第13話 ただひとつのエンディング
とまほーくの新作サウザンドトゥームス2「天空への迷宮」が発売され既に半年。今だエンディングを見たという声を聞かない。白状すると記者もまだクリアできていない。千面もあるこのゲーム、いったいどれだけのユーザーがエンディングに辿りつけるのか。
とはいえ何年でも遊び続けたいというのも本音である。一面一面が実に愛しい。信楽ファンの英知を集めた秀逸なアクションパズルというだけではない。優しくも意地悪な魔女ジェイドがプレイヤーを罠にかけ、時に助け、罵り、愛をささやく。信楽武司の手による物語とゲームの神業とも思える融合は健在だ。
中古品が品薄なのはユーザーが手放さないせいだろう。だが新品で買っても後悔しない。ぜひ手にとって遊んでみて欲しい。座右のゲームになるのは間違いない。
ゲームマガジン2012年12月号より
オフィスビルの二十三階に呼び出され、非常階段からエレベーターホールに出ると、信楽が東京湾を見渡せる窓の前で待ち構えていた。十二月の空気が広い空を澄み渡らせ、美紗緒を見た彼の目はそれ以上に輝いた。
「いつ?」
「今だ」
シンガポールで開催されたジャパンカルチャー展で講演を行った後、アジア数カ国を回って、今日帰国。直接ここに来たらしい。足元にスーツケースがある。このフロアは数ヶ月前にテナントが空いて、ひとけが無い。
「私の席に来てくださればよかったのに」
「あそこじゃ、こうできない」
抱き寄せられ髪にキスされ、ふわりと体が軽くなる。背伸びをしてざらりとした顎に頬をあてると、彼の唇が耳をかすめ甘い吐息がもれた。会いたかった。一週間さみしかった。抱き寄せる手で語り合う。ただしキスはご法度だ。以前、会議室の片隅で美紗緒の口紅が互いの顔を人前に出せない有様にしてしまった。ふたりがよりを戻していることは知られているが、ひけらかすのはやめましょうと頑なに主張している。
離婚した後で愛を確かめあい、きつく撚り合わされた糸のように、ほぐれず絡まず、共に生きてきた。それぞれ仕事が忙しいし、別の住居を構えているから、夫婦のようにとはいかない。だがスケジュールが許す限り一緒に食事をし休憩にお茶をし、廊下で立ち話をする。そんな時間を紡いでいく。週末は離れていた時間を埋めるように夜通し愛し合う。夫婦だった頃より、よほど互いが近くなった。
「今日、来ないか」
「そうしたいわ。でも、東都ファンドと会合があるの。小林さんも一緒に夕食を」
「ふうん。株主からの説教か?」
「業績に問題はないし、そうは思えないのだけど、内容はその席でって。あなたも来る?」
「いや、いい。任せる。俺もこっちの仕事が溜まっている。終わってから寄ってくれ」
「あまり遅くなければね」
「冷たいな」
「あの……ね」
美紗緒は一週間前、空港から信楽を見送った時に生じた自らの変化を明かそうとした。けれどためらいの後、話を戻した。
「今日はだめでも水曜は必ず行くわ。ところで展示会はどうだったの?」
「ああ。盛況だった。ゲームは文化だ。日本人にはハリウッド映画が作れない、アメリカ人に日本漫画は描けない、同じように誰にも真似できない日本のゲームがある。それをつきつめていくしか日本製ゲームの未来はない」
「ええ…… 海外向けを意識して作ったソフトがずいぶん失敗しているものね」
他社の話であることが救いだが、大作ソフトが外れた時のダメージはひとごとではない。
「なあ……」
一週間の別離が胸を焦がしているらしい。熱を帯びた瞳が迫り、結局、唇を合わせてしまった。つのっていた思いは同じだ。美紗緒の唇を吸い、恍惚と目を閉じる彼の表情に体の奥底から熱がこみあげる。
