第4話

 菅原本部長のアパートは長崎港の近くにある。そのアパートが何者かによって爆破された。凶器はC4爆弾でもダイナマイトでもない。

 C-4またはコンポジションC-4は、アメリカ軍をはじめ世界的に使用されている軍用プラスチック爆薬の一種。TNT換算で約1.34倍の威力があり、3.5kgあれば幅200mmの鉄製H鋼を爆発の一撃で切断が可能。粘土状であるため、固形爆弾では難しい隙間にも詰め込められる。さらに、耐久性・信頼性・化学的安全性が高い。衝撃による暴発はまず無く、火に投げ込んでも単に燃えるだけであり、確実に起爆させるには起爆装置や雷管を要する。


 イギリス軍ではプラスチック爆薬はPE4と呼ばれる。C-4とPE4はともにオフホワイトの固体で、その爆発性特徴や組成もほとんど同一だが、使われる可塑剤のタイプと割合が異なる。


 少量では燃焼するため、ベトナム戦争時には固形燃料の代わりとしても用いられた。ただし、主成分のRDXなどは毒性がある。爆発した際にはオレンジ色の閃光が発生する。陸上自衛隊でも使用され、施設科では新隊員後期教育訓練期間中に行われる爆破訓練でC-4も使用する。


 なお、噛むと甘い味がするといわれているが、前述のとおり主成分のRDXなどには毒性があるうえ、最近のもの(日本においては1997年(平成9年)以降)は爆発物マーカーとして有毒なエチレングリコールジニトラートを微量に含んでいるため、口に入れると中毒症状を起こす。2008年8月には陸上自衛隊の訓練にて教官が志願した隊員にC-4を舐めさせ、24人が病院へ運ばれる事態が発生した。


 ダイナマイトは、ニトログリセリンを主剤とする爆薬の総称。アルフレッド・ノーベルが最初に発明したのはニトログリセリンを珪藻土にしみ込ませたもの。現代の日本においては、社団法人火薬学会の規格では6%をこえるニトロゲルを含有する爆薬の総称と規定されている。


 暗殺者が菅原を殺すために使った凶器はガソリンが付着した洋服だ。そいつを菅原が風呂に入ってる最中に洗濯機に入れて回した。それによって洗濯機が爆発したのだ。洗濯機はぶっ壊れたが、菅原は火傷くらいで済んだ。

 菅原には武者小路優里むしゃのこうじゆりという愛人がいた。長崎の繁華街、思案橋しあんばしにあるクラブ『ピクシー』のキャバ嬢だ。

 思案橋は長崎市で丸山と並んで大きい歓楽街である。 最寄り駅は長崎電気軌道思案橋停留場。 橋としての思案橋は無く、川は暗渠になっている。

 街の名前はこの先にあった日本三大遊郭と言われた丸山遊郭(現在の長崎市丸山町・寄合町)に行くか行かないか思案したことから思案橋と言うことに由来する。

 長崎県警捜査一課の呂宋右近るそんうこん警部補は事件現場にいた。リビングは辛うじて爆破から免れた。テーブルの上のスマホのフォトを調べたら檀蜜だんみつみたいな美女が写っていた。それが優里だ。

「愛人の優里だったら、ガソリンまみれの洋服を洗濯機に入れるくらいそう難しくない」

 右近は部下たちに優里を探し出すよう命じた。


 安吉と霧子はレンタカーのN-BOXで丸山町にやって来た。

 丸山は、寛永末 - 1956年(昭和31年)の間に栄えた長崎の花街(遊女・芸者などの集まる街)。現在の長崎県長崎市丸山町・寄合町のことを指す。鎖国令によりオランダ商館と同様に寛永18年(1641年)、平戸の丸山から名称と共に移設された。

 寛永末頃の集娼制度設立により、寛永19年(1642年)に市中の遊女屋が全て丸山の地に集められたのが始まりである。外国人を対象とした遊郭としては当時唯一のものであり、丸山遊女のみが唐人屋敷や出島に出入りすることを許されていた。後にその区域も整備され町名も太夫町から丸山町・寄合町に変更された。1956年の売春防止法公布により遊廓としての丸山は終焉した。


