第9話

 筧江渡の葬式は、十一月のはじめに行われた。死因は安楽死だった。あの戦いのあと、筧江渡は自我を失い“現実世界”において植物状態となってしまった。唯一の親族である筧恵美は弟の体に触れて、その中に“流体”がないことを確認すると、医者に安楽死をお願いした。筧恵美は、その原因があの少女にあることを、はっきりと理解していた。不思議と恨みは感じなかった。それよりも喪失感のほうがはるかに大きく、次いで、筧恵美はスキューバをただ一人の同胞として意識する感情があった。

 話したかったのにスキューバは筧江渡の葬式には現れなかった。考えてみれば当たり前のことだが、筧恵美にはその行動が、あてつけがましく、もしくは、罪悪感からくるものだと思った。筧恵美は葬式の進行を、企業に委託するところまですべて一人でやった。恵美は怒りと失望と悲嘆をスキューバに対して感じ、そんな自分を恥じた。“流体”を通じてスキューバへ話しかけてみるが、反応はない。学校には行っているようだ。葬式に来てくれたクラスメイトに訊いてみると、彼女は変わらず登校していると言っていた。筧恵美は、スキューバへ会いたくなって、早めに学校への復帰を果たした。スキューバは教室にいなかった。保健室にもいなかった。

 木枯らしが恵美の内側をゆらし、心細さが身に沁みた。

 廊下を歩いていると、知らない子から“大丈夫ですか?”と話しかけられた。“どうして?”と問うと、まるで一人で生きているようだからと返された。恵美は“流体”に導かれるようにして、屋上のドアを開いた。そこにはあの、不愛想な顔の、小柄な少女が、じっと遠くの方を見て、黄昏ているように見えた。

「日下さん」と恵美は声をかけた。少女がこちらを向いた。恵美はなぜだがドキリとした。心臓が早鐘を打っているのが分かった。「日下さん」と恵美はもういちど声をかけた。「こんなところにいた。どうしたの? どうしてこんなところにいるの?」

 スキューバは一拍置いた。息を吸い、なにかを話そうとし、やめ、そしてまた話そうとして、どうしてというと、と言った。すごく恥ずかしい話なんだけど、わたしはなにか目覚めたような気になって、なにか決まり事を破りたくなったのだ、と続け、はにかんだ。

 恵美はまたドキリとした。こんどはなぜかわかった。あんなに怖がっていたスキューバが、今は恵美の目を見据えていたからだ。

“こんなに印象的な目をしていたかしら”

 と、恵美は思った。

“こんなに視線を離せなくなってしまうような、強い目をしていたかしら”

 と、恵美は考えた。

「変わった変わったと自分の中で思ってみても、あんまりそうでもない部分もあるんだって、今さっきわかった。わたしは無理ができる夢魔ではないみたい」恵美はスキューバの目に惹かれていた。

「あなたが――以前のように優しさとか、そういうものを持ってわたしに会いに来たんじゃないのは、わかってるよ。これでも感謝してる、と言ったら、ウソになってしまうけれど。わたしはそれなりに今、あなたに愛着を持っているよ」

「それは、どういうこと?」

「わたしはあなたと同じじゃなかった。わたしは夢魔で、あなたは、少し不思議なことができる、人間、そういうこと」スキューバは言った。そして、恵美に歩み寄り、その目の前でウィッグを外した。恵美はハッと息をのんだ。ウィッグの下には、白い髪と、立派な角が生えていた。

「ごめんなさい。わたしにはあなたの孤独を癒してあげることはできないし、寄り添ってあげることもできない。それを……言わなきゃいけないと思ったの。わたし」

 恵美は寂しさをぐっとこらえた。泣き出したくなるのを、ぐっとこらえ、スキューバの頬に手を添え、さようなら、と言った。心配しなくても、私は大丈夫だからと言った。

 その言葉は“流体”を駆け巡り、恵美の体にじんと馴染んだ。恵美の目から涙が零れ、目を閉じ、そして開くと、スキューバはまだそこにいた。

「んもう、かっこつかないんだからさ」

 スキューバは手をかかげた。


 その場から去った後、スキューバは頭の中で考えた。

 本当にわたしはこれでよかっただろうか。筧恵美がどこかへ――スキューバにはなぜだかそう思えた――どこかへ行ってしまったあと、わたしは一体どうすればよいのだろうか。思えばわたしはなにもしていなかった。スキューバは空腹を感じ始めていた。自分がなにを望んでいたのか、憶えていないわけではなかったが、それはうすぼんやりとして、一言一句を浮かべることはできず、ただ漠然と、そのような望みがあったのだという記憶だけになっていた。スキューバは不安になった。あの、筧江渡がわたしに魂の灯を見せた瞬間、わたしの体は燃え、そして、意識さえどこかへ行ってしまったのではないかと。あの時感じた解放感は、もしかすると“死”そのものだったかもしれない。わたしにも不滅の魂はあった。だがこうして見つけてみれば、魂というのはなんて冷たい物質なのだろうか。スキューバにはそう思えてならなかった。“魂はわたしに寄り添わない”“いつもわたしの中にいる”それはきっと寂しさだろう。となりに誰もいない寂しさだろう。濃霧の中に誰もいない寂しさだろう。霧は濃く、どこまでも続いているのがよいのか。悩むことが悪いのか、悩めないことが悪いのか。スキューバにはもちろん、答えがわかっていた。解決する手段にも、差し当たって、思い至っていた。そしてその事実が、更なる寂しさを生むのだった。「世界を滅ぼそう。そして、この世を火の世界に戻してしまおう」スキューバは独り言ちた。スキューバのこの、投げやりな宣言は、彼女の頭に、順守すべき命令のように張り付き、しばらくするとアイデンティティの一つとなった。それは永遠にかなえられることのない命題だった。

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