ふたりにはこれが必要なのだと認め合っている。美紗緒はハンカチで彼の唇についた自分の色をぬぐってやった。
その夜。東京、日本橋。百貨店が並ぶ賑やかな区画から少し離れた、高級日本料理店。ゆったりと運ばれてくる数万円の料理を前に、隣に座る小林が沈思黙考に陥っている。
社長に就任して二年四ヶ月。信楽が勘とカリスマ性で成功してきたとすれば、小林は経験と知識に裏付けられた堅実な経営で評価を受けてきた。もっとも美紗緒自身の評判はそれ以上で、社長補佐さらに大株主としての豪腕ぶりは社内外に知れ渡り、業績好調の功労者と認められている。
だが、この話は全てを混沌としかねない。
「このままでは、すでに債務超過であるコントラは次の決算を前に倒産します」
コントラの業績がふるわないのは知っていたが、そこまでとは。大作ソフトが三作続けて赤字となったのが、致命傷だったという。目の前の高級スーツを身にまとったふたりの男は大手銀行系投資ファンドの重役とその部下である。彼らはコントラ救済の条件として、とまほーくとの合併を上げているというのだ。妙に生きのいい三十代の部下が勢い込んで言う。
「現コントラの経営陣には枝野社長を含め、全員ご勇退いただきます。実質とまほーくの経営が残る。そして、信楽武司監督の開発手腕をコントラの莫大なリソースに対して振るっていただきたいのです」
「結局はそこね。信楽の才能に投資したいと」
小林が低い声で言った。
彼らのような投資会社から、しきりと東証一部に上場して増資しないかという話が持ち込まれていた。だが信楽はがんとして受け付けなかった。一転、もしこの合併が実現すれば新会社は、社員数が千を超える専業ゲームソフト会社として上場することになる。
「こういう話なら、信楽にも同席させるべきでしたわ。どうして私たち二人だけとご指定なさったの?」
責めるような小林に、重役のほう、美紗緒の父を彷彿とさせる物静かな男が苦笑した。
「枝野社長が、信楽氏に話を持っていったらまず絶対に断られると断言されましてね」
「枝野さんは同意してらっしゃるの?」
「同意するもなにも、我々が救済しなければ、未来は無い。トップのまま会社を潰して失業するより、合併に伴う引退としたほうが次のお仕事もやりやすかろう」
重役は皮肉っぽい笑みを浮かべた。傲慢だが、同じように傲慢だった枝野が彼らにゲタを預けて消沈している姿を想像すると小気味よくもあった。
つまり信楽を説得してくれないか、ということだ。彼らは小林に話しかけながらも、実質的な決定権を持つのは大株主でパートナーでもある美紗緒だということも知っている。ありえない話だと断じれば、ここで終わる。だが…… 美紗緒は顔をひきしめた。
「持ち帰って検討しましょう。社長」
「信楽が同意するとは思えないけど」
「もちろん、コントラが潰れれば、競合が減っていいでしょう。ただ、コントラでゲームを作ってきた多くの従業員が路頭に迷うのはどうでしょうか。技術も失われます。信楽が彼らを救うという気になれば……」
「そう、そこですよ」
若い男が声を高くした。
「ゲームにも作家性が必要なのです。コントラには作家がいなかった。いても生かせず潰してしまった。一方、作家性の維持と会社組織の両立をどこよりもうまくやっているのが、とまほーく社だと、我々は分析しておるのです。御社ならコントラの社員と資産を再生することができる。今のままではコントラの人も技術も散り散りになり、日本のゲームソフト産業の一角が崩壊します」
美紗緒は小林と目を合わせた。互いの目に野心や好奇心が芽生えているのを確認する。
