綾瀬の制止を求める言葉に気に留めず、講堂を出て一目散に走る。目的地はない。今は現実が化け物のように思え、嗚咽を喉に押し込める。心が孤独を求めている。

 そうして訪れたのは屋上でも、河原でもなく、いつもの空き教室だった。文化祭だというのに使用されていないそこは、黄昏な雰囲気を醸し出している。


「はぁはぁ……私、何をしているんだろう……本当に馬鹿だ……」


 浮かれてしまった。ライブが成功したから、初めての告白をするからと言っても、あんな風に理性を失うのは酷いだろう。

 もう誰にも顔向けできない。全校生徒に黒歴史を作ったようなモノなのだ。今頃、講堂は笑いに包まれていて、文美に至っては軽蔑の眼差しを自分に向けるに違いない。

 残酷な現実に絶望した詩音は教室の隅で、胸を覆うように肩を丸めてぺたりと座り込んだ。胸の奥から湧いているのは後悔ばかりで、自殺や失踪といった物騒な考えまで脳裏に過る。

 刹那、教室のドアがガララッと音を立てて開いた。


「詩音……やっぱり此処に逃げたのね」


「ご主人様……」


 入ってきたのは文美で、詩音を追ってきた様子だった。


「こんなところに来てどうかしましたか? 私に何か用ですか?」


 追ってきてくれたのは嬉しかったが、合わせる顔がない。そう思えば自然と冷たい態度になってしまい、詩音は悪びれた様子でそっぽを向いている。


「そうよ。さっきのことについて、貴女と話そうと思って……」


「っ!」


 先ほどの光景がフラッシュバックした詩音は慌てて文美へ近寄って、足元に縋りついた。


「ごめんなさい! 嫌いにならないでください! ご主人様……お願いします。嫌いにならないでください。私、私……」


「嫌いになんてなる筈ないでしょう? それよりも、さっきの言葉は本当なのよね?」


「はい……」


 嘘を吐く余地もなく、詩音は素直に首肯した。


「ならもう一度聴かせてくれるかしら?」


「え?」


「ほら、立ちなさい」


 文美は膝から崩れていた詩音を立たせた。その表情はいつもの毅然とした様子で、欲望をぶつけられたと言うのに嫌悪感には満ちていない。

 告白するのは勇気が必要だ。しかし、二人だけの空間で告白するのは、先ほどのライブ後よりもハードルが低く、尚且つ失う物もない。だから詩音はもう一度、気持ちを紡ぐ。


「私、最果詩音は、一人の女の子として、ご主人様を愛しています……」


「そうなの? 私も愛しているわよ?」


「違うんです……私はもっと深い関係になりたくて――んっ……」


 言葉を遮るようにキスをされた。唇同士がくっつくだけの接吻だ。

 突然のことに詩音は目を見開いて、唖然としてしまっている。ボディタッチや傍にいること以上の高揚感、幸福感。心がぼんやりとしていて時間の感覚がなくなった。

 やがて文美の顔は遠のいて、二人の口を銀色の糸が繋ぐ。


「ど、どうして……」


「だから私も愛しているの。元よりそのつもりよ」


 面映ゆそうにしている文美は詩音の腰に腕を回す。逃さないとばかりに彼女を抱き寄せた。そして、もう一度行為に及ぶ。お互いの愛を確かめるかのような深いキスで、詩音の口内に舌を忍ばせた。深い、深いところまで繋がる。

 そんな時、僅かに残っていた詩音の理性が文美を押しのけた。


「んっ……で、でも! ご主人様にはその、彼氏が……」


「彼氏? そんなのいないわよ?」


「え? でも……」


「……もしかして私の弟と勘違いしているんじゃない?」


「弟……弟さんですか!?」


 慮って見ればあの青年、確かに文美に似ているかもしれない。と、勘違いだと気がついた詩音はまた顔を真っ赤にした。今まで自分は壮大な勘違いを起こしていた。その場から逃げたくなるのも仕方ないだろう。


「ふふふ……それにしても可笑しいわね」


「な、なにがですか?」


「いえ、貴方は私の弟と彼氏を勘違いして、焦った結果があの告白でしょう? ふふっ、本当に可笑しいわ」


「か、揶揄わないでください!」


 詩音は文美から離れようとするが、文美は詩音を離さない。まるでこれからも私のモノだと主張しているような強い目で、詩音を見据えている。


「ライブはとても良かったわ。きちんと他の楽器に合わせられていて、ギターはまだまだ荒いけど及第点ね。最後の弾き語りも、しっかり私の胸に伝わったわよ。だから、ご褒美に何か一つ、頼みを聞いてあげるわ。なんでも言いなさい」


「えっ? いいんですか?」


 主人が奴隷の頼みを聞いてくれるなんて、普通ではあり得ないだろう。奴隷は賃金どころか、愛すら貰えるかも分からない人間の所有物なのだ。

 詩音は考える。滅多にない機会な上、もう深い関係になれている。少なくとも今はそれで十分で、咄嗟に思いつかない。


「そ、それじゃあ……キス、してもいいですか? 今度は私から……」


「それでいいならどうぞ?」


 彼女の了承を得て、詩音は恐る恐る近づいた。少し顔を上げれば文美のぷっくりとした唇が見えて、いざ接吻をしようと思うと躊躇してしまう。顔を逸らして、もじもじと身体をくねらせる。

そんな詩音の様子に痺れを切らした文美は溜息を吐いて――


「んっ……」


「んん……っ……んあっ……」


 詩音の唇を奪った。最初はびっくりとしていた詩音だったが、次第に文美を受け入れ始めて、極上の肉を貪るかのようにお互いを求め合った。

 幸せだった。観客の前で告白をして黒歴史を作ったが、それが些細な事に思えるほど、至福の時間だ。

 しかし、瞬間は刹那だ。永遠には続かずに、文美の唇はやがて離れていく。名残惜しく思った詩音は落胆から肩を落とす。


「ふふふ、今日はここまでよ……そんなに残念そうにしなくてもまたしてあげるわ。ご褒美として、ね? だからギターを頑張りましょう?」


「はい……」


「元気がないわね……貴方は誰のモノかしら?」


「私はご主人様のモノです……」


 飴と鞭を使い分ける文美はさながら調教師のようだろう。奴隷、いや詩音の扱いをよく分かっている。

 二人の関係は恋人同士ではない。しかし、前よりも深い関係になれたのは確実だが、詩音は不服そうにしている。焦らされているように感じ、より一層ギターを頑張ろうと決意を固めるしかできなかった。


「ご主人様に……その、本当は文化祭の出し物なんですけど……今、ここで渡します」


「何かしら?」


「こ、これです……」


 照れながら詩音が差し出したのは、二人をモチーフにしたぬいぐるみだ。可愛らしくデフォルメされた詩音と文美が抱き合った、とても微笑ましい宝物だろう。

 嬉しく思った文美は笑みを零すと詩音の腰に手を回して抱き寄せた。ぬいぐるみのような深い関係を、これからも続けていけば、それはきっと素敵なことだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

百合色トニック 劣白 @Lrete777

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