第851話 福沢先生が聞いたら、泣いて怒ると思うよ

このニュースを読んだとき、「ばかじゃないか?!」と本気で腹が立った(関西人が「バカ」というときは相当怒っているとき。普通は「アホちゃうか」である)。


ソースはFNNプライムオンライン 4/22付、Yahooニュースより


<以下引用>

今、慶應義塾の塾長による文科省への提言が議論を呼んでいる。 それは、国立大学の学費を年間150万円程度に値上げするというもの。 この提言が出たのは、3月27日に文科省で開かれた高等教育の在り方に関する特別部会。 今後の大学教育について話し合われたこの会議に、慶應大学の伊藤公平塾長は委員の1人として出席。 そこで人口減少などを念頭に、学費について「国公私立大学の設置状態にかかわらず、大学教育の質を上げていくためには、公平な競争環境を整えることが必要である。国立・公立大学の家計負担は、年間で150万円程度に上げる」と提言した。 現在、53万5800円の国立大学の学費を、100万円ほど値上げするこの提言。 伊藤塾長は、国立大は収入が増え、私立大も経営努力で国立より安い学費で公平な競争に参加できるとしている。 受験生の子を持つ親からは、「国立の意味がよくわからなくなる」と疑問の声が聞かれた。


<中略>


慶応義塾の伊藤塾長は、「基本的には奨学金を充実させて、広く必要な方に(奨学金を)届けることを前提にする一方で、学費を払える方には負担をお願いするシステムを提案したものです」と話した。


<引用ここまで>


私が高校卒業後、1年間の隠居生活を送った予備校の図書室には、過去20年近くの赤本がストックされていた。隠居生活は1990年だったので、1970年ころからの赤本があったのである。


1970年ころの京都大学や大阪大学などの国立大学の学費は年間1~2万円だったと記憶している。ちょうどそのころは高度成長期で、オイルショックの直前であり、給料も、物価も上昇していた時期なので、適当な比較対象がないのだが、高校を卒業して就職をした父の初任給が4~5万円程度、と聞いたことがある。年齢と西暦を考えると、1964~1965年頃と推測される。6年で物価、給与が2倍になったとしても、月給が10万円程度。つまり高卒の給料1か月分で十分授業料のおつりがくる、ということであった。同時期に同志社大学や早稲田、慶応大学の授業料を見たが、20万円程度だったように記憶している。つまり、当時は「国立大学」と「私立大学」の学費差は20倍ほどあったわけである。


私が隠居生活から解放されたとき、私の受験校で一番学費の安かった私立大学が「立命館大学 理工学部」で、年間108万だったことをおぼえている。大阪大学 基礎工学部に進学したが、学費は半期で18万5000円だったように記憶している。通年で37万円か。授業料免除制度もあり、自宅の収入が少なく、成績の優秀な学生は授業料が免除されていた。私も、この制度で、ほとんど学費を払うことなく大学、大学院教育を受けることができた。


国立大学の授業料は入学年度によって変わっていく。私が医学部に再入学した時は、半期で23万5000円だった。独身時代は同様に「授業料免除」を受けることができていた。妻と結婚し、二人で家庭を持った後、妻の月収16万だったのだが、それだけの収入でも「授業料免除」の申請が通らなくなってしまった。「授業料免除」の基準はそれだけ厳しいわけで、私の家族がどんな家計状況で「私の大学進学」を許してくれたのかがよくわかる。ありがたいことであった。


「お金のない、貧乏な家庭」から抜け出すためには、よほど商才のある人が事業を立ち上げるか、学問を身に付けて、いわゆる「立身出世」するか、それくらいしか手がないのである。


今回の「慶応義塾大学 塾長」の発言について、また別のサイトでも記事を読んだが、そこには創立者である福沢 諭吉氏の言葉が引用されていて、その言葉を要約すれば、「貧しい人が立身出世するためには、学問を身に付けることである」という内容であった。


私がまだまだ子供のころだったので、うっすらとしか記憶にないのだが、確か中学生になるかならないかのことだったように記憶している。


「国立大学」と「私立大学」の授業料の差が大きいのは「不公平」である、として、「国立大学」の授業料を上げる方向で議論があった。結局その論議はある程度「その通りだ」ということになり、「国立大学」の授業料は上昇傾向となってしまった。1970年代はその差が20倍だったのが、1990年には、3倍程度にまで差が小さくなってしまった。ということは、それだけ「貧しい家庭」で育った人は、高等教育を受けづらくなった、ということでもある。私自身のことを考えても、「進学するなら、家から通える国公立大学」という制限がついていた。私が、桜島のよく見える大学の医学部に進学できたのは、「恩師」が応援してくださったからであって、私の実家からはほとんどお金は出ていない。