「いいわ。八嶋、持ち帰りましょう。信楽が同意する可能性は一桁だと思うけれど。東都さんも最後は信楽とやりあうつもりでしょ」
「ええ。コントラの決算は来年三月。それまでに話をまとめるつもりです」
楽観的な物言いに、もう一度小林と呆れた顔を見合わせた。
店を出るとハイヤーが用意されており、それぞれご自宅までと言われたが、話がしたいからと、同じ車に乗った。
「ああいう時にコントラの社員のことを考えられるなんて、私、驚いたわ」
車が走り出し、小林が口を開いた。
「私はうちの社員を守るだけで精一杯、もっと言えば会社より家族のほうが大事。そういう意味で八嶋さんはひとりだから、高い目線になれるのかしら」
「あら、それって嫌味ですか?」
「ふっ、そうかもね。信楽はどう? この話、
「私たちが一人身同士だから無謀だとは思いません。信楽武司の才能を考えたとき会社が大きくなるのは必然と思えるのです」
「身内びいきじゃなくそう言えるのが八嶋さんの不思議なところよねえ」
「小林さんは新会社の社長、いかがですか」
「報酬次第…… かな」
にやりと笑う。
「ただね。そこまで大変な役職となると長くは無理。三年……長くて五年。その後は」
小林は真剣な顔をして窓の外に目をやった。
「夫と事業を起こしたいと思っているの」
「えっ! うちを辞められるのですか?!」
「だから、すぐじゃないわ。ただ、いつまでも信楽の土俵にいるのは嫌なの。自分の土俵で戦いたい。わかる? そういう意味で最後にその博打にのってみてもいいかな、とは思うのよ。私は」
とんでもないことを聞いてしまった。狼狽しながら頷いた。小林がとまほーくを去ったら、次は後藤としても、その先は自分が社長を目指すしかない。その論法が頭に巡るのを読んだのだろう。小林が試すような視線を美紗緒に戻した。それを受け止め、強い意志をこめて微笑んでみる。この前途多難な船出を推し進めようとしているのは、何のためか? 自分に問いかけながら。
小林を自宅で降ろし、美紗緒はハイヤーを信楽の家に向かわせた。
壮大かつ深刻な話を聞きながらも、信楽の手の動きに心の動揺は感じられなかった。ふたりで風呂につかっている。玄関に入るなり誘われたのだ。並んで座り、足を絡め、彼の足に乗せた片足をもみほぐされている。
「そんな巨大な組織になって、俺の作りたいものが作れなくなるとは思わないのか」
「あなたがすべきことは二つ。作りたいものを作り続けること。そして売れるゲームを作り続ける方法を実践と言葉でまわりに伝え続けること。私はそうできるように環境を作り続けるわ」
彼への愛情とか妻や恋人だとかいう人間関係とは無縁の場所にビジネスマンとしての情熱がある。静かに答えると、背中に回った片手で抱き寄せられ、暖かな湯が波打った。
「売れ続ける方法なんぞ、俺にもわからん」
「定石も、確実も無い、新しい挑戦を続けるしかない。あなたはそう、うちの開発に説き続けているでしょう? コントラは定石と確実を追い求めて失敗したのよ」
「ふむ。確かに」
キスを求められ、ふわふわと湯に浮かぶ体を彼の首に腕を回して支えながら、応じた。
「金曜の取締役会で話そう。それまでに資料を用意できるか。コントラの負債と、新会社の株主構成、社員、組織、開発中のソフト、それに資産の概要だ」
「ええ」
「もう出よう」
「うん……」
寝室に移って、もう一度彼の膝の上に横座りになった。
「あの…… 私ね」
ピルを飲むのをやめたの。
言う前に優しく抱かれ、彼の腕にしがみついた。ピルをやめて一週間、生理が終わったばかり。すぐに妊娠するとは思えない。でも万が一……