 その始めは文禄2年(1593年)、筑前博多の花街、柳町の若干の遊女を古町、桶屋町、今博多町に移住させたことである。その数は次第に増え、博多町、大井手町、紙屋町、古町、八幡町、伊勢町などに散在していたが、寛永19年(1642年)に丸山町、寄合町にひきまとめた。延宝版「長崎土産」には「丸山町遊女屋五十九軒遊女三百三十五人内太夫六十九人、寄合町遊女屋四十四軒遊女四百三十一人内太夫五十八人」とある。


 元禄ころの状況を伝えるケンペルの紀行には「長崎の丸山は京の嶋原以外では、他に見られぬ艶麗を表現している」とあり、花月楼の鶴の枕は、唐の玄宗皇帝の楊貴妃の遺物であると伝わり、遊女の服装が華やかだったことは、小唄「京の女郎に長崎衣裳、江戸の意気地にはればれと、大坂の揚屋で遊びたい」とあるほどで、井原西鶴の「日本永代蔵」には「長崎に丸山と云ふ所なくば、上方の金銭無事に帰宅すべし」とさえ評された。


 現在でも、長崎花柳界として「長崎検番」のもと、20人前後の芸妓達が健在である。

 2009年5月に丸山公園内に坂本龍馬の銅像が建てられた。


 2人は鍋料理屋に入った。あまりの寒さに霧子の手は悴んでいた。

 和風な店だ。2人は掘りごたつに入った。

「あったけ〜」 

 ポカポカしてるから安吉は眠くなってきた。

 店によっては御品書が人数分置いてあるところもあるが、この店には1つの席に1冊しかない。霧子は後輩なので先に見るわけにはいかない。

「注文しないの?」

「先輩先にどうぞ」

「親の躾がいいんだな……奢ってやろうか?」 

「いや、悪いですよ」

「いつも頑張ってくれてるから、たまにはご褒美してやんないとな?」

「それじゃあ、お言葉に甘えさせて頂きます」

 店内ではZOOの『チューチュートレイン』が流れてる。

「EXILEもカバーしてるけど、俺的にはこっちの方が好きだな?」

「あっ、そういえば声が違いますね?」

「ZOO知らないの?」

「動物園なら私だって知ってますって……」 

「違う違う、ZOOってのはグループ名」

 ZOOは、日本のダンス&ボーカルユニット。1989年結成、1995年12月25日解散。別グループとして「Zoo Jr.」が存在する(後のDEER)。

 霧子は具雑煮ぐぞうにを注文した。長崎県島原地方の郷土料理だ。

 島原藩領だった島原半島一帯で作られている郷土料理で、正月の食事に供される。

 餅、野菜、鶏肉、魚介類などの具を豊富に入れて煮込んだ雑煮である。だしにはカツオやいりこ、あごやこんぶを用い、具には鶏肉、高野豆腐、蒟蒻、里芋、白菜、椎茸、春菊、大根、ごぼう、人参、法蓮草、蒲鉾、丸餅などを使用する。使う材料は地域や家庭によって、まちまちである。

 島原の乱の最中、天草四郎が、民たちに餅を兵糧として蓄えさせ、山や海の食材を集めて雑煮を炊いたと言われ、これを「具雑煮」の起源とする説がある。姫松屋初代糀屋喜衛ェ門が1813年(文化10年)に味付けを変えて生み出したのが「具雑煮」のはじまりと主張する説もある。

 

 安吉はふぐ鍋を頼んだ。

 ふぐ鍋は、魚の切り身鍋を指す「ちり」をつけて「ふぐちり」とも呼ばれる。関西では特に「てっちり」とも呼ばれる。

 ふぐ鍋は、昆布などで取ったダシ汁に、フグの切り身や骨を野菜などと一緒に土鍋に入れて煮込む。付けダレとして、ふぐ刺しと同様にポン酢を用いることが一般的。江戸前(江戸料理)のふぐ鍋では、割り下に大量の醤油と砂糖を用いた、非常に甘辛い味付けも好まれた。

 鍋を食べた後に鍋の残りを塩で味を調整して、ご飯を入れて煮立たせると、ふぐ雑炊となる。

 

 次の曲は今井美樹の『雨にキッスの花束を』だ。

「『PRIDE』もいいですよね?」

「若いのによく知ってるね?旦那さんの布袋寅泰はBOØWYのメンバーだったんだよ」

「あ〜、吉川晃司さんとか氷室京介さんですよね?」

「吉川はBOØWYじゃないよ」

 頼んでいたものが運ばれてきた。熱々で美味かった。

 店から出ると拳銃を持った奴がいた。スリーブダガーのメンバー、世羅哲也せらてつやだ。ボスの桜庭は長崎出身で、幼い頃に菅原にいじめられていた。小学生の時はズボンを脱がされたり、殴られたりした。中学生の時は暴力だけじゃなくカツアゲをされた。10年前のバステロのとき、菅原もバスに乗っていたが運良く死ななかった。

