしながら、僕は図書室を後にした。
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