その先を想像した。それでも昔のような恐れがやってこなかった。私は彼のものではない。彼のために子を産まなくてはならないわけでもない。ただ彼を愛しているひとりの女。一週間前、異国に飛び立つ彼を見送って、ひとり風の強い送迎デッキに立った時、びょうびょうとした風が体の中から何かを取り去り、そして何かを吹き込んだ。
言葉にならない衝動で、持っていたピルを空港のゴミ箱に捨てた。
乗り越えられる。子どもが乗り越えられない障害であるわけがない。
「なんだ?」
「この一週間、あなたが欲しかった」
「俺も…」
けだるく体を寄せ合って眠りに落ちようとしている。耳元で信楽がつぶやいた。
「君という大きく美しい鳥は羽ばたき、飛び立ったのだな」
褒められているのだとわかった。嬉しいし、くすぐったい、それでいて寂しくもある。
「それなら俺は君が思い切り羽ばたける大空になろう」
なぜか、鼻の奥がつんとして、閉じた目の中で涙がこみあげた。美紗緒は信楽の胸にもぐりこみ、暖かな肌に頬を押し付けた。
二日後の水曜午後三時、信楽家の玄関を開けると、いつもどおりの大歓声が家の奥から響いてきた。広い玄関に大中小さまざまな靴が所狭しとちらばっている。
「すごい有様だ」
「どこに脱げばいいの? パパ」
後ろをついてきた赤池と娘、小学三年になるすずなが立ちすくんだ。慌てて子どもたちの靴をそろえてやりながら、手で促す。
「会場は廊下の奥です。赤池さん、そのお菓子、右にある台所に置いてください」
信楽は隔週の水曜の午後、近所の子どもを自宅に招いてゲーム大会を開いている。招くと言っても、学校を終えた子どもが勝手にやってくるという形である。当初は怪しまれもしたが、今では世界的に有名なゲームを作る人がここに住んでいる、という認識が近所に定着したようだ。美紗緒も時々参加しては、お菓子を出したり後の掃除を手伝ったりしている。今日は信楽がたまにはユーザーの顔を見ろと言って赤池と青木夫婦を文字通り招待したのだ。
吹き抜けで二階部分に回廊のある洒落た書斎は、おもちゃ屋のプレイスペースのように変貌している。広いフロアには床暖房が敷かれ、子どもが思い思いに座っている。小ぶりな液晶テレビは二台。今日は宇宙戦艦とロボットが飛び回っていた。クリエイターを目指す社員が好きに作って信楽に提出し、眼鏡に叶ったものがここでお披露目されるというわけだ。作者の開発部員も同席している。赤池を見ると丁寧に頭を下げた。
「あっ、みさおさん、こんにちは!」
「こんにちは」
見知った子どもが挨拶をくれた。今日は少年が七人と、少女が二人だ。
「この前のやつのが面白かったなあ」
少年が大人びた口調で言って、信楽がそうか、と頷いた。隣で作者が苦笑いだ。
信楽は子ども達と遊んだり、嬉しそうに眺めたり、仕事の顔になって観察したりもする。こんなふうに子どもと触れ合う場を持つことが美紗緒の葛藤に対する答えでもある。元気な子どもを見るのが辛いという気持ちもあっただろう。けれどそこで立ち止まらなかった彼に賞賛を送りたい。彼はゲームの感想を聞きながらも、作品のヒントを得ようとは思っていないのだそうだ。作品のアイデアは常に自分の中から沸く。ただ、この子らが楽しめるゲームを作りたいという衝動をもらえる。それが騒々しい時間を過ごす理由なのだと。
「女の子にはつまらないかな?」
男の子の影に隠れて、けれど目を輝かせていた少女に信楽が話しかけた。
「あの、私。サウザンドトゥームスをやりました。お父さんが昔の、持っていて」
「ああ…… それはありがとう」
どうやらファンがひとり増えたようだ。
「それで、ジェイドが主人公のゲームがあったらいいなと思いました」
「へえ、それはどんなゲームだい?」