 世羅は食品工場や自動車工場を転々とした挙げ句、婚約者に逃げられた。

 桜庭は大学時代、世羅を教えていた。優里もゼミ生だ。腐りきった社会を変える為にスリーブダガーに入った。

 世羅が銃の撃鉄を上げた。

「ケフケフ!」

 霧子が呪文を唱えると、暗雲が立ち込め竜巻が現れた。🌪鶏を食べると風魔法を使えるようになり、縁談がうまくいくようになり、血管や毛髪、腸、呼吸器が強くなる。

 家屋の全半壊、合わせて243棟、走行中または駐車していた自動車の1000台以上が飛んできた破片が突き刺さったり倒れた樹木の下敷きになった。10tダンプカーも横転した程の凄まじさであった。

 倒壊家屋の下敷きとなり、世羅が死亡した。

 血管や呼吸器が強くなったことで息切れがしなくなった。メチャクチャ早く走り、霧子は風に飛ばされずに済んだ。

「松永さん、ずっと好きでした」

「俺もだよ」

「結婚してもらえますか?」

「オッケー」

 松永のケータイが鳴った。江戸川健斗えどがわけんと、スリーブダガーに潜入してる松永の部下だ。秋正成の暗号を残したのも彼だ。

《ボス、轍を殺したのは桜庭です。桜庭は、足を引っ張ったって理由で世羅に命じて、京都の観光ホテルで轍を毒殺させたんです》

「血も涙もない」

《桜庭は仕事を失敗した優里も殺そうとしています》

「桜庭はどこにいるんだ?」

《高島炭鉱近くの廃ビルです》

 高島炭鉱は、長崎県長崎市高島(旧西彼杵郡高島町)にあった日本の炭鉱。日本最古の大手資本による採鉱で栄えたが、1986年(昭和61年)11月27日をもって閉山された。端島炭鉱とともに、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」(全23資産)の構成資産として世界遺産リストに登録されている。

 

 高島炭鉱の歴史は、1695年(元禄8年)に肥前国松浦郡江迎の五平太が石炭を発見したことが始まりとされ、その後幕末の1868年に佐賀藩とトーマス・グラバーが共同出資で採掘を始め、国内初の立坑(北渓井坑)を開削した。明治に入り佐賀藩から後藤象二郎が買い上げ操業を開始し、英国人鉱山技師エラスムス・ガウワーが近代化を試みるがうまくいかず(これを前後とした1873年に官営となっている)、1881年、同じ土佐藩出身の岩崎弥太郎率いる三菱財閥に権益を譲り、本格的に採掘が開始される。4月25日岩崎は後藤所有の高島炭鉱を譲受け、その代償として後藤の政府宛未納金25万円を肩代わりした。以来近郊の伊王島・端島の炭鉱とともに西彼杵炭田の一角として1世紀以上にわたって日本のエネルギー経済を支え続けた。


 炭鉱では「納屋制度」と呼ばれる過酷な雇用制度が取られ、「二度と帰れぬ鬼ヶ島」と恐れられた。会社と納屋頭による二重の搾取、非人間的な労働環境、逃亡者はリンチによって見せしめ的に殺害されるなど、そのあまりに過酷な雇用形態は霧子が以前勤務していた派遣会社『根来ねごろ工業』に似ていた。

 通話を終え、松永は霧子に桜庭が高島炭鉱にいることを伝えた。

「漸く、父や母の敵が討てるのね?」

 霧子は世羅が落としたニューナンブM60を拾った。ニューナンブM60は、新中央工業(後にミネベア(現・ミネベアミツミ)に吸収合併)社製の回転式拳銃。1960年より日本の警察官用拳銃として調達が開始され、その主力拳銃として大量に配備されたほか、麻薬取締官や海上保安官にも配備された。生産は1990年代に終了したが、現在でも依然として多数が運用されている。


 2人は鬼ヶ島にやって来た。

「パパ、ママ待っててね?」

 霧子は銃をきつく握りしめ、廃墟を睨みつけた。

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スリーブダガー あなたの心を離さない“食いしん坊な”あの子 鷹山トシキ @1982

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