第12話 天使外伝 その2

 出発地はジョージア州アトランタである。「風と共に去りぬ」の町だよ、とウォレスは言った。そこから東海岸に出てウォレスの故郷フロリダに南下する一週間のドライブ旅行だ。里帰りにつきあわされるだけの気もしたが、日本から見ればフロリダはアメリカの一番遠い場所だから、傷心旅行には悪くない。

 とはいえ妻と別居中の男に横恋慕して、離婚に乗じてプロポーズしたら断られた、空回りの失恋だ。愛し合った末に破局したわけでもない。そのむなしさにこそ傷心している。ウォレスのほうが信楽に八嶋を託し、彼女が日本に帰ってしまう結果となったから、やりきれぬ喪失感を味わっているはずだ。


 ポートランドから昼に到着していたウォレスと夕刻日本から到着した久美子は、アトランタ空港で合流した。

『おひさしぶり、アオキさん。元気?』

『おひさしぶり。ミスターウォレス。今回はお誘いありがとう』

 ウォレスの笑顔は寂しげだった。なぐさめあうべきか。そっとしておくべきか。迷いながら何も言えなかった。

 空港も妙に広かったが、まわりには延々と建物の無い土地が広がり、幅広い道路には車がまばらである。これがアメリカ南部。広いだけの暑くてうら寂しい土地に来てしまったなあ、と車窓を眺めていると、目の前に巨大な建物が出現した。『寄っていく?』と聞かれ、すかさず頷く。中央に専門店街、それを取り囲む大型デパートがいくつも口をあけるショッピングモールであった。

 ファッション店には明るい色が溢れていた。旅先で服を買うのは楽しい。土地に合うものを売っているし、持って帰れば思い出になる。

 ひとしきり買い物に熱中して気づくと、ウォレスが見当たらない。店から飛び出し吹き抜けになった通路で見回したが、やはり姿が無い。十分ぐらい探し回っただろうか。はぐれたのだとわかると、広大な店内にぼう然とした。わき道や繋がった建物が延びる複雑さは、まるで蟻の巣のようだ。不安に震えそうになりながら、案内板を見て、店の中央で待つことにした。精神安定剤にと、アイスクリーム屋でコーンを買い、通路の真ん中にある丸い植え込みに腰掛けた。

 透明な天井から見える空が急速に暗くなっていく。周りを歩く体の大きな黒人たちが、久美子を誰の目からも隠してしまいそうだ。すぐそばで親の手を離した小さな子どもが、鬼の形相をした母親に捕まえられている。

 なんて孤独なんだろう、と心で嘆いた。今は異国にいるから特に身に染みるけれど日本にいたって同じこと。誰も私を必要としていないし私も誰かを必要としていない。だから結婚したかった。子どもが欲しかった。そう思う自分を格好悪いと思うのをやめようと決めたのだったわ。

 物思いにふけっているうちに、アイスは無くなり、はぐれて一時間も経ってしまった。彼がどこかで強盗にでも遭って、私を探せない状況になっていたらどうしよう。まさかね。きっと彼も買い物に熱中しているだけだわ。

