第11話 天使外伝 その1
ラッシュを避けて早朝に出社する。かわりに学生のような時間に退社する。それがつわりに苦しむ久美子に小林社長が提案した勤務スタイルだった。
そうする理由を八嶋が仕事上の関係者ひとりひとりに口頭で伝達してくれたから、みなが訳知り顔で、お大事に、とか、がんばれ、といった無言のエールを投げてくれた。
今はこの子を無事に産むことだけで精一杯。生まれたら…… ああ、もうきっと私、ぞっこんになってしまいそう。
机の下にある下腹部にそっと手を置く。先週病院で見た超音波の画像はまだ豆のように小さかった。彼の姿を少しでも受け継いでいたら…… 頭がしびれるような期待にぼうっとなる。
出社している社員はほとんどいない時間なのに、ノックとともに丸い体が滑り込んできた。
「あーねーごー」
満面に笑みをたたえた小柄な女性は、真野庸子、旧姓佐々木庸子。古株のシステムエンジニアである。
「ヨンヨン……」
彼女に伝わらないわけないわね…… 少しひるんで、悪友のにやにや顔に苦笑で答えた。
「やるじゃん。どこでいいタネ、ゲットしてきたのよう。ねね、いい男なんでしょ、顔でしょ、決め手は顔でしょ」
「う、うん。まあ」
「話してもらうわよ。情報省に隠し立ては許さんからね」
「わかってるわよ。長官」
庸子は社内の噂話の総元締め。一方、社外のとまほーくに関する噂話の取締り官でもある。インターネット上の掲示板やサイトに上った思わしくないゲーム情報や個人情報を削除したり、削除依頼をする責任者なのだ。信楽が娘を亡くした時には、新聞に載った事故だったこともあり、ネットで広がって彼を傷つけないようかなり腐心したと聞く。社内の噂話も彼女がゲートキーパーとなって本当にまずい話は食い止めてくれる。単なる面白がりの噂好きだということも、知っているわけだが。
「ヨンヨンだから話すのよ」
予備の椅子にどっかと腰をおろした庸子に、久美子は自分の中に宿った命の源のさらに源について申し開きを始めた。
八ヶ月前、つまり三月のことである。
信楽の新作発表会議が成功裏に終了した地下の会議室では、何人かの社員が居座っていた。ここを出たらゲームの内容はおおっぴらに話すことができない。今のうちに話しておけといった様子である。
久美子はひとり会議に使ったプロジェクターや無線LANのアクセスポイントを片付けていた。信楽が会議中、八嶋に後で話があると声をかけていたのが気にかかる。本当にふたりは終わりなのだろうか。だとしたら、朝、信楽を抱きしめて確認してしまった行き場の無いはずの恋心に、光明が見えてしまう。いや光明というより落とし穴のようにも思える。
『手伝いましょうか』
突然、頭の上から英語が降って、ぎょっと顔を上げた。八嶋と一緒にアメリカ支社から来た若い外人が微笑んでいた。茶色くて柔らかそうな巻き毛。枯葉色の瞳。形のいい、大きすぎない鼻。思わず見とれてしまいそうな美形である。背も見上げるほど高い。王子ってかんじ? だがミーハーな部分を表に出す久美子ではない。
『ありがとう。そのケーブルここにしまって』
すぐさま指示した。男は実に手際がいい。
『上に持っていくの、手伝える?』
『もちろん』
ダンボールを一箱ずつ抱えてエレベーターに乗り込み、ようやく自己紹介した。
『私はアオキクミコです。開発のシニアマネージャーよ』
『レン・ウォレス。とまほーくアメリカでマーケティングをやっています』
