第845話 フル・スロットル!

「フル・スロットル!」なんてことを自動車やバイクで行なうと、大変なことになるので、当然、そういった乗り物の話ではない。


いつも、午前7時には出勤して、入院患者さんの回診と指示出しを行なっている。患者さんが多かったり、重症でこまめに指示を書く必要がある人が入院されると、通常勤務開始の9時に間に合うか、合わないかというほど時間が切迫するが、この数日は、担当患者さんがどんどん退院され、少し時間的に余裕のある回診になっている。


当直医との交代時刻は午前8時なので、8時前後になると「当直の先生から連絡来るかなぁ」などと考えながらカルテを書いている。昨日は、いつもの当直の先生で、いつもなら8時ころに電話をくださるのだが、8:10を過ぎても連絡がなかった。朝回診も終え、医局に戻ったが、人の気配はない。当直室を覗くと、先生の荷物は置きっぱなしになっていた。シャワー室にも、トイレにもおられなかったので、「朝方に時間外の患者さんが来られたのかなぁ?」と思いながら、机の上に置かれていた書類をチマチマと作成していた。


8:20分頃に先生が上がってこられ、申し送りを受けた。


「そこの施設(当院の近くに高齢者の施設があり、当院から訪問診療を行なっている方がその施設に多くおられるので、何かあれば、当院に来られることが多い)から、COPD急性増悪、低酸素血症の方が時間外で来られています。酸素を投与し、検査を行なっています。引継ぎ宜しくお願いします」

「分かりました。お疲れさまでした。」


と患者さんを引き継いだ。ちょうど昨日は私の外来担当日。おそらく入院が必要だから、評価したら、訪問診療主治医の先生に連絡して、入院を上げよう、と考えた。


当直医から引き継いで、しばらくしたら外来から、


「先生、時間外の患者さんの検査結果が出そろったので、診に来てください」


とcallがあった。


「もうこのまま、午前の診察に突入だなぁ」


と思いながら、午前の診察の準備を整えて、外来に向かった。


「どの先生の患者さんなのだろう?」


なんてことを思いながら、午前の外来の診察室に「外来診察セット」の入っているカバンを置いて、処置室を覗いた。


あらま、びっくり! 来院されていたのは私の担当している患者さんだった。


「おはようございます。今お顔を見てびっくりしました。どうされたんですか?」

「昨日から、息が苦しくて、夜も寝られませんでした」


とのことだった。鼻につけたチューブ(鼻カヌラ)から1L/分で酸素投与を行なっていた。


ひとまずお身体を診察。血圧、脈拍は来院時問題なかったそう。体温は37.1度とこれまた微妙。SpO2は酸素なしで88%、酸素1L投与下で93%と、普段酸素なしで、95%を取れていることから考えると、やはり不自然だった。外観は重篤感はなく、いつもと同じような声の張りで、いつものようにお話ができた。横になっておられるストレッチャーは、30度ほど上体が傾けられており、その状態で、頚静脈は目一杯怒張していた。


頚静脈の怒張は、中心静脈(上大静脈、下大静脈)や右心房の圧負荷を反映しており、正しい所見の取り方では、45度半坐位で、胸骨角から4.5cmの高さまでの怒張、とされている。そういう点では不正確なのだが、少なくとも右心系のうっ滞(=右心不全)はありそうと考えた。心音、呼吸音には目立つ異常はなく、両下肢には浮腫は認めなかった。


「検査結果が出そろった」という事で外来に下りてきたのだが、結果が出ていたのは、CBC(全血球算定:血液の各細胞の数を算定した結果)と、動脈血液ガス分析の結果だけだった。当院の人員配置上、それも致し方ないことで、放射線科、臨床検査科も始業は8:30(実際はもう少し早く出勤されておられるが)、血液検査については、当直帯の看護師さんが機械を動かしてくれるのだが、生化学の検査機器は使い慣れておられないようだ。当直医は、画像検査や心電図も指示していたのだが、それらはまだこれから、という事になっていた。


実際に臨床現場で直接この式に触れることはないのだが、体内の酸塩基平衡(身体の酸性、アルカリ性がどのように決まっているか)を理解するために、人体生理学の「酸塩基平衡」の項目では、必ず、以下の式が記載されている。


pH=pKa+log[A-]/[HA]


特に人体に適応する場合は、


pH=6.1+log[HCO3-]/0.03[pCO2]


となる。この式はHenderson-Hasselbalch(ヘンダーソン・ハッセルバルヒ)の式と呼ばれている。


医学部生の時、研修医の時は、何か「変だ」と思ったときは「それはヘンダーソン・パッセリバルヒ」(「変だ」と「ヘンダーソン」のダジャレ)と連呼し、あまりの面白なさすぎに、周りを困らせていたが、今回の患者さんの、現時点で出ているデータを確認すると、やはり「変だ」(検査がおかしい、という意味ではなく、身体の中でよろしくないことが起きている、という意味)と思ったので、久々に、「このデータ、ヘンダーソン・パッセルバルヒ」と呟いた。もちろん周りのスタッフは「???」となっていたが、まぁ、それは自己満足、という事で片づけた。


夜中から起こっている呼吸苦、現在の身体の状況、検査結果を考えると「入院が必要」と考えた。


「ご家族さんはお見えですか?」

「お近くなので、もうすぐ来られるそうです」

「分かりました。もうすぐ午前の診察が始まるので、心電図やレントゲンに回ってもらって、データがすべて出そろった時点で、ご家族さんにお話しします。診察の合間に説明するので、お見えになられたら、少し待ってもらってください」