 あてどなく立ち上がり、丸い植え込みに沿って数歩歩いた時である。植え込みの反対側に腰掛けるウォレスが、こちらをばつ悪そうにちらりと見たのだ。

「いつからここにいたのよ!」

 走り寄って腕を掴むと、つい日本語で叫んでしまい、慌てて英語で言いなおした。

『やっと見つけてくれたか……』

『何よ!? ずっと心配していたのに!』

『一緒に旅しようというのに、アオキさんの目に僕は入っていないみたいだったからさ』

 確かに彼を探しているとき、今日どんな服を着ていたかも覚えていない自分に気づいていた。でもそんなことですねて人を置き去りにするなんて。思わず地団太を踏む。

『ばっかじゃないの? あなた、何歳なの?』

『三十だけど』

 ああ、六歳も年下…… 年を聞いたらショックを受けるのが嫌で聞かなかったのに。

『こういうことはね。親の気を引くために小学生がやることよ。三十歳のビジネスマンがすることじゃないわ』

『ふーん、僕を見失ったのに何の対策もなく、アイスクリームを食べてたあなたの行動は三十六歳のビジネスマンのものなわけだ』

『だって、動かないほうが見つかりやすいでしょう。アイスクリームは関係ないっ。それに年を言うな!』

 ヘマをした部下にさえこんなふうに感情丸出しで怒ったことはない。それなのにウォレスときたら、こう宣言したのである。

『僕から目を離さないでよ。でないといつまたいなくなるかしれないからね』

 開いた口が塞がらなかった。なんてストレートで子どもっぽい愛情表現。つまりこれデートみたいな旅行なわけ? でも傷心旅行って言っていたじゃない。同僚だし、えらい年下だし、変わりものみたいだから、下心がありそうで無いって可能性も…… いろいろと考えてしまいながらも、ときめきそうになる自分に呆れてしまった。

 二日目はアトランタの観光だ。世界最大級というジョージア水族館でマンタに見とれていると、またしてもこっそり離れていくウォレスを発見し、逃げないよう手をつないで見て回るはめになった。最後はその手を揺らして海獣の乱舞に歓声をあげていた。

『明日はひとつの部屋に泊まろうよ』

 夕食の南部料理を前にして彼がこっそりと言い、ワインを吹きそうになった。これじゃ、茶碗蒸しを吹いた信楽さんと一緒だわ。

 どうして? と聞く寸前、頭をよぎった苦い過去に口を結んだ。昔から「論理的過ぎる」点がつきあう男に不評だった。「どうして?」「なぜ?」男はそう聞かれ続けるのが嫌らしい。仕事で部下や上司にはよくても、彼氏はまずい。そういう線引きが下手なのだ。

『いいわ』

 おしりの下がムズムズするのをがまんし、もったいぶって微笑んだ。彼に下心がなくても、その時がっかりすれば済むことよ。今追及しなくてもいいじゃない。だがウォレスに聞き返されたのである。

『なぜ?』

 皿の上につっぷしそうになった。

『理由を聞くのって……』

 文句をつけかけると慌てた顔が迫ってきた。

『ごめん。すぐなぜって聞いてしまう。ロマンチックじゃないって、よく言われた』

『ガールフレンドに?』

『いや、友人に。だから女と続かないんだって説教される』

 同類だってことは隠しておこう。確かにロマンチックじゃないわ。嬉しいのに、すました顔で料理を口に入れた。そもそも彼の失恋の痛手は癒えたのだろうか。傷ついたことは確かなのに。年下の部下を心配するような気持ちになって、優しい声を出した。

『美紗緒さんとのこと。話してみない?』

『えっ、ミサオと? 僕?』

 意外そうな顔で目をしばたく。

『そう。デートしたんでしょ?』

 彼は観念したようにため息をつくと、悲しげに遠い目をした。

『ミサオの目に僕は映っていなかった』

 昨日聞いたのと似た言葉にはっとした。

『僕はシガラキさんや会社にとって重要な社員。だから冷たくできないし、辞められても困る。彼女はいつもそういう理由で真摯だった。いつまでたっても、その姿勢は変わらなかった』

『そう……』

 だから私にあんなことを言ったのね。彼は八嶋さんの代わりを私に求めているのかもしれない。利己的にだれかを利用する人には思えないけれど、無意識ということもあるわ。そう考えると胸に痛みを感じる。