元が文系の八嶋や小林と違い、英語は門外漢だが、とまほーくアメリカが設立され海外との仕事が増えたのを機会に英会話教室に通い、信楽とはりあえるくらいの「独学英語」をものにした。そのおかげで美形外人と会話ができるのだから、英語さまさまだわ、とこっそり悦に入った。
『ミスターウォレス、お名前は聞いていたわ。あなた、ここに直談判に来て採用されたんだったわよね。どうやって社長に会ったの?』
『受付にレジメを押し付けて、すごく優秀な男がやとってくれと来ているから社長に取り次げって、まくしたてたんだ。言葉が通じているかどうか、わからなかったけど』
笑ってしまうとウォレスも微笑み、気安い雰囲気がエレベーターの狭い空間を満たした。
『それにしてもわざわざ日本に来るなんて。アメリカの事務所に行けばいいじゃない』
『まずタケシ・シガラキに会いたかったんだ。仕事は二の次』
『ゲーム好きね』
『ベリーマッチ。ゲームオタクってところさ』
ついがっかりした。王子みたいな顔してオタクかあ。それに田舎の王子様ね。垢抜けない服装にも気づく。
ふたりは二十四階に着き開発部のパーティションの列を抜けて個室に到着した。ドアを開けると斜め前の作業台で赤池と開発のふたりが大きな機材をジェラルミンケースに収めるところだ。上の会議室でジェイドの三次元映像を映すのに使ったレーザーである。
『レン、どうしてここに』
機材が収まって、顔を上げた赤池が心外そうに言うから、いち早く答えた。
『手伝ってくれたんです。プロジェクターと、アクセスポイント、元に戻しておきますね』
『ああ、頼む』
大型の金属棚に段ボール箱を載せるのを、ウォレスが僕がやるよ、と奪い取りながら『ここは資材置き場ですか』と聞いた。
『赤池ラボ……かな。とにかく彼の個室よ』
『ふうん。ユニークだ』
きょろきょろと見回している。確かに町工場と研究室が入り混じったような不思議な大部屋である。コンピュータだけでなく、工具や計測機器や、様々な電子部品が壁一面の棚に押し込めてある。ひときわ異彩を放っているのが、部屋の隅でほこりを被っている手作りの装置を押し込めたタワー型ラックだ。
『あれは?』
『ああ、RTACね。ほら、あのゲームの…… そうか。海外では発売しなかったのだっけ。昔、アニメーションゲームを作るために開発した装置よ』
彼の目の色が変わった。
『海外未発売のシガラキゲームがあるんですか』
『ええ。サウザンドトゥームスと養獣譚の間に一作』
『そうか! だからその間が三年以上空いていたんだ! てっきり移植の遅れだと思っていた。そのゲーム、今でもできますか? プラットフォームは?』
『PS2よ。でも日本語オンリーだし、ストーリーを楽しむゲームだし、アメリカと某アメリカ企業をモデルにした敵が出てくるし…』
『内容がわからなくても、見るだけでもいいのです。アオキさん、お持ちじゃないですか』
『オフィスにあったと思うけど。八嶋さんはあまり見られたくないのじゃないかしら。今の同僚のあなたには……』
『ミサオが? どうして?』
呼ばれたように赤池ラボのドアが開いて、皆の目がドアに注がれた中へ思いつめた顔をした八嶋が入ってきた。彼女は赤池に声をかけ、深刻な顔で何かを話した。そして赤池に示されると、初めてこちらに視線を向けた。
『レン。ごめんなさい。今日はこれで失礼したいの。青木さん。もしよろしければ、彼の夕食のアテンド、お願いできないでしょうか』
『ええっ、彼と夕食?』
『いいよ、ミサオ、僕はひとりでも』
『でも前に日本の食堂のメニューはわからなくて困るって言っていたじゃない』
『ああ。頼みます、青木さん。彼はとまほーくアメリカのVIPですから』