「ジェイドが魔法で悪い奴を倒して、王様のために幸せな国を作るゲームです」
はきはきした提案に信楽は目を丸くして、けれど嬉しそうに微笑んだ。
「うん。面白そうだ。僕がいつかここでお披露目しよう」
「ちちち、ちょっと信楽さん、自分で作るつもりじゃないですよね」
成り行きを見守っていた赤池が後ろから割り込んだ。すかさず信楽がその腕を引く。
「おっ、いいところにいた。あのなあ、ゲームはこのおじさんが作るんだ。プログラミングの天才だからな」
「そうなの? パパもゲーム、作れるの?」
見知らぬ子ども達を恐れ、父親にはりついていたすずなが驚いた顔で赤池を見た。
「なんだ、おまえ、娘に仕事のこと話していないのか」
「いや、もちろんゲーム会社だとは話していますけど、詳しいことは」
「そうか。作れるぞ。すずなちゃん。君のパパはおじさんのアイデアをことごとく実現してくれるすごい奴なんだ」
「なんだかなあ。とにかく信楽さん、自分でプログラミングはやめてくださいよ」
「わかった、わかった」
信楽を社長から降ろすことに猛反発した赤池だったが、信楽が開発に専念し、二人三脚の開発体制が始まると、態度は急激に軟化していった。ほんとオジンになっても怪しいわよねえ、あのふたり、とは庸子の弁である。
「僕もゲームを作る人になりたい」
「おう、作れるようになったらおじさんの会社に持って来い」
少年が言い、信楽が嬉しそうに答えた。
「おじゃまします。遅れてすみません」
振り向くと、幼い男の子を抱えたレンと青木が部屋に入ってくるところだった。保育園から子どもをひきとってここに来たのだ。
「コンニチハ!」
突然現れた外国人に子ども達の顔がこわばる。躊躇無く子どもの中に入っていったレンとの英語の自己紹介の輪ができ、レンの腕から逃れた息子カイがうろちょろと歩き回る。美紗緒は遠巻きに見ている青木に近づいた。
「カイ君、いくつでしたっけ?」
「一歳七ヶ月よ」
結未が逝った年齢である。けれどそれで悲しいというより、因縁ふかいレンと青木の子がその年になったこの時に、心の呪縛から解き放たれたことに安楽を感じた。
「いたずら坊主みたいね」
「うん。今は車に夢中。おまけにレンが最近プラモデルに懲りだして…… 聞いてよ、土日のたびに息子はミニカー、夫はガンプラを一個づつ増やすの」
笑ってしまいながらも青木の幸せそうな顔に羨望を覚えた。
「私、また子どもが欲しいと思いはじめたの」
消えるような小さな声で言った。けれど青木は耳ざとく聞きとり、美紗緒の手を取った。
「本当に!? そうしたら再婚するの?」
「あ……あの」
慌てて青木の手を引き、部屋から出た。幸い、騒々しい中、誰にも聞こえていなかったようだ。そのまま台所に行って茶菓子の用意をしながら、もそもそと話を続けた。
「まだ信楽に言っていないの。その…… 私がそういう気持ちになったということ。再婚の話もないし。なのに、だましうちみたいに妊娠したら、彼、怒ると思う?」
青木は慈しみ深い顔をした。友人というわけではない。それでも互いに重大な秘密をいの一番に明かしてしまうのは、社内の誰より親近感を抱きあっているからなのかもしれない。
「私たちも二人目が欲しいねって話しているの。ほら、私、もうすぐ四十でしょう。妊娠しにくくなるって聞くし。でもね、そうやってふたりで、また素敵な命が来てくれないかなって夢を持ちながら愛し合うの、幸せよ」
そうよね、と頷いた。どうして信楽に告げるのをためらっているのか。愛し合い、隠し事も無く、互いを信じあっているはずなのに。
「でも、八嶋さんが言い出せない気持ち、なんとなくわかるわ。信楽さんが色めきたってまたあなたを支配しようとするのじゃないかって、恐れているんじゃない?」
