第859話 久しぶりに「母校」へ

私は、大学院を中退して、医学部医学科に再入学した。医学科への進学については、恩師の助けを受けて、地元を離れた大学に進学することができたが、以前にも書いたように、実家がビンボーだったので、両親からは、「自宅から通える国公立大学」という厳命を受けていた。


子どものころ育った地域は、国土地理院の過去の地図や航空写真を見る限りでは、私の父が居を構える数年前までは、区画整理もされず、一面田んぼの地域で、川沿いに、古くからの集落が残っていた。いわば、新興住宅地、しかも6軒長屋の内側の方の家だったので、販売価格は必ずしも高いものではなかったのだろう。


なので、もともと古くから住んでいた人は「たくさんの土地持ち」でお金持ちだが、私たちのような「新参者」はどちらかと言えば、「富裕層」とはとても言えない人たちだったのである。住んでいる地域だけでなく、小学校の学区を見渡しても、いわゆる「セレブ(当時は「ハイソ(ハイ・ソサイアティ)」の人たちが住む地域はなかった。


両親、そして、継父との生活が始まっても、私の教育にお金をかける金銭的余裕はなく、「公立高校」に奨学金をもらいながら通学し、多少真面目に学校の勉強をしていた程度であった。


私がもっと子供のころ、小学生くらいのころは、今よりもうんと大学進学率は低くて、我が家から最も近い国公立大学と言えば、大阪大学だったが、「大阪大学に進学する人は、とても頭の良い別世界の人、お医者さんなんて「神様」のような優秀な人」だと真剣に思っていた。小学生のころ、何の話をしていたかはもう忘れてしまったが、「自分の将来」みたいなことを話していた時に「大阪大学とか、行けたらすごいやろうなぁ」といったところ、口の悪い奴が、


「おい、みんな聞いた?保谷が「阪大に行きたい」やって!」


と馬鹿にしてきたことを覚えている。なので、1年間の隠居生活はあったものの、大阪大学に合格した時は、「何かの間違いか」と真剣に不安を感じたことを覚えている。アルバイトのための履歴書に、学歴として「大阪大学」の文字を書くときには、「おれ、ほんまに「大阪大学在学中」と書いていいよなぁ?」と何度も自問自答したことを覚えている。


時は流れて、結婚し、子供たちも大きくなり、子供たちの進学を考えるようになった。今住んでいる地域は、私が育った地域とは異なり、いわゆる「ハイソ」な地域であり、周囲の子供たちもそれぞれ、優秀な高校に進学している。


長男君は、無事に現役で大学合格を果たし、「自宅から通える国公立大学」を見事に実現してくれた。あとは次男君の番である。彼は高校2年生。自分自身が高校2年生のころは、振り返るととても多感な時期だった。「自分は将来どんな人生を進むのだろう?どの大学に進学するのだろう?大学にそもそも進学できるのか?」と不安を感じていたころだった。


私の母校「大阪大学」は5月のGWと11月の2回、大学祭が行なわれる。ということで、今日は学校見学を兼ねて、次男君と30年ぶりの母校訪問となった。


私が4年間、豊中キャンパスに通っていたころは、まだモノレールがなく(卒業直前に完成した)、公共交通は阪急電車だけだった。今は、モノレールもできたので、行きはモノレールを使い、帰りは阪急電車で帰ることとした。


モノレールを使うと、GWのこの時期は、万博中央公園に行く人が多くて、モノレールが大混雑となる。予想はしていたが、予想通りの込み方であった。


大学そばのモノレール駅は、卒業直前に数回利用した時は、駅前の整備も大したことはなかったが、30年もたつと、ずいぶんと整理され、きれいになっていた。モノレール乗り場へ向かう通路も、私が在校中は、草むらの中に人が通ってできたいわゆる「けものみち」だったのだが、しっかり門も整備され、コンクリートとレンガで道が作られていた。その分、かつて理学部が管理していた「サイクルトロン」の研究施設は壊され、なくなっていた。趣のある建物だったのに残念である。実際のところは、三田に巨大なサイクロトロン”Spring8”ができたので、不要、と言えば不要な施設であるが。


私が学生だった頃の豊中キャンパスは、「いかにも昭和30年代」というような建物が多く、理学部や基礎工学部もそのような雰囲気の建物だったのだが、「外装」だけを変えたのか、内装にもしっかり手を加えたのかは不明であるが、どちらもとても建物がきれいになっていた。研究がon goingでここまでの改修をするのは大変であったろうと思われる。


8割くらいの建物は、建て替えられている印象であった。生協会館は色を塗り直した程度で大きな変化はなかったが、その手前の「クラブハウス」は明らかに立て直したようである。私が学生のころは、地震が来たら潰れそうだったが、しっかりとしたコンクリートの建物に建て替わっていた。


建物類は明らかにきれいに改修(建て替え?)がされており、ずいぶんときれいになった印象だった。それに、当時はなかったキャンパス内郵便局もできており、便利も良くなっている。


次男の学校見学目的で来たはずなのだが、自分自身が思い出に浸ってしまった。


ただ、この年で、満員のモノレールや鉄道は結構堪えた。帰りに最寄駅から歩いたが、左足首が痛かった。


30年ぶりの母校は、中くらいに変わっていて、感慨深いものだった。


阪急の駅から「阪大坂」と呼ばれる坂を登り、キャンパスの入り口に着くと、左手側に大きな石に、「大阪大学」と彫ってある。初めての登校日、その石碑を見ながら、ちょっと誇らしい気持ちになったことを思い出した。もうずいぶん昔の話である。 

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