最後に赤池に言われ、しぶしぶ頷いた。八嶋は赤池と部屋を出て行ってしまった。信楽との顛末を相談するつもりだろうか。事の成り行きが心配でいたたまれない。ウォレスを連れて赤池ラボを出ると、こっそり社長室を覗きに行こうか、などと考えていたのに、彼にまたつめよられてしまった。
『お願いします。本当に少しだけでいいですから、そのゲーム、見せてください』
久美子は諦め、腕を組んだ。
『いいけど。セリフを訳したりしないわよ』
それでふたりは久美子のオフィスに行き、6年も前の恋愛ゲームを引っ張り出すはめになったのである。
「ほほう。それで、恋愛ゲームながれで、愛が芽生えたと……」
相手が社員でかつ米国人だというところから庸子は目を丸くしっぱなしだったが、さらに最後でつばを飲み込み体を乗り出してきた。
「馬鹿! そんなわけないでしょ! その時はゲームをしてる彼の横で仕事をしていただけよ。結局ときどきセリフを訳すはめになったけど…… ただ、彼がゲームをクリアした後、ものすごく落ち込んじゃって」
「なぜに?」
「彼は八嶋さんのことが好きだったの。でもあのゲームを見て、信楽さんと八嶋さんのつながりの深さっていうか、ほらわかるじゃない? あのゲームをやると、ふたりの尋常じゃない関係が」
「まあね。あたしら、あてられっぱなしだったよね。ところでウォレス君はどのエンディングに行った?」
「松本さんのだったかな?」
「ぐは。意外と根暗じゃなあ」
「オタクなのよ…… で、その後、居酒屋で夕食にしたのだけど……」
日本のマーケティング部の同僚と行ったことがあるのだという居酒屋で、ウォレスと酒を飲むことになってしまった。なにやらあまりに落ち込んでいるので、適当に食事させてホテルに帰すのが気の毒になってしまったのである。店は空いていて、掘りごたつのある個室に入ると静かに話をすることができた。ヤキトリとビールを目の前にして。
『いつから八嶋さんのことが?』
『最初から気になる存在ではあったよ。僕が入社したころは彼女もアメリカに来たばかりで、英語もそんなにこなれていないのに、すごく必死でさ。全然笑わないだろう。いつも黒ずくめの格好で社内をくまなく歩き回って問題があれば躊躇無く首をつっこんで、社長に報告して解決していく。ニンジャ顔負けさ』
アメリカ人ってニンジャ好きよねえ。困った顔で聞いていた。
『でも彼女がどうしてそんなに必死で働けるのか、ずっと不思議に思っていたんだ。たとえば、アオキさん、あなたには上昇志向があるでしょう』
突然、話をふられて、久美子は英会話教室であてられた生徒みたいになった。
『はい。正解。負けず嫌いなの。私』
『でもミサオにはそういう所が感じられなかった。謎だった。謎が僕の興味を引いた。そして知ったんだ。彼女とシガラキさんの関係と、悲しい事故のことを』
そう言うウォレスの顔があまりにせつなげで居心地が悪くなった。酒はいけるくちである。ビールを一杯飲み干すと、彼のせつなさがアルコールと一緒に体に染み入って自分のせつなさと混じりあった。
『日本ではね。八嶋さんがアメリカに渡って、残された信楽さんがあんまりけなげに彼女を待ち続けているから、まわりのみんながやきもきしているのよ』
『ただ待つなんて、男のすることじゃない』
信楽への侮蔑をこめた言葉に、つい熱くなった。
『そう? 無理やり帰そうとしたら、もっと早く破局が来ていたんじゃないの? 待つことが彼の愛だったのよ。きっと』
『あなたは彼のことが好きなんだ』
You like him, don't you?