『恋愛って難しいわね』

 しんみり言うと、ウォレスは目を上げた。

『でも、諦めたら終わりだ。違うかい?』

『まだ八嶋さんのこと、諦めていないの?』

『違うよ。恋愛を……さ』

 深い枯葉色の瞳が瞬いた。のどから心臓が飛び出そうなほど、どきりとした。

 やばい。

 粗野な三文字が頭をよぎる。

 恋してしまう。

 鼓動が速くなっている。ウォレスはじっと久美子を見つめている。目をそらせない。透き通った瞳がまばたきして、ウォレスはため息をつき、胸を押さえた。

『こんなに緊張するのは初めてだよ。あなたに見つめられると、足が震えて息がつけなくなってしまう。あなたは可愛いし美しいけれど、それ以上に迫力がある。なにもかも見透かされているようだ』

『見透かすって、何を? どんな下心?』

 大げさな言い草を受け流そうとした。久美子も彼と見つめあって震えるような緊張を味わっていたのを、ごまかしたかった。

『うーん、僕が本当は人間関係が苦手なオタクだってこととか』

『そんなこと、最初から知っているじゃない? 私のオフィスでゲームやってたくせに。あなただって、私が結婚にあせっているハイミスだってこと、知ってるでしょ』

『似たもの同士か』

『どこが似てるのよ?!』

 激しくつっこむと彼は楽しげに笑った。その後はアメリカのオタクと、日本のハイミスに共通点があるかについてひとごとのように論議し、閉店間際のレストランからホテルに戻った。

 三日目は朝早く出発。二時間かけてメイコンという町に行き、先住民族の遺跡のある国立公園を訪れた。日本の古墳のような小山と草原と森が混在した広大な公園だ。夏の暑さは日本といい勝負で、車で移動しながらハイキングコースを歩き回ると汗だくになった。夕刻日が落ちかけてからメイコンを出て、東海岸に抜ける国道をつっぱしり、夕食は車中でハンバーガー、夜遅くステートボロという大学がひとつあるだけの小さな町に到着した。昼間炎天下の公園を歩きまわり、長時間のドライブをしたせいで、ボーイの先導でひとつの部屋に通されるとソファに倒れこんだ。

『はあ、疲れた』

『ごめん、こんな強行軍になるとは』

『ううん面白かったわ。普通の観光旅行じゃこんなところ、来られないもの』

 あらためて見回すと可憐な内装のツインルームである。白いレースのベッドカバーに覆われたダブルベッドがふたつ据えられ、さらに居間のようなスペースがたっぷりある。建物はホテルというより巨大な一軒屋だった。昔の農場主のお屋敷なのかもしれない。

『先にバスを使ってよ』

『う、うん』

 汗を流すと心底さっぱりした。パジャマでベッドに倒れこみ、まどろんでしまう。

 こんなきれいなひとつの部屋に泊まって、何をしたいのかなあ。ぼんやり彼が使うシャワーの音を聞いていた。男なのだから決まっているような気もするし、でももしそうなら、今日のハイキングは色気が無さ過ぎたのではないか。いや彼は純粋にあの遺跡が見たかっただけで、それと久美子との一夜の組み合わせまで考えていなかったのかも。そういう人だわ。くすりと笑ってしまう。部屋はエアコンがきいていて、肌寒いくらいだったから、ベッドカバーを外し毛布にもぐりこむと自然に寝入ってしまった。

『アオキさん、朝食の時間だよ』

 次の朝、彼に起こされた。

『よく眠れた?』

 朝食を食べながら聞かれ、自分のヘタレさにしょぼくれた。年下の美男子と一晩過ごしたっていうのに、ぐーすか寝ていただけなんて。だが顔には出さなかった。

『ええ。すごくよく眠れたわ。あなたは?』

『僕も。あなたが静かに眠る人で安心したよ』

『静か?』

『いびきも、はぎしりも、寝言もなし』

 彼の態度は明るく、昨晩久美子と「やりそこなった」うらめしさなど微塵も無い。やっぱりそういうつもりじゃなかったのかしら。がっかりしている自分がいた。

 目的地はあとふたつ。次のジャクソンビルと、最後のウォレスの実家である。ジャクソンビルは広大なビーチのある観光地で、海水浴とリゾートホテルで楽しむうちあっという間に二日が過ぎた。ここでも海の見える豪華な部屋にふたりで泊まったのだが、一日目は夜遅くまで、あろうことかゲームの話で盛り上がり、二日目は海水浴で疲れたせいでまたしても沈没するように寝入ってしまった。