「支配する?」
「昔はそんな感じだったじゃない? でも、今ならそれを跳ね返せる。違うかな?」
「え……ええ」
「がんばって」
最後は励まされた形になって、台所を出た。青木の指摘は心を揺らした。それでも答えが見つかりそうで見つからないもどかしさがある。
「さあ、おやつですよ」
菓子の大皿を部屋の隅にあるテーブルに置き、声をかけた。子ども達が歓声をあげて寄ってくる。部屋の中央で信楽が青木に断って、カイを抱きあげた。最初は恐る恐る、次第に愛情のこもった抱き方になる。大きな体が十キロに満たない小さな体を抱くと、電柱に蝉。なんと素敵な光景だろう。こんな光景がもう一度見たくて、彼と別れようと苦闘したのではなかったか。愛しているからこそ、彼の元を去ろうと思いつめたのではなかったか。
結未の死から七年という時を経て、突然彼の子が欲しいという衝動が涌いた。だが彼のために子を産みたいと思っているのではない。自分のためだ。いや、自然に任せたいだけかもしれない。それは彼の支配から逃れたということなのだろうか。もう昔のようには彼を愛していないということなのだろうか。
『ミサオ、どうかしたかい?』
レンが心配げな顔でこちらを見ていた。アメリカにいた頃のやりとりが蘇る。彼はいつも美紗緒を観察し、こうやって探ってきたものだ。
『いいえ。何でもないの。ただ、昔なら子どもを抱いている信楽を正視できなかったのになって、感慨にふけっていたのよ』
『そうか。正視できなかった…… なるほどね。今は、大丈夫?』
『ええ…… あら、レン? また私を分析しようとしていない?』
『ミサオは本当に興味深い分析対象だよ』
とうとう白状したわね、という顔をして睨みつけてやった。
レンは国際戦略担当としてあっという間に本社での地位を獲得した。青木の努力の賜物か見栄えもよくなり威厳が出た。ぼさぼさだった髪はしんなりと下を向き、整えられている。ただ、中身はそれほど変わっていない。忙しい仕事の合間にカイを牽制しながらガンプラを作っている彼を想像すると可笑しかった。
信楽はさんざん頬をつついてから、幼な子を青木に戻し、美紗緒を見た。今日、話そう。私の中の変化について。心に決める。信楽と見つめあった美紗緒は、視界の上のほうに、ぎくりとする動きを認めた。
「危ないわ!」
とっさに叫んだ。吹き抜けの二階の回廊にふたりの少年が遊んでいた。そのうちのひとりが手すりに腰掛け、ぐらりと傾き、今にも落ちようとしていたのだ。わあっ、と少年が悲鳴をあげた。美紗緒の叫びに振り向いた信楽は、瞬時に回廊の下に飛び込んだ。少年が背中から落ちてきたのを胸で受け止め、尻餅をつきながら転がった。ごすっ、という鈍い音が響いた。頭を床に打ち付けた音だとわかったのは、少年の下で昏倒した信楽を見たからである。
息が止まった。
扉が開いた。
硬く閉ざされていた記憶の扉だ。あの日。結未をベビーカーに乗せて買い物に出た。見知った道の交差点。青信号で渡る右手には、左折を待つ白いワゴン車。その前をとおりすぎようとした時、斜め後ろで耳をつんざくような轟音が響き、白い車体が一瞬で手の中のベビーカーをもぎ取り、押しつぶしながら目の前を通り過ぎた。よそみ運転の大型トラックが左折待ちの車の列に追突する玉突き事故だったと、後で聞いた。
その瞬間、結未の姿も、顔も、まったく見えていなかった。
ベビーカーをもぎとられた手だけがじんじんとしびれていた。
衝撃音の余韻が耳を満たしていた。
白い車の下から鮮やかな赤い糸が伸びていった。
なんて。なんてあっけない。
なんて、なすすべのない。