ライク、という単語に反論できなかった。ラブと言われれば、考え込んでしまったろう。
『そうよ、好きよ。残念なことにね』
『何で残念?』
『私、いくつに見える?』
『二十七ぐらい?』
『からかってるでしょ! 三十六よ。いいかげん結婚して、子どもを産みたいの。かなわぬ恋なんかしている暇、無いの』
なぜこんな本音トークをしているのか。ウォレスをなぐさめるつもりなのか、なぐさめられたいのか、よくわからぬうちに口が滑っていた。ウォレスもよく飲んでいて顔が赤らんでいるから、どうせ酒の席だと、気が緩んでいたのかもしれない。
『なんと、ミサオといい、日本人は化け物だな。いったいいつ年寄りになるんだ?』
『なに言ってるのよ。見てよこの目尻のしわ』
ウォレスが顔を近づけてきて、目を細めた。
『目を凝らさなきゃ見えないしわなんて、しわのうちに入らない。メグ・ライアンって知ってる? 彼女はチャーミングだけどしわだらけだよ』
『キャメロン・ディアスもね。で? 何が言いたいの?』
『えっと……つまり、しわはチャーミングの妨げにはならないってことかな? いや、アオキさんのしわはやっぱりかすかだよ』
『ああ、もうっ、リンクル、リンクルってうるさいわね!』
『しわの話を始めたのはあなただろ』
話が横道にそれているのに気づいて目を合わせ、互いに苦笑いした。
『で、アオキさん。話を戻すけど、シガラキさんとミサオは破局したと思う?』
『え…… ええ。そんなふうに聞いたわ』
『なら、あなたの思いはかなわなくもないじゃないか』
『そっちもね』
『そう思っていたんだ、ゲームの中のミサオを見るまでは』
なんと言っていいかわからなかった。久美子も信楽が八嶋を失おうとしている今、どれほど打ちひしがれているかを目の当たりにしている。自分にどうにかできる自信などまったくない。
『でも…… 諦めたら、終わりよ』
つぶやくと、ウォレスは目を上げた。
『私、絶対、子どもが欲しいもの』
彼が混乱した顔をする。
『今の私にはそっちのほうが大事なの』
『目的優先か。はあ。僕もそのくらい割り切れたらなあ。ミサオにすぐプロポーズするのだけど』
『あなたの目的はなんなの?』
『彼女と愛し合いたい』
ラブ、イーチ、アザー。その言葉の重さに頭がくらくらした。私はもう恋愛は無理。そんな関係を追い求めていたら、一生結婚も出産もかなわないわ。そう自分に言い聞かせる。
『でも、諦めたら終わりだな。うん。アオキさん。ありがとう。励まされたよ。僕は諦めない。お互い、がんばろう』
彼は突然勇敢な顔になって、久美子に握手を求めた。その手を握ると、あまりの大きさにどきりとした。カウボーイみたいな手をしているのね。おっと、カウボーイの手なんて見たこと無いか。頬が熱くなったのは、酔いのせいだと自分に説明した。
居酒屋を出ると十一時近かった。送っていくという彼に、日本の通勤交通システムと安全性について力説しなけばならなかった。
『連絡を取りあおうよ』
別れ際、彼が言った。仕事ではほとんど接点が無い。何について? と聞く前に
『僕たちの恋愛の進展について。すごく密接な関係だからね』
と言われ、懐疑的ながらも頷いた。酔った外人の社交辞令に思えたからだ。
しかしウォレスがアメリカに帰ってすぐ、メールが頻繁に届くようになった。八嶋がものすごく落ち込んでいて、今は手がつけられないこと。どうやら離婚が成立したらしいということ。
久美子も信楽がサングラスをかけ始め、言動が荒くなったことから、離婚説に同意した。それを確かめようにも、取り付く島も無いほど彼が落ち込んでいると報告した。
次にウォレスと会ったのは、六月のロサンジェルス。E3というゲーム展示会である。ネットゲームの体験版展示のトラブル対策要員として、開発者の久美子も駆り出されたのである。ウォレスはマーケティングマネージャーだから展示を取り仕切る立場である。かなりてんぱった状態でかけずり回っていた。一方久美子も押し寄せる客たちへの操作説明や、取りきれていないバグの対応に追われ、息つく間もない忙しさである。
信楽と八嶋の離婚は、なんと大株主の変更という公的なアナウンスによって