 恋愛は遠のいたものの一週間の旅行を通して彼をよく知ることができた。欧米人らしく紳士だったり、オタクらしく自分勝手だったり、年下らしく我儘だったり従順だったり、いろいろな面を持っているけれど、その融合したレン・ウォレスという男は世界でたったひとつの個性で、久美子とめっぽううまが合う。そんな稀有な出会いをした実感がある。朝早く目覚め大西洋を眺めながら、この旅行は人生最後の花だったのだわと思って、帰ったら百パーセント妥協して結婚するか、一生独身で通すかを決めよう、と考えた。

 フロリダ州の中心はディズニーランドを擁する都市、オーランドだ。ウォレスの故郷はそれより手前の小さな町にあった。アメリカ南部を旅して見知ってきたどこまでが庭か隣との境かもわからない広い敷地にぽつんと建つ平屋の家。ウォレスの家もそういう普通の一軒家だった。三人の子どもは皆巣立ったとのことで、ひっそりしているが芝生はよく手入れされている。

『ここが僕の両親の家なんだ』

 車を止め、ハンドブレーキを上げてウォレスが言い、なぜか緊張した面持ちで助手席の久美子を見つめた。

『僕は…… もしあなたに異存がなければ、あなたを僕の花嫁だと両親に紹介したい』

 はい? ななななな、なんですと!?

 耳を疑った。英語の聞き間違いじゃないかと思った。

『えっと…… 何か理由があって、お芝居をしなければならないの?』

 せりあがった心臓を抑えて、冷静に聞いた。すると彼はため息をついて空を仰いでから、久美子に真剣な視線を戻した。

『ぎりぎりになってしまったのは、謝るよ。でも僕はまじめだ。この一週間、僕たちは楽しい時間を過ごしてきた。ふたりでいることが僕たちの人生にとってすごく大きな喜びを与えてくれることが証明できたと思う』

『だからって……』

『あなたは花婿を探していたのでしょう。僕は立候補したいんだ』

『でも、ミスターウォレス。あなたは恋愛がしたいと言っていたじゃない。私たち、恋愛なんてしていないわ。あなたは…… 八嶋さんに失恋してやけになっているか、心の空白を何かで埋めようとしているのよ。そんな状態で結婚なんてしたら、きっと後悔する』

『あなたが日本で別の男と結婚してしまったら、僕はもっと後悔する』

 そんなあては無いのに、否定はできなかった。もしかしたら本当に手近な誰かと結婚してしまうかもしれない。もし今この申し出を断って日本に帰ったら、それは失恋になると思う。そう思うほどウォレスが好きになっている。ならなぜ受けられないのか。それはウォレスが、久美子の「タイムリミット」のために無理しているからだ。

『もっとゆっくり考えたほうがいいわ。まず毎日メールのやりとりをしてみましょうよ。時々、電話して。仕事でまた会うこともあると思うし』

『つまり…… ノーなんだね』

『やっぱり先に恋愛してからのほうがいいと思うの』

『こういうこと?』

 言うなりウォレスが近づき、口のはしに微かなキスを感じた。そのまま頬の上にとどまって、何かを待つように震えている。彼の遠慮がちな態度がいとおしくて、衝動的にキスを返した。唇を合わせたとたんウォレスは感動するように小さくうめいた。久美子も感動した。何年も片思いしていた人とはじめてキスを交わしたような感激にぼう然とした。

