第867話 「惚れたが悪いか!」

高校時代、私は太宰 治や芥川 龍之介をよく読んでいた。芥川の作品で一番心に残っているのは、小説ではなく「侏儒の言葉」というアフォリズムをまとめた本だった。太宰の作品で一番心に残っているのは「御伽草子」である。作品の発想といい、換骨奪胎して作品に投影された「警句」といい、この作品は戦時下に作られたものであるが、戦時下体制の日本に対する「ほめ殺し」の業といい、作品のエンタテインメント性といい、太宰の「天才性」が存分に発揮された作品だと個人的には思っている。


太宰の「御伽草子」ではいくつかの昔ばなしが取り上げられているが、心に残っている話の一つが「カチカチ山」である。原文が手元にないので、記憶での話になるのをお許しいただきたいのだが、作品では、前文で彼が、


「もともとの話では、『タヌキが助けてもらったおばあさんを「婆汁」にしてしまう』という話だったので、この復讐劇もさもありなんと思うが、最近の本では、『タヌキが逃げる途中でおばあさんをケガさせてしまった』程度である。それに対してこの仕打ちはあまりではないか」


と語り、


「『かたき討ち』であれば、『臥薪嘗胆』修業を重ね、正々堂々と戦うのが『日本男士』ではないか。このようなじわじわとなぶり殺すような復讐の姿はおよそ「日本男士」の姿ではない」


と皮肉を言って、最終的に


「なるほど、ウサギは男子ではないのだ。月の女神アルテミスのような残酷さと美しさを兼ね備えた、うら若き女性なのだ」


と結論付け、タヌキを「さえない中年男」として、「美しくて、本質的に時に残忍な面を持つ若い女性と、さえない中年男の恋愛話」として、「カチカチ山」の話を再構成していくのである。



5/8の午前3時ころに、新宿のタワーマンションから出てきた25歳の女性を、女性が経営してたガールズバーの常連客だった51歳の男性がナイフでめった刺しにして死亡させた、という事件があった。当初は「ストーカー殺人」という扱いだったが、捜査が進むにつ入れて、被害者の女性が、「結婚を匂わせる」ことで、男性にお金の無心をし、男性は「心から大切にしていた」車やバイクを売却してお金を用意していたが、その後結婚の話は立ち消え、用意したお金も返してもらえない、という事で男性側が警察に相談していたことが明らかになった。


お金の絡まない、感情論という次元だけでの恋愛感情のもつれでも、人を殺めるような事件というのは枚挙にいとまがないほどである。そこに大金が絡めば、さらに悲惨な様相を見せるのは容易に想像できることである。


加害者側の男性が売却した車やバイクは、彼が「売却」したから値段がついたが、ではお金を出せば購入できるか、と言えば決してそうではない。彼が手放した車もバイクも、基本的には「市場には出回らない」ものだからである。彼にとってのその車やバイクは、ある意味彼の人生の中で大きな存在だったのだろうと思うのである。


もし本当に、被害女性が結婚を匂わせて男性からお金をもらっていたとするならば、彼女は大きな間違いをしていたのだろうと思う。もらったものは、「お金」で、それに色はついていないが、本当はそのお金は、彼の人生の大切なものを切り売りした、「人生」だったのだ。


「なにか」と引き換えにお金を手に入れる、では、その「なにか」と、引き換えた金額が「本当の意味で」等価か、と問われれば必ずしもそうではない。容易に想像できるのは「保険」であろう。例えば生命保険なら、ある人の命が失われたことを持って、保険金が支払われるが、支払われた金額と失われた命は「等価」か?交通事故で命を落として、裁判で賠償金が決定したとする。その金額と、「亡くなった人」は「等価」か?そうではないだろう。


殺人事件を正当化するつもりはないが、自分の人生の大きなものを渡した挙句に、期待させた報酬を与えなかった、とすれば、殺意を抱かれるのもむべなるかな、である。


太宰の「カチカチ山」では、泥舟が沈没し、ウサギから櫂で湖に沈められそうになりながら、タヌキが最後に叫んだ言葉が「惚れたが悪いか!」である。そして、ウサギは「ふぅ」と一息ついて、振り返りもせず岸に戻っていくわけである。太宰は「人生の悲喜劇の多くはここに由来する」と結論付けている。


お金の絡みがなければ、加害男性は被害女性を殺すことはなかったのだろうと思う。全身をめった刺しにするほどの強い恨みを買う事もなかっただろうと思う。


最近、ホストで身を崩す女性や、「パパ活」という名前の売買春が公然の秘密となっているように思われる。COVID-19の流行初期にナインティナインの岡村隆史氏が「素人の可愛い人が風俗になだれ込んでくる」という発言をして謹慎処分となっていたが、氏の発言が現実として「的外れ」ではないような印象である。


変な世の中である、と思う次第である。

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