展示会最終日、客が引き、祭りの後みたいな脱力感に見舞われているところへ、ようやく一息ついたらしいウォレスがスタバのコーヒーを両手に持って近づいてきた。
『アオキさん、お疲れ様。これ、どうです?』
カップをひとつ差し出してくれる。
『ありがとう。いただくわ』
目の前では早くも展示ブースの取り壊しが始まっている。ハンマーでものを叩く音が会場中から響き渡り、ふつうの工事現場よりも煩いくらいである。いきおいウォレスは背をかがめて久美子に顔を近づけた。彼の巻き毛が額に触れそうで、妙にくすぐったい。
『ミサオとデートの約束をしたんだ』
『本当に!? おめでとう!』
しかし彼の顔は曇っている。悲しげに微笑むとコーヒーを一口飲んだ。
『どうしたの? 嬉しくないの?』
『嬉しいよ。すごく楽しみだよ。あなたは? シガラキさんと何か話した?』
久美子は苦笑して首を振った。
『だめ。見たでしょ、彼。みんながターミネーターって呼んでいるわ』
『うん。実は僕も展示会中、仕事以外じゃ一度も話しかけられなかった。でもちゃんと仕事はしている。すごいよ彼の精神力は』
『あら、今度は信楽さんに同情するの?』
『そういうわけじゃないけど、僕たちは同じ北極点を目指して冒険するライバルみたいなものさ。どっちがミサオの冷え切った心に到達できるか、ね』
『信楽さんは離婚したんだから、冒険を断念したのでしょ』
『ああ…… そうだよね。アオキさんが暖かい部屋を用意して、引き返した彼を迎え入れてやればいい』
『ええ……』
久美子には信楽こそ吹きすさぶブリザードの中の北極点に思える。待てばブリザードがやむのだろうか。いったい何年かかるだろう。秋には誕生日が来て、三十七になってしまう。
『私、彼にプロポーズしてみようかしら』
『わお』
久美子のつぶやきに、ウォレスがおどけた声をあげた。
『それで断られれば、諦めて別の結婚相手を探すことができるもの』
ウォレスは探るような顔で久美子を見たが、口だけで笑顔を作って親指を立てた。
『グッドラック、アオキさん』
『あなたもね』
日本に帰り、本当に信楽にプロポーズした。彼が泊まっている旅館におしかけて、子どもが産めるうちに私と結婚する気はないか、と聞いたのである。信楽はとんでもないことに、口から茶碗蒸しを吐き出すくらい面食らって、目を白黒させた。そして、今夜はここに泊まっていくか、などと言うから、彼が自暴自棄になっているせいで、そのまま押し倒されるのかと思ったくらいである。
「で、何があったのよ? あの晩?」
庸子はまたしても事務椅子をごろごろさせて久美子に迫ってきた。実は信楽との朝帰り出勤をあろうことか彼女に見られてしまったのだ。何も無かったと言い張ると、なら、この情報は解禁ってことでいいわね? と意地悪な顔で言われ、社内に信楽と久美子が同じ車で出勤したという噂が流れる結果となったのである。
「あの時は落ち込んでいて、話す気にならなかったのよね。あの晩はね、八嶋さんとのなれそめから、今に至る因縁までをとうとうと聞かされたの。今考えればのろけよ。その時は愚痴に聞こえたかな」
その話には、信楽が坂巻を雇って会社の規模を倍にしたのは、八嶋を釣るためだったのだという、社員が逃げ出しそうな極秘情報もあり、こればかりは庸子にも、いや彼女だからこそ絶対話せない。
「まじですか。プロポーズした女に、元妻ののろけを…… なんてやっちゃ」
「要は俺はこんな馬鹿な男で、今だ元妻に執着しているから諦めてくれってことよ。夜はふとんを並べて寝たけど、ぜんぜん危ない雰囲気にならなくて、まるで兄妹か、ううん、どこまで行っても彼にとって私はただの部下でしかないってことを思い知らされたわ」
「それが大ドンの優しさなのかなあ」
庸子は遠い目になり、足を組みなおした。彼女も上司として信楽を慕っている。今は久美子も同じだ。我儘で傲慢だけれど憎めない最高の上司。それが信楽武司。とにかく久美子のリバイバルな恋はあの夜、終わった。
プロポーズで玉砕してから数日後、オフィスに国際電話があった。ウォレスだ。アメリカ西海岸は夜更けのはずである。
『どうしたの? 何かあった?』
『アオキさんの声が聞きたくて』
ずいぶん落ち込んだ声音で、八嶋のことで何かあったのだな、とすぐわかった。