 彼の唇はまだ遠慮がちだったが、巻き毛に指をからませ、爪の先で首筋をなぞると、彼が答えるように口づけを深くした。

 時間を忘れて求め合い、顔を離すと、ウォレスの目が見たことも無い欲望に曇っているのを見た。

『このままオーランドに行くのが、いいみたいだ』

 目の前に実家があることを忘れたかのように、車は躊躇なくそこを遠ざかる。

 オーランド市内のホテルは八月のハイシーズンということで満杯だった。だから最後の二日は実家に泊まろうと言われていたわけだが、結局空港に隣接した巨大なビジネスホテルに泊まることになり、さんざんロマンチックな部屋で過ごしてきたことを考えると滑稽だったが、ふたりにはどうでもよかった。

 ウォレスは突然久美子が肉体を持った女だと気づいたかのようだった。久美子自身も、彼のしつこい要求に辟易するどころか、求め返してしまう自分に驚いた。


 最終日にオーランド市内で食事と買い物をする間も、今度はウォレスのほうが、久美子を逃がさんぞとでもいうように、腰を抱いて離さなかった。

 アメリカを発つ日。早朝の同じ便でアトランタへ飛び、そこで別れることになっていた。あの時ほど追い詰められていろいろなことを考えたことはない。小難しいプログラミングのほうがまだましだ。国際線の旅客ゲートに入る直前、ウォレスは久美子の手をとり、言葉を求めるように無言になった。プロポーズを受けるならその時だった。彼も待っている。もう恋愛をしていないなどという言い訳はなりたたない。けれど久美子にとって、あんなにしたかった結婚が、逆にウォレスとの関係においては、ひどく疎ましいことに思えたのである。この旅行は夢の中の出来事で、それを現実に持って帰りたくない、というような。

 結婚は煩わしい。同僚で外国人のウォレスとなったら煩わしさは何倍だろう。自分はそれでもいい。けれど、別に結婚などしたくもなかったウォレスにとってはどうだろう。

 いったい結婚して仕事をどうするのだろう。仕事を辞めてアメリカに来る? そんな決断、すぐにはできない。

 それに…… ともう一度思い起こす。これは傷心旅行だ。ふたりとも失恋したばかりで、冷静でなかったのかもしれない。だから思いはつのったし、体は燃え上がったのかもしれない。

 こんなことを今更考えてしまうのは、やはり一晩や二晩寝たからといって、二人が互いを信じ愛し合っているわけではない証拠なのではないだろうか。

 やっぱり結婚しましょう、と言ったらその時から混沌とした人生と、この何の約束も無く体を許しあった純粋な時間を思い出にするだけの関係がはじまるのではないのだろうか。

 彼を見つめると泣きたくなったが、手を強く握っただけで、耐えた。

『グッバイ、ミスターウォレス』

 それだけで彼の顔が曇った。

『メールくれるかい?』

『もちろん』

『次はいつ会えるかな』

『わからないけど……』

 久美子は言い訳するようにウォレスの胴を抱きしめた。

『今は、ここでさよならするしかないわ』

 胸が痛かった。痛みに耐え切れずに彼をつきとばしそうになるくらい辛かった。セキュリティチェックの列に並ぶと、すぐウォレスの姿が見えなくなった。ずっと見送って欲しかったけれど、ほっとする感覚もあった。


 日本に帰ると寂しさと彼への恋心にのたうちまわる日々が待っていた。ラブソングが聞こえたり、彼と同じ色の目をした映画俳優をテレビでみたり、酷暑の日本にフロリダの暑さを思い出してみたり、その度にいつ会えるかわからないウォレスを思い出して、涙をこらえなければならなかった。

 ウォレスとはメールをやりとりしていたが、幸か不幸か、アメリカの支社長の退職と、それに伴う社長交代という大事件が次々に起き、メールの話題もそういう話になりがちで、さらにふたりとも仕事が慌しくなり、何かに一歩踏み出すような機会は訪れなかった。

