第852話 「道徳的」って何だろう?

朝日新聞の記事で、一部界隈で名古屋市の河村市長の発言が物議をかもしている。


以下はソースは朝日新聞DIGITAL 4/22付、Yahooニュースより。


<以下引用>

 名古屋市の河村たかし市長は22日、市が条例で定めた「なごや平和の日」の意義を問われ、「(戦争で)死んでいった人たちに思いを寄せないといけない」と述べたうえで、「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」と発言した。


河村氏はこの日の記者会見で、空襲で名古屋城天守が焼失した5月14日を「なごや平和の日」に制定し、平和を祈念する式典を開催すると発表した。その際、戦闘が続くウクライナやパレスチナ自治区ガザに言及。「国に命を捧げるのは、大変勇気のあること。『サンキューベリーマッチ』と言わなきゃ、みんなの福祉も平和も保てないんじゃないんですか」と持論を展開した。


さらに、学校現場でもこうしたことを「一定は考えないといけない」と主張。「国が守られるのは当たり前であるとの考え方は、日本にものすごい不幸を導く」と強調した。


ただ、河村氏は会見終了直後、記者団に「(命は)捨てない方がよい。誤解してもらってはいけない。『捨てよ』とあおっているわけではないが、残念ながら戦争は起こる」と釈明した。(寺沢知海)


<引用ここまで>


この記事に対して(呼応して?)Xでも様々な投稿があったようだ。


以下は「オレ的ゲーム速報@JIN」の記事より、朝日新聞の記事を読んだ人からのツイートを引用させていただく。


<以下引用>

学校現場でもこうしたことを「一定は考えないといけない」


今だにこんな事を言ってる人がいるなて(原文ママ)理解できない。


祖国のために大人から子供まで命を投げ出せと?それを学校で教えろと?


我が子にも同じことを言えますか?


河村市長「祖国のため命捨てるのは道徳的行為」/朝日新聞デジタル

<引用ここまで>


河村市長が何を言っていたのか、定例記者会見の内容なので、YouTubeで実際に氏の発言を聞くことができるので、少し聞いてみた。


氏の言葉は不明瞭でブツブツとボヤくような感じなので聞きづらい(安芸高田市の石丸市長の言葉の明瞭さとは正反対)が、氏の言葉を私が要約すると、私はこのように理解した。


「『なごや平和の日』は、名古屋大空襲の出来事から決定した。先の大戦ではたくさんの兵士が「国のため」に戦って死んでいった。今の「ウクライナ―ロシア」、「イスラエル―パレスチナ」でも、たくさんの人が国のために戦って死んでいっている。『祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ』と思う。先の大戦では、なぜ日本はアメリカと戦争をしたのか、きっちり学校で教えているか?教えていないだろう。だって(入学)試験に出ないから点数につながらないからだろう。先の大戦であったり、今のウクライナやパレスチナで起きていることを含め、「国を守るために戦う人」が出てこざるを得ない、ということを、学校でもきっちり教え、考えないといけない」


河村市長を援護するわけではないが、氏は、「大人も子供も国のために命を投げ出せ」と学校で教えるべきだ、なんてことは言っていない。もちろん氏の言葉で、今回問題となっている


『祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ』


という発言については、深く考える必要があると思うのだが、Xの投稿者が、朝日新聞の記事を読んで、そのように解された、ということは、それはそれで問題だと思うのだ。


それはいったん横に置いておくことにする。今回私が取り上げたいのは、氏の発言の中の「高度な道徳的行為だ」という発言の中の「道徳的」という言葉が意味するところは何だ?ということと、この文章が「現在形」の文章で語られている、ということである。


医学生時代、何度か、知覧の特攻記念館を訪れた。特攻隊員の方々が遺したメッセージを拝するたびに、涙が溢れるとともに、自分のふがいなさに背筋が伸びる思いがしたことを覚えている。


検閲もあり、本当に書きたいことは書けなかったであろうことは容易に想像できるが、それでも、そのメッセージを読んでいると、特攻隊として旅立っていった人たちみんなが、「天皇を中心とした「大日本帝国」という国体」を守るために旅立っていったわけではない。誰しもが程度の差はあれ、「生まれ育ったこの国、愛しい人が暮らすこの国」を守るために旅立っていったのだと感じている。


それは決して特攻隊だけの話ではなく、おそらくすべての「大日本帝国軍」の兵隊が、割合には個人差があれど、「『大日本帝国』という天皇を中心とした国体」への忠誠心と、「生まれ育ち、愛しい人たちが暮らす祖国」への愛情を抱えていたのだと思う。


だとすれば、氏の言う「道徳的行為」とはどういう意味なのだろうか?システムとしてある意味強制的に、そして、教育によって植え付けられた「国家」への忠誠心と、「愛しい人たちを守る」という愛情で戦った過去の日本軍兵士たち、純粋に「愛しい人たち、愛しい自国を守るため」に戦っているウクライナ軍、「己の信仰」にのっとって戦う中東問題、そこに共通する「道徳」って何だろうか?私には分からない。私個人的には、それは「道徳」とは異なるものだと思うのだが。


それと、「現在形」で語られている、ということにも注意を払う必要があると思われる。英語でもそうだが、日本語でも「現在形」は「普遍的なこと」であったり、「習慣」などを示す文型である。


と考えると、氏は、「祖国のために命を捨てる」ことは「高度に道徳的」であり、それは「普遍的価値を持つ」と考えているのだと考えてよさそうである。そう言われると、私には「同意できない違和感」が感じられてしまうのだ。


いわゆる「愛国心」は「道徳」ではなく、ある意味「自然な感情」ではないだろうか?もちろん、自身の母国を「心から嫌う」人がいてもいいだろう。「好き嫌い」というのは強制ではなく、自然にあふれる感情だろう。だとすれば、「人が行なうべきこと」を示す「道徳」とは本質的に異なるだろう。むしろそれを「道徳」として強制すべきではないことは明らかであろう。「国家存亡の危機」に「銃を取る」ことも、「そこから逃げる」ことも、そこに正しい、間違っている、という価値観を持ち込んではいけないのだと思うのである。そういう点で氏の発言には同意しかねる、というのが一点。


もう一つは、そのセンテンスが「現在形」として語られており、氏にとってはそれが「当然のこと」という認識である、ということである。


「先の大戦では、それが「道徳的」とされていた」ということであれば、そうだろうといえるが、それが「普遍的なもの」だと言われれば、承知しかねる。非常に微妙な問題だからである。


「原本にあたる」ということは大切なことで、「記事」となってしまうと、どうしても「記事」にしたものの主観が入らざるを得ない。記事の内容とは異なる次元で、氏の発言には「う~ん」と考えたくなるものがあった、ということである。


まとまりのない文章になってしまった。大変申し訳なく思う次第である。

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