蘇った記憶と目の前に倒れる信楽の姿が重なり、容赦のない世界の無常に立ち尽くした。もしその場で気を失い、また記憶を無くしてもおかしくはなかっただろう。
けれど一瞬の後、明瞭な視界が戻り、信楽に駆け寄った。少年は信楽の上から起き上がり泣き出した。無事だ。まわりの大人も子どもも悲鳴や叫びを上げて駆け寄ってくる。
「あなた!」
顔を手ではさんで叫んだ。眉が微妙に動くが目を開けない。体はだらんとして力が無い。
「救急車を呼ぼう」
後ろで赤池が大声をあげた。
「お願い、目を開けて。まだやることがある。あなたにも、私にも。この世界に遺せるものが、まだたくさんあるわ。」
本当は泣き叫びたいのに、声を絞り出し、信楽の鼻つらに呼びかけた。信楽がこれほどはかなく見えたのは初めてだった。嘆きの日々でさえ、彼が病に倒れることはなかった。終わりは突然やってくる。そんな絶望に彼の頬を包む指先が震える。
ぴくり、とまぶたが動き、彼の唇からうめきが漏れた。そしてゆっくり薄目を開く。
「あの子は……?」
念のため見回すと、泣き止んで信楽を心配そうに見つめている少年の姿があった。
「大丈夫。無事よ」
「そうか、良かった。今度、手すりを高くしなけりゃ……」
「ええ、そうしましょう。私たちのためにも」
「……?」
「私、子どもが欲しいの」
信楽の頬に顔を押し付けて、小さな声で言った。信楽の片手が美紗緒の腕を探り当て、ぐっと握り、そしてため息をつく。
救急車のサイレンが近づき、家の前で止まった。
「救急車なんか呼んだのか」
信楽は文句をたれながら体を起こそうとしたが、眉をしかめて断念し、美紗緒の腕を掴んだまま目を閉じた。
病院に運ばれた信楽はCTを撮られ、幸い異常がないことが確認された。臀部の打撲と脳震盪という診断である。腰に蒙古斑のような大あざと、後頭部にこぶができていた。
「今日は安静でしょう?」
その夜、腰に湿布を貼り終わってパジャマのズボンを上げるなり、美紗緒を抱き寄せようとした信楽の手をぴしゃりと打った。
「死のふちから生還したんだ、褒美をもらってもいいじゃないか」
「大げさよ」
「君が俺に呼びかける声が一番大げさだった。俺は死ぬのかって、本気で思ったよ」
「だって、あの時は本当に……」
涙が出そうで、出なかった。べそべそと泣いてばかりいた昔の自分から脱皮してしまったのだなとつくづく思う。信楽のこぶを優しく撫でながら、今日はこれだけよ、とささやいてキスをした。唇を離すと信楽の潤んだ瞳にしっかりと捉えられる。
「救急車が到着する前、君が言ったことだが」
「ええ。私、ピルをやめたの」
「いつ?」
「あなたがシンガポールに飛び立った日」
「なら、もう」
「可能性はあるわ。そんなにすぐにとは思えないけれど。あなたは…… 大丈夫?」
「ああ、たぶん。少し、どきどきする」
胸を押さえた少女のようなしぐさに、明るく笑った。
「君は、大丈夫なんだね」
「ええ…… 怖くないの。突然そう気づいたのよ。不思議でしょう。それから、謝ってもらってもいいのよ」
「ん? 何のことを?」
「結未の事故の後、あなたの行動が私を傷つけたことよ」
信楽はめんくらったように、息を呑んだ。
「あなたが倒れた時、とつぜん記憶が戻ったの。あの事故の時の記憶。私は全然悪くなかった。何もできることはなかった。そうわかったわ」
「な……! そ、そうか。そうだ、君は被害者なのだとあれほど……」
「でもどこかに落ち度を探していたの。あなたに苦しめられることを受け入れるために自分のせいだと思いたかった。傷ついていく自分にあなたを憎ませたくなかった。だからあなたに謝られても辛いばかりで、謝らないでって頼んだわ」
