第878話 根源的な「誤り」があると思うのだが。

慶応義塾大学の伊藤 公平塾長が、「『国公立大学』の授業料を150万円に上げるべき」と発言し、物議を醸しだしている。氏の発言には賛否両論があるが、発言の筋は通っていると個人的には思っている。本来安価な学費で、金銭的に厳しい人たちのための国立大学であるが、「東京大学」や「京都大学」などの一流大学に進学する学生の多くが、私立の中高一貫校で学び、家庭の年収平均が1000万円を超えており、その収入に応じた金銭的負担を果たすことで、不足しがちな大学の運営費を賄い、授業料が払えない貧困家庭には、「給付型」の奨学金を充実させることで対応する、ということであり、「大学はお金持ちのもの」とならないような工夫は考えているように感じる。


それはそれとして、私が「変だ」と思うのは、「大学全入時代」と言われるように、日本の大学の総定員数が、世代人口を超えている状態である、ということだ。私たちの世代である、「就職氷河期」かつ「大学院重点化」時代の人間にとっては、アカデミックな職種の就職先を減らすことになり、厳しいところではあるのだが、まず「大学」の数や「定員」を適正な数に減らす、ということが、国公立大学の授業料を上げるよりも優先すべきことではないだろうか?ここについては強力に推し進めて、「大学」を本来の姿である、「適切な学力を有する」人が進学する場所とすることが必要であろう。大学の最初の授業で、「アルファベット」や「分数の計算」から始めなければならない、なんておかしい話である。


ドイツでは自分の将来選択はたしか10歳ころだったと思う。学力の高いもので希望する者は「大学」へ、「学力の高くないもの」あるいは希望する者は、「職業訓練」を行ない、「マイスター」となる道を進むことになる。「マイスター」は社会的には「高学歴者」と変わらない、あるいはそれ以上の尊敬を受ける立場である。このような社会の在り方、つまり「学歴」とは別のベクトルでの社会的評価が存在している、ということは重要だと思っている。


さて、そんな中、面白いネット記事を見つけた。


ソースは東洋経済ONLINE、5/16配信。Yahooニュースより


<以下引用>

日本の大学と学費のあり方についてゼロベースで考えてみましょう。


グローバル化の時代に国内の事情だけで学費を論じることはできません。まず世界の状況の確認から。世界の主要大学の1年間の学費は、以下の通りです。


アメリカやイギリスでは、受益者負担の考えから優れた大学ほど学費が高くなっています。一方ドイツでは、大半の大学で学費はゼロです。他にも北欧諸国など学費ゼロの国があり、東京大学の53万5800円が世界最安値というわけではありません。ただ、昨今の円安の影響もあり、日本は世界だけでなくアジアの中でもかなり安い部類です。


<引用ここまで>


アメリカでは「学歴」は自身の「立身出世」のための手形である。なので、授業料は「自分自身に対する」投資であり、投資額以上のリターンが見込める、と社会として認識しているわけである。アメリカの学費が高いのは、そのような理由である。


ヨーロッパで、本文ではドイツを例に挙げているが、例えばフランスでもNo.1大学であるソルボンヌ大学も授業料はなかったはずである。ヨーロッパは「高学歴者」は「社会財」と考えられている。“Noblesse Oblige”という言葉の通り、「高学歴者」は「社会のためにその才を使うこと」が当然と考えられており、また「社会財」であるからこそ、「授業料」は安価に設定されている。


ということで、「授業料」がどのように設定されているか、を見れば、社会が「高学歴者」をどのように見ているか、というのが見えてくるわけである。以前にも書いたが、1970年頃、高卒で仕事を始め、4年程度で月収10万円、という時代で、国立大学の授業料は年間1万円程度であった。ということは、このころは「高学歴者」は「社会財」と考えられていたわけである。実際にこの時代に大学で学んだ人たちが、今の日本人ノーベル賞受賞者のボリュームゾーンとなっていることと関連していることである。


一方で、伊藤塾長の考え方であれば、「学歴」は「個人」の立身出世の手形、とみるべきであろう。


私自身が実感していることであるが、残念なことに日本もある種「階級社会」であり、この階級を乗り越える最もコストパフォーマンスの良いものが「学歴」である。そういう点では、アメリカ型の、高価な授業料、というのもむべなるかな、と言わざるを得ない。


ただ、この記事は一方で、このような記載もある。


<以下引用>

 一方、あまり指摘されていませんが、安価な学費には悪い点もあります。一言でまとめると、研究が高度化しないという問題です。


近年、日本の大学の研究力の低下が顕著です。学術出版大手シュプリンガー・ネイチャーが昨年公表した理科系の大学・研究所の研究力ランキングによると、首位は中国科学院、2位はハーバード大学、3位は独マックス・プランク研究所で、日本勢では東京大学の18位(前年14位)が最高でした。


 原因はいろいろあるでしょうが、やはり何と言っても“金”です。日本の大学は、学費収入が少なく、国からの運営補助金などに依存する脆弱な財政構造です。そのため、金のかかる先端研究はどうしても制約されます。また、金主である文部科学省の顔色をうかがわなければならないので、思い切った自由な研究ができません。


<引用ここまで>


筆者は大学にお金がないのは「授業料が安いから」という論を張っているが、3位のマックス・プランク研究所は「大学はほとんどが無料」というドイツの研究所である。結局、研究のレベルについては、授業料の高い、安いではなく、国が教育・研究にどれだけのお金を投入しているか、というところが問題なのである。


そういう点で、かつては日本の科学研究を強く牽引していた「理化学研究所」が極めて「研究者」を軽んじた労働条件で「研究者」を使っていることで、研究におけるoutputが低下していることも故無きことではない。労働者が、職場に対して持っている愛着の度合いを「エンゲージメント」と表現するが、過日のような採用止めをするようであれば、組織への「エンゲージメント」は当然低下し、職場に対しての「エンゲージメント」が低下すれば、その組織のoutputが低下することも証明されていることである。


奨学金についても、「世帯の収入」だけでなく、そこに「公共的なテスト」を行ない、基準をクリアした人に対して、適切な金額の「給付型奨学金」を与えることを行なうことを同時並行で行なうべきであろうと思われる。


財務省の考え方がおかしいのか、政治家の予算の組み立てがおかしいのか、理解に苦しむが、必要なところにお金を使わず、「ドブにお金を捨てる」ような事業に大金を払っているように見える。そういう点でも、官僚、政治家ともに質が落ちているのであろう。もちろんそれを選んでいる私たちにも責任があることではあるが。


「周りのみんなが『おかしくなった』と感じているとき、一番おかしくなっているのは『自分自身』」という言葉があるが、世間ではなく、私の感覚がおかしくなっているのかもしれない、と不安に駆られる今日この頃である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る