 そうして九月が終わろうとするころである。自分の中に小さな命が宿っているのを目の当たりにしたのは。

 世界がくるりとひっくり返ったような感覚があった。ゲームで言えば、秘密のコードを入れて無敵になったか、表面をクリアして裏面に突入したか。そんなどんでん返し。不安もあったが、それを駆逐する嬉しさで何もかもが鮮やかに輝いて見えた。

 それなのにウォレスに妊娠を告げられなかった。電話に手をのばすと手が震え、メールを書きかけると、自分の英語がひどく意味不明に思え、数行で断念してしまう。

 ぐずぐずしているうちにつわりが始まり、その辛さをひとりで耐え、消化していくうちに、やはりこの子は自分の責任で産むのだ。彼に恋愛をしたいと言って頼んだのは自分だ。彼には責任がない。いや、責任を感じてもらったら困る。

 そんな考えに帰着していったのだった。




 ― トリデンに席確保したであります。直行願う ―

 夕刻近く、庸子から携帯にメールが入った。たくもう本当にぬかりないんだから。苦笑して仕事を収めにかかる。信楽は新作のシナリオを仕上げてから凄い勢いで皆をかりたてている。が、今日は不思議と静かな一日だった。部下に聞くと、午後から信楽の姿を見ていないと言う。ならばと、そのまま帰ることにした。申し訳ないとは思うが自ら仕事を取りに行くほどの元気は無い。

 安定期に入ったら、この頭の混沌も、体の不調も収まるに違いない。その時こそウォレスに告げよう。きっと何が起きても対処できる。この子を守ることができる。今は…… 無理かもしれない。体調が悪いと気弱にも悲観的にも依存的にもなる。

 トリデンというのは、ウォレスとはじめて行った居酒屋である。店員に庸子の名を告げ通された座敷の入り口で、立ちすくんだ。

『お、きたな』

 座敷の一番奥に信楽がでんと座っていた。説教をする前の家長のようだ。その隣で庸子が目配せする。そして信楽の目の前に……

『ミスターウォレス……』

 緊張した顔が久美子を見据えた。怒っているようにも悲しんでいるようにも見える。巻き毛が少し伸びただろうか。首を覆う程度だったのが、襟にかかっている。正座どころかあぐらも苦手な彼の長い足が座卓の下で窮屈そうに折れ曲がっている。

『青木、レンの横に座れよ』

 信楽が促した。事態は飲み込めた。八嶋が駐在員だった頃は、アメリカに本社の噂話が流れるようなことはなかった。だが今は松本だ。庸子の特派員みたいなものだ。ウォレスは久美子の妊娠を噂で知ったのだ。

「お昼にこのふたりが立ち話しているのに遭遇しましてね。割り込んでこういう形にセッティングさせていただきました。ぐふ」

 庸子が面白そうに言う間も、ウォレスの尋ねるような視線から逃れられず、ぎくしゃくと彼の隣に腰をおろした。テーブルの上には少しだけ手のついた料理が並んでいる。いったいこの三人で何を話していたのだろう。

『青木、こいつがおまえの妊娠の噂を聞いて、なにを考えたか、わかるか』

 信楽が妙に優しい口調で聞いた。

『私が、冷たい、ひどい女って?』

『いや、おまえが既に別の男をつかまえて、それで妊娠したのだろうと思ったわけだ』

 はっとウォレスを見ると、迷子の子どものような目で見つめられた。

『おまえはこいつに連絡しなかったんだから、そう思われても仕方ない』

 久美子は唇をかんで、小さく頷いた。

『こいつが慌てて飛んできたのは、おまえがシングルマザーになるつもりだという話も聞いたからだ。それなら自分が父親になろうと申し出るために』

 さっきから一言もしゃべらないウォレスはじっと久美子を見つめるだけだ。すぐにでも謝って言い訳をしたい。けれど信楽と庸子がいる。

『だが真野から聞く限りレンの子だ』

 信楽の言葉に頷くと、ウォレスの目がきらきらと輝いた。

『ならなぜレンに連絡せず、社内ではシングルマザーになるつもりだと説明したのか』

 何か言わなくては、と口を開きかけたが、信楽は間をおかず続けた。

『俺に当てさせてくれ』

 しぶしぶ頷く。

『レンに遠慮したからだ。自分は結婚にあせっている。だが、レンは年下で、能天気な若者だ。子どもができたからと言って結婚を迫りたくない。それに自分は子どもがいればそれで十分。結婚しなくてもいい』