信楽は目を細め、小さく頷いた。
「私はあなたを絶対視しすぎていたのだわ。あなたに全てを捧げること、それが愛だと思っていたから」
信楽は痛みに顔をしかめながら立ち上がり、障子を開けて縁側に出た。大きな裸足の下で床板がきしむ。庭に続く掃きだし窓から望む冬の澄んだ空に星が輝いている。見上げてたたずむ信楽の背中は寂しげで、けれど興奮を懸命に抑えているようにも見える。
「君は俺にずいぶん高いものを望むのだな」
「え?」
「コントラとの合併を進めないかと言ったあの時には、もう身ごもる覚悟でいた。俺にそのふたつを同時に乗り切らせるつもりでいた」
「私が…… 乗り切るつもりでいるのよ」
彼は肩で大きく息をついた。
「そんなこと無理だ。会社を大きくすることなんて諦めろ、子どもを諦めろ、どちらも俺に言わせない気か」
美紗緒は立ち上がり、信楽の背中に立った。
「今できること、今することが自然なこと、必然なこと、それに逆らいたくないと思ったの。流れる川を堰き止めるより、大海に導くほうが簡単だもの」
「俺にとっての大海は君だ」
「あなたは大空でしょう」
「ぜったいに交わらないな」
「いつも向き合っているわ」
信楽が美紗緒を振り向き、見つめ合った。腰をかがめたとたん、いててえ、と顔を歪める。
「そのままでいて」
美紗緒は信楽の首に手を回し、精一杯背伸びをして、彼の唇を奪った。
金曜の取締役会で出された合併案に対する信楽の発言は意外なものであった。
「コントラ救済に手を貸すいわれは無い。あんな会社潰しておけ。救済なぞしたら枝野の責任もうやむやになってしまう」
「それで、終わりですか」
美紗緒は不機嫌に応戦した。その気になっていると思ったのに、と落胆を隠しきれない。信楽はほくそえむように口を歪めた。
「いや、コントラ社員の受け皿になってやりたいという小林と八嶋の心優しい提案を一蹴するつもりはない。うちで働きたい、僕の思想を受け入れてゲームを作りたいという社員がいれば極力雇いいれよう。向こうの人事を通して再就職先の一つにあげさせればいい」
「でもそれで雇える人数なんてたかが知れているわ」
「今のとまほーくの規模ならな」
静かに、しかし迫力を込めて言った信楽の顔を、取締役達が凝視した。
「同時にコントラの整理資産を買収する。ソフトの版権、開発機材、海外拠点、不動産、将来的に役立つものは全部だ。その資金を作るために、当社は東証一部に上場して増資する。社名も変えよう。シガラキゲームス、というのはどうだ?」
会議室がしんと静まり返った。
結果は合併と大差ない。とまほーくがコントラを吸収して一気に規模を拡大するのだ。にわかに巨大な専業ゲームソフト開発会社が誕生する。ただひとつ異なるのは信楽がその会社を自分の才能の元に確実に采配しようとしていることだ。
それこそ私が望んだこと。彼という大空の元で無数の鳥が羽ばたき始める。こみあげる感動を胸に、美紗緒は大きく頷いた。
シガラキゲームス発足の頃、ようやくサウザンドトゥームス2「天空への迷宮」のエンディングが、猛然とクリアしたユーザー達によって話題にのぼるようになった。
千面の迷宮を抜けると、そこには浄化されたジェイドの清らかな墓碑が立っている。長い迷宮を脱出した王は最後の力をふりしぼるように歩み寄り、墓碑を抱きしめる。そして傍らに横たわり動かなくなる。画面は白い光に満ちていく。
王が力尽きたのか、あるいは新たな命を得たのかは、謎のままである。
堕天使にさだめはいらない 古都瀬しゅう @shuko_seto
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