さて、そのような経験をしてきた私からすれば、「国立大学の授業料を150万円に上げて、私立と同程度の学費にする」なんて意見は、「貧乏人は大学に進学するな」と同義である。とてもではないが同意する気にはならない。


現実問題として、東京大学や京都大学に通う学生の生まれ育った家族の年収平均が1000万円を超えている、ということは有名である。


高偏差値の大学に進学する人の多くが、「超難関私立中高一貫校」を卒業しているか、公立高校でも「最難関」と言われる高校に進学している。「超難関私立中高一貫校」に進学しようとすれば、当然そのような学校をターゲットにした塾に通い、そこで優秀な成績を修めなければならない。そのような塾に小学校1年生から通う子供も珍しくはないのである。


自分の子供のことを引き合いに出すのは生々しいが、6年生時代、塾に150万くらいはつぎ込んでいる、と家計を管理している妻から聞いたことがある。


大阪の最難関高校である北野高校、大阪の公立高校は難易度の異なる3種類の問題を用意しており、どの問題を採用するかは各高校にゆだねられているが、最も難しいレベルの問題、それなりに「英語」で入学試験を乗り越えてきた私から見ても、「超難問」である。公立高校入試では、英語については、様々な「検定試験」で、点数の読み替えがなされる。英検2級(高校卒業程度)を持っていれば、得点率70%だったか、75%だったかで換算され、試験の得点と、英検二級を持っていることでの得点率の高い方を「入試の英語の点数」とできるようになっている。この北野高校の受験生、英検2級の取得率が8割を超えているそうである。実際に、入試問題よりも、英検2級の問題の方がはるかに素直で簡単である。


そんなわけで、最難関高校に入ろうとすると、結局「中学」の学習範囲をはるかに超えた知識を取得しなければならない。となれば、やはり「塾」の出番となる。おそらくこちらも年間で100万以上のお金がかかるだろう。


つまり、本人の才能がずば抜けてなければ、ある程度の才能があったとしても、「勉強」に投資が必要であり、そのお金を出せなければ、多少本人に才能があったとしても、そのような名門高校には進学できない。


ということを勘案すると、仮に東京大学や京都大学の授業料が年間150万円となっても、多くの学生にはあまりダメージはないのかもしれない。ただ私のように、貧乏な家庭から進学した人間にとっては、ダメージが大きすぎる。私が大阪大学に在籍した時には、継父が家計を支えていたが、年収300万程度だった。国立大学であっても「授業料が150万」なら、継父の稼ぎの半分近くを吸い取ってしまうことになってしまう。とてもではないが「進学」を考えることはできない。


現在、年収の中央値は300万円台、ボリュームゾーンは200~300万円台だったと記憶している。夫婦2馬力で働いて、何とかそのお金が捻出できるか、というところだろう。「子ども税」などと言われるわけである。


伊藤塾長は、「奨学金」を充実させる、というが、この奨学金が「貸与」という形であれば、全くもってナンセンスである。


アメリカでは、原則大学の授業料は高価だが、それは明確に「費用対効果」があるからである。日本ではそこまでの「費用対効果」が期待できるであろうか?大学は出たけど「奨学金地獄」が待っているだけ、では、意味がないと思われる。


ノーベル賞を取った日本人の多くが、学費の安かった国立大学出身であることに注意を払うべきである。その人たちのうちどれだけが、「実家がその当時の私立大学授業料」に耐えられたのだろうか、評価すべきである。


「立身出世」の頼みの綱である「学問」でさえ「高価」であるならば、貧乏人はどうあがいても、その階級から逃れられないだろう。


以前にも書いたことであるが、私の考えは、「国公立大学」の学費を減らし、国庫からの負担を増やし、「奨学金」は、家計だけでなく、受けるための選考試験を科し、合格した者には「貸与」ではなく「給付」としなければ、「貧しい家庭に育ったが優秀」な人を拾い上げることはできないだろう。それは「日本国」として極めてもったいないことだと思うのだが。


ということで、「国公立の授業料150万円」は「本人の力」ではどうにもならない壁を作ることで、「才能ある人材」を失うことにつながるので、私は「大反対」だと言いたい。


貧しい生活から、周りの人たちに恵まれて、今の立場に立つことができた自分だからこそ、そのような「金持ち思想」に強い反感を感じるわけである。それに、そのような考え方、福沢先生の考えに一致しないと思うのだが。「貧富の差なく、学問で身を立てることができる」というのが、「学問のすゝめ」のエッセンスだと思うので、そのような論議を聞いたなら、福沢先生、泣いて怒りを表すと思うのだが。

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