と外来看護師さんに伝え、時間が来たので外来診察を開始した。お尻に何か別の仕事を抱えた状態で仕事をするのは、私にとっては精神衛生上よろしくないのだが、こればかりは如何ともし難い。モヤモヤとしながら、外来診察を進めていった。


「患者さんの途切れた間に入院指示を」


と考えていたが、往々にして、このような状況の時ほど患者さんが途切れない。ありがたいと言えばありがたいのだが、処置室で待っている患者さんのことも気にかけないといけない。心電図や胸部の画像所見、生化学検査の結果も院内至急項目については結果が出た。


心電図は数年前のものと著変なく、心筋梗塞の存在は、トロポニンT陰性と合わせて否定的と考えた。胸部レントゲンは心拡大の程度は大きく変わらず、何となく右下肺野の透過性が悪いようにも見えた。胸部CTでは胸水貯留はなく、肺野については、数年前の写真と比べて、2か所、小さなconsolidationが見られたが、これが今回の低酸素血症の原因とするには何とも言えない。


血液検査は白血球と好中球の増多、CRPが少し上昇している程度だった。臨床仮説としては根拠が貧弱だが、肺炎にて、心不全が悪化し、肺炎、心不全悪化からCOPDの悪化、というストーリーを第一に考えた。DOACという血栓形成を阻害する内服薬を継続使用しており、肺塞栓症は否定的と考えた。


ご家族さんがお見えになった、と10分ほど前に聞いており、ちょうど患者さんも途切れたので、


「じゃぁ、今からご家族さんにお話をして、入院に上がってもらいます」


とクラークさんに伝えたところ、


「患者さんの定期薬、ここに連れてきたスタッフが持ってきていたそうなのですが、息子さんに引き継いだ時に、薬類を全部スタッフの方が持って帰ってしまったので、今、息子さんが取りに行って、今、いません」


とのことだった。施設スタッフ、何をやっているんだ??せっかく持ってきたんだから、こちらのスタッフに全部渡してくれたらよかったのに。


そんなわけで、ご家族さんとお話ができず、また診察を継続する。そして、先ほどと同じように患者さんが途切れない。病棟からは、「入院患者さんを早く上げてほしい」と連絡があるが、こちらの方に余裕がない。


無理に外来を止めたのは10:45頃だったか、患者さんが来院してから3時間近く経ってからである。前話で「徳洲会の院長が一人で55人の入院患者さんを抱えていた」という話で、「人手がなければ、どうしてもそうなってしまう」と書いたが、当方も似たようなものである。本来なら、さっさと指示を書いて病棟に上がってもらい、抗生剤を投与したりしたいのだが、外来で患者さんが途切れなければ、それもままならない。


ご家族の方に診察室に入ってもらい、病状を説明。不穏時の身体拘束の同意書と、急変時の蘇生対応の必要性の有無を確認し、食事箋だけ書いた後、


「あとは外来が終わってから。先に病棟に上げてください」


とお願いし、また外来診療に戻った。


いつも内科は2診制で午前の診察を行なっているのだが、基本的には私の方が1診の先生よりも遅くなる。土曜日は私が1診なのだが、やはり私の方が遅くなる。そんなわけで、外来を終えたのは12:40位だった。木曜日は「検食」の当番なので、先にそちらの仕事を済ませる必要がある。医局に戻って、カラカラの喉を持参の麦茶で湿らせ、外来用のフェイスシールドと、N95マスクを外して、普通の眼鏡&不織布マスクを着用して、栄養課に向かった。大急ぎで検食を済ませた。患者さんに配食された昼食はおいしかった。ただ、急いでいるので、ゆっくり味わって、というわけにはいかない。熱々のコーンポタージュスープを「心の中で涙を流しながら」頑張ってゴクゴクと飲み、まさしく「鯨飲馬食」状態、8分ほどで検食兼昼食を取り終え、病棟に向かった。


以前にも書いたが、「新入院」の方のカルテを書くのは、1時間弱ほど時間がかかる。13時ころから、病棟に上がった患者さんのカルテを書き始めた。いつもの予定入院とは異なり、外来で診察もしているので、それも含めてカルテを書くともう少し時間を取ってしまう。さらにその間に、病棟で行なうべき仕事やらなんやらで、仕事が割り込んでくる。他の病棟に呼ばれればまたそこで張り付け、となる。


木曜日は、当院独自の「Dr.別カンファレンス」の、私の担当日である。このカンファレンスは、一人の医師が、自分の担当している患者さん全員について、症例提示、現状を話し、看護師さん、リハビリスタッフ、薬剤師さん、MSWさん、訪問看護師さんなど多職種で集まり、現状の把握や、転院、退院などの進捗状況や問題点などを一人一人把握、共有する、というものである。いつもは木曜の2番手、なのであるが、1番手の先生が救急外来でトラップされておられ、


「先生が一番でよろしく!」


とPHSに連絡が入ってきた。そんなわけで、新入院患者さんのカルテ作成の手を止めて、Dr.別カンファレンスを行ない、結局新入院の方のカルテを書き終えたのは15時前であった。7時半すぎに来院され、午前中に病棟に上がられているのに、「何やってんだ」状態である。


何とか病棟仕事を終え、医局に戻ると、机の上には山のようなカルテが。「書類作成依頼」のカルテである。


これまた、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、というわけではないが、何とが16時に終わらせた。


16時からは「医局会」。結局17時ころまでバタバタと息つく暇もなく頑張った一日だった

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