『あの、私ね。信楽さんにプロポーズしたわ。それで、きっぱり断られちゃった』
『そうか。それはお気の毒に…… シガラキさんはなんて言った?』
『八嶋さんとのつながりは尋常じゃないもので、他の女に目が向くことは無い、ですって』
『そうか。彼もそう思っているんだね』
『彼も?』
『ミサオは今もシガラキさんのことを愛し続けている。今日彼女とデートしてわかった。離婚の原因は愛が冷めたからじゃない。他に原因がある』
『どういうこと?』
『詳しくはわからない。ただ…… アオキさん。僕はあなたのアドバイスが欲しい。僕はシガラキさんに、ミサオがまだ彼を愛していることを伝えるべきだろうか』
そう聞かれて、胸がつまってしまった。ウォレスは本当に八嶋に恋しているのだ。それなのに、八嶋のことを思って元夫との仲をとりもとうとしている。私には出来ない。八嶋に、信楽さんの想いを伝えることなんて。久美子は受話器を握り締めた。
『ミスターウォレス。あなたはとても優しい人だわ。でも夫婦喧嘩は犬も食わないって言うじゃない? あのふたりはほおっておいてもいつかまた互いを求め合ってもとの鞘に納まるんじゃないかしら。ただ、それがいつになるかが問題よ。もしかしたら何年も先かも。その間、ふたりは運命の伴侶を見失って苦しい日々を送るのだわ。それを見てどう過ごすかは、あなたの判断しだいだわ』
しばらく沈黙があった。
『アオキさん』
ウォレスは諦めたように、つぶやいた。
『本当にうまいこと言うものだね。すっかり説得されてしまった。これからシガラキさんに電話する。ミサオのことは彼に任せるよ』
『ごめんなさい、辛い役割をさせてしまうわ』
『あなたが謝ることじゃない…… ただ…… アオキさんは夏休みの計画があるかい?』
『え? いいえ?』
突然の話の転換にとまどった。久美子は毎夏、一週間は休暇を取って海外か国内の旅行に行くことにしている。しかし今年は新作に巻き込まれているから、八月に予定している休暇が本当に取れるか半信半疑でまだ計画を立てていないのだ。
『アメリカに来て僕と一緒に旅行しないか? お互い、傷心旅行だ』
『えっと……』
考えさせて、と言うべきだった。男と一緒に旅行なんて下心を疑わずしてなんとしよう。けれど行ってみたい。ウォレスともっと知り合いたい。そんな衝動に逆らえなかった。
『いいわ。楽しみにしてる』
「GOOD」
ようやく彼は少し明るい声を出して電話を切った。その後、彼の尽力のせいなのか、信楽が八嶋を説得して日本に帰らせる手はずとなり、一ヵ月後、社長補佐という役職で帰国するというアナウンスがなされた。
八嶋が帰国して皆の前で挨拶した日、久美子は休暇を取ってアメリカに旅立っていた。
「なあるほどー! アメリカ支社の社員と、こっちの社員が同じ時期に休暇を取ったって、誰も気づかないし、気にもしないわよね」
庸子はうんうんと頷いた。
「で、その旅行の最中にやっちゃったわけだ」
「あああ! 身も蓋も無い言い方ね。でも、そうよ、そのとおり。だからこの話はここまでね」
立ち上がって凝った腰をもんだ。胃は始終痛むし、座りっぱなしだと腰が重くなる。かといって立ちっぱなしだと貧血のように目が回る。妊娠三ヶ月に入ってつわりはピークを迎えている。いや、今がピークで無ければ困る。ものの本にはつわりは四ヵ月か五ヶ月に入れば無くなると書いてあるのだし。
「何をおっしゃるうさぎさん。ここからが本番でしょー」
「だって、今は仕事中よ。もうみんなも出社してくる時間だし」
「じゃ、帰りにお茶しよ」
「私、早帰りするもの」
「じゃ、私も早退する」
はあ、とため息をついて、どのみち庸子の追及を逃れるのは無理そうだし、話したほうが楽になるのかなあ、と頷いた。
「わかったわよ、じゃ一応定時までいて、それから出ましょう」
「うっひっひ」
極秘情報は庸子の栄養源である。つわりの久美子とはうらはらに、彼女はスキップしそうな元気さで部屋を出て行った。しかしなあ、どこまで話していいのかしら。久美子はウォレスとの旅行を思い返し、窓の外の、アメリカに続いているであろう遠い空を見上げた。
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