第10話

 こうしてスキューバはどこかへ行ってしまった。きっとしばらくすれば、どこかにひょっこり現れるだろう。

 その通り。ここで新事実の発表がある。

 日下奈津が死んだのは、現在からだいたい5、6年前だが、その死因は、病気によった。死の定義はさまざまだが、ここでの“死”は法根拠に基づくものだった。つまり、医者が判定したところによる死である。

 スキューバは知らなかったが、実家から距離を離したところには、日下家が所有する小さな研究施設があり、流体力学の研究をしている。日下奈津は、そのメインラボの培養液の中で生きていた。

 事情はこういうところである。5、6年前、日下奈津は死に瀕し、母親とある計画を話し合った。悪魔の召喚だ。悪魔、といってもそれは本物の悪魔ではない。日下奈津は以前から“夢世界”のポテンシャルに着目していた。「“夢世界”というのは――筧江渡も言っていたが、凄く不安定なものなんだ。“現実世界”と同じ特性を持っていながら、“現実世界”と違い、その実在性は、極めて危うい。起床という、ぜったいに起こるだろう現象によって、その形を失ってしまうからね。人工元素みたいに脆いんだよ。でもね、夢世界は現実と違って簡単に法則を破ることができる。脳が創世のいちぶを担うことで、それこそ神に等しい能力を持っているからだ。夢の中では思い込みの続く限り、どんなことでも起こるんだよ」

「それで、わたしに必要なのは、わたしだった。“流体”の研究は割り合いうまくいっていたけれど、まだ全部自由にできるというほどではない。“流体”を用いた移動には、ある程度の精密さが必要になる。でなければわたしはただ、バイオ生成した魂のない人間の体に乗り移るだけでいいんだからね。でもわたしにはわたしの体が必要だった。自分の体以外では拒否反応が起きて、それこそ死んでしまうかもしれない。人間が不死の魂を持っているからと言って、アイデンティティを失いたいとは思わないからね。そこでわたしは、自分の肉体をどこからか持ってこなければいけなかった。選択肢は一つしかなかった。“夢世界”だ。そしてわたしは“夢世界”から連れてこようと考えた時点で、その方法を思いついていた。もうわかるよね。それがスキューバなんだよ」

「つまりどういうことかというと、スキューバというのは、夢魔だよね。夢魔というのが何かといえば、夢と現実を行き来できる存在だ。わたしは夢の中で夢魔になる必要があった。わたし、と言っても本物のわたしではないよ。“夢世界”のわたしだ。わたしとお母さんは人間を一体買ってきて、徹底的に洗脳した。わたしが夢魔であるということをね。そして、一つの夢をながく続けさせるために、脳の一部を破壊した。それは、時の流れをつかさどる部分だよ。これは一発勝負だったね。その一つの夢が続いているうちに破壊しなければ、夢は次の夢に移行してしまう。それじゃせっかくの刷り込みも意味がない。わたしたちは人間がわたしが夢魔であるという夢を見ているタイミングでその器官を破壊し、わたしという夢魔を普通よりずっと長い時間、生かすことに成功した。そうそう、忘れてはいけないが、ありとあらゆる感覚器官を破壊しなければ、この試みはうまく行かない。なにせ“夢世界”は現実でうつぶせになって寝たりするだけでも、影響を受けてしまうからね。純粋な“夢世界”を構築するうえで、感覚器官はまったく邪魔だ。それでも第六感というものがあるのだけど……これに関しては、うまく行ったからうまく行ったとしか言いようがないね。いちおう、第六感は“流体”を感じ取る器官として知られているわけだから、そこをせき止めようとしたりしてみたけれど、うまく行った理由は明確じゃない。結局、七十三人の人間が犠牲になってしまった。わたしたちは“夢世界”に“流体”のパイプラインをつくり、そこからわたしという夢魔が出られるようにした。念のため、最後に、出現先をヤギの胎にした。これも方法は洗脳だ。夢魔はそういう生き物だというね。まあ大丈夫だろうとは思ったけれど、召喚ではなく誕生という過程を経ることで、こっちの世界に馴染みやすくなるだろうと考えたんだ。結果はどんぴしゃ、うまく行ったね」

「でもまあ、今、こういう状況だってことは、想定外のことがあったということだと分かるだろうな」

「そう。うまく行ったよ。でもわたしはちょっと欲張ってしまった。彼女を少し見ておきたいと思ったんだ。お母さんを説得して、わたしはあの子がどんな風な生命体なのか観察した。これがいけなかったね。少しなら大丈夫だと思ったけど、ダメだった。“夢世界”におけるわたしとあの子は、完璧にシンクロしていたのに、こっちに来てしばらくすると、移れなくなってしまった。たぶん原因は、時間が動き出してしまったことだ。わたしとあの子は、移動に必要なだけの精密さを互いに持っていたけれど、時間が動き出し、あの子のステータスが移行したことで、精密さが失われてしまったんだよ」

「こうなったんだ」と培養器が言った。「すごく面白いね。悪くない結果でしょう」

 そこは研究所のメインルーム。その場には日下奈津の母と、日下奈津(わたし)がいる。

「だから早く移動すればよかったのよ。そうすればあそこにいるのは今頃、奈津、あなただったはずよ」

 母はわたしに言った。

 返答はすぐに帰ってきた。

「いいじゃない。楽しそうだよ」

 母は日下奈津と同じほうを見た。そして、娘がそう思うなら、と自分を納得させようとした。その試みがうまく行ったかはわからない。でも今のスキューバに手が出せるのは、事実上日下奈津(わたし)ただ一人だった。そしてわたしはスキューバの今に満足していた。なにを言うとしても、それがすべて、それで間違いがない。


 最後にもう一つだけ。今現在もっとも著名にしてもっともその存在を認められてきた夢魔、インキュバスとサッキュバスは中世には姦通の弁明としてよく使われた手段だった。彼らは時代と宗教に密接に関わり、絶えることなく男女の誘惑に関わってきたのである。

 夢魔という存在がいったどんなものなのか、その見解もやはり、時代や主張する人物によって異なっている。云うに、姦通という罪を犯させるための存在、古くから確立された誘惑者としての悪魔だということ。云うに、男性から精をしぼり、女性に流し込むことで自分たちを増やそうとするという、生殖を目的としているのだということ。云うに、悪魔とは元来みだらな存在であり、彼らが性交渉に及ぶのは、快楽のためだということ。中でもユニークなのは、J・K・ユイスマンスの小説に登場するジェヴァンジェーという占星術師の意見だろう。彼は夢魔を死体や汚れといったものに、魔術師が魔術をかけ、“流体”によって形を与えられた呪物としてあつかった。夢魔は悪魔ではないと定義したのである。しかしながら、つまるところ、夢魔というものは、けっきょく、悪魔か、悪魔のようなものであり、信仰を穢す存在だった。そもそもインキュバスというのは、単に“上にのしかかるもの”という意味だが、サキュバスの語源となった“SUCCBA”は”不倫、不義という意味での愛人“を意味している。夢魔はあらかじめ不義であることを宿命づけられていた、というわけだ。

 産み落とされてしまったものは仕方ないが、ずいぶん不愉快な宿命を背負わされているものだ。そうは思わないだろうか。まあ、彼女に祈りは必要ないだろうし?祈りをありがたがったりしないだろうが。 

                                   了

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倒錯する夢魔 柏木祥子 @shoko_kashiwagi_penname

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