第838話 「いざ」というときには案外身体が動かないものだ
今朝もいつも通り出勤。職場から少し離れたところにある駐車場に車を止めて、職場に向けて歩いて行った。歩いて1,2分だろうか。なだらかな坂道を登っていくことになる。
古くからの集落の中にある病院なので、道が狭いのだが、坂道の途中で、見慣れないものを見かけた。ちょうど道中の半分くらいのところ、マンションの前に、カラフルな大きめのボストンバッグを地面において、女性の方が携帯で電話をかけていた。
「なんだろうなぁ??」と思いながら、歩みを進めていくと、「ボストンバッグ」に見えたのは、側臥位で倒れていた男性であった。女性はちょうど119番に電話をかけていたようだ。
「どうされましたか?」
と声をかけたが、ちょうど救急隊とお話をされていたのであろうか。女性は「大丈夫です」というジェスチャーを返してきた。状況はよくわからないが、女性と男性が知り合いで、それで状況を理解したうえで救急車を呼んでいるだろう、と思いこんでしまった。
女性のジェスチャーを見て、10mほど職場に向かって歩き始めたが、
「やっぱりおかしいよな?」
と思って踵を返し、もう一度倒れている男性と電話をかけている女性の方に向かった。ちょうどその時に私の横をスクーターが通り抜け、スクーターの男性も、女性におそらく「どうしたのですか?」と声をかけていたのだろう、立ち止まり、スクーターを道端に寄せていた。
私も現場に戻り、もう一度
「大丈夫ですか?どうされましたか?」
と女性に尋ねた。
「いや、私、このマンションの住人なんですけど、仕事に行こうと出てきたら、この男性が倒れていたんです。何か、眠っているみたいで、声をかけても反応がないので、今救急隊に連絡をしていたのです」
とのこと。おっとびっくり。知り合いではなかったのだ!スクーターの男性も、
「1時間ほど前にここを通った時は、この方、いませんでしたよ」
とのことだった。
倒れている男性は、坂道のため、頭が若干下に下がっているが、右側臥位でいわゆる「回復体位」に近い状態だった。頭側の40cmほど先には、彼のものと思しき財布が落ちていた。
「大丈夫ですか?大丈夫ですか?」と肩を叩いて声をかけるが、反応はない。顔色は悪くはなく、身体を触れると少し熱い感じがする程度。呼吸は平静で一定しており、不自然なCheyne-Stokes呼吸でもBiot呼吸でもなかった。Kussmaulの大呼吸、という感じでもない。胸郭の上がり下がりは正常で、痰の絡んだ音もなく、気道は安定に確保されており、循環も保たれている印象だった。
BLSでは、呼吸、循環の異常兆候があれば即座に対応する、という事になっているが、男性の呼吸、循環は保たれていそうであり、偶然「回復体位」のような側臥位になっておられ、「BLS」とすれば、救急車を待つだけだった。
すぐに救急隊が到着。狭い道なので、救急車が入ると道幅がいっぱいになる。救急車を止めて救急隊員が下りてきた。
「どうされましたか?」
と救急隊が問われる。その場にいた3人は、いずれも通りがかりのものであること、救急車を依頼した女性は、このマンションの住人で、出勤のために出てきたら、男性が倒れていた、という事を伝えた。
「分かりました。あとは我々に任せてください」
と救急隊員がおっしゃってくださり、後は救急隊に任せて、3人ともその場を離れた。
職場に向かって歩き始めたところで、一つのことに気づいた。駅に向かう方向と、病院に向かう方向、一緒なのである。女性は「出勤のために出てきた」という事なので、同じ方向に進んでいくことになる。途中で私が病院に入っていくので、私がこの病院の職員であることがまるわかりである。「医療従事者」ではあるが、実際のところ私が何かをしたわけではない。
「この病院の職員さん、あまり役に立たないようだ」
なんて思われると、他のスタッフに申し訳ない。
そんなことを心配しながら、職場に入っていこうとすると、女性の方から
「ありがとうございました」
とありがたい言葉を頂いた。こちらも
「いえ、こちらこそありがとうございました」
と伝えて、病院に入っていった。
歩きながら、「遷延性意識障害」のことをぼんやりと考えていた。第一印象は、「てんかん発作後の意識障害(postictal state)」だが、もしかしたら、「薬物中毒」かもしれない。若い男性で、呼吸も安定し、顔色も悪くなかったので、SAHや脳幹出血などは可能性は低いのかなぁ、冷や汗をかいていないから「低血糖」も否定的か、なんてことを考えた。
職場で白衣を着ていれば、もう少し身体が動いたのかもしれないが、路上で、突発的に予想もしないことが起きていると、思った以上に身体が動かなものだなぁ、と少し自己嫌悪になった次第である。
倒れていた男性が、重症ではないことを願っている。
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