 まるで心を読まれたかのような信楽の説明に、ぽかんとしてしまった。

『違うか?』

『そ、そのとおりです。能天気だとは思っていないけど』

 とたん庸子が感嘆の声を上げ、大げさに拍手した。

『どうしてわかるんですか』

『人のことならわかるんだよなあ』

 信楽がため息まじりに腕を組み、うんうんと頷く。

『だが自分のこととなるとからきしだめだ。嫉妬したり、邪推したり、いらだったり。それから、ついもういいやとなげやりになったりする。そのあとでやっぱり諦められないとのたうちまわる』

 みなが彼の苦難を思い出し、言葉を失った。そんな空気に頓着せず、信楽が話を続ける。

『それから、もうひとつあるだろう。青木、おまえはレンに恋しているんだ。だからこそ、妊娠をかたに結婚するのが嫌だった。気持ちが後回しになってしまうし、卑怯だし、悲しいと思った。違うか?』

 自分では自覚したことの無い視点だった。けれど確かにそのとおりだ。

『違いませんけれど、もうひとつあります』

 久美子はこれ以上他人に指摘され続けるのはかなわないと、白状することにした。

『避妊しなかったのは私の責任です。いい年して全く頭になかったんです、ティーンエイジャーみたいなできちゃった状態があまりに恥ずかしくて、それで、最初から子どもが目的で彼と寝たんだって、自分にも人にも言い訳したんです』

 庸子と目が合うと、ばかにされるかと思いきや、優しく微笑まれるだけだった。

『ああー、そりゃのろけだ。考えてなかったんじゃなくて、考えられないほど、お互いに熱くなってたんだろ』

 信楽の指摘にウォレスと目が合うと、互いに頬を赤らめているのがわかった。

『さて。七時だ。時間に正確な姫様が来る』

 信楽が言うが早いか、廊下を隔てる障子が開き、八嶋美紗緒が姿を現した。モノクロのスーツだが、襟元にのぞくエルメスのスカーフに華がある。

『こんばんは。皆様、遅れて失礼いたしました』

 いつもの優雅なものごしで頭を下げ、座の四人を微笑で見回す。信楽が自分の隣の座布団を叩くと冷たい顔で首を振った。

『私はオフィシャルな立場での参加ですから』

『いいから、ここに座ってくれ』

 離婚しても彼らは愛し合っている。不思議なふたりだと思う。ただ彼らを隔てた悲しい過去を思うと、胸が痛くなる。八嶋は諦めたように信楽の横に座り、ウォレスと久美子に向き合った。庸子が興味津々に元夫婦の様子を観察し始めた。

『話はお聞きしています。小林社長にこの件を一任されて参りました』

 ものものしい出だしに久美子はウォレスと顔を見合わせた。

『おふたりが結婚されるかどうかは、これからご本人同士がゆっくり話してお決めになること。口出しはいたしません。けれど会社といたしましては、レンがアメリカの仕事を放りだして突然来日するような不確定要素を放置できません』

