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「遅せぇぞ」


 襖の向こうに人の気配を感じていつものように呼びかける。


「これでも急いで来たのですけれど」


 すーっと煙が立ち込めるような静けさで襖が開くと、柔い赤の打掛に身を包んだ夕凪の姿があった。

 金魚の赤がそのまま水に溶けたような、何度見ても不思議な色だ。

 

「そんなに私に会いたくて堪らなかったのですか」


 掛け合う言葉はほんの戯れ。

 こんな皮肉は遊女と客の言葉遊びに過ぎない。


「どうせなら、昼見世の時間から買ってくだされば良いのに」


 しかし相手がこの女でなければ、既に命は無かっただろう。

 こんな口を利かれてもまだ生かしている。俺の仲間が聞いたらどんな顔するかね、と想像して口元を緩ませ、そのまま夕凪へと顔を向ける。


「俺はそんな暇じゃねぇんだよ。お前こそ、いつ来ても空いてるじゃねぇか。座敷持ちというのは随分と暇らしい」

「夕凪はおっかねぇ眼した男の手付きだ、あのナリは堅気じゃねぇって皆が噂して——。そのお方が来ると、ついてた客は皆怖がってはやく切り上げてしまうんですよ。一体誰のことでありましょうね」


 思わぬ返答に、一瞬次の言葉を選ぶための沈黙が生まれた。

 それを埋めるように煙管をくわえて肺一杯に吸い込み、ゆっくりと吐き出す。


「……そりゃ悪かったなあ」


 夕凪と知り合って随分と経った。

 しかし今でも、その恐れを知らぬ物言いには驚かされてばかりだ。


 客に向けるものとしては満点の美しい笑みを浮かべてはいるものの、僅かに毒気を感じるのはその小さな唇にひいた紅のせいか。

 不敵な笑みに、毒を湛えた口調に、初めて昼見世でその姿を見つけた時のことを思い出す。

 張見世の格子の隙間から吸いつけ煙草の煙で俺を誘った物憂げな目が、今は目の前にある。

 どれ程強く欲した物でも、手に入れた途端に興味を失うのが男という生き物だと思うが——幾夜肌を重ねても手に入らないもどかしさが、一切の媚びを見せない夕凪の性格が、ますます俺を惹きつける。

 

 触れれば逃げる、金魚のような女だ。


「まぁ、でも……」


 紫煙を吐き出しながら横目で夕凪を見やる。

 

「俺も観賞用の金魚を独り占めするなんて無粋な真似はしたくねぇ。お前が困ってるっていうんなら……今日は他の奴に譲るとするかね」


 わざとらしくそう言ってやると、夕凪はぴくりと眉を動かした。


「……本当に酷いお方」


 その言葉を受けて、喉の奥で笑う。


「でも……悪かねぇだろ?」


 小さな顎に手を掛けて顔を持ちあげると、夕凪は俺の手を両手で取り自身の頬を擦り寄せ、何度も唇を落とす。

 しゃらしゃらと簪が音を立て、柔らかな黒髪が揺れた。


 「ならば私も……」


 呟いて、夕凪がふっと目を伏せる。

 

 長い睫毛が白い頬に影を落とし——やがてゆっくりとした動作で、睨めつける様な上目遣いを俺に向けた。

 橙色の瞳の奥、水面のように揺らぐそこに自分の姿が浮かんでいるのを、どこか他人事のように眺める。


 「貴方がここへ帰ってくるように印をつけておきましょう」


 そんな言葉を、囁いた。


 穢れのない少女のような瞳をしておきながら、いつの間に覚えたのかと思うような、艶を含んだ声だった。

 同時にピリッとした痛みが左の小指に走る。


「おいおい……金魚に牙なんざ無かったはずだが」


 満足気な表情で俺の指から口を離した夕凪は、躊躇いなくすっと身を引き、距離をとって座り直す。

 微塵の名残惜しさも感じさせないその態度に、また金魚が指の間をすり抜けていくような感じがした。

 

「今夜は随分と大きな月が出ていますね」


 夕凪の視線を追って窓の外へと視線を移す。

 藍色の夜空に浮かぶのは、今にも零れて落ちてきそうな青月。


 その月明かりに照らされた俺の左小指には、くっきりと噛み跡が残っていた。

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金魚姫 日比 樹 @hibikitsuki

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