 何を言い出すのか。信楽さえ目を丸くしている。

『レンには今後日本に居を移し、日本を拠点に仕事していただく方向で調整したいと思います。いかがですか? レン』

 ウォレスが息を呑み、とんでもなく偉い上司に対するように背筋を伸ばして、顔を緊張させた。そしてゆっくり頷いた。

『それはベストだ。ありがとう。ミサオ』

 そんなの、会社にもウォレスにも迷惑をかけるだけだわ。慌てて反論しようとした久美子は、八嶋の一瞥で制された。

『レンにとって、彼の子があなたのおなかでしだいに大きくなり、この世界に誕生し、産声を上げるのを見守ることは大きな喜びになるはずよ。それを奪ってはいけないわ』

 柔らかな口調にも強い意思を感じて口を閉じる。八嶋は目を細め、それから非難めいた視線を信楽に送った。

『それより、もうどれだけ青木さんをここに座らせているの?』

『ああ、かれこれ一時間か』

『大丈夫? 青木さん。まだ何も食べていないのでしょう? ここに食べられるものがありますか?』

 正直さっきからだいぶ胃がむかついていた。かといってテーブルの上の料理は食べたらさらに具合が悪くなりそうなものばかりだ。苦笑して首を振った久美子に、八嶋はひとつ頷き、ウォレスに向き合った。

『レン、彼女をここから連れ出して。彼女が食べたいものを食べさせてあげることよ』

『そうだね。とにかくありがとう。ミサオ。それからシガラキさん。貸しは十分返してもらいました』

 ウォレスが久美子の手を握って立ち上がった。彼の手の暖かさが体に染み渡り、ため息が出てしまう。

 店から出ると駅前の人通りも多い歩道だというのに、その場で柔らかく抱きしめられた。

『僕と結婚してください』

 ストレートだわ、単純だし、せっかちよね、いくつかの感想が頭をよぎったけれど、逆にこれ以上の言葉も無い気がした。

『はい』

 強く抱きしめられた。そしてはっと体を離し、大丈夫?と聞いてくる。大丈夫よと答え、ゆっくり見つめ合う。顔を見れば、手をとりあえば、抱きしめあえば、いろいろな疑念が吹き飛んでしまう。八嶋がウォレスに日本に住めと言ってくれたことに、今更に感動している。きっと八嶋自身、信楽と離れて暮らした後悔があって、あんな強引な提案をしてくれたのだろう。今は彼女も信楽の近くにいて幸せなはず。恋人同士に戻ってしまったように見えたふたりも、いつかまた別の形になるのかもしれない。いや、ならなくても、きっとふたりは離れない。

 私もこの人とそんな絆を築きたい。そうよ、これから作っていけばいいことなのだわ。

 久美子はウォレスの手を強く握り締めた。

 その時、背後から信楽の声がした。

『お取り込み中すまん』

 ウォレスと一緒に振り返る。

「アオキ。ひとつだけ言い忘れた。こいつをミスターウォレスって呼ぶのはそろそろやめにしてやれ」

「えっと……だめなんですか?」

「彼らにとってはすごくよそよそしく聞こえると思うぞ。おまえの気持ちを疑う一因になったと思う。だがそいつは頭でっかちで、なまじっか日本文化について勉強してたりするから、おまえにファーストネームで呼んでくれって言えなかった。そこらへん、今晩よく聞いてから明日、アメリカに送り返すんだな」

 言うだけ言うと店の中に戻っていく。日本語の会話を見つめるだけのウォレスだったが、説明を求めて久美子を見た。

『今晩、あなたのホテルに一緒に泊まっていい?』

『もちろん』

『話したいことがたくさんあるわ。……レン』

 彼は破顔して久美子の肩を抱き歩き出した。

『僕も。本当はまずあなたと話したかったのに、シガラキさんにつかまって、ヤンヤンにもいろいろ聞かれて、まいったよ』

『ヤンヤンじゃなくて、ヨンヨンよ。私のことはクミって呼んで。ウミじゃなくてクミよ』

 英会話教室でそう呼ばれたのを思い出す。

『大丈夫。簡単だよ、クミ』

 彼のきれいな発音に、久美子は満面